第12話 特別に想うこと
薄闇が満ちる部屋の中。
綾乃の深く透き通った藍色の瞳は妖しく輝き、上目遣いでこちらを見つめていた。
ソファの上で片膝をついて、片方の手を彼女の頭に乗せて。
普段見上げてばかりの存在をこうして上から見るという状況に、腹の底からこみ上げてくるものがあった。その黒い感情を押し込めて、「じゃあ、いくぞ」と精一杯のポーカーフェイスで確認する。
「うん」
こくりと小さく頷いて、全てを委ねるようにまぶたを落とした。
頬の淡い朱色が一気に紅色へと変わり、緊張を噛み殺すようにきゅっと唇を噛む。
(そんな顔するなよ……)
今この瞬間ばかりは、あの能天気な笑顔が恋しかった。
これは遊びだと、ただのおふざけだけと、彼女が笑ってさえくれていれば、こうも躊躇することはないだろう。へらへらしてくれと切実に願う。
だが、進まなければ終わらない。これは罰ゲームなのだから。
短く深呼吸して、髪の流れに逆らわないよう上から下へと撫でおろす。その感触は男性とは決定的に異なり、彼女が異性なのだと改めて認識する。
「も、もう一回」
瑞々しい唇が、小刻みに震えながら言葉を紡ぐ。
京介は「ああ」と相槌を打って、右手を元居た場所に戻しもう一度同じ道を辿った。
「もう一回っ」
その声には、ツバメの雛が餌を求めるような健気な必死さがあった。
黙ってそれに応じると、「もう一回」と更におかわりを要求する。その後は京介の独断で、彼女に何を言われるまでもなく撫で続けた。
じわじわと、だが……。
強張っていた綾乃の表情が、少しずつ溶けてゆく。それは雪解けのように、閉じていた花びらが開くように。固結びされた口元はへにゃりとほぐれ、落としていた瞼は開いて潤んだサファイアが外気に触れる。
「もっと……乱暴でも、いいよ」
ゆっくりとしたまばたきに蠱惑的なものを感じ、京介は喉を鳴らして唾を呑む。
乱暴の意味がわからなかったが、こういうことだろうかと、わしゃわしゃと撫で回した。
乱れてゆく髪。これはまずいのではと手を緩めると、綾乃は目を細めてぐぐっと顎を上げ、頭を手のひらに押しつけた。逃げないでと、そう聞こえたような気がする。
そういうことならば、と。
京介はいっそう激しく要求に応えた。
わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。彼女の体躯も相まって、まるで大型犬とじゃれているような感覚に陥る。「犬みたいだな」と零すと、薄く開いた彼女の瞳がわずかに輝いて、
「わんっ」
小さく鳴いて、へへへと照れ臭そうに笑うと、そのまま瞼のカーテンを下ろした。
やばい。京介は左手で口元を覆い、滲む感情を隠した。
同年代よりも圧倒的に大人な彼女が、今はただ幼く可愛いものになっている。見た目と雰囲気とのギャップに、頭がくらくらとしてくる。
(ち、違う。これは罰ゲームだ。罰ゲームなんだ)
身体の内側を高速で駆け巡るリビドーにキツく言い聞かせ、大きく息をついて熱を逃がす。
これはご褒美ではない。とてつもなく可愛い生物と戯れているが、しかし決してご褒美ではない。
ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りに、時折漏らす艶っぽい呻き声と、心臓に悪い要素の満漢全席。更に腕まで疲れてきた。この心地よい地獄はいつ終わるのだろうかと、京介は眉尻を下げて綾乃を見やる。
「……そろそろ終わってもいいか?」
「んー。もうちょっと」
「もうだいぶやってるんだけど」
「だって、久しぶりだもん。こういうの」
動きが鈍くなった京介の手を取り、ぐりぐりと自分の頭に擦り付ける。
マーキングでもされているようで、京介の脳裏をまた良からぬ妄想が過ぎ去っていった。
「もういいだろ。十分だ」
綾乃の手を振り払い、ソファにどすっと腰を下ろす。
女子と触れ合うこと自体、京介にとっては重大な事なのだ。ひと撫で毎に心臓が飛び跳ね、寿命が縮まっているような感覚がある。これでは命がいくつあっても足りない。
だが、そのような事情など知るはずもなく、綾乃は不満げにぶーぶーと頬を膨らませていた。
なぜ自分でないといけないのか。藤村がいいと彼女は言っていたが、京介にはまったく理解できない。スキンシップをするなら、他にいくらでも適役がいるだろう。
「何で、僕なんか……」
吹けば消えそうな声量で零した言葉に、「だめっ」と綾乃は声を荒げた。
両肩に手を置かれ、じっとこちらを見据える。顔や目を逸らそうとすれば、低く唸って怒りを露わにする。逃げられない状況に置かれ、京介はただ困惑した。
「さっきも言ってたけど、僕なんか、じゃない」
今まで見たことがないほど真剣な目つきに、硬直して息を呑む以外の選択肢がなかった。
「見返りも求めずに優しくしてくれたり、私のことたくさん考えてくれたり。藤村は、誰もしてくれなかったことをたくさんしてくれたんだよ」
「……そ、それくらい、僕じゃなくたってできるだろ。特別なことでもあるまいし」
自分には何の力もない。
顔もよくないし、身長だってこのざま。成績が際立っていいわけでも、身体能力が高いわけでもない。綾乃のように自立もしておらず、最短でも高校卒業までは親のスネを齧り続ける普通の一般人。今までもこれからも、ずっとどこにでもいる誰かでしかない。
綾乃に対するこれまでの気遣いは、他の誰にでもできたことだ。
今彼女を取り巻く環境がどういう具合で、今後どういう風に変化していくのかは知らないが、少なくとも愛されない人生を送ることはないだろう。自分のようなお人よしは、きっとこれからも絶え間なく現れる。
「普通のことでも、誰にでもできることでも――」
一語一語、丁寧に丹念に、こちらが片端も聞き逃さないようゆっくりとした口調で綴る。
「それを初めてしてくれた人のことを、特別に想っちゃダメなの?」
両肩に置かれた手に力が入り、双眼は力強く煌めく。
京介は、全身をふーっと熱が昇っていくのを感じた。それは恥ずかしさかもしれないし、喜びかもしれない。どちらにしても彼女の問いに対し、首を横に振る気にはなれない。
「あっ。ち、違うよ!」
と、いきなり騒ぎ始めた綾乃。京介から離れて、顔を真っ赤にして両手を振り乱す。
「特別って、変な意味じゃないから!」
「お、おう」
「もっと仲良くしたいとか、一緒に遊びたいとかってことだし! そういう意味で言っただけだし!」
「わかった。わかったから」
わざわざ説明を受けているこっちもいたたまれなくなってきた。
「と、とにかくっ」
ぴしっと、人差し指の先を京介の唇に当てる。
京介は押し黙り、彼女の瞳に視線を吸い取られた。揺らめく藍色の光の奥には、他を見るなと言わんばかりの暴力的な魅力が潜んでいる。
「僕なんか、禁止! 今度また私の友達の悪口言ったら怒るからね」
親が子供に言い聞かせるような口調で言って、ふんすと大袈裟に鼻息を荒げた。
こくりと京介が頷くと、綾乃は満足そうに笑みを咲かせて、お返しとばかりに頭を撫で回した。やめろよと訴える気にもなれず、ただその温かさを享受する。
好かれることも、嫌われることも、どちらも懲りたはずだった。中学生最後の年に、二度と友達はいらないと、心に決めたはずだった。
もう、あんな思いはしたくないと……。
しかし、そのような決意は豆腐の如き強度だったことを、京介は思い知った。
ほだされる、という言葉は、今この心境をさすのだろう。自分が必要だという心の底からの訴えに気持ちが高揚しないほど、腹の中は冷めきってはいない。
「そういえばさ」
「ん?」
「藤村は私に何させたいの?」
わしゃわしゃと、依然髪をこねくり回す綾乃。
京介はやや視線を落として、
「……まだ考えてないから、思いついたら言うよ」
静かに零した。彼女と距離を置くことを、そっと懐にしまって。
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