第11話 罰ゲーム
この勝負、勝利はせずとも敗北はないだろうと、京介は確信していた。
美味しいものを食べた時、人間の反応は二つに分類される。感動を口に出すタイプと、頭の中でじっくりと堪能するタイプ。京介は後者だった。
知識を紹介するバラエティー番組を観てもわざわざなるほどと声に出さないし、ドラマが怒涛の展開だったとしても驚きを口にはしない。ホラーに対し特別免疫があるわけではないが、怖いからといって悲鳴をあげたことなど一度もない。
対する綾乃はどうか。
あくまで京介の勘だが、彼女は前者だろう。美味しいものを食べたら大騒ぎしそうだし、面白いものがあったら口に出すに違いない。
(陽キャって、そういう生き物だしな)
偏見に満ちた思惑を走らせながらも映画に集中する。
舞台は、何でもない田舎町。メインキャラクターは、母親とその息子。まだ全貌は掴めないが、序盤から不穏な描写の連続で嫌な汗が出てきた。
ふっと、横目に綾乃を一瞥する。
薄っすらと唇を開き、食い入るように画面を見つめていた。まだそこまで面白い場面ではない。その真剣な面持ちに、本当に映画が好きなのだなと、彼女が今日を映画鑑賞会に設定した所以を理解する。
(こいつ、本気で僕に女装させるつもりだったのか……!)
今の様子だけを見れば、綾乃が声をあげることはなさそうだ。
京介は気づいた。彼女が、自分に有利な勝負を持ち掛けたのだと。
少し考えれば当然のことだ。何でも言うことを聞く、というリスキーな罰があるのだから、向こうに勝利への確信がない方がおかしい。
だが、問題はない。
彼女がリアクションを取らない人種だったとしても、それは京介にとって何の不利でもない。
どちらも普通に観て、普通に終わる。それだけで、ゲームは勝者不在で終了する。
それでいい。京介は肩に張っていた緊張を解いて、ソファのクッションに深々と体重を預けた。
一時間が経過した。
物語はクライマックスへと舵を切り、これまでの不気味な伏線を次々と回収してゆく。グロテスクな怪奇現象、人間の怖さ、不快なBGM。画面から発せられる全ての要素が、恐怖心を掻き立てる。
が、しかし。
京介の頭は、今、まったく映画に集中できていなかった。俳優や女優の絶叫も、驚かせる演出も、奇妙な特殊メイクも、全て脳みそを素通りしてゆく。
面白くない、というわけではない。
ゲームに負けたくないがために、あえて意識を逸らしているわけでもない。
理由は、京介の右手にある。
膝の上に置いていたその手の上に、綾乃の左手が重なっていた。じっとりと汗ばむ彼女の手のひらは、京介の手の甲をガッチリと掴んで離さず、少しずつその力を増してゆく。
(こ、こいつ、気づいてないのか……?)
綾乃を見やるが、意識的にやっている素振りはない。ホラーは一人ではあまり観ないと言っていたため、そもそも得意なジャンルではないのだろう。
そうこうしているうちに、ギャーッと女優の悲鳴があがり、同時に力強く握り締めてきた。
女の子と手を繋ぐ、という幼稚園児以来のイベントに、京介の心臓は飛び出そうなほどに高鳴っていた。もはや嬉しいという感情はなく、恥ずかしさと邪念を抱いていることへの申し訳なさで、今すぐこの場を逃げ出したい気持ちに駆られる。
「…………っ!!」
突然、画面にバンッと人の顔が張り付いた。
綾乃は声にならない悲鳴をあげて、京介の腕を抱き寄せた。半袖のニットの内側、下着のやや硬い感触と高まった体温が腕から伝わり、京介もまた心の中で絶叫する。
(何してるんだ僕は! 言えよ! 離してくれって言えっ!!)
乾き切った喉は、かひゅーっと掠れた音を奏でるばかり。この程度で綾乃の気を引けるわけもなく、肘は今も胸部にめり込んだままだ。
落ち着け、落ち着け。京介は息を整え、時計を確認した。
もうじき映画は終幕だ。その時に離して貰えばいい。これだけ集中しているのだから、余計なちょっかいをかけて阻害するのは気が引ける。
(……何かやだな、言い訳みたいで)
やわらかいし、温かいし、いい匂いがする。
今この状況を、得をしている、と思っている自分がいないわけではない。頭の中の理性が、今にも陥落しそうなのは事実だ。
いやいや、と京介は首を横に振った。理性に鞭を打ち、立ち上がれと鼓舞する。
離せよ、と。近過ぎるぞ、と。ただ口にするだけでいい。
京介は彼女を見上げ固唾を呑む。深く息を吸い込み、さあ言うぞと心を固める。……しかしその決意は、呆気なく砕け散った。
「――――――ッッ!!」
おそらくは、この作品最大の見せ場。最凶の恐怖シーン。
綾乃は声を噛み殺しながらも、しかし身体は感情を隠すことができず、その長い両腕は京介を捉える。
彼女からすれば手ごろなサイズの京介は、抵抗する間もなく抱き寄せられた。離すように訴えようと顔を向けていたのもあり、綾乃の年齢不相応な部分へと顔面から衝突する。
その刺激は、京介には到底内包し切れるものではなく。
喉奥から吹き上げた絶叫は、間抜けな残響となってこだました。
「藤村の負けだね」
エンドロール後、綾乃は開口一番にそう言った。ニヤニヤと、これ以上にないほどのどや顔で。
京介は苦虫を噛み潰したような表情で唸り、「いやでも」と眉をひそめて彼女を見上げる。
「自分が何したかわかってるだろ? こんな勝負は無効だ」
抗議すると、綾乃はさっと視線を逸らした。
ああして抱き締めたのは、完全に無意識だったのだろう。赤く熟した頬が、故意ではないと証明している。全身から羞恥心をにじませながらも、唇を尖らせて「勝ちは勝ちだし」と子供のように呟く。
「むしろそっちの反則負けじゃないのか」
京介の主張に、一理あると思ったのだろう。綾乃はそれを否定せず、しかし肯定もせず、ぷいっとそっぽを向いて強硬姿勢を取る。
これでは平行線だ。お互いに無言の時間が数十秒続き、これではいけないと感じたのか、綾乃は軽く嘆息を漏らしながら京介に向き直った。
「じゃあ、どっちも負けってことにしよう」
「……は?」
「どっちも言うこと聞かせられる権利が一回分あるってことで。悪くない話でしょ」
話の落としどころとしては妥当だと思う。
だが、悪くないかどうかは微妙なところだ。それは結局、こちらが何らかのリスクを払うことになるのだから。
「僕に女装させないって約束するなら、それで手を打ってもいいぞ」
京介の提案に対し、「ええーっ」と案の定不満を漏らした。
最初に宣言していた、彼女の願い。いくら罰ゲームとはいえ、着せ替え人形にさせられるのは困る。
「他のことならいいの?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ……」
綾乃はきゅっと口元を結び、京介を見つめた。言いにくいことなのか、言いかけてはやめて、言いかけてはやめてを、何度か繰り返す。
京介は背筋に寒気を覚え息を呑んだ。
どうやら口に出すことも憚られるようなことらしい。これはまずい。先ほどの言い方では、女装以外の願いは大概通ることになってしまう。
「……な、撫でて」
やや舌足らずに、彼女はようやく言葉を絞り出した。
「え?」
「だ、だから、撫でてっ」
聞き返すと、綾乃は若干不機嫌に、というか言いづらそうに目を逸らした。
二度も言われれば、京介にも理解できる。だが、何故そのような要求をされているのかわからなかった。何か裏があるのではと勘繰り、眉間に自然としわが寄る。
「藤村ばっかされる側でずるいから、私も撫でてって言ってるの!」
「それは佐々川さんが勝手にやってるだけだろ」
そう口にしつつも、京介の脳裏には、映画を観る前に聞いた彼女の身長への悩みが過ぎっていた。
大人びて見られてプレッシャー。頭を撫でてもらうこともない。甘えられない。真っすぐな声色で話していたのを思い出し、まいったなと頬を掻いた。
「……そういうのは、もっとふさわしい奴に頼めよ。僕なんかじゃなくて」
「私、藤村に頼んでるんだけど」
「だから、僕なんか――」
言い切るよりも早く、綾乃はぐいっと京介の右腕を奪い取り、その手を自分の頭の上に置いた。
しっとりときめ細やかな髪の感触。突然のことに心臓が激しく跳ねた。反射的に引き剥がそうとするが、彼女の力には抗えない。
「藤村がいいの」
熱い吐息混じりに零した言葉に、京介は諦めさせることを諦めた。
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