第6話 俺の妹

 目を覚ますと、外はすっかり暗くなっていた。

 薬のおかげでピーク時よりはマシだが、まだ頭がぼんやりとするし身体も気怠い。この調子では、明日までに治すのは絶望的だろう。


 しかし、不思議と焦りはなかった。悔しさも悲しさも。

 まあいいかなと、意識は再び眠りへと向かう。


『無理だった時は、僕が買い物でもカラオケでも付き合うから』


 瞼の裏側で、彼の言葉を反芻する。


 自分が今までに話した男性の中で、京介は少々特殊なタイプだ。

 何というか、下心を感じない。モノにしてやろうとか、そういう雰囲気が一切ない。その言葉も、行動も、触れば砕けそうなほど純粋に見える。


(絶対、みんなから好かれるのに……)


 きっと京介は、誰に対しても優しい。自分だけではないという、妙な自信がある。

 だからこそ、もっと仲良くすればいいのにと、友達を作ればいいのにと願った。一蹴されてしまったわけだが。


 コミュニケーションに難があるようには見えない。普通に話せるし、常識も良識も持ち合わせている。

 ということは、何かあるのだろう。頑ななまでに孤独を好む、何かしらの理由が。


 今後はあまり触れないのでおこう。

 友達はいらない。仲良くする気はない。勿体ないことだとは思うが、その意思は尊重すべきだ。彼には彼の事情があるのだから。


『じゃあ、私が藤村を独り占めできるね』


 我ながら、小っ恥ずかしい台詞を吐いたものだ。


 冗談のつもりだった。基本的に仏頂面か顔を伏せている彼の、別の表情を見てみたかった。

 そんなささやかな悪戯心に対し、投げ返されたのは体調の心配なのだから、思い出すだけでバツが悪い。次に会った時に謝ろう。


「……っ」


 きゅっと口元を結び布団をかぶった。

 彼の真剣な表情が浮かぶ。黒い瞳に灯る憂色は本物だった。何の見返りも求めない、本当の気持ちだった。


 頬が熱い。胸の奥がほわほわとする。


 きっと……風邪のせいだ。



 ◆◇◆◇



 翌朝、綾乃は学校に来なかった。

 理由は体調不良。クラスの数人から心配する声があがったが、京介は一人安心していた。友達と遊びたいがために登校し悪化しては目も当てられない。


 ともあれ、綾乃がいないということは、昨日のように緊張感をもって過ごさなくていいということだ。

 悪意はないが、平和な一日だなぁと、腹の中でほほ笑む。






「だからァ! あんたに何の関係があるんだって聞いてんの!!」


 破竹の如く発せられた怒声が、教室内の空気をピリピリと揺らす。

 声の主は千沙。「いい子ぶんなよ!」と薫子も続いて叫ぶ。


 五限目の授業中、完全に寝落ちしてしまった京介は、帰りのホームルームが始まっても起こされることなく放課後を迎えた。


 顔を起こすと、昨日と同様、千沙と薫子が陰口に花を咲かせていた。

 話題の中心人物が誰かは言うまでもなく、京介にとって胸糞悪い会話が咲き乱れている。


 しかし、苦言を呈す勇気などない。というか理由もない。

 他人を叩いて自分が上に立てると思っているのなら、弱者らしくそうさせておけばいい。……と、大人ぶって自分を納得させ、席を立ちかけたその時のこと。


『綾乃ちゃんを悪く言うのはやめてもらっていいですか』

 

 クラスメートの一人が、夏場の蛆が湧いた生ゴミでも見るような目つきで陰口大会に突撃した。


 詞島沙夜。教室の人間一人ひとりを覚えられるほど器用ではないが、彼女は隣の席なため覚えていた。

 暗い茶髪の内巻きボブカット。縁の太い眼鏡をかけて栗色の瞳をレンズの奥に隠し、いつも控えめな雰囲気を振りまき読書に耽る少女の言動に、千沙と薫子はもちろん京介も驚嘆した。


 そこからは泥沼だ。

 悪く言わないで。あんたに関係ない。双方譲らない口撃の応酬。京介は完全に教室を出るタイミングを失い、寝たふりで乗り切ろうと息を潜める。


「うっぜぇんだよお前はっ!!」


 薫子のヒステリックな声のあとに、机が倒れるけたたましい音が響いた。どうやら蹴り倒したらしい。


 いや、暴力はダメだろ。京介は背筋に冷や汗を垂らし、おずおずと頭を上げた。

 口での喧嘩なら存分にやればいいが、一対二の状態で手をあげるのはまずい。自分に何が出来るわけでもないが、このまま顔を伏せているのは良心が痛む。


 倒れていたのは、綾乃の机だった。

 面倒くさがって教科書を持ち帰らないことが災いし、パンパンに詰まった中身がぶちまけられていた。薫子は「行こっ」と苛立ち混じりに吐いて、千沙の手を掴み教室から出てゆく。


「ちょっと、直しなさいよ!」


 沙夜は顔を真っ赤にして叫ぶが、返ってきたのは沈黙だった。


 彼女らが戻らないと悟ると、大きな嘆息を漏らして教科書を拾い始めた。

 一冊、一冊、丁寧に。散らばったプリントも、撒き散らされた筆記用具も、一つずつ。その健気さや勇気は、見て見ぬふりをするにはあまりにも難しい。


 京介は席を立ち、沙夜を手伝おうと歩き出した。

 パチリと、彼女の大きな瞳が自分を捉えた。軽く会釈をして、綾乃の机を起こす。


「……綾乃ちゃんと、仲良くしてますよね」

「え?」

「昨日、一緒にご飯食べてましたし」

「……あぁ、まあ。仲良くしてるわけじゃないけど」

「さっきのこと、綾乃ちゃんには内緒にしてください」


 トントンと、沙夜は拾い集めた教科書を整えた。

 先ほどの勇ましさはどこへやら。眉尻を下げて表情を曇らせるその様は、親からの叱責に怯える子供のようだ。


(言えるわけないだろ……)


 事態を説明するには、千沙と薫子のことを話さないと辻褄が合わない。

 お前が友達だと思っている奴は、陰でお前を悪く言っているぞ。なんて事実を突きつけるのは、とてもじゃないが京介には荷が重い。


「佐々川さんと仲良いのか?」

「な、何でですか?」

「下の名前で呼んでるし、ちゃん付けだし」


 その問いに、沙夜は教科書で口元を隠した。

 特別な意図があって聞いたわけではない。ただ、本当に単純な好奇心だった。しかし、どうやらまずいことを聞いたらしいと、京介は苦笑をこぼす。何度もまたたく彼女の双眼には、激しい動揺の色が浮かぶ。


「おい」


 教室の外から聞こえてきたのは、怒気が含まれた男の声だった。

 反射的に視線が動く。京介は声の主を認識し目を見張る。


「オレの妹に何してんだよ」


 そこにいたのは、綾乃をナンパしていた金髪だった。

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