第5話 日陰者と約束

 脱衣所を出てリビングの扉を開けると、綾乃はソファの上で三角座りをしていた。

 十畳余りの空間には、最低限の家電と家具が並ぶ。女性らしいものは一つとないが、ほのかないい匂いが緊張を誘う。


「ぶかぶかだね」

「うるさい」


 袖と裾を捲って歩く京介に、綾乃はニヤリと笑った。すかさず毒づくと、綾乃はまた頬を綻ばせる。


「何で立ってるの。座りなよ」


 ぽんぽんと、綾乃は自分の隣を叩いた。

 京介は目のやり場に困りながら、その誘導に従った。


 制服から着替えた綾乃は、謎の英単語が書かれたTシャツとデニムのショートパンツを身に着けていた。特徴のある服装ではないが、健康的な白い肌がLEDのもとに晒され、その存在感を際立たせる。


「痛い? 家まで歩けそう?」

「大丈夫、だと思う。そんなに遠くないし」

「そっか」


 膝に貼った絆創膏を撫でながら言うと、綾乃は安堵の息を漏らした。

 続く言葉はない。こちらから何か話題を出すべきか迷ったが、今日の天気とか、明日の天気とか、空模様ネタ以外に何も出ないため口を噤む。


「ありがと」


 沈黙を破ったその声を追うように、右隣りへ視線を流した。

 深い青の瞳がこちらを覗いている。細い指で横髪を耳の後ろにかけて、へにゃりと溶けるように口元を緩める。


「傘のことなら別にいい。カバンにたまたま入ってただけだし」

「だからって、わざわざ学校まで戻って来ないでしょ」

「……いい奴になりたい気分だったんだよ」

「藤村って変に強情だよね。もっと恩着せがましくしたら、私に色々要求できるかもしれないのに」


 色々要求。その言葉が耳を通過するのと同時に、京介の脳内を様々な妄想が駆け巡った。

 いかんいかん、と首を横に振る。別にそんなことは望んでいない。彼女もそのような意図で言ったわけではないだろう。


「もったいないよ。もっとみんなと仲良くした方がいいって」

「僕がどう過ごすかなんて、佐々川さんには関係ないだろ」

「みんなで買い物行ったり、カラオケ行ったり、たぶん楽しいよ?」

「いいって。本当に要らないから、そういうの」

「そっか」


 綾乃はそう呟くと、間髪入れずに上半身をこちらに寄せてきた。

 視線と視線が至近距離で絡み合う。手と手が、肩と肩が、太ももと太ももが、触れ合って熱を持つ。


「じゃあ、私が藤村を独り占めできるね」


 冗談っぽく言いながらも、蠱惑的な光を帯びた双眼は、京介をしっとりと見据えていた。

 頬は紅潮し、薄く開いた薄紅色の唇からは熱っぽい息が漏れる。鼻腔をくすぐる甘い匂いは、彼女由来のものか、衣服の柔軟剤か。京介は自身の心臓が高鳴るのを感じながら、邪念を振り払おうと母親の顔を思い浮かべる。


「…………ん?」


 一つ、違和感を覚えた。


 「ちょっと触るぞ」と一言添えて、綾乃の額に手をやる。

 綾乃は小さく息を切らしながら、虚ろな目をしていた。額にはじっとりと汗がにじみ、手のひらに感じる温度は平熱のそれではない。


(そういえば、くしゃみしてたっけ)


 玄関を出た時のことを思い出す。

 鼻水を垂らして笑うあの顔は、今でも鮮明に覚えている。


「大丈夫か? 熱あるみたいだけど」

「えっ?」


 綾乃は自分の手を額に当てた。瞬間、さーっと顔から血の気が引く。


「薬、飲まないとっ」


 急に立ち上がったその身体は、ふらりとよろめいて傾いた。

 このままではテレビに頭を打ち付けてしまう。京介は手を伸ばし、彼女の腕を引っ張り体勢を立て直す。


「場所だけ教えてくれれば、僕が持ってくるから」

「え、でも……」

「風邪っぴきがふらふらしてるところを傍観させるのか?」


 いささか卑怯な物言いに、綾乃は閉口した。

 彼女を座らせ、まず体温計で熱を測らせた。三十八度ちょうど、身体がふらついて当然だ。


「何でこうなるかな……」


 体温計の画面に視線を落としながら、ため息まじりに呟いた。


「新生活で疲れが出たんだろ。昨日と今日で気温差もあるし」

「でも……でもさ、千沙と薫子が、明日どっか行こうって言ってくれてね。それで、嬉しくって……」


 聞き覚えのある名前だ。確か綾乃が教室でよく話している二人組の女子、放課後陰口を叩いてた連中で間違いない。

 何故、彼女らは嫌う相手を遊びに誘ったのだろう。おおかた、モデルをやっている子と友達、というステータスが欲しいだけだとは思うが。


「どうしよう……っ」


 消え入りそうな声を漏らし、膝を抱え込んで小さく縮こまった。

 自分よりもずっと背が高く、既に仕事もこなし大人の仲間入りをしていて、たくさんの人に明るく振る舞うことができる彼女が、今はただの年相応な女の子だ。


「とりあえず、何かちょっと食べて薬飲んで寝ろよ。僕は勝手に帰るから」

「……明日までによくなってるかな」


 よくなってるんじゃないか、と返すのは容易い。気休めでも、それで彼女の気持ちが落ち着くならそうすべきだろう。

 

 他人様の交友関係だ、深入りする義理はない。

 そうとわかっていても、どうしてもあの陰口が頭をチラつく。虫唾が走る。


「無理だった時は、僕が買い物でもカラオケでも付き合うから。独り占めするって、さっき自分で言っただろ」


 凄まじく恥ずかしいことを言っている自覚はあった。イケメンにしか許されないような台詞だ。今後度々眠る直前に思い出して、悶絶することは必至である。


 だとしても、明日に期待させるのは違う。

 独善的で傲慢だと自覚しているが、他人を陰で嗤うような連中と付き合うのはやめた方がいい。というか、見ていて気持ちのいいものではない。


「本当……?」

「こんな時に嘘つけるほど器用じゃない」


 安心したのか、伏せた顔から覗く唇の端が少しだけ綻ぶ。

 すっと、綾乃は左手の小指を見せた。その意図を理解し、逡巡ののち京介も同じく小指を差し出して、子供の頃やったように絡ませる。


 言葉はなく。

 ただ、お互いの指の温度を交換した。






 高校生活は長い。


 いずれ彼女も、人に恵まれ華やかな日々を送ることになるだろう。自分はそれまでの繋ぎでしかない。

 時が来れば、ただのクラスメートに戻る――と、京介は思っていた。


 まだ、この時までは。

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