第7章ー2 ちゃんと向き合ってほしい
一方、広場ではヴィヴィアンとファントムが魔法の打ち合いを続けていた。
しかし、ヴィヴィアンの無差別的な攻撃に対し、ファントムは周囲のモンスターたちも守ろうと迎え撃つような形になるため、形勢はこちらが不利だった。
流れ弾は民衆の方にも落ちていくため、ぷぇにっくすは歌うのをやめて逃げまどう人々を誘導していた。
そんな様子を、ヴィヴィアンはへらへらと笑いながら茶化す。
「天下の魔王様ともあろうものが、人間なんぞに味方いたしますの。まあなんて素敵な博愛精神」
「ハッ、正体も現さないバ美肉魔女に言われたかないね。不快だからその偽物のおっぱい揺らすのやめな」
「あらあ、私がバーチャルだって言いますの。なら、こんな姿はいかが?」
そう言うなり、ヴィヴィアンは両手を自身の顔の前にかざす。
すると、その姿は見る間に変化し、男性のような体型に変わる。
そのいでたちはどこかモーントに似ていたが、顔は全く異なっていた。
驚くファントムに、ヴィヴィアン『だった者』はにやりとした。
「やあ、お久しぶり。『夕闇の魔女ヴィヴィアン』改め、『誇り高き黒の剣士ダーガー』だよ」
『ダーガー』を名乗る者は、ファントムこと逸見大河そっくりの顔で、そううそぶいた。
ファントムの顔が、見る間に怒りで染まる。
「て、てっめええええ!!」
「アハハハハ、そう怒らないでよ。それとも恥ずかしいのかな?14年ぶりだもんねぇ。自分の『黒歴史』と顔合わせするのはさ」
ダーガーはゲラゲラと高笑いを上げながら、背中から巨大な一振りの剣を抜く。
あまりに剣が大きいので、抜いた勢いでバランスを崩しそうになる。
その隙を見逃さず、ファントムはギターを構えて突進する。
しかし、ダーガーは不敵に笑って、そのまま剣を地面に突き刺した。
その瞬間、剣が突き刺さったひび割れから黒い電撃のようなものが走り、地表を伝ってファントムに直撃する。
電撃をまともにくらったファントムは、その場に膝をついた。
ダーガーは剣を地面から引っこ抜くと、ファントムに向かって薄ら笑いを浮かべた。
「あーあ。そんなちゃちな道具で勝てるわけないじゃん。だって俺は、君が考えた『最強の俺』なんだよ?どんなものも切り捨てる剣。どんなものも穿つ魔法。そして、どんな悪意も受け付けない最強の心。傷つきたくないから、強くなりたい。そんな君のための、最強の『鎧(アバター)』が俺ですから」
「…………」
地面に倒れ伏したまま、ファントムは答えない。
相手の様子を気にせず、ダーガーはしゃべり続ける。
「君、ずっと王国を変えたいって言ってたよね。どんな風に?健全に?教育的に?まっさかー。自分がこの俺だったころを思い出してみなよ。親や教師がどんなに注意してきたって、耳を貸したりしなかっただろう。なんてったって、あのるりこさんの叫びすら、君には届かなかったんだ」
最後の一言に、ファントムの体がぴくりと動く。
それを見て、ダーガーは鼻を鳴らす。
「モーントは大人は嘘つきだと言っていたが、そうではないよ。自分がここまで生きてこれたのは、単に運がよかったのと、時間がたって記憶が都合よく編集されたせいだと気づいていないだけさ。君もそうだ。愛する人を切り捨てた『この俺』をここに残して、一人だけ勝手に大人になろうとしていたんだろう。そして生徒たちに心配するかのようなふりをして、自分の考えを押し付けた」
「ちげぇよ……」
ファントムは震える足で立とうとする。
そこへ、ぷぇにっくすが空から舞い降り、彼の体を支えた。
「お前がどう思おうと勝手だが、俺は昔からどうしようもない、ワガママなだけのただのガキだ。それは今も変わらない。正直言って、王国を作り変えるなんて気はさらさらない。この王国で決着がつかないなら、ノートを直接盗んだっていいし、ノートを抱えて焼身自殺したっていいと考えている」
「バカじゃないの?そんなことで止まりはしないよ」
「何したって止めるっつってんだよ!でなけりゃ、幅に申し訳が立たない」
「るりこさんに?」
「美穂子にだ!」
その言葉を聞いた瞬間、ぷぇにっくすが目を見開く。
そんな彼女を抱き寄せ、ファントムはダーガーの姿を見据えた。
「先生は、幅美穂子の母親は俺のせいで死んだ。あいつの……生まれてくるはずだった兄弟もだ。それは、許されるようなものじゃない。あいつが先生のノートを大切に持っていたのだって、どこかで母親にもう一度会いたいと思っていたからだろう」
「そうだろうねぇ。かわいそうに、あの子は君のせいで不幸になった」
ダーガーはいかにも同情するかのような目で、天を仰いだ。
ファントムは唾を吐き捨て、ダーガーに向かって指を突きつける。
「だからこそだ!あいつは、俺なんかのせいで過去に捕らわれている。美穂子だけじゃない。この『王国』にいる全員が、俺たちのしょうもない過去の遺物に縛られているんだ。だから壊す。変えられない過去や、あったはずの未来なんかじゃなく、『今』を取り戻すために!」
そう叫ぶファントムに、ダーガーはへらりと笑って返した。
「へー。格好いいこと言うねぇ。泥臭いねえ。でも、そういうのって俺のキャラらしくないから……」
ダーガーは手に持った剣を頭上に掲げる。
すると、剣の先にとてつもない大きさの火炎球が出現した。
彼は目を見開き、地の底から響くような声でつぶやく。
「消えてほしいなあ」
ダーガーが剣は振りかぶり、火炎球をこちらに向かって投げつけた。
ファントムはとっさにぷぇにっくすを突き飛ばし、自身はまたその場に崩れ落ちる。
巨大な炎の塊は、一瞬のうちにファントムの全身を呑み込んだ。
突き飛ばされたぷぇにっくすは、何が起こったのか分からぬまま、地面に顔を伏せて押し寄せる熱波に耐える。
やがて炎が消え去り、恐る恐る顔を上げる。
しかし、ファントムがいた場所には真っ黒な消し炭が残るだけだった。
ぷぇにっくすはぶるぶると震え、宙に向かって叫んだ。
「ファントムー!!!」
「君が、お兄さんに成り代わることだ」
「…………」
アムレットの言葉に、モーントは無言で睨み返す。
剣先が細かく震え、刃先がほんの少しだけ首の皮膚に当たる。
「あの箱に書かれていた『光明童子』の文字。最初は『光』の字をとって『ひかり』と読むものと思っていたよ。だからあの中の入っていたのも、彼女だと思った。でも、それだけだと少し引っかかることがあったんだ」
アムレットは目を閉じた。
今モーントと目を合わせたら、何も言えなくなってしまう気がした。
「夢の中で君がずっと鳴らしていた、あの鐘に書かれていた文字。削り取られて読めなくなっていたけど、鐘と対になっていた金剛杵にあった『光明普照』と同じ薬師如来の十二誓願の一つだと推測できる。そして、君のおばあさんが言っていた『転生』という言葉。十二ある願いの中で、『転生』という言葉が出てくるのは一つしかない」
目を閉じたまま、アムレットは生唾をのんだ。
「『転女得仏』。これは女の人が来世で男の人に転生し、成仏する資格を得るという願いなんだ。これは僕の推測にすぎないけれど、君のおばあさんは自分の家柄をとても大切にしていたみたいだね。村の他の人たちが皆引っ越しても、ずっと残り続けるくらいに。そういう人なら、後継ぎは男の子でなければならないという考えを持っていてもおかしくはない。けれど息子である君のお父さんは事故で亡くなり、お兄さんも病気で死んでしまった」
モーントの息遣いが聞こえる。
浅く、早いリズム。
「一人残された君は、おばあさんに「男に転生すること」を言いつけられた。おばあさんは、お兄さんが死んだことが受けれられなかったのかもしれない。叔母さんの話によると、お兄さんはお葬式も挙げてもらえなかったようだしね。双子である君とお兄さんを、儀式を通じて同化させようとしていたとも考えられる」
「なぜ、そんな風に考えた?」
アムレットはおそるおそる目を開いた。
モーントは顔を伏せ、唇をかんでいる。
「名前だよ。君は自分の名前を説明するとき、手のひらに『日光』と書いて見せたろう。でも、ここにいる君の名は『モーント』。ドイツ語で『月』という意味だ。僕の名前『アムレット』は『お護り』という意味なのだから、名前も本名に沿って『ゾンネ(太陽)』としてもよかったはずだ。これはつまり、太陽に当たる存在がほかにいることを示している」
「…………」
「君が女神の名前を言いたがらなかったのは、それ自体が君の存在する理由の根幹に関わるからだ。さっき僕が『ひかり』という名を叫んだ時、君はそれを間違いとは言わず、『不完全』だと言った。つまり、彼女の本当の名前は『晃(あきら)』という字のもう一つの読み……『晃(ひかる)』なんだ。そして君の、君のお兄さんの名前は」
「……やめろ」
「『明(あきら)』」
その名をつぶやいた瞬間、モーントの太刀から黒い色が剥がれ落ちた。
柄を握る手が激しく震え、やがてその手から剣が滑り落ちる。
モーントは苦々しげな表情を浮かべ、絞り出すような声でつぶやき始める。
「ああ、そうだよ。その通りだ。『明(あきら)』は死んでも、『晃(ひかる)』は生きている。だから俺たちは、二つで一つの『晃(あきら)』なんだ」
「でも、おばあさんはもう死んだんだ。ならもう、男の子のふりをする必要なんてないはずじゃ」
アムレットの言葉に、モーントは鋭い眼光でにらみつける。
「“ふり”じゃない」
絞り出すようなその言葉は、なぜかアムレットの胸に深く突き刺さった。
返す言葉を必死に探しているうちに、モーントはさらに続ける。
「俺が本当は女だと思いついた時、どう思った」
そう言って、彼はこちらの方へ顔を近づけてきた。
目が大きく見える。
肌が柔らかそうだ。
いい匂いがするように感じる。
「かわいいと思ったか?」
「いや、違う」
モーントの声は、いつのまにか愛らしい少女のものに変わっていた。
しかしそれは、ニコのようなはつらつとした声とは違い、どこか艶のようなものを纏っている。
「もっと女の子らしい恰好をすればいいのにと思ったか?ピンク色の服を着ればいいのにと思ったか?スカートを履けばいいと思ったか?長い髪を下せばいいと思ったか?」
「えっと」
言いながら、モーントはコートの下に隠していた髪を引き出し、それを縛るひもを解く。
長い髪がふわりと広がり、わずかに花のような香りが漂う。
「アイドルみたいに笑いかけてほしいとおもったか?手を握ってみたいと思ったか?匂いを間近で嗅いでみたいと思ったか?頭をなでてみたいと思ったか?」
「そんなこと」
コートを脱ぎ、ボタンを外し、モーントは胸の部分をはだけさせた。
白い生肌がちらりと見える。
「席が隣同士でよかったと思ったか?友達以上の関係になりたいと思ったか?デートに行きたいと思ったか?キスをしてみたいと思ったか?」
「…………」
顔が近い。
モーントは、潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
視線を逸らそうと思うほどに、じっと見入ってしまう。
「本当は、自分に惚れてるんじゃないかと思った?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、アムレットはただ口をぱくぱくとさせる。
やおら、モーントはこちらの手を掴み、自分の胸に触らせた。
柔らかい。
「こんなこと、したいと思った?」
「へ、は」
顔が熱い。
頭がぼうっとして、何も考えられない。
次の瞬間、腹の当たりもじわりと熱くなるのを感じた。
視線を下すと、腹にモーントの短剣が深々と刺さっていた。
傷口から血が吹き出て、焦げ茶色のベストを黒く染める。
モーントは短剣から手を放すと、アムレットを手すりに向かって蹴り飛ばす。
衝撃で手すりが壊れ、アムレットはそのまま奈落へと落ちていった。
広場では、いまだぶすぶすと煙を上げる消し炭に、ぷぇにっくすは縋りつくようにして泣いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ダーガーは無表情のまま彼女のそばに近寄ると、耳元にそっと囁いた。
「何を謝る必要がある?これが君の本望ではなかったのか?」
「ちがう!」
ぷぇにっくすは顔を上げ、ダーガーをキッと睨みつけた。
「私はただ、母さんがどうしてあんな所から落ちたのか知りたかっただけよ。あなたが母さんのことをよく知っているというから、ノートを渡したのに。最初から、こうすることが目的だったのね」
「人聞きの悪い。俺はるりこさんの敵を討ってあげただけだよ。望みをかなえるのが、王国の目的であり、彼女の望みだったはずだ」
「母さんは、そんなことを望むような人じゃない!ノートがあなたを選ばないはずだわ。皆の望みを叶えてやるようなふりをして、実際は自分の都合のいいように操ることしか考えていない。あなたは勇者なんかじゃない。ただの詐欺師よ!」
涙目で叫ぶぷぇにっくすに、ダーガーは小ばかにしたような笑顔で応える。
「ああ、その通りさ。俺は詐欺師だ。でも勇者でもある。勇者はいつだって物語の主人公であり、皆の『こうなったらいい』という隠れた願いを体現する者だ。そうすることで、皆は溜飲を下げることができ、俺は存在価値を持つことができるんだよ。ウィン=ウィンの関係さ。だから詐欺師というよりかは、アイドルか、エンターテイナーと呼んでほしいね」
ぷぇにっくすは反論しようと、口を開いた。
しかし、足元に奇妙な感触がするのを覚え、視線だけを下に向ける。
ファントムだった消し炭と灰が、ざわざわと蠢いているように見えた。
ぷぇにっくすは決意したように、ダーガーに向き直る。
「嘘つき!裏切り者!中二病!中学生だらけの王国の中でも、あなたが一番子供だわ。せいぜい狭いこの世界で、英雄を気取っていればいい。そして私と一緒に、地獄へ落ちろ!」
「そうかい。ではレディーファーストといこう」
そう言って、ダーガーは再び剣を振り上げた。
しかしその時、辺りに地鳴りのような音が響き渡る。
驚いて周囲を見渡すと、地面が急にひび割れ、下から何かがせりあがってくる。
動揺するダーガーを差し置いて、ぷぇにっくすは上空へと羽ばたいた。
「待て、この」
ダーガーは逃すまいと魔法弾を撃とうとするが、バランスが崩れてうまくいかない。
それどころか、亀裂はさらに大きくなり、このままでは呑まれてしまうだろう慌てて浮遊の術を唱えようとするが、今度は足元に違和感を感じた。
下を向くと、下半身に大量の蟲がまとわりついている。
「な、なんだこれは!」
慌てて払おうとするが、虫は亀裂からどんどん湧きだしており、遂には顔にまで達する。
「うわああああ!」
ダーガーは半狂乱になり、宙に向かって叫んだ。
その時、耳元に誰かがささやきかけるのが聞こえた。
「よお。お前の正体がやっとわかったぜ」
アムレットは、どこまでも続く奈落を落ちていった。
いつまでたっても地面には到達せず、果たして自分は本当に落ちているのか、それとも意識だけが落ちているかのような気分になっているだけなのか分からないほどだ。
もうろうとする意識の中、彼は自分の目が潤むのを感じた。
どうして自分はいつもこうなのだろう。
心の中で何度も自分の愚かさを悔い、何度もひかるに謝った。
その時、ふいに胸のあたりが光った気がした。
視線をそちらのほうにやると、腹に突き刺さったままだった短剣が、白い光に包まれていくのが見える。
やがて短剣は光と共に溶け消え、それと同時にアムレットの頭の中に映像のようなものが流れた。
白い扉の前に、モーントが立ち尽くしている。
彼はためらいがちに、その扉をノックした。
今まで何度、こんなことを繰り返してきただろう。
「なあ、今日は天気がいい。ちょっと散歩に出てみないか」
そう問いかけてみるが、返事はない。
分かりきったことだ。
ここ数日、彼女はここから出てこなくなった。
この王国では、どんなものでも作り出せる。
しかし彼女はその力がありながら、出したのはきれいなベッドやかわいらしいぬいぐるみくらいで、あとは何もしようとはしなかった。
モーントはため息を吐き、扉に両手を付く。
「どうして何も作ろうとしないんだ?ここではなんでもできるんだぞ。街も、人も、魔法の生き物だって、お前ならなんでも生み出せる」
扉の前で問うてみても、返事はない。
モーントは今のままではどうにもならないことを悟り、手を変えることにした。
「分かった。じゃあ、これから俺が聞く質問に、ノックで応えてくれ。イエスなら1回、ノーなら二回。いいかい?」
しばらく待つと、ノックが一回だけ聞こえる。
「じゃあ、聞こう。お前がここから出てこないのは、現実で……学校で何かあったせいなのか?」
ノックが一回、聞こえた。
「そう、なのか。お前、いじめられたりしてないよな?」
二回。
「お前自身ではない、誰かのことか」
一回。
「それはもしかして、入学式にいた『金森』ってやつか?」
しばらくの間の後、小さく一回だけノックが聞こえる。
モーントはあの時隣の椅子に座っていた、白い髪の男子生徒を思い出す。
普段外に出て喋ることのない妹が、突然声を掛けたのが意外だった。
しかしながら、その後妹の方から行動を起こすことはなかった。
心配になり、一応たまに彼の様子を見に行ったりはしていた。
しかしそこで見たのは、彼がサングラスを割られたり、足を引っかけられたりする姿だった。
だが、いじめる相手が男子ばかりであることもあって、自分たちは何も手を出せないでいた。
「仕方がないよ。無理に止めようとすれば、お前までいじめに巻き込まれかねない」
そう答えると、強い調子でノックが二回聞こえてくる。
「バカをいうな。現実は空想とは違うんだ。お前の顔や体に傷が付いたりしたら、とりかえしがつかないだろ」
バン、と扉になにかが叩きつけられるような音が聞こえる。
そのあとは、何を言ってもノックが聞こえることはなかった。
しばらくの間は頑張って話し続けていたが、やがてモーントも諦めて立ち去ろうとした。
その時、突然向こう側から声が聞こえてきた。
「……『女神』は、なんでも願い事を叶えることができる存在なんでしょう。なのに、どうして一番の願いは叶わないの」
「それは……」
モーントはその質問に答えられなかった。
妹はため息を吐き、弱弱しい声で続ける。
「分かってるよ。私たちは、アニメや漫画の主人公じゃない。『王国』ではなんでもできても、現実ではいじめられている男の子一人救うこともできない。弱くて、ちっぽけな存在なんだ」
それだけつぶやくと、扉越しに泣き声が聞こえてきた。
モーントはこめかみに親指を押し付け、じっと無言で考え続ける。
そして、決意したように顔を上げた。
「分かった。俺が主人公になる。それであいつを救って見せよう」
「……兄さんが?」
「そうだ。あいつをここに連れてきて、一緒に王国を作っていこう。その時は、必ず出てくるんだぞ」
妹は何も答えなかった。しかし、モーントの決意は固かった。
それから学年が上がり、アキラは金森と同じクラスになった。
何度も話しかけ、一緒に登下校をし、少しずつ距離を縮めていった。
最初はほとんどしゃべることのなかった金森も、だんだんと打ち解けてくるようになった。
そして、彼を王国に招待すると決めた前日のこと。
アキラは王国に入り、ヴィヴィアンと話を進めていた。
金森がこの王国を気に入ってくれるよう、手はずを整えておくためだ。
とはいえ、しょせん『片割れ』である自分には、星を使って何かを生み出す能力がない。
あるのは、この王国で妹に渡された『真実を見抜く短剣』ただ一つだ。
そんなアキラに、ヴィヴィアンはこんな提案をしてきた。
「金森殿の『星』を操る力を、少しだけ分けてもらっては?」
「分けてもらう?」
問い返すと、ヴィヴィアンはにっこりと笑ってうなずいた。
「彼は女神と同じくらい、想像力が豊かな御仁のようですわ。ならば、少しくらい分けてもらっても、差しさわりないと思いますの」
「でも、それはあいつから力を奪うと言うことじゃ」
「女神さまにお誓いになったのでしょう。主人公になって、彼を救うと。力のない人間に救うと言われても、人は信用せぬものです」
「……そうかな」
「大丈夫ですわよ。あなたならきっとやり通せます。女神さまと、金森殿のためですわ」
「…………」
アキラは言われた通りに、金森にノートへさまざまなアイディアを書かせ、そこに込められた井森の『願い』『望む力』を、そっと吸い取った。
その時は、ほんの少し力を借りるだけだと思っていたのだ。
しかし王国に来た時、金森は『星』を使って何かを造ることはできなくなってしまっていた。
それは自分が、彼から『望む力』をほとんど奪い取ってしまったことを示していた。
しかし金森は、なんでもできる自分を無邪気に信用していた。
金森だけではない。
チケットを渡された者たちの多くが、自分のことを万能な存在であると信じ切っている。
最早後戻りはできなかった。
いつも腰に差している短剣は、そのころから少しずつ黒ずむようになっていった。
それはいくら磨いても、元の輝きを取り戻すことはなかった。
アムレットは、深い水のような場所に落ちた。
体を動かすことができず、彼はそのまま深い場所へと沈んでいく。
沈みながら、ここはどこだろう、と一人冷静に考えた。
今さらモーントの、アキラの真実を知ったところで、何もすることはできない。
ふいに、体が水底へと着いたのを感じた。
水の中は暗く、どこまで続いているかも分からない。
そもそも、自分はどうやって呼吸をしているのだろう。
耳元でぶくぶくと弾ける泡の音を聞きながら、右手の当たりに何かが当たっているのを感じる。
その途端、体がわずかばかりだが動くようになったのを自覚した。
視界もままならない中、アムレットは手の感触だけを頼りに、『何か』を探り当てる。
固い。すべすべしている。四角い。溝のようなものがある。
『これは……』
頭の中を直感が走り、溝に手を沿えて一気に開ける。
その瞬間、『何か』からまばゆいばかりの光があふれた。
光に目がくらみ、同時に何かのイメージが頭を駆け抜けていく。
幼いひかるは、鐘を振りながら一人で真言を唱え続けている。
目の前には、呼吸器をつけ眠り続ける兄の姿があった。
両親が死んで間もなく、兄は重い病気にかかった。
意識はあるのかないのかも分からず、ただ昏々と眠り続けている。
かつてはよく似ていたその顔も、今は青白く、生気がない。
そんな兄のことを、祖母は誰よりも慈しみ、かわいがった。
同時に、健康なひかるのことを邪険にし、「なぜおまえの方が病気にならなかった」となじった。
もしひかるがもう少し大人だったなら、こんなくだらない儀式をやめ、兄をちゃんとした病院に入院させるべきだと主張できたかもしれない。
しかし幼い彼女には、自分がやっていることが正しいかどうかも分からなかった。
祖母に従うこと以外何もできないひかるにとって、唯一の話し相手は目の前の兄だけだ。
ひかるは心の中で、喋ることのできない兄と会話を続けていた。
その日も、ひかるは儀式を行いながら、兄と心の中でしゃべっていた。
「今日は暑いね」
「そうだね」
「のどがかわいたな」
「そうだね」
「手が痛くなってきた」
「そうだね」
どちらが自分の声で、どちらが兄の声なのかも分からない。
ただ、儀式を行っている間はこんな問答を延々と続けるのだ。
その時、彼女の耳に奇妙な音が聞こえた。
空気が抜けるような、小さな音だ。
不審に思い、呼吸器のチューブを指で伝っていく。
しかし、穴のようなものはあいていない。
この呼吸器になにかがあれば、兄の命が危ない。
そのことは幼いひかるも重々承知していた。
「おばあさんに言わなきゃ」
そう思い、立ち上がろうとする。
その時、頭の中に声が聞こえた。
「やめとけよ」
「え?」
誰かが自分の手を握る。
目には見えないけれど、それが兄の手であると彼女は確信した。
「なぜ?お兄ちゃん、死んじゃうのよ」
「いいよ」
「だめだよ」
「いいんだ。だって、ひかるももう疲れたろ」
目に見えない手は、ひかるの頭をやさしくなでた。
「お兄ちゃんが全部代わるから。お前は休め」
「いいの?」
「大丈夫。これからは、何があっても一緒だ」
ひかるはその言葉を受け入れ、自分に話しかけてきた『兄』にすべてを託した。
その夜、『明』は静かに息を引き取った。
しかし祖母は『明』の葬儀を上げることはなかった。
その代わり、彼が以前寝かされていた仏間には、白い桐の箱がかざられるようになった。
それはちょうど、『明』がすっぽり入るくらいの大きさだった。
祖母は残された孫娘に、その箱へ祈るよう命令した。
しかし、ひかるにはそれに祈った覚えがない。
ただ、兄が代わりに祈り続けている姿を、後ろから眺めていたような記憶だけがあった。
傍らで、祖母が新しい真言の意味をつぶやいている。
「オンソリヤハラバヤソワカは、日光菩薩様の真言。オンセンダラハヤバヤソワカは、月光菩薩様の真言だよ。日光菩薩さまと月光菩薩さまは、二つで一つの存在であらせられる。だからあきら。あんたも、早く仏様になれるよう、一生懸命祈るんだ」
祖母は、自分のことをもはや「ひかる」とは呼ばなくなっていた。
祈り続ける兄は、『自分』が入った箱を見つめ続ける。
二つで一つ。
あれは自分。
これも自分。
なら、ここにいる私はいったい誰なんだろう。
やがて、彼女は自分の本当の名前を忘れた。
箱から出てきた光に、アムレットの視界は白く塗りつぶされていた。
そうか。
自分はなにもかも知ったつもりになっていて、本当のところは何も分かっちゃいなかった。
アキラは、男の子のふりをしたひかるなんかじゃない。
自分が想像して生まれたジルバーンと同じく、孤独な少女の願いから生まれ出でた者だ。
彼は自分から想像力を奪い取ってしまったと考えたようだが、そうではない。
自分の方こそ、彼に理想像を押し付けたのだ。
何もできない自分に代わり、なんでも万能にこなし、失敗などせず、いやな顔一つしない理想の主人公像を。
彼ならきっと、自分を救ってくれるに違いない。
見捨てないに違いない。
ずっと支えてくれるに違いない……。
そんな勝手な主人公像を。
彼は主人公という名のもと、ほかの者たちからもたくさんの理想像を押し付けられたのだろう。
その成れの果てが、あの独裁者のような姿だ。
一人一人の弱さの裏返しが、寄り集まってあの歪んだ力を生み出している。
アムレットは涙を流した。
それは、彼が自分以外の誰かのために流した、初めての涙だった。
涙は水の中にすぐ溶けて消えてしまったが、彼に一つの決意を与えた。
モーントの、アキラの本当の願いを聞こう。
理想の主人公なんかじゃない。
たった一人の、友達として。
その時、どこかでゴロゴロとなにかが崩れ落ちるような音が聞こえた。
視界の白さに、なにが起こっているか確認できない。
すると、水中を漂っていたアムレットの体を、何かが固いものが受け止めた。
それは轟音を上げながら、すさまじい勢いで上昇していく。
アムレットは、それにただ身を任せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます