第6章ー1 死にたいですか
ドスンという音とともに、彼は背中と尻に鈍い痛みを感じた。
『……あれ、ここは』
勢いよく体を起こし、背中の筋が攣りそうになる。
白い床。白い天井。
傍らには、白いシーツと布団がかぶせられたベッド。
保健室だ。
するとベッドを取り囲んでいたカーテンが勢いよくあけ放たれ、その向こうから焦った様子の逸見が顔を出した。
「金森、無事か」
「あ、はい。なんとか」
逸見は金森のそばにしゃがむと、背中や腕を触ってけががないか調べる。
幸い軽い打ち身だけで出血などはないようだ。
その時、ガラガラと扉があくような音が聞こえた。
「……失礼します」
金森は丁寧にあいさつをして入ってきた人物の姿を見て、思わず顔を引きつらせる。
そこにいたのは、晃だった。
彼はぞっとするほど無表情のまま、すたすたとこちらに近づいてくる。
二人のそばまで来ると、冷たい目で見下ろした。
「朝霧か。こいつはまだ本調子じゃない」
逸は努めて平静を装い、晃に声を掛ける。
しかし晃は首を横に振り、馬鹿にしたような口調で喋る。
「やめてくださいよ。先生ごっこはもうたくさんだ。それより、俺はそこの」
彼はそう言って、金森を指さす。
「裏切り者に用がある」
「!!」
「おい、朝霧!」
逸見は声を荒げ、立ち上がった。
「いいかげんにしろ!どうしてそこまで『王国』にこだわるんだ。あれがどれほど危険なものか、お前が一番分かっているはずだ」
「あなたがそれを言いますか。妹を巻き込んでおきながら、何もできずに消失させたくせに」
晃の口調は冷静だが、その瞳の奥では激しい怒気がちらちらと燃えている。
なにも言い返せない逸見に向き直り、晃はやおら相手のネクタイを掴む。
そして強引に自分の方に引き寄せ、冷たい声で囁きかけた。
「子どもだからってバカにするなよ。あんたは教師でも何でもない。ただの、無力な、魔王の成れの果てだ」
「…………!!」
晃はそれだけ言って、ネクタイから手を放す。
そして金森の方に静かに歩み寄り、そばに膝をついた。
「金森。君には失望した。でも、まだチャンスはある」
「な、なにを」
晃は口元に微笑を浮かべる。
その表情こそは笑顔だったが、声はまとわりつくような冷気を含んでいた。
「妹を、白いドラゴンの力を返せ。そうすれば、今までのことは水に流す」
晃の言葉に、金森は声を詰まらせる。
ドラゴンの力を返すということは、あの魔法陣を使って何かを行うということだろうか。
逸見の方に視線を向けると、彼はそんなことをしてはいけないというように視線をくれる。
だが、あの男もこの力を使おうとしていたことに代わりはない。
どちらを信じるべきか。
金森は迷い、胸に手を当てる。
ふと、ニコが最後に自分に伝えた言葉を思い出した。
『本当の名前を探して』
金森は意を決したように顔を上げ、晃の目を真正面から見据える。
「いいよ。ただし条件がある」
金森の言葉に、逸見はぽかんと口を開き、晃も不審そうに眉根を寄せる。
「条件とは?」
「ニコ……女神の、君の妹の名前を教えてほしい」
そう言い放った途端、晃は驚いたように目を見開いた。
「どうした、言えないのか」
晃はギリ、と歯ぎしりをして、絞り出すように続ける。
「……ほかに何か望みはないのか。なんでもいい。いじめっ子たちが君を尊敬するようにも、お母さんが君にもう干渉しないようにもできる」
「そんなのいい。名前を教えてくれさえすれば」
晃は言葉にならない叫びをあげ、勢いよく立ち上がった。
その様子を見つめながら、金森は冷静に続ける。
「彼女の名前を教えると、君に不都合なことでもあるのか」
「くどいぞ!妹は女神だ。王国に絶対必要な存在なんだ。名前なんて必要ない」
「そんなことないだろう。誰にだって、本当の名前がある。だから現実にも帰ってこれるし、王国に新しいものをもたらすことができるんだ。それになにより、あの子自身が女神なんてなりたくなかったと言っていたんだ」
「うそだ!」
「うそじゃない!僕がこの耳ではっきりと聞いたんだ」
晃の顔が見る間に歪む。
こんな表情を、金森は今まで見たことがなかった。
「なんだよ。お前まで、俺の努力を無駄にする気なのか」
「そんなこと言ってないじゃないか。僕はただ冷静に話を」
晃は頭を激しく掻いて、吐き捨てるように叫んだ。
「黙れ!せっかく友達になってやったのに、全部台無しにしやがって!お前の代わりなんて、他にいくらでもいるんだぞ。思いあがるな!」
そこまで言って、彼はしまったという風に口をつぐむ。
「そんな風に、思っていたんだね」
「ち、違う。今のは」
「そっか。薄々分かってはいたんだ。今まで、僕なんかに情けをかけてくれてありがとう。でも」
金森は立ち上がって、晃の顔を見つめた。
そして大きく息を吸い込み、言い放つ。
「もう君の言う通りにはしない。僕は、僕の思うことをする」
晃は信じられないという風に目を見開き、手近にあった枕を思いっきり金森の顔に投げつけた。
ぼふん、と間抜けな音がして、枕が地面に落ちる。
金森は何も答えない。
晃は何かを言おうと口を二度三度開きかけたが、そのまま踵を返して逃げ出すように保健室から出ていく。
その後ろ姿を見送り、落ちた枕を拾い上げた。
「おい、金森。大丈夫なのか」
緊張したような様子で、逸見がやっと声を出す。
その途端、金森は枕を抱えて泣き出した。
嗚咽を漏らしながら、まるで幼稚園児のように大声を上げて泣く。
真っ白な枕に、涙の染みが広がった。
しばらく泣き続けた後、金森は逸見に促されて保健室を出た。
本当はちゃんと今後のことを話したかったのだが、「今はそれよりも自分の心に整理を付けろ」と言われてしまったのだ。
時間を見ると放課後になっており、あとは帰るくらいしかない。
重い足取りで玄関に向かっていると、背後から誰かが声を掛けてきた。
「ねえ、ちょっといいかしら」
思わずびくりと震えて、恐る恐る振り向く。
そこには、司書の幅美穂子が立っていた。
「な、何の用ですか」
「渡したいものがあるの。図書室まで来れない?」
幅の表情は固く、何を考えているか分からない。
金森は少しの間逡巡した。
そういえば体育館で目を覚ました時、晃の隣にいたのは彼女だったような気もする。
何か裏があるのではとも考えたが、その時ふと胸のあたりが暖かくなるような感覚を覚えた。
彼女は信用していい。
誰かが突然そう囁いたような気がした。
金森は顔を上げこっくりとうなずくと、彼女について行った。
図書室に入るなり、幅はカウンターの下から分厚い本を取り出した。
真っ赤な表紙のその本に、金森は見覚えがあった。
それは、晃がメッセージを挟むのによく使っていたものだ。
本に手を伸ばそうとすると、幅は「待って」と制止する。
「金森君。あなた、この本を読んだことはある?」
「え……」
「その顔は、読んだことないって感じね」
胸中を見透かされ、金森は恥ずかしそうに眼をそらした。
幅は表情を変えず、厳しい口調で続ける。
「この本はね、ある人からあなたに渡すように頼まれたの。絶対に最後まで読んでほしい。そして、気付いてほしいって。あなた、その覚悟はある?」
真剣な表情の幅に、金森はたじろいだ。
覚悟といわれても、どうすればよいのか分からない。
第一、ある人とはいったい誰なのだろう。
迷っていると、幅は小さい声でこう付け加えた。
「その人が言っていたわ。あなたと私は、二つで一つ。あなたなら、絶対気付けると」
「!!」
その言葉を聞いた途端、金森は反射的に本を手に取った。
だがそのまま持って帰るわけにはいかないと気づき、慌てて図書カードをポケットから取り出す。
貸出手続きを行い、本を受け取ると、金森は幅に向かってぺこりと頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。僕、必ず読み切って……」
頭を上げると、彼女はどこか虚ろな目でぼんやりと宙を見つめている。
呼んでも返事はなく、ただマネキンのように突っ立っているだけだ。
金森は本を大事そうに抱え、そっと図書室を後にした。
その夜。
母はいつにも増して金森に気を掛けてきた。
最近様子がおかしかったのを気にしてのことらしく、久しぶりにまともにしゃべった息子に、悩み事や心配事はないかと根掘り葉掘り聞いてくる。
金森はひたすら「風邪気味だった」と繰り返し、食い下がる母から無理やり逃れた。
そして夕飯もそこそこに自室にこもると、カバンからあの赤い本を取り出す。
正直、この本をまともに読むのはこれが初めてだ。
改めて見てみると、布張りの表紙は角が擦り切れ、ページの端は少し黄ばんでいる。
なかなか古い本だ。
ページ数も多い。
何より、タイトルが途方もない。
「はてしない物語」
まるでとんでもない強敵を目の前にしているような気分に陥り、くらくらしそうになった。
だが、表紙にあるレリーフに手を触れて思い直す。
そこには、互いに尾を噛み合う蛇の模様が描かれていた。
ニコが言っていた、お守りのモデルだろうか。
意を決して、最初のページを開いた。
翌日。
金森は寝不足の目をこすりながら、信号が変わるのを待っていた。
結局、ほぼ徹夜であの本を読み通してしまった。
朝くまを作って起きてきた息子に、母は本気で心配したように声を掛けてきた。
学校を休んで病院に行くべきだと諭す母から、半ば逃げるようにして家を出てきたのだ。
どうしても今日、学校に行かねばならなかった。
行って、晃ともう一度話を付けなければ。
そう思いながら、一応辺りを見渡してみる。
この横断歩道は校門のすぐ目の前にあり、ほとんどの生徒が必ずここを通る。
晃もいつもならここで声を掛けてくるのだが、今日は姿すら見えない。
先に校舎に入ってしまったのかもしれないと考え、不安と安堵が入り混じったようなため息を漏らす。
それにしても、ここは赤信号が長い。
金森の周囲には、同じく信号待ちの生徒たちが集まってきていた。
横断歩道の両際では、教師が安全旗を持って飛び出す生徒がいないか見張っている。
こんなところで飛び出しをする奴もいないだろう。
金森は常々そう考えていたが、多分服装検査なども兼ねているに違いない。
ぼんやりと赤信号を見つめていると、誰かが自分の体を押しのけたような感じがした。
次の瞬間、耳をつんざくようなクラクションの音と共に、目の前をトラックがすさまじい勢いで横切っていく。
一瞬何が起こったか分からず、トラックの方を凝視した。
トラックはそのままブレーキ音を響かせ、横滑りしながら横断歩道の数十メートル向こうで止まる。
改めて視線を正面に戻すと、誰かが倒れているように見えた。
背後から、悲鳴やどよめきが上がるのが聞こえる。
まさか、誰かが死んだのか。
そう思い目を凝らすと、ゆっくりとその人影が起き上がる。
背の高いやせぎすの体つきに、白衣。
逸見だ。
彼の体の下に、同じく誰かが倒れているのが見える。
周囲にいた誰かが、声を上げた。
「あれ、滝常じゃね?」「本当だ」「え、自殺?」
周りの生徒たちが言うとおり、逸見の下で倒れていたのは滝常のようだった。
逸見が滝常の肩に手を掛けると、ふらふらとしながらも立ち上がった。
どうやら生きているらしい。
周囲の安堵の声が広がる。
だが次の瞬間、逸見は滝常の頬を思いっきり殴った。
「この、大馬鹿野郎!!」
滝常はまともに拳を喰らい、その場に倒れる。
生徒たちからも驚きの声が上がるが、逸見はそれを無視して叫び続けた。
「今をまともに生きられない奴がなあ!別の世界で生きていけるわけがねえだろうが!どうしてそれが分からない!」
彼の狂気じみた叫びに、生徒たちはおびえたように一歩後退る。
ただその中で、滝常と金森だけはそれを冷静に聞いていた。
すると、向こうから新谷がぱたぱたと走り寄ってきた。
「おーい、おーい。何があったんですかあ。すごい音がしたんですけどー」
その向こうには、ほかの教師たちも続いている。
どうやらこの騒ぎが、校舎の方にもようやく伝わったらしい。
しかし、現場の異様な雰囲気にも関わらず、新谷はのんきな顔でへらへらと笑いながら逸見に近づいてくる。
よく見ると、彼の手には黄色い安全旗が握られていた。
どうやら仕事中に抜け出して、どこかに行っていたようだ。
「あ、そこにいるのは滝常君。もしかして、逸見先生が助けてくださったんですか……」
逸見は無言で新谷の顔をぶん殴った。
新谷も拳をまともに顔面で受け、その場に倒れ伏す。
逸見は相手に馬乗りになると、胸元を掴んでがくがくと揺さぶった。
「生徒が死ぬところだったんだぞ!どこ行ってたんだ!」
「と、トイレに……」
「ふざけんじゃねえ、このボケカス!!」
そう叫んで、もう一発新谷を殴る。
そこへようやく他の教師も集まってきて、無理やり逸見を引きはがした。
しかし逸見は興奮が収まらないという様子で、なおも叫び続ける。
「お前ら全員バカだ!バカだ!バカだ……」
事故の後、学校の前には警察も来て一時騒然となった。
しかしそんな外の様子を横目に、金森は学校に入った。
晃を探すためだ。
だが、教室はおろか図書館にも、保健室にも、どこにも彼の姿はない。
そうこうしているうちに予鈴が鳴ってしまい、諦めて教室に戻った。
HRが始まると、新谷は鼻に大きなガーゼを付けて登壇した。
話は主に今朝の事故のことだったが、具体的に何が起こったのか、滝常はなぜトラックの前に飛び出したのかなどは、ほとんど語られなかった。
ただそれが原因で休校になるといった事態はなく、今日も通常通り授業はあるということだけが伝えられる。
一方で、新谷が逸見に殴られたということは、語られないながらもクラス中の周知の事実となっていた。
とはいえ、今日はそれをいじる者もいない。
奇妙な静けさだけが教室の中を支配しており、皆一様にまじめ腐った仮面をつけて、その場をやり過ごそうとしているようだ。
金森も間延びしたような一日を耐え、放課後になるのをひたすら待った。
最後の授業が終わるなり、一目散に教室を飛び出す。
向かう先は保健室。
だが、今度は晃を探そうというのではない。
昼休みも覗いてみたが、保健室の中はもぬけの空だった。
こういう時に急病人やけが人が出たらどうするんだろうな、と思いながら、金森はベッドに腰かける。
ベッドの上には、また新しいカバーを付けられた枕が設置されていた。
昨日自分が涙で濡らしたカバーは、一体どうなったのだろう。
家に持って帰り、洗濯して返すべきだっただろうか。
ベッドの上で足をぶらつかせながら待っていると、やがて扉ががらりと開く音が聞こえた。
「あー、疲れた。あのハゲ、いつかあのカツラ取ってやる」
「校長先生のこと、ハゲなんて言っちゃだめだよ」
「うん?」
カーテン越しに声を掛けると、逸見が顔をのぞかせた。
その目の下には、疲れ切ったように濃いクマが浮いている。
彼は金森の顔を見るなり、小さく鼻を鳴らした。
「また来たのか、お前。懲りないねえ」
「そんなの僕の勝手でしょ。にしても、新谷は仕方ないとして、なんで滝常のこと殴ったりしたの?」
「お前担任に厳しいな」と逸見は笑い、椅子に腰かける。
そして大きくため息を吐き、疲れ切ったように顔を俯かせた。
「他の連中は事故ですましたがっているようだが、あれは間違いなく自殺未遂だ。この目で飛び出していくところを見たし、何よりあいつ自身がそう言ったんだ。『死ねば、王国に戻れるのに』と」
「それは……」
「聞いた途端に、頭にカッと血が上っちまった。情けないよな。それでよくも養護教諭なんて勤まるもんだ。校長にもこってりしぼられたよ。命を助けようとした行為は尊い。だが、もう少し教師としての自覚を持つべきだってな」
逸見は心底参っている様子で頭を掻く。
無理もない。
彼は今、『王国』を止める術をほとんど失っている。
金森は腹を決め、逸見の顔を真正面から見据えた。
「先生は間違ってないと思う。僕、先生を信じるよ」
「ほお。優しいな、お前」
「だから、協力しよう。晃を止めよう」
その言葉を聞いて、逸見は驚いたように頭を上げる。
「お前本気か?朝霧が、モーントがあの部屋で言ったことは、全部事実なんだぞ」
「そうなのかもね。でも、僕は何もかもを知ってるわけじゃない。だから、話してほしい。十四年前、先生に何があったのか。どうして、先生がこんなことを始めたのか」
「…………」
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