第2章ー1 ダンジョンがこわれちゃったのは君のせい
『自分』は、車の中にいた。
窓の外の景色が、スローモーションで流れていく。
木の枝や石ころ、土ぼこりが、ガラスに当たってすさまじい音を立てている。
身をかがめているせいで、前の座席に座っているはずの父と母の姿が見えない。
シートベルトが首に締り、息が苦しい。
ふと顔を上げると、地面が目の前まで迫っていた。
フロントガラスが粉々に砕け、細かい破片が飛び散ってくる。
自然と、隣に座る『片割れ』の手をにぎっていた。
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鼻に冷たい水滴のようなものが当たったような感触で、彼は目を覚ました。
体を起こそうとすると、全身の筋肉がひきつったように痛む。
「あれ、ここは……」
なんとか頭だけ上げ、辺りを見渡す。
薄暗くてよく見えないが、大きな瓦礫や岩のようなものがごろごろと転がっているのが分かった。
一体何が起こったのか。
思い出そうとするが、頭の中に霧がかかったように何も浮かばない。
とにかく周囲の様子だけでも確認しようと、立ち上がる。
しかし二本足で立とうとしても、バランスがうまくとれない。
違和感を覚えながら、彼は仕方なく這うようにして動き出した。
不思議とその方がしっくりくるのだ。
とりあえず岩や瓦礫を避け、通れそうな道を見つけては進んでいく。
辺りには生き物の気配はなく、火薬とヘドロを混ぜたようなにおいが立ち込めていた。
しかも、どこへ行ってもすぐに行き止まりになってしまう。
どうしようか考えあぐねていると、背後でごとりと音がした。
「!?」
驚いて、思わず後ろを振り向く。
しかしそこにはなにもなく、安堵して前に向き直る。
その瞬間、八つの目が一斉にこちらを睨んだ。
腰を抜かし、後ろ向きに転んでしまう。
よく見ると、それは自分の身の丈ほどもある巨大なクモだった。
クモはくちゃくちゃと口を動かしながら、長い足をこちらに向かって伸ばしてくる。
「ひ、ひいいい!!」
情けない悲鳴を上げて、彼は一目散に逃げ出した。
途中コケてすりむき、体が壁に当たってあざができるのもかまわず、逃げまどう。
しかし、狭いこの場所では逃げ場などなく、あっという間に壁際まで追い詰められてしまった。
焦る彼に、クモはじりじりと距離を詰めてくる。
「ああ、やめて、お助け」
必死の命乞いも、通じている様子はない。
半ばやけくそのようになり、背後の垂直に立った壁に手を掛けた。
すると、思った以上に簡単に手足がひっかかる。
彼は無我夢中になりながら、壁をよじ登った。
クモが自分の足を掴もうとしたような感触がしたが、蹴り飛ばすようにして無理やり逃げ延びる。
上の方まで登りきると、天井との間にわずかな隙間があった。
その奥から光が差し込んでいるのを見え、隙間に体をねじ込むようにして入る。
進めば進むほど、光は強くなっていくようだ。
その先に何があるかまでは確認できなかったが、ひたすら明るいほうを目指して這って行く。
すると突然地面が無くなり、彼はころりと転げ落ちた。
固い地表に激突するかと思われたが、意外にも落ちた先は柔らかく、彼の体はぽんと跳ね上がる。
一体何が起こったのだろう。
確認する間もなく、上の方から誰かの声が聞こえてきた。
「よぉ、ずいぶんと惨めな姿になったもんだな」
声のした方に顔を向け、彼は絶句する。
そこには、巨大な鉄でできた鳥の顔面のようなものがあった。
目の部分には穴が開いており、そこからぎょろりとした目玉がこちらを見下ろしている。
「ぎゃああああ!!!」
大声を上げて、彼はその場から逃げ出そうとした。
しかし、すぐにしっぽをつまみ上げられて捕まってしまう。
『あれ、しっぽなんてあったっけ……?』
彼は自分の体に違和感を覚えながらも、再び大きな目玉と視線が合い、硬直する。
「そうか、お前はまだ俺とまともに会ったことがなかったな。丁度いいから教えてやろう。我が名はファントム・オブ・ファンタジー。大いなる愚者の帝王。ま、今は半分だけしかないがな」
そう言ってファントムと名乗る怪物は、自身の全体が見えるように彼を持ち上げる。
その体は下半身が無く、断面の部分から無数のクモがざわざわと蠢ていていた。
おぞましい光景に、彼は吐き気を覚える。
「ハハ、美しすぎて声も出ないか。さて、哀れな元・ドラゴンくんよ。こっちが自己紹介したんだから、今度はお前さんが名乗るのが礼儀じゃないかい?」
『ドラゴン?』
その言葉を聞いた途端、頭がズキリと痛んだ。
そうだ。
自分は確か大きなドラゴンになって、散々暴れまわった気がする。
でも、なぜそうなってしまったのだろう。
というか、ドラゴンになる前の自分は何だっただろうか。
様々な光景が頭の中がぐるぐると回るばかりで、何も言葉が出てこない。
やがてファントムは、しびれを切らしたように彼を振り回した。
「おい、どうした。お前のせいでみんな台無しになったんだぞ。周りを見てみろ。クラブラス・ボスも、ダンジョンも、今や瓦礫の山だ。それとも何か。ヤモリの小さなおつむでは考えることもろくにできんのか」
「違う!僕はヤモリじゃなくて……」
そう言って、彼は二つのことに気付いた。
まずは自分が、白いヤモリになってしまっていたこと。
目の前のファントムが大きいのではなく、自分が小さかったのだ。
そして二つ目は、自分の名前が思い出せなくなっていたことだ。
その事実は、ヤモリとなった彼に大きなショックを与えた。
「そんな、僕は、ヤモリじゃなくて、えっと」
「ヤモリじゃなかったら、なんだ」
「…………」
何も答えられず、ヤモリはうなだれた。
その様子を見て、ファントムはため息をつく。
「やれやれ。憎いのを通り越して、哀れみすら覚えるよ。しかし、こっちもあまり余裕がない」
ファントムは、つまんでいたヤモリのしっぽを急に離す。
彼はぽてりと地面に落ち、すぐに寄ってきたクモに糸でぐるぐる巻きにされる。
ヤモリは縛られたまま、ファントムの顔を睨み返した。
「なんのつもりだよ。僕はただのヤモリだぞ」
「開き直るな。なんでもいいから思い出せることを言ってみろ。でないと、クモがお前さんを食いちぎるからな」
ファントムがそういった途端、数百匹はいそうなクモたちが一斉にこちらをにらんだ。
背中に寒気が走り、ヤモリは慌てて思い出せる限りのことを吐き出す。
たぶん、自分はドラゴンになったであろうこと。
その前に、何か黒いどろどろとしたものに飲み込まれたような気がすること。
そのどろどろは、とんでもない力を秘めた何かだったこと。
それを見つけるためにここまできたこと。
誰かを助けようとしていたこと。
他の何にも代えがたい、大切な人がいたこと……。
「じゃあなんだ。お前さんはそいつのために、こんなバカをやらかしたっていうのか」
「た、多分……」
ファントムは軽蔑したように、小さく鼻を鳴らす。
「くだらんな。要はお前さん、功を焦って自分の身に余る力に手を出しちまったってこった」
ファントムに容赦なく切り捨てられ、ヤモリは返す言葉もなく、うなだれる。
その様子を無視して、ファントムは続けた。
「だが分からんな。そんなとんでもない物が、このダンジョンに眠っていたとはね。この俺すらもまったく知らなかったぞ。お前、どこでそんな物があると知った?どうやって手に入れた?」
ヤモリは無言で首を横に振る。
正直に言うと、自分にそのことを教えた人物がいたことは、おぼろげながら覚えている。しかしその人物の名前や、何者であったかは思い出せないのだ。
それに加えて、ファントムというこの男が信用ならなかった。
なぜかは分からないが、彼が自分の敵であるとヤモリは確信していた。
「まあいい。どっちにしろ力は、お前さんの体もろとも、木っ端みじんになっちまったんだ。そういえば、ついさっき連中がでかい角やら目玉やらを拾いに来た気もするが、あれは力の一部を回収していたのかも知らんな」
「連中?」
「そんなことも思い出せんか。王国の奴らだよ。あの小賢しいモーント様の配下だ」
「モーント!?」
その名前に、ヤモリは強い親近感を覚えた。
そうだ。モーント。大切な親友。
ヤモリが急に色めき立ったのを見て、ファントムは口の端を吊り上げる。
「はーん、なるほど。お前モーントの部下だったのか。なら、なおさら都合がいい」
ファントムはそう言うと、細長い指先をヤモリの頭にくっつけ、なにやら呪文を唱えた。
その途端、巻き付いていた糸が黒く変色し、そのままヤモリの体内へ浸透していく。
全身に霜が降りたような寒気を感じ、ヤモリは思わず身を震わせた。
しばらくすると糸は完全に消え、代わりに体表に黒い星型の模様が現れた。
「な、なにをした」
「ちょっとしたおまじないさ。お前さんには、これからちょいとキツい仕事をやってもらわないといけない」
「冗談じゃないぞ。誰がお前なんかのために」
「言っておくが、選択権はない。お前さんの体には、俺の体から作り出した『バグの星』を埋め込んだ。つまりお前さんは今、俺の一部になったとも言えるってわけだ」
「そんなバカな……」
「いいから、さっさと行ってこい」
ファントムがそう言って自身の足元(?)にある小さな穴を指さすと、ヤモリの体はその穴に向かって勝手に歩き出した。
「なんだよこれ!?」
「説明は道中でしてやる。まあ、せいぜい食われないよう気を付けるこったな。あばよ」
ヤモリは反論する間も与えられず、暗い穴の中を潜って行くしかなかった。
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