第1章ー5 人の悪口を言ってはいけない

 ドスンという音とともに、彼は背中と尻に鈍い痛みを感じた。

『しまった。ここはどこだ』

体にまとわりついていた、虫が這うような感覚はすでにない。

周囲に手を伸ばしながら、恐る恐る瞼を開く。

目に映ったのは、白く清潔なよく見知った床だった。

すると、背後で誰かがカーテンを勢いよくあけ放つ。

「お目覚めかな、お兄さんよ」

背中越しに、少ししゃがれた声が聞こえる。

痛む腰をさすりながら、『少年』はゆるゆると起き上がった。

少年は今、自分が『アムレット』ではなくなっているのを思い出す。

そしてここが、自分の通う中学校の保健室であることも。

「いい加減起きてもらわないと困ると思っていたところだ。ええと、ヤモリ君」

「……金森です。」

金森が顔を上げると、声の主はどうでもよさげに片眉を吊り上げた。

保険医の逸見だ。正直、金森はこの男があまり好きではない。

保険医というのは優しい雰囲気の女性というのがよくあるイメージだろう。

しかしこの男はそんな常識とは正反対に、ひどく冷たい印象を受ける。

背が高くやせぎすで常に猫背気味、その上目つきが悪く、口はさらに輪をかけて悪い。

金森だけでなく、この学校で逸見にいい印象を抱く生徒は少なかった。

逸見は骨ばった手を金森の方へぬぅと伸ばし、額に触れた。

そのあまり体温のなさに、思わず身震いをする。

「熱はないみたいだな。頭痛が続くようなら痛み止めぐらいは出してやるが、今はとりあえず教室に帰れ」

「いやでも、まだ腰が痛くて」

「はー、さっきのでか」

逸見は見下したように一睨みすると、薬箱をごそごそと漁り、湿布薬を取り出す。

「貼ってやるからケツ出せ、オラ」

「い、いいです。自分でやりますっ」

慌てて逸見から湿布薬をひったくる。

この男の前で尻を出すなんて冗談じゃない。

金森はため息をつき、仕方なく保健室から出ようとした。

しかし、湿布薬をしまおうと何気なくポケットに手を突っ込み、はたと気づく。

『あれ』がない。

慌ててベッドへ戻り、布団をはいだり、床に這いつくばって探し始める。

「おい、何してんだよ」

「あ、あの先生。ここらへんでチケ……これくらいの紙切れ、見ませんでしたか」

金森は手で10センチ四方の四角形を作って見せる。

逸見はそれを見て、胡散臭そうに顔をしかめた。

「知らんね。ラブレターかいな」

「違います!すいません、ちょっと探させて」

そう言いかけた瞬間、スピーカーから無情にもチャイムが鳴り響いた。

「悪いが時間切れだ。もしそれらしいものが見つかればとっておいてやるから、さっさと帰りなさい」

「で、でも」

「けーれ」

逸見は心底面倒くさそうにこちらを睨む。

金森も負けじと睨み返そうとするが、相手の眼光に2秒で負けて目線をそらした。

『なんだよ、お前なんか『王国』じゃスケルトンがせいぜいだ』

心の中での悪態をつきながら、保健室を出るのが精いっぱいだった。

教室の前まで来た金森は、扉の取っ手に手を掛けたまま立ち止まる。

中から女子たちが大声で話しているのが聞こえたせいだ。

「だからさー、メガポンっていうのはジジモリの新しいあだ名なわけよ」

ジジモリ、というのが自分が陰で呼ばれているあだ名である。

金森は生まれつき体の色素が少ない。

いわゆるアルビノというやつだ。

しかし肌や髪はアニメや映画に出てくるような純白ではなく、少し黄色味がかっている。

それに咥えて極度の弱視でもあるため、特殊なメガネをかけている。

普通程度の視力まで矯正できてはおらず、文字などを読む際にはものを近づけてみるくせがあった。

加えて運動神経も悪く、スポーツはおろか鬼ごっこをすることもままならない。

そうした姿が同級生には老人のように見えるらしく、「ジジイの金森」縮めて「ジジモリ」と呼ばれていた。

「ジジモリって言うと先生に睨まれんじゃん。なんか金森のことだって感づかれてるっぽいし。差別はダメーって」

「それはいいけど、メガポンって何よ」

「いやさ、あいつのメガネ耳にひっかけるところがゴムになってるんだよ。それがなんでかなー、って思ってたら、松田が教えてくれたんだよね」

「松田って、隣のクラスの?」

「うん。あいつ山越と仲いいのね。あの柔道部のでっかいの。で、松田と山越が並んで廊下歩いてたら、向こうから金森が来てさ……」

これ以上聞きたくない。

踵を返して保健室に戻るなり、どこか別の場所へ行ってしまえばいい。

しかし彼の意思に反して、その足は微動だにしない。

「他の奴ならさ、山越の顔見ただけで逃げていくじゃん。でもあいつったら、近くに来るまで全然気付かなかったんだって」

「あー、次が予想できる」

「そ、正面から山越にぶつかっちゃったんだよ。フフッ」

女子の声が半笑いになる。

「そこで普通謝ればいいのに、逃げようとしたんだって。だから山越のやつ切れてさ、『おー、おまえ何逃げようとしとんのや』って」

「あはあ、似てる似てる」

「金森のやつめっちゃ半泣きになってさ。で、山越はちょっと肩押してやろうとしたらしいの。でもあいつ間が悪いからさ、その時になって急に謝ろうとしたのよ。で、頭下げたところに、ちょうど、山越の手が、クリーンヒット、してえ」

周りにいた女子たちが笑いながら足をばたつかせる音が聞こえる。

話し手の女生徒自身も、話しながらも笑いがこらえられないのか、しゃべるのが辛そうだ。

「あ、あいつの、メガネが、ほんときれいな山なりに、ポーンって、ポーンって……」

ギャハハハハハハハ、と女子たちが一斉に笑い出す。

金森はそれを、ただ聞きながら立ち尽くしていた。

当人が廊下で立ち聞きしていることを知りもせず、女生徒は話を続ける。

「いやー、ウケるわ。にしても、そんなんで山越が許してくれたん?だって偶然じゃん」

「それがさ、ちょうどその時あいつが来たのよ。ほら、例のお友達」

「ああ、また朝霧に助けられたんだ」

一人が呆れたようにつぶやいた。

「ほんといつもじゃん。給食のシチューぶちまけた時も、宿題忘れた時も。『大丈夫だよ、俺がついてるぜ』みたいな」

「朝霧も特殊だよねー。ショーガイシャ助けてポイント稼ぎかよっつーの」

「つーかさ、つーかさ、あいつら……ぶっちゃけ、デキてんじゃね?」

女子の一人がそう発言した瞬間、しんと空気が静まり返る。

金森も息をのんだ。

こいつら、言うに事欠いてなんてことを。

「え、ちょっと。マジ?マジ?」

「ねえねえ、アキラくん。ここ、分かんないんだけどぉ」

「いいぜ、教えてやんよ。その代わり、後でおまえと……」

『ひーーーー!!』

女子が全員一斉に悲鳴を上げる。

顔が熱い。きっと耳まで真っ赤になっているに違いない。

今扉を開けて中に入ろうものなら、彼女らは自分を指さして更に爆笑することだろう。

とはいえ、予鈴が鳴ってからもうかなり経っている。

今この場を立ち去ろうとしても、教師と廊下で鉢合わせしてしまうかもしれない。

金森が考えあぐねていると、ふいに誰かに肩を叩かれた。

思わず体がびくりと動く。

 「おい、大丈夫か?」

肩越しに聞き覚えのある声が聞こえ、井森は緊張しきった体から力が抜けるのを感じた。

「……アキラ」

「ちょっと顔が赤いな。熱があるんなら、保健室に戻る?」

振り向くと、自分の唯一の友人が心配そうな顔をして立っていた。

精悍な顔立ちに涼し気な目元、艶のある黒髪。

その姿は『王国』の宰相、モーントをそのまま少し幼くしたような佇まいだった。

ただ、着ているのはいつもグレーの学校指定ジャージだ。

「だ、大丈夫だよ。それに保健室は追い出されちゃったし」

「ああ、逸見の奴に何か言われたんだな。あいつが来てからやりにくくなった」

アキラが来てくれたのならまだ心強い。

今の状況下で一人涼しい顔をして中に入れるほど、金森は心が頑丈にできていない。

話しながらそっとアキラの背後に回り、教室内に入る。

自分の席に向かう途中、噂をしていたらしい女子のグループから冷ややかな視線を送られた気がした。

耐え切れず目を伏せると、アキラもそれに気づいたらしく、逆に女子たちを少し睨み返す。その眼光にぎょっとしたのか、女子たちはごまかすように目線を外した。

金森の席は、教室の一番前の真ん中と決まっている。

その席でないと、黒板が見えないからだ。

日光のまぶしさで字が見えなくならないよう、カーテンも閉じられている。

こうした配慮はありがたいことだが、同時にクラスメイト達への負担にもなっていることを、金森はなんとなく感じ取っている。

悪口を言う彼らに強く言い返せないのも、そうした後ろめたさがどこかにあるせいだった。自分の席に着くと、アキラはその隣に座った。

授業中も、彼には散々助けられている。

ノートを代わりに取ってくれたり、黒板の字が小さいと教師に注意したり。

それが彼の悪目立ちに拍車をかけていることを、金森はとても申し訳ないと思っていた。

「……もしあいつらに何かされたらちゃんと言えよ、マル」

「……大丈夫だよ」

『マル』というはアキラが金森につけたあだ名だ。

不本意に付けられた『ジジモリ』や『メガポン』よりも、ずっと気に入っている。

その時ちょうど始業のチャイムが鳴り、担任の新谷が入ってきた。

30代そこそこの、はつらつとした雰囲気の男だ。

しかしその頼もし気な風貌とは違い、実際には生徒たちからあまり信用されていない。

まず、授業が他の科目と比べて進度が遅れがちなのだ。理由は簡単である。

「よし、じゃあまず教科書の35ページを開いて……」

「先生、前回のプリントの答え合わせがまだです」

学級委員長の水出(みいず)が手を挙げて指摘する。

新谷は「ありゃ」と頭に手をやって書類を探り始めた。

自分で用意したもののはずなのに、えらく手間取っている。

彼の授業は基本的にいつもこんな感じだった。

段取りが悪く、重要なところを忘れがちで、しかも周囲に乗せられやすい。

今回もなんとか答え合わせを済ませ、授業を再開したかと思えば、ものの20分もしないうちに話が脱線していた。

「へー、じゃあ先生のころは『がっこうさん』っていなかったの?」

「そうだなあ、『るりこさん』っていうのはいたけどねえ」

「『るりこさん』ってなに?」

「そうか、今の子は知らないのか。昔自殺した先生の幽霊だよ。夕方に三階の理科室の前あたりを一人で歩いていると、突然窓から顔を出すんだ。『こっちへおいで』ってね」

「それって『ゆりこさん』のこと?」

「ああ、そうとも言うんだっけか。先生の時は『るりこさん』だったなあ」

なんで社会科の授業が、学校の怪談の話になるんだ。

クラスメイト達に乗せられるままに無駄話をする新谷を見て、金森は小さく鼻を鳴らす。どうしてこんな男が担任になれたのか、本当に不思議だ。

もともとこのクラスは、別の教師が担任をするはずだったらしい。

しかし金森たちが2年に上がる直前に、大けがをして入院してしまったのである。

そのため本来なら副担任の新谷が、急きょ担任を任されることになったのだ。

だが正直言って、この教師が金森は信用ならなかった。

全く威厳がないし、特定の生徒ばかりひいきするし、なによりいじめを平気で看過する。実際、さきほどのような悪口を言われたことも、何度か相談している。

しかし返答はいつだって「言っておくよ」「注意しよう」という口先ばかりのもので、今だって例の女子生徒たちと談笑している最中だ。

なので、金森は彼の授業は最初から聞かないことにしていた。

ノートに黒板の内容を(といってもほとんど何も書かれていないが)書き写すようなふりをして別のことを書く。そして新谷から気づかれないよう、そっとアキラへ見せた。

『さっき、王国で変なことがあった』

アキラはメッセージを読み取ると、自分のノートに返事を書き、こちらに見せてくる。

『どんな?』

『じっせキングのステータスを調べてたら文章がだんだん変になって、最後の方で文字が虫に変わった。その虫に襲われて、目が覚めた』

アキラは眉間にしわを寄せる。

『そうか。実はほかでも似たようなことが起きてる』

ほかでも、という一文に金森は驚いた。

『どんなことが?』

『大体は小さなことだ。モンスターが変な動きをしたり、壁に奇妙な落書きがあったり。でも、実際に襲われたのはマルが初めて』

例のステータス画面の文面を思い出す。

あれはどう見ても、誰かが意図的に行っていた。

そのことを伝えると、アキラも険しい表情でうなずく。

『オレもそう思う。もしよければ、今夜あたり詳しく調査してみないか』

金森は大きくうなずきかけて、ハッとする。

そういえば、『アレ』を失くしたことを伝えていなかった。

慌ててノートに書きなぐる。

『ごめん、チケットを失くした』

ノートを見た途端、アキラは目を見開く。

『保健室?』

『うん』

『探した?』

『探したかったけど、逸見が許してくれなかった』

アキラは無言になり、右側のこめかみに親指を当てる。

何か考えごとをしているとき、この仕草をするのがアキラのくせである。

しばらくして、アキラはノートに一言書き加えた。

『分かった。あとで図書室へ』

「図書室」というキーワードに、金森は少しどきりとした。

てっきり、後で一緒に保健室へ探しに行くものと思っていたのだ。

心配そうにアキラの顔を見返すが、本人は今答える必要はない、という風に前を向いている。

こういう時、友達ならどう反応すべきか。

金森はその正解が分からず、結局聞き返すことはできなかった。

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