憂鬱な日々をただ浸され

 ジオゴ・ゼルファスは憂鬱であった。

 頭を抱えさせられる日々である。抜け毛が酷くなっている気すらしてきている。

 胃こそ随分と効く薬を貰っている為か、キリキリ痛む事はない。それが逆に腹立たしくもあるのだが、そんなもの気にしてはいられない。

 彼の主人であるフルエ・フェベレルはこの街の領主という事もあり、多忙だ。

 故に些事で煩わせる訳にはいかない……いや、わざわざ知らせる訳には行かないのだ。


「はぁ、クソ……どれも実に下らなく、頭が悪い」


 実に性質タチが悪い。

 溜息程度で済むのならばそれでいいのだ。

 だが、実に悩ましいものだ。


「野放しにするよりは、と彼女を引き入れたのは俺だが……なんという事だ。厄介過ぎるだろ……」


 過去の報告を思い出し自室で上を見上げる。

 ジオゴはフルエに仕えているが、冒険者だった頃の家で一人暮らしをしている。

 護衛というわけでもないので四六時中側にいるわけではない。

 どちらかというとフルエの為に情報を仕入れたり、時折頼まれる依頼をしている。


「正直、ちょうどよかったってのもあるんだがなぁ」


 ジオゴ自身、もう少し楽に動ける立場を欲しがっていたし、常々フルエには護衛が必要だと思っていたのだ。彼女を信頼する事は難しくとも、信用はできるはずだ。

 だが、彼女の悪ふざけは心労に対して少々ダメージが大き過ぎる。

 大事になる程ではないのがまた絶妙にいやらしい線引きがされているのだ。

 ジオゴとしてはもう、笑う他ない。

 しかし、1番の被害者は彼ではなく別の人だ。本日はその人の部下の1人と約束があり、現在は自宅にてその者の到着を待っていた。


「そろそろ着く頃か……?」


 彼からいろいろと愚痴を聞かされそうだな、と仕方がなさそうな苦笑とともに溜息をついた。



「「乾杯!」」


 コップとコップのぶつかり合う音を鳴らし、2人の酒を一口。

 ゴクリと喉を通り、共にプハーと息を吐き出す。


「んで、最近どうなんだ、ミラル?」


 つまみを手にしジオゴはそう問い掛ける。

 ミラルと呼ばれたその男。

 彼はフェベレルの街の門番を勤める衛兵であり、その衛兵隊達の副隊長である。

 あのエルク・ドロットに次ぐナンバー2である。見た目通り爽やかであり、穏やかな性格をしている。

 ミラル・テンパイはジオゴと親しく、時折こうして飲む仲である。

 そんな普段は穏やかな彼だが、少々疲れの滲む表情で憤りをチラつかせる。


「どうもこうもないよ」

「どうしたんだ? 平和な日々じゃないか」


 含みのある笑みを浮かべるジオゴにミラルは思わず睨む。元凶ともいえる相手に穏やかな対応ができるほど人間ができてはいない。


「いい加減アレの手綱を握ってくれないかな!? あれじゃ隊長が死んじゃうよ。ただでさえ最近、妙に綺麗な人が来てるってのに……」

「握れると思うか? こっちも被害者が出ているんだ。なんとかそっちで止められないのか?」

「……そうだよね。でも、アレは止められないよ。この前の総力戦でも無理だったし……」


 少し物騒な発言が出てきてジオゴはどういうことかと首を傾げる。

 桃色の雷はたくさん落ちてはいるが、一応は平穏と言えるのだ。


「総力戦って、いったい何があったんだ?」

「ん? ああ、うちの隊全員でエルク隊長の防衛戦で挑んだ時の事だよ。失敗したけどね。ほんとにあの人、ポイナさんてどうなってんの?」

「はっはっはっ、いや、俺もポイナの事はよく知らんけどお前ら面白いことしてんなぁ」

「こっちは笑い事じゃないよ!」

「お前らマジでエルクを慕いまくってるよな。詳しく聴かせてくれよ、その総力戦とやら」


 笑い飛ばすジオゴだがポイナの情報をなにか得られる1つの機会でもあるだろう。

 謎に包まれた少女を少しでも御したいところだ、と願う。

 ミラルは遠い目をしながらその総力戦のことを思い出していた。


「アレはそう、今日みたいに良く晴れた日の事だった——」

「お前も好きだなぁ、そういうの……」


 気分は大事である。



 良く晴れたその日の事件はとある1通の手紙予告状から始まった。

 門番達が普段の書類仕事を行う部屋にて1人の野太い男の声が響いた事から本日は厄日だと嘆いた人間も少なくはない。

 ミラルはこれは無視できないと冷や汗を流しながら声の発生源へと駆け寄り声を掛ける。

 野太い声の主、つまりはエルク・ドロットその人だ。


「どうしたんですか、隊長。そんな涙を流して」

「……ああ、ミラル。見てくれ、つい今しがた俺の机にあった手紙だ」

「……あ〜、はい。なるほど…………失礼ながら少し手紙をお借りしても? すぐ返しますから」

「す、すぐ頼むぞ?」

「では」


 そう踵を返すとミラルは部屋を出る為の経路をとった。

 同じ部屋にいた部下達に聞こえる声量で言う。


「まったく嫌な仕事だな。緊急会議を行う、急げ!」

「「「ハッ!」」」


 部屋を出ながらミラルは頭を素早く働かせる。こんな朝っぱらから嫌でも目の覚める出来事が起きるとは感謝していいか恨めばいいのかわからない。

 手紙にもう一度視線を落とし、重い息を吐き出す。

 つまり隊長のあの声は、あの涙は忌々しい事に感涙だったと言うわけだ。アレは危うかった。致命傷に近いと言うほかなかっただろう。

 ミラルはとある会議室に足を踏み入れ皆が集まった事を確認し、1つ頷く。

 皆が真剣な眼差しだ。多くのものが集まっているにもかかわらずその静けさを保てるのはその緊迫した状況を理解しているからだろう。


「みんな、こんな朝早くから申し訳ない。しかし、予告状が届いてしまったッ!!」

『——ッ!!!!』


 緊急感が高まり全員の息を呑む音が聞こえてきそうなその面持ち。

 ミラルは皆に見えるように予告状を開きその内容を見せた。



《エルク隊長さんへ


 今日は以前より約束していたお弁当をお届けしようと思います。

 腹を空かせて待っててくださいね。


                貴方の大好きなポイナより♡》



 その手紙は会議室を震撼させた。

 ミラルはバンッと机を叩き皆の視線を集める。


「いいか。見て分かる通り犯人の目的は明確だ! ターゲットはエルク隊長ただ1人!」

『ッ!』

「犯人の思惑により、隊長の行動は制限されてしまった。この意味がわかるな? はいそこ、ブライトくん!」

「ハッ! つまり、本日のエルク隊長のお昼はお弁当が決定致しました!」

「その通りだ。それと同時に時間もまた明確に絞られる事になる。正午だ。つまり昼食、昼の鐘が鳴り響く頃だ! これは決戦のゴングに他ならない!」


 全員が唇を、拳を強く固く握り締め士気を高くしていく。その熱気が会議室を呑み込んでいる。ミラルはその熱に比例するようにさらに熱く捲し立てていく。


「いいか、彼女は我々を舐めている! ここまでハッキリと喧嘩を売って見せたのだ!! 彼女は正面切って突き進んでくるはずだ。彼女は『多勢に無勢? もう一度言ってくれませんか?』と我々を嗤っているんだ!」

「し、しかし副隊長!」

「わかっている。皆まで言うなヤイバン! 此度の敵は外からではない。内側からだ。つまり我々は門の兵を多少なりとも残さなければならない、だからここは限界まで絞らせてもらう。隊長の命の為にッ!!」

『隊長の命の為にッ!!』

「敵は狡猾だ、絶対に侮るなよ!」

『ハッ!!!!』


 そこから作戦は緻密に練られることとなった。

 手紙はミラルがちゃんとニヤついているエルクに返し時を待つ事となった。

 そして、決戦の時が刻一刻と近づいていく。

 ミラルが指揮を取り部隊の後方で遠くを見つめていた。


「来たか……」


 見間違えようもない。

 あの派手で毒々しい人はこの街に彼女を除いて二人といない。


「まったく……君達も懲りないよねっ」

「こちらのセリフだ! 純情な隊長を弄ぶな!」

「私もピュアッピュアだよ?」

「濁りようもない程にな!」

「……ふぅ、やれやれ、そろそろ無駄な足掻きはやめて私の玩具モノに合わせて欲しいんだけどなぁ」

「笑止千万! もはや返す言葉もない! 全軍突撃ーーッ!!」

『オオォォーーーーッ!!』


 舌戦も程々に戦いの火蓋が切られた。

 さて、これ程の騒ぎを起こしていてエルクは気付かないのだろうか? 近隣住民に迷惑ではないのか? そういった疑問もあるだろう。しかし、住民にとってこれは日常茶飯事であり、もはや娯楽の1つとなっている。なんなら迷惑と言うのならエルクの落雷を上回るものはそうそうない。

 そして、当のエルクはポイナの弁当が楽しみすぎて自分の机に座り、貧乏揺すりが止まらない状態である。

 時期に騒ぎに気付き外に出てくる事だろう。

 双方気付いている。

 それがタイムリミットである、と。

 弁当の入ったバスケットを片手にメイド服をはためかせて己へと襲い掛からんとする軍団へと一歩前進するポイナ。

 不敵な笑みを携えて我こそは正義だと胸を張る。


「私のお弁当を心待ちにしている人がいるんだよ? それを邪魔するなんて隊長さんに空腹でいろって事なのかな?」


 悪い事などないはずだと嗤うポイナ。

 普通に考えれば彼女はなんらおかしな事はしていない。何も知らなければいじらしいとも言えるだろう。

 嗚呼、無知とは如何に愚かなのか……。

 そう嘆かずにいられないのがミラル達である。彼らは彼女と出会ったその日に否応なく理解させられたのだ。学ばずにはいられなかったのだ。

 ミラルは表情を厳しくし睨み返す。

 彼らは既に先手を取られてしまったのだ。


「この際、弁当を渡されるのはやむを得ない。エルク隊長に弁当の存在を知られているからね。そこでどうだろう、私が代わりに届けてあげよう。余計な面倒を乗り越えずに済むよ?」


 ミラルの提案に鼻で笑って見せたポイナ。

 己の手で渡されて初めて彼女の目的は達成されるのだ。

 彼女の返事はなかった。

 いや、返事は態度で返したと言うべきか。彼女の姿が消えた。

 その瞬間、部隊の一部から上がる悲鳴。

 部下が1人昏倒する。

 つまりは否定。


「もはや手段は選んでられない。敵は動いたぞ、ボケッとするな!」

『ハッ!』

「無駄な結束力だよね!」

「ぐはぁぁっ!!」

「ブライトォォーーーー!!」


 腹を殴られまた1人地に倒れてしまった。

 周りはポイナを囲みなんとか捕らえようとするが彼女に指一本触れる事ができずにヒラリと避けられる。酷ければ手痛い反撃にあってしまう。


「乙女を襲うなんていけない事だと思うよっ、と!」

「知ったことか! ええい、ちょこまかと!! ぶへっ!?」

「ヤイバァァーーーーンッ!!」


 背後から取っ捕まえようとした男が振り向き様のポイナに足の裏で迎撃される。

 吹っ飛ぶ男を視線誘導に使い、彼女は再び軍隊に紛れ込み姿を消す。

 彼女の姿は敵ながら美しいとすら思える程に洗練されたものだった。

 次々と悲鳴が近づいていく中でミラルは悔しながらもそう思った。

 気が付けば後方にいたミラルの背後に彼女背中合わせで立っていた。

 ミラルは静かに天を仰ぐ。


「そっか、私の負け、なんだね……」

「ふふん、ミラルさんったら最期だけは潔いんだからっ!」


 膝を折り、地に伏す。

 その瞬間、彼らは敗北の味を噛み締めていた。

 そして、ついにタイムリミットは訪れた。


「お前ら、なんの騒ぎだ?」

『エルク隊長ッ!! お逃げください!!』


 死屍累々の状況を目の当たりにしても、その悲痛な声を耳にしても尚、エルクは特に気にしなかった。


「あっ、隊長さんっ!」


 目の前に顔を綻ばせ、バスケットを片手に駆け寄ってくるポイナを目の当たりにして、まったくノリの良い奴らだ、と隊長として喜びすら感じていた。

 たしかに良い部下なのかも知らないが大いなる勘違いがある事を部下だけは感じ取れた。

 そして、彼らの敗北の証を今まさに目の前で刻まれる事となる。


「隊長さーん!」

「ポイナ殿、本当に来てくれたのだな!」

「楽しみにしていてくれたようですねっ!」


 手を振りながら咲き誇るような笑みを浮かべてエルクに近づいていくポイナ。

 エルクの心はキュンとしてしまったがそれぐらいならば耐えられるようになっていた。

 そう何度も顔を見ただけで魄技は発動されない。精々が3回目あたりが限界だろう。笑顔を見せられればその回数も増えてしまうが、彼は最早その段階は突破したのだ。

 そんな事はポイナもそして、衛兵達も理解している。

 穏やかな笑みでエルクもまたポイナへと近づく。


「わわっ、きゃっ……」

「おっと、大丈夫……かい?」


 地に倒れた衛兵達は何もないところでつまづいたポイナを見て血涙を流した。

 なんというわざとらしさか。特攻かましている時はあんなに軽やかだったというのに……っ!

 ポイナはつんのめるようにエルクの胸元へと飛び込み、エルクはそれを受け止めた。

 手を胸へと触れて上目遣いでエルクを見やる。


「あ、えっと……ありがとう、ございます……」


 ポッと頬をほんのりと赤く染めてお礼を言う。なんともあざとい仕草をしてのける。オッドアイの瞳がエルクを見つめた。


「ああ、大した事はないよ。怪我がないようでよかった」

「はい! これ、約束していたお弁当ですっ!」

「ああ、ありがとう……」


 思いの外、平気そうなエルク。衛兵達はポイナの襲撃が失敗した事に色めき立つ。

 バスケットを手渡しポイナは振り返り、一歩踏み出した。

 彼女は自信に満ち溢れた表情をしていた。


「……どういう事、だ?」


 ミラルは失敗したのではないのか、と疑問を浮かべた、そして気が付いた。

 空が暗い事に。


「天才ちゃんな私に失敗はないよ、ミラルさん?」


 すれ違い様のポイナの声を聞いたと同時に初対面のあの日を超えるだろうピンクの落雷がエルクへと落ちた。


 ——ただの天使じゃないか!!!!


 轟音に負けない叫びが木霊した。


『隊長ォォーーーーッ!!!!』


 ポイナの連勝は止まらない。

 ちなみにお弁当はすごく美味しかったらしい。



「もう、もうやめてくれ。ヒィ〜息が苦しい……」


 ジオゴは腹を押さえて笑い疲れたとミラルの方をバンバンと叩く。

 その様子を見ながらミラルはやはり思う。


「あの人本当に何者なの? 何が驚きってあのお弁当が一切崩れてなかった事なんだよ」

「そうか、お前らそこまで歯が立たなかったのか」

「私達も日々精進しないとだけど、あれは規格外の代物だよ。本当に領主の所に引き入れて良かったの?」


 その指摘にジオゴは痛い所を突かれたと顔を顰める。

 酒を煽り答える。


「扱いには困ってるが悪い奴ではねぇ。一応、色々考慮して俺の部下を監視に付けてる」

「…………」

「……なんだよ」

「ああ、いや。意味はあるのかな、って」


 ジオゴは確かにな、と笑う。


「そもそもポイナさんはどこで暮らしてるの?」

「メイド達と共に住み込みだな」

「だから本当に大丈夫なの、それ?」

「事件はいろいろあったが今は問題なし、だと思う」

「……何があったか聞かせてもらえるかな?」


 ミラルは自分と同じ匂いを嗅ぎ取った。いわゆる苦労人のそれだ。なんだかとてもアホらしい事件の匂いがしている。


「そうだな聞いてくれ……」



 ポイナがフルエ・フェベレルに雇われたのは護衛兼側仕えとしてである。

 名目上は住み込みの一般メイドと同じような扱いではあるが、なるべく主人の近くに置きたい存在だ。

 しかし、その戦闘力をひけらかせば他の貴族に余計な勘繰りもされよう。

 故に彼女の扱いはその厄介さも含めて所謂ジョーカーの役割を担ってもらう必要がある。

 そして、中身を除けば彼女は非常に整った容姿をしていた。これは極めて遺憾な事であり、とても認め難く、覆りようのない事実であるとジオゴは頭を抱えた。

 とはいえ主人の側に置く人材としてはこれ以上なく適任だ。

 見た目だけではなく侍女としての能力もまた嫌味のように高かった。もはや文句を言う隙すら与えられていない。

 貴族としても彼女はステータスに十分なり得るものだ。

 なので雇われて即戦力だった彼女がフルエの側に侍らせるのには苦労はなかった。

 だが、それに良い顔をしなかったのはメイド長以外のメイド達だ。メイド長は事情を知っているのである程度寛容なのだ。

 主人の推薦とはいえ、お手付きですらない新人がその役目を担うのだから当然だ。そもそも主人はメイドに手を出すような人ではない。

 よってメイド達とポイナの間に隔たりができてしまうのは致し方がない事であろう。

 少なくともジオゴや彼からポイナの監視を任された彼らはそう思っていた。


「なんというか……飽きないよな」

「監視のことか? まあ、そうだな」

「もう、仲良くなってら。一体何したんだ」


 屋敷内での監視を行なっている男3人組はそう口々に言っていた。

 大体の監視対象はある程度の期間が過ぎれば監視し慣れてしまうものだ。

 日常の行動がパターン化されてしまうので当然と言えよう。

 それが屋敷内か外壁の門という限られた行動範囲ともなれば尚更のこと。

 だが、ポイナは自由に行動するあまり未だパターン化されていない。少なくともパターン化されるまではもう少し時間が掛かるだろう。

 しかし、それを差し引いてもまったく飽きが来ないのはポイナがエンターテイナーを自称するだけの事はあるという事なのだろう。


「何したってそりゃ……単純な事ばかりだよなぁ」

「ああいうのを世渡り上手って言うんだろうな」

「でもよ、納得出来ねぇよ。距離を縮めるったって早すぎるだろ」


 現在、こっそりと監視している彼らだが改めて現在メイド達と仲良く談笑しているポイナを見てそう口にする。

 しかし、彼女がそこまで仲良くなるまでには決して平坦な道のりではなかったのだ。ただ、早過ぎると思うのだ。

 最初の挨拶から皆の前でよろしくなどと呼びかけた時に冷たい視線が注がれたのは自他共に承知しているはずなのだ。

 それでお互い仲良くしようと思うのだろうか?

 冷たくした負い目や、冷たくされた恨みが少なくとも少しは残るのではないか?

 少なくとも一月程で改善されるような状況ではなかった筈だ。

 しかし、彼女は思っていた以上に優秀だったのだろう。

 いつも笑顔を振り撒き、仕事をこなし、他のメイドを気遣い、手伝い、教えを乞うたり、時には隙を見てからかったり、かと思えば美味しいお菓子を振る舞いもした。

 メイド達は天真爛漫に、そして、意地悪く揶揄うように笑うポイナに対して次第に敵愾心を保てなくなっていたのだ。

 ポイナは、彼女は敵と味方の作り方が上手いのだ。


「納得出来ねぇけど、理解はできる。俺にゃ無理だなぁ」

「今更だろ。それよりも監視を続けるぞ」

「この時間、て事は……お前も懲りないよな。あんなのがどこが良いんだ? 見た目はいいが貧相じゃないか」


 そろそろ就寝時間が近づいている。

 彼らは監視をずっと続けている。それもずっとである。だが、未だに下着姿すら捉える事が出来ずにいる。

 彼らの反応はまさに三者三様であった。


「なぁ、それ俺を巻き込んで欲しくねぇんだが……。てか、警戒というよりはこっちの事を完全に感づいてるだろ」


 警戒を露わにし、痛い目に会いたくない者。ダル・ドロイム。


「いや、この際バレていようがいまいがどっちでもいい! 彼女を覗いてこそ男の挑戦を完遂できたと言えるのではないのか? なによりこの屋敷のメイド達を覗いてきたプライドがあるんだ。彼女もコレクションに加えない手はないだろうが!」


 己の収集癖を拗らせ、女の敵と成り果てた者。チェウ・グエル。


「俺はどっちでもいいけどよ。絶対見応えないって。顔隠したら男を覗いてるようなもんだろ」


 対象に不満を口にし、女性に喧嘩すら売ってのける者。ラダー・カシヤ。


「いや、それは言い過ぎじゃねぇか? 割と平均的だと思うが……」

「ああ、こいつは要求の高い変態なんだよ」

「この屋敷で好き放題覗いてる人に言われたくないな」


 そんな事を言いながらも監視は続き、そして対象は己に分け与えられた部屋へと到着した。

 部屋へと入室した時点で彼らは屋敷内で張り巡らされた隠しルートを駆使し、部屋を俯瞰して見れる位置へと移動を開始する。

 いつもならばその位置に着いた時には既に寝間着へと着替えを済ませたポイナがいるのだ。

 しかし、今回は事前に二手に分かれたのだ。

 痛い目に会いたくないダルは1人ポイナを入室する瞬間までは監視に残っていた。

 そして彼は移動をし2人が待つ場所へと到着する。


「お前ら、見れたのか?」

「いや、まだだ」

「珍しく考え事をしてるよ。似合わないな」

「お前とことん喧嘩売るなぁ」


 そこで彼も部屋を覗き見る。

 そこには確かにベッドに腰掛け何やら考え事をしているポイナがいる。

 そしておもむろに彼女はこう呟いた。


「うん、もういいかな?」


 何が良いのだろうか?

 そんな疑問を余所にポイナは着替えを始めた。

 スカートに手を掛けるポイナを成り行き上、視界に収めつつダルの思考は警鐘を鳴らすようにこれ以上ないくらいに思考を巡らした。それは当然の疑問から始まった。

 曰く——


 ——都合が良すぎやしないか?


 と。

 ダルは冷や汗を流し、もはやポイナの事など気にしている場合ではないのではないか。そう叫びたいが身体が言う事を聞いてくれない。息が荒くなっていく。力が入らない。思考はハッキリとしているのに……そこまで考えてダルは気付いた。

 罠である、と。

 もはや後戻りができない所まで来たと気付いたダルの傍らで小さく歓声を上げる器用なチェウと冷笑を浮かべて鼻で笑う失礼なラダーがいた。

 ポイナは下着姿であった。


「たまにはサービスシーンは必要だよね?」


 ポイナのその声は彼らの意識を現実へと引き戻した。

 彼女は妖しい笑みを携え天井を見上げている。ある一点を見つめている。

 手に紫色の液体を出現させて投擲。

 そこからは1人だけ落ちてきた。


「…………っ」


 身体は相変わらず動かず声すら出ない。

 やはりバレていたか、とガチガチとなる歯を食いしばるのみ。何故か震えが止まらないのだ。


「うん、ダルさんは真面目さんでいい人。ここは避難させて……」


 さて、とポイナは再び上を見つめる。


「チェウさんは女の敵さんなので貴方の大事なモノは奪わせてもらいました。違和感はございませんか?」

「え、あ、はぁ?」


 状況の変化に思考が追いつかない中、チェウはそれでも生存本能に突き動かされるように無理矢理にでも考える。

 何を奪われたのか……。


「——ま、まさか!?」


 チェウは本能的に、どことなく男として損なわれてはならない何かを奪われた気がした。

 手は自然と股間へと引き寄せられていく。

 問題なくある。

 だが、なんだろうか。

 直感的に彼は2度と立ち上がれないような気がしていた。


「う、そだろ……」


 そんな茫然自失となってしまったチェウの隣で息を荒げているのはラダーだ。


「ラダーさんは少し病気だったから矯正が必要だよねっ。もう少し煩悩に素直になりましょうっ!」


 怒っていた。ラダーに対してポイナは物凄く怒っていた。

 特に鼻で笑われた時が1番頭にきた。

 ラダーは己の身体に起こった異常事態に混乱が収まらない。

 しかし、己の手は自然とチェウの肩へと伸ばされガシッと掴んだ。

 ようやく我に返ったチェウは振り向きヒッと悲鳴を上げた。


「や、やめろ……! は、離せっ!」

「す、すまないチェウ。だが、なんだか俺、変なんだ」

「やめてくれ……ッ! あ、あ、あ、アッーーーー!!!!」


 その日、チェウは何か大事な物を亡くした。

 喪ったものは2度と取り戻せなかった。

 ラダーもまた、同様であった。

 上から響き渡る、悲鳴? にダルは顔面蒼白だ。

 恐怖に顔が引き攣り、強張り、痙攣している。


「お、俺は、まま、ま、巻き込むなって……。ち、違……と、止めていれば……あ、あぁ……」


 体から喉から震えが止まらない。

 そんなダルの様子を見てポイナはニンマリと微笑む。


「そうだよね。止めていれば良かったんだよね。でも安心して? 私は優しいんだよ?」


 ポイナは震えるダルの頬に手を当てて安心させるように優しく撫でてやる。

 それが尚更にダルの恐怖心を逆撫でする。

 あらら、と困ったような素振りをするポイナ。これでは話にならないと。


「もう、特別だよ? ただでさえサービス中なんだからっ!」

「……な、な、はぁ?」


 下着姿のままであるポイナは目の前でパチリと指を鳴らすとそこからゆらりと煙が上がる。


「《安楽やすらぎの御香》……どう、落ち着いた?」

「……あ、ああ、とり、みだした」

「良かった良かった。一応これも飲んでもらおうかな? 解毒剤みたいなものだから安心してね」


 グッと手を握り、手が脈動する。

 およそ人の手とは思えないその姿にまたしてもダルは混乱しそうになる。その様子に気付いたポイナは事も無げに告げる。


「あれ、言ってなかった? 私、魔粘属ネルゼルだよ?」


 そう言いながら口の中に抵抗する事もできないダルに錠剤の薬を放り込む。

 すると動きに支障をきたしていたダルの身体が少し楽になった。知らぬ間に毒まで盛られていたと言う事だ。

 しかし、彼女の正体を知った今ならば驚きは最小限に抑えられる。

 少なくとも自分の常識で測れる人ではないと言うのは理解させられた。


「……どうする気だ?」


 いろいろ問いたいところではあったが現状があまりにも不利である。警戒心を前面に問い掛ける。

 しかし、ポイナに気にした素振りはなく楽しげに答える。


「ええ、どうもしないよっ。流石においたが過ぎたからお仕置きはしないとでしょ? ほら、私も乙女だからね」


 そう言ったかと思えば再び目を細めて天井の方を見つめる。


「でも、そうだねぇ……。そろそろ終わったかな……」


 独り言のように呟く。ダルは何がとは言わない。自分の、及び馬鹿な友人の精神と名誉の為に……。

 ポイナは親指でコインを弾くように紫のスライム状の液体を飛ばす。天井が溶ける。

 ドタドタッとチェウとラダーの2人が落下した。2人の服装はすごく乱れていた。


「……新しい扉が……開いた気がする……」


 上の空でそう呟くラダー。

 隣にいるチェウの肩がビクッと大きく跳ね上がる。


「その扉、ちゃんと開けさせてあげるよ?」

「遠慮願います……」


 投げ掛けられた言葉にラダーが思わず敬語で返答した。こういうのは無理矢理こじ開けるものではないと実体験として、身を犠牲にした上で思い知った次第だ。二度と御免こうむりたいところだろう。

 その隣で涙を流しているチェウに申し訳なさそうに見つめている。

 その様子をダルは見ていられない状況に陥ってしまった仲間達に天を仰ぎ嘆きたくなった。


「お、俺はぁっ! 全てを、うぅ、うしなったぁ……ぁ、っ!」


 男の慟哭が部屋の中で響き渡る。

 あまりにも惨い。

 目を背けたくなる程だ。

 そんな中、空気を読まずに語り掛ける者が1人。


「そんな全てを失ってしまった貴方に、なんと! ここにどんな男の子でも元気になってしまうお薬が!!」


 ポイナはチェウの目の前で錠剤をチラつかせる。

 彼女は奪っただけであり、それを返す手立てがあると言う。

 チェウの目に光が戻った。

 喪った物は大きかったが、未来は守られたのだ、と。


「お、俺にその薬を……下さいっ!!!!」


 お願いしますと素晴らしい土下座を披露して見せた。

 ポイナはふふん、と得意げに笑みを作ると続ける。


「お薬は安くないんだよ? その分、働いてもらわなきゃダメだよねっ。現在進行形で下着姿を見られている慰謝料も込みで」

「働きます!! なんなりとお申し付けくださいませ!」

「よかろう! 完済したらこの薬をあげよう!」

「そ、そんな!?」

「信用ない人に先払い以外の選択肢はないんだよ? それとチェウ君だけかな、働くのは?」


 ハッとしたチェウである。

 2人に必死の形相でお願いした。


「ぐぅっ、お前ら! 手伝ってもらうからなっ!?」

「「……あ、ああ」」


 もとより2人に拒否権はなかった。

 1人は恐怖により、もう1人は罪悪感も込みだろうか。

 随分と高くついてしまったとダルは頭を抱えたい気持ちである。

 ポイナは3人を見下ろし得意げに胸を張る。


「ふふん、いいしもべが手に入ったんだぜ!」


 本当に高くついたものである。



 話は終わった。

 ミラルは頭を抱えている。

 呻くように絞り出した声はきっと話を聞くと言った過去の自分が自らの首を絞めているが故だろう。


「言いたいことが、いろいろ、ある」

「おう、なんでも言ってくれ。俺達はもう仲間だからな!」


 面白そうにジオゴが口を開く。

 それを聞きミラルはグッと悔しそうに呻く。


「それだよ、それ。彼女、魔粘属ネルゼルだった事についてだよ。私が知って良かったのか?」


 そういうミラルの目の前でジオゴは真面目腐った様子でうんうん、そうだよなぁ、とうなずいて見せる。

 控えめに言ってカチンときたミラルだが、そこは堪える。


「今知ってるのはお前含めて俺とフルエ様とあの馬鹿3人だけだ。端的にこの秘密は抱えきれん。お前にも背負わせようって魂胆だ。許可は得ている!」


 ポイナ本人は隠すつもりはなかったようなのでジオゴが口止めをしている。

 ミラルは今日飲みに来た事を後悔していた。


「珍しい人族。ただでさえ、しぶといのに更に進化に達してる。それ程の人物。ますます謎だね。んで、部下を3人奪われたけど良いの?」

「良い訳あるか。アレでも一応優秀なのをつけたんだ。でもまあ、問題はない。仕事はこなしてくれるからな。今回の報告もアイツらが直接したんだ」

「今の話、本人から聞いたんだね。話ぶりからするとダルって人?」

「まあな。一番まともだからな、アイツは」


 それはどうなのかと思わないでもないミラルだが、他の場所に注目すべきだと言わないでおいた。ツッコミが足りない……。


「……てことはポイナさんは何も隠す気はないってことだよね」


 ダルの報告を止めていない時点でジオゴの邪魔をするつもりもないと言うわけだ。

 彼らは仕事を掛け持ちさせられるがそれはいい。

 ポイナに報告の偽装を頼まれる可能性もあるがそんな事を彼女がするとも思えない。

 むしろ——


「——挑発、か」

「だろうね。それも悪意というよりは、遊ばれてる方のイタズラに近いやつ」

「……悪質だなぁ……」

「同意も同情もするよ。それで部下を奪われた文句は言わないの?」

「言うわけないだろ」


 何を言ってるんだとジオゴはミラルを見つめ返す。


「アイツに文句でも言ってみろ『監視を付けていたなんて……私を信じてくれなかったんですね、悲しい……シクシク』って嘘泣きされるに決まってる」

「本当いい性格してるね」

「「はぁ……」」


 彼女のイタズラの中で唯一フルエに報告したのが今回ジオゴが報告したものだ。

 しょうもないものばかりで困ったものである。

 2人は疲れてまた酒を飲む。

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