それでも語り屋は酔っていない

 何も書かれていない本。

 真っ白で真っ新な優しい本。

 それはまるで記憶のような、あるいは夢のような本。

 何も書かれていないはずなのに手に取ってみれば確かに文字は羅列されていて。

 そこには引き込まれる程の物語があったはずなのに、元に戻せば途端に朧げになる。

 だけど、その本の背表紙だけはハッキリと焼き付いていて。しかし、やっぱりその小綺麗さに何故か躊躇して、伸びた手は止まってしまう。再び手を伸ばす事はない。まるでこれ以上汚したくないかのように。

 そして、諦めるのだ。

目を閉じて思い出そうとして、どんな文字が、文章が、台詞が、物語がそこにあるのかと頭を働かせれば、やはりめくれどもめくれども真っ白で真っ新な紙が重なっている。

 どんな物語だっただろうか?

 頭を抱えて恥ずかしくなるぐらいの純愛モノか。

 あっと驚き、納得で顎に手を添えてしまう推理モノか。

 身が竦むような目を背きたくなるようなホラーモノか。

 夢想し憧れ、走り出して追いかけたくなるようなファンタジーやサイエンスフィクションか。

 昔を想い馳せ、願望入り混じる歴史モノか。

 腹を抱えて笑い転がるようなコメディモノか。

 或いは、官能的な。或いは、サスペンスのような。或いは、青春で……。

 或いは…………。

 きっと鮮烈だっただろう物語なのに朧げなのだ。

 なんと勿体ない。……そう勿体ない。

 その胸の高鳴りがわからなくなるなど。

 なんと羨ましい事か。

 新鮮な気分で本に触れられるなど。

 その見解の違いはどちらも理解の及ぶもので、無い物ねだりを自覚しても尚、溢れる衝動はきっと胸の中で燻る。

 本とは記憶だ。

 本とは想いだ。

 故に振り返った時、思い出した時、その何も書かれていない本は白紙などではないのだとこの上なく知っている。

 手にとってみれば大した事ないものかもしれない。

 しかしそれは扱い方次第で人生を左右する大事な、なんてことのない本だ。

 ……………………。

 …………。

 ……。

 な、なーんて。

 こんな話を真面目な顔をして語ったら周りに変な目で見られちゃうね。

 なんの話だよって。

 えへへ、でもこういう抽象的で掴み所のない話は大好物なのですよ。

 要領を得ない話なのです。

 ハッキリさせちゃいけない事もあるらしいのですよ。

 うんうん。

 私はね。自由人なんだよ。

 そんな私の話もまた自由にあっちこっち行くのは当然の事だよね?

 あれ、そんな事ないかな、まあいっか。

 まあ、アレだよ。

 いかに語り屋と言えども話が上手い訳じゃないのさ。

 喋るのがただ好きなだけなのよ。

 好きこそ物の上手なれって言葉があるよね?

 まあ、上達はするかもー、なんて思いもするけどそれとは別に下手の横好きって言葉が存在する時点でそうとは限らないでしょって事よ。

 いやね?

 確かに謙遜だったり馬鹿にする時に多く使われる言葉だよ?

 でもそうじゃないでしょ。

 時と場合に多分に左右されるでしょ!

 どうも最近、言葉通りに受け取ってくれない人が多くて困るよ。

 まあ、難しいよね。

 あ、申し訳ない!

 なんの話だよって思ってるよね!?

 うーん、そう!

 気楽に考える必要性を説いているのですよ、多分。

 人は自由です。

 喜びを、怒りを、悲哀を、悦楽を、感情を、理性を、愛憎を、孤独を、幸福を、興奮を、恥辱を、屈辱を、諦念を、不屈を、我慢を、熱烈に、冷静に、空虚に、開放的に、閉鎖的に、端的に、具体的に、尊大に、謙虚に、客観的に、楽観的に、我儘に、叫んで、泣いて、歌って、囁いて、呟いて、吐き出して、溜め込んで、判断して、認めて、謳歌するの。

 選択肢はたくさんあるのに余裕を感じられないんだよ。

 焦って間違えてすれ違う。

 それもまた選択だけどやっぱり自分にとって好ましい方がいいでしょう?

 でなきゃ大事な物はどこにもしまえなくなっちゃうよ。

 まあ、うん。

 こんなチャランポランな私はチャランポランな事を言っているのです。

 変なお姉さんがいたとでも思って真面目に聞かずに聞き流しておくれよ。

 と、酔ったフリをしながら長々と喋るのだった。

 いやいや、定員さん拍手はやめてよ。

 最後まで残っちゃってごめんね?

 こんな独り言聞き流していいのに……。

 よ、酔ってないって……。

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