戦闘訓練!

『これより段階式自己強化用戦闘プログラムを開始します』


 ブザー音の直後に機械的な音声でアナウンスが流れると一紀の目の前に木製の巧緻こうちな作りの人形が現れた。

 それはただ突っ立っているだけでその場から動こうとはしない。

 普通ならその時点で故障でもしたのでは? とそう思うこともあるのだろうが一紀はコレでいいと一歩踏み出し、その一歩目の勢いそのままに人形の目の前まで移動して殴り飛ばす。

 その衝撃で人形はバラバラに消し飛んで破片が多少残った残骸と成り果てていた。まさしく木っ端微塵という表現そのもの。

 一紀の大振りで雑なパンチで実に呆気ない終わりを迎えた人形。だが、次の瞬間にはまた全く同じ見た目の木人形が現れていた。

 唯一の違いと言えばさっきの人形のようにじっとしているわけではなくなんらかの構えをしていたという所ぐらいだろうか。


「オラッ!」


 だが、一紀は構わず先程と同じ様に殴りかかる。

 今回は木人形はその一紀の行動に素早い反応を示す。一紀のスピードについて来れるだけの反応速度を手に入れた様だ。

 両手を胸の前でクロスさせ拳を受け止める体勢になり……またもや木っ端微塵に消し飛んだ。

 今回は耐久力に難が出たらしい。

 一紀は再び構え直した。次。

 余計な事を考えない様にどんどん意識を戦闘に集中させ始めていく。

 次に現れたのは先程と同じ様に構えた金属でできた人形だった。

 一紀は動き出し、金属人形は防ごうとしたが今度は腕がそのままひしゃげて本体ごと後ろに飛ばされ、すかさず一紀が追い撃ちをして行動不能にする。

 息つく暇もなく次が現れる。さらなる頑丈さがプラスされた事でようやく戦いと呼べるものになった。と言ってもまだまだ防戦一方の状態。技術が足りない。

 時折金属から『ギギギギッ』と悲鳴をあげるような音が聞こえてきたり、凹みがあったりしているがそれぐらいなら許容範囲なのだろう。ともかく訓練にはちょうどいいぐらいにはシステムに判断してもらえたのかもしれない。

 その間、一紀の意識は完全に戦闘モードに切り替えられて、なかなか有意義な準備運動にもなっていた。

 結局、何も出来ずに人形はそのまま倒されてしまう。

 ここまでが恐らくは前座。

 ここから訓練は本格化していく。

 一紀は試しに手が痛まないよう魔力を纏わせた拳を再度握り直し、目の前の新たな人形に鋭い視線を向けて駆け出した。


「とばしてくいくぞ! オラァッ!」


 着実にレベルを上げていく人形に対して、一紀のその辺の成長は微々たるものだと言ってもいいだろう。

 それもそのはずではある。

 レベル1の敵をいくら屠ったとしても高レベル者のレベルの変動など遠い未来のことなのだから。

 しかし、レベル1をずっと倒している訳ではない。

 少しずつ、少しずつだが着々と確実にレベルが上がっている。

 そしてそれは、一紀も気づいている事実で、それも自分で設定したものだ。むしろ、好き好んで嬉々として選んだ訓練法だ。

 どこか夢見心地で始めたその無茶な特訓だったがやはりというべきか、ボロは出てくる。


「——ヅッ!?」


 13回目の戦闘の時点で一紀は初めて反撃をまともに受けてしまう。

 そして、それは一紀自身が想定していた予想よりも遥かに上を行く衝撃を与えていた。驚愕、などではなく苦痛という意味でだが。

 相手は一紀の拳を捌き切れて、尚且つ対等に打ち合える頑丈な人形。

 一紀の多少様になってきたパンチを人形がその素材に見合わないしなやかで身軽な動きで持って繰り出されたその後ろ回し蹴りのカウンターは顔面を捉えていた。

 物の見事に吹き飛ばされ、未熟な事に受け身の一つも取れやしなかった。

 腐っても金属の塊。


(……痛い。なんなんだよこの痛み。滅茶苦茶痛ぇっ!)


 凄まじい鈍痛が一紀を襲っていた。

 まともな思考も出来ず、かと言って痛みに悶絶している暇もなかった。

 人形が襲ってくるから、などと悠長な事ではなくすでに起き上がった一紀に数々の攻撃を開始していたからだ。

 激しい痛みをなおも堪えながら一紀はなんとか思考する。


(甘かった。こんなの知らねぇ。痛み一つでこんなにも取り乱すとは思いもしなかった)


 一紀にとって想定外も想定外。今回の出来事は論外にも程がある。

 シルネが言っていた厳しい現実というのはこういったことも含まれているのかもしれない。

 頭の片隅でそう思いながら、だが、とも一紀は思う。


(このままじゃジリ貧だ。こんな筈じゃなかっただろ……ッ!?)


 ——いや、そうか。こんな筈な訳がない。


 一紀は冷水を浴びたかの様に一瞬冷静になった。気づいたのだ。こんな訓練は誰から見ても無茶なものだ。

 でも、一紀にはこれができる根拠があったではないか。

 なんとか咄嗟に人形の手を掴み、そのまま地面に叩きつけて、顔面に一発ぶち込む。


「俺の身体は普通じゃない。そう、もう普通じゃないんだ……」


 一紀は己が設定した身体の事を思い出していた。

 そして、いかに自分が馬鹿だったのかと苦笑を漏らす。浮かれ過ぎていたのだろう。余りにも単純な事だった。


 ——やる事は決まった。


 だが、その前に……。


「痛みに慣れないと、な」


 一紀は前を見据える。ただ殴られるだけで終わらせる気は無い。

 目の前にどんどん進化してくれている良い見本・・があるではないか、と。

 それを見定めよう。そして、糧にしよう。

 思えばイラストを描いていた時もそうだった。最初は上手い人の絵を真似たりもしていた。

 学ぶという事は真似る事から始めた方が手っ取り早い。そんな事、あまりにも当たり前の事実だった。

 しかし、どちらにしろ一紀の訓練方法は常軌を逸している。無茶を何回重ねる気だと誰かが側から見ていればそう叫ぶだろう。

 ただ、それでもできる。

 一紀はそう断言する。


 一紀が痛みに耐える、慣れるなどという苦行をやっていると次第にそれへの対処もなんとなく身につく様になっていた。

 相手の攻撃を受け流し和らげるすべ、効率良く起き上がる術、受け身なども次第に上手く行き始めていた。上手く行くうちにそのバリエーションも豊かになっていたのは御愛嬌だろう。

 上手く攻撃を捌けるようになってきたお蔭もあり、痛みも大分引いてきた頃、漸く一紀は反撃に出る。ただ闇雲に突っ込むのではなく自分なりの工夫を凝らしていく。

 目の前の見本にはちゃんとした型がある様に一紀は感じていた。それを倒すたびにその型も変わってきている。一紀の動きに応じて対応を変えているのだろう。

 それでも一紀はそれらを吸収し、戦いの最中で自分なりに組み合わせて昇華させようとしている。

 とことん我流を突き詰めていく。

 そうして一紀の我流の武道が上手くいっているのかどうかを知れる一つの機会が訪れた。

 今まで体格が同じくらいの人型の人形と戦ってきていた一紀だったがここでいきなり体格がふた回りくらい違う人形が現れた。

 それだけではなく。


「腕が4本……!?」


 その大きな巨体にぴったりなサイズの4本の腕が構えられていた。

 難易度が急激に上がったような気がしてくる。

 思わず目眩がしそうになった一紀だったがすぐに気を持ち直す。

 やる事は変わらないのだ。結局、目の前の敵を倒す。それだけ。

 とはいえ、戦い方を変えないと行けないのは確かであると一紀は自分に言い聞かせると全神経を尖らせる。

 一つの動きも見落とさぬように。

 遅れを取らぬように。

 確かな緊張感を持ったまま一紀は臨む。


「シッ……!」


 最初に動きを見せたのは一紀だ。

 慎重に相手をするという事は必ずしも受け身になるという訳ではない。

 一つのアクションに対し、どのような行動を取るか、に注視するべきだと一紀は考える。

 一紀は前傾姿勢で特攻を仕掛ける。なるべく最大限の速さで、尚且つ僅かな余裕を持っての特攻。初手である。回避も視野に入れるのは一紀にとって当然の行動と言えた。

 迎える人形はその巨体からは考えられない程のスピードで拳を振るう。

 確かに機敏だ。


 ——だが今までの奴らよりは鈍い動作。


 一紀は自分の斜め後ろ辺りで衝撃を感じ取りながら思考を巡らせる。

 これだけで終わる筈がない。

 すぐさま左に跳ぶと今まで一紀がいた空間を別の拳が空を切る。

 お返しとばかりに膝裏に蹴りを放ち一時離脱。

 呼吸を少し整えながら一紀は考えていた。

 図体が大きくなってもその軽やかさはあまり失われていない。

 増えた腕は今まであったスキを埋めるように、新たな連携を生むように生え備えていた。

 手強くなっていく敵に胸が熱くなっていくような感覚を覚える。

 そしてその感覚にどこか酔いしれそうになる。


 ——似ているな。


 その胸の高鳴り。それは高揚だ。

 初めてコレを感じたのはいつだったか。

 そんなものは決まっている。絵を描いていた時だ。あの、難題にぶち当たってもがき足掻く時に得た感覚の筈だ。

 ここまできたら正直真似る事も出来ない。一紀に4本の腕がないのだから当然だ。

 ならばどうするか?

 一紀は少しの間、目を閉じると深呼吸を一つする。

 ドクンと心臓が脈動する。血は巡り、身体は熱を得て、脳が刺激を求める。

 目を開けると、その口元には攻撃的とも挑戦的とも言える笑みが零れていた。

 いつだってそうだった。挑戦の連続。

 こんな時、一紀は思う。


 ——挑戦せずにはいられないだろッ!


 歩みを止めず、進化し続ける身体は一紀に応えるように戦いに順応していく。

 一撃に重みを。バネのような機動力を。俊敏さを。軽快さを。

 成長の余地は幾らでもある。

 それを伸ばさずにはいられない、諦めるなんてのは一紀にはとても似合わない事だ。

 一紀の士気はかなり高くなっている。己のモチベーションのコントロールが上手いのもあるのかもしれない。

 だが、それ以上にワクワクしているのだ。昂ぶるのだ。一紀の内側から胸を焦がす熱が上昇していくのだ。

 一紀はまた相手に立ち向かう。


「まだまだ……」


 そう、まだまだ始まったばかりである。

 出来ることがたくさんある。いや、今の一紀にはそれは相応しくないだろう。

 側から見れば何となく伝わるだろうその気配。

 やりたい事が、試したい事がたくさんある。アイデアが溢れ、好奇心を盛大に刺激する。

 それは一紀の姿を見れば一目瞭然だった。


 ——ダンッ!


 力強い初動で四腕の巨人人形に肉迫する。

 人形は一紀の勢いを止めんと腕を打ち下ろす、が一紀はその動きを正確に捉えてその腕にそっと手を添えると打ち下ろされる腕の力を利用した。

 正しくは回転力に転換した、だろうか。

 その勢いそのままにその腕の関節、肘に当たる部分に鋭い蹴りを叩き込んだ。

 その甲斐あってかその巨腕はひしゃげてしまう。すかさず逆足で顔面を蹴り上げ、その反動で一紀は一旦距離を開けた。

 そのせいで人形はバランスを崩すが当然のように直ぐに持ち直そうとする。

 しかし、一紀がそんな隙を見逃すはずもなくトドメを刺しにいく。

 素早く膝裏に衝撃を与え、肩を掴み渾身の一撃を顔面に叩き込んだのだ。

 人形は勢いを殺す事も敵わず、地面に出来上がったクレーターの原因と成り果てた。

 スタッと一紀が着地し、これで終わりとばかりに足の裏の頭をガンと踏み、埋もれさせた。

 乗り切ったという気持ちで一杯だろうその胸に喜びを噛み締めながら次を見据える。

 自分がまだまだだという事は百も承知である。だからこそこれからの躍進に想いを馳せている。

 ヒュッと次の敵が現れる。


「あ……」


 一紀がそんな間抜けな声を漏らすと情けない声で独りごちる。


「武器持ってくんの忘れてたや……」


 剣を手にした人形を見てそんな事を言う。

 仕方なく無手でやり過ごす一紀は本当にまだまだだった……。

 先は長そうである。



 時刻は10時を指し示していた。

 そんな時間になっても闘技場内での破壊音やら爆発音は引っ切り無しに続いていた。

 人形が飛び道具やら魔法を使うようになり、さらにその数を増やしてきた時は流石の一紀も焦ったという。

 それはさて置き。

 場所は闘技場の観客席だ。

 そこでは悩ましげに頬杖つきながら一紀と人形達の戦いを見守っている一人の少女がいた。

 赤い髪をベースに白いメッシュが散りばめられた特徴ある頭髪と紅眼の彼女はメラニーだ。

 実を言うと夕食の準備がとっくに出来ていてそれで一紀を呼んで欲しいと頼まれていたのだ。普通に呼んでも集中した一紀に声が届かなかったとか。

 まあ、それだけなら呼ぶのはもう少し遅くなっても良いのだがそういう訳にもいかない。なにしろ明日の準備があるのだ。

 メラニーはクレーターで凹凸だらけの闘技場を見て確かに放置はできないなと得心のいった顔をする。

 準備してくれる人の為にも一紀には早めに切り上げて頂きたい所。

 ……なのだが。

 メラニーは難しい顔をする。

 シルネのアノ話を聞いた後というのは正直あまり関係ない事だ。

 単純に一紀の実力を見たいという好奇心も十分に満たせた。流石に100体の剣や槍、弓に銃などの近、中、遠距離用の武器を待っていたり魔法まで放っていた人形を素手で蹂躙する姿を見れば流石に満足もするだろう。魔法を殴って霧散させた時は変な声が出そうになっていたぐらいだ。

 だからそういった要因などではなく……。

 要は、である。


「どのタイミングで入ればいいのっ!?」


 普通に乱入すれば一紀の設定した訓練は終了する。

 だが、今の一紀の汗だくの鬼気迫るあの気迫なら十中八九メラニーにも手を出しかねないものがある。

 出来ればそれは遠慮したいところだ。

 だがこのまま立っていても時間が過ぎるだけだろう。


「よしっ、よっと!」


 メラニーは意を決して観客席から場内に乗り込んだ。

 彼女が中に入った時には丁度一紀が最後の人形を倒した瞬間だった。


「かーずき様〜! そろそろ切り上げ——ッ!?」


 これは丁度良いとメラニーは思い、一紀に向かって陽気に話しかけようとしたがその言葉は途中で途切れる。

 彼女が想定していた殴りかかってくるなどという事こそ起きなかったがそれは自分にとって運が良いのか悪いのか判断に困る状況に陥っていた。

 側から見れば一紀は何もしていない。

 ただ振り返ってメラニーに視線を向けただけ、という自然な挙動。

 しかし、それだけでメラニーに息の詰まりそうな緊張感を与えていた。

 彼女に向けられたのは凄まじい威圧だ。魔力が濃密に練り込まれた威圧。魔圧と表現することもできるソレがメラニーにのしかかる。

 その視線に殺気などが込められてなどいないがメラニーを驚かせる程の代物だった。

 殺気が込められていないのには色々と考え得るだろう。

 経験が不足している。自分の国、テリトリー内で安心。訓練故に、など。

 だが1番可能性が高い物があるとすればそれは……。


(単に無知。知らないだけ、だよね……)


 メラニーはそう思い当たるとブルリと体を僅かに震わせる。

 その類の殺気は直ぐに覚えるだろう。外に出れば否応無く晒される筈だ。

 では、一紀がそれを身に付けた場合。

 メラニーはそんな物を向けられたくはないものだ、と内心で冗談のように呟く。まったく酷い冗談である。


(それに……)


 魔圧を向けられたのは一瞬の事だ。その時にメラニーは直感的にわかった。

 魔法が恐らく使えないだろうという事に。

 もちろん多少力を込めれば使えなくもないがあまり高威力は見込めないだろう。

 それは一紀の体質に所以する。

 一紀は魔法に対してかなり高い耐性を備えているが、それは一紀の持っている魔力が大きな役割を担っているからだ。不純物を含まない水が電気を通さないように一紀の魔力もかなりの純度と同時にギュッと濃密に凝縮したような濃さを持っている。普通では考えられないほどに。

 だから魔法が使えない。だが霧散させる事が出来る。言い方を変えれば相殺もしくは飽和などとも表現出来るだろう。

 だからメラニーのその直感は間違ってはいない。


「……なんだ。メラニーか」

「……な、なんだとは何さ! 折角呼びに来たのに一紀様は酷いですよっ!」


 プク〜っと頬を膨らませながらメラニーは考えていた事を横に追いやって誤魔化すように一紀にそう言い返す。

 一紀は冗談だと言いながらメラニーの頭にポンと手を置き笑う。


「でもそうか。もう時間か」

「そうです! そうなんですよっ。明日の準備もあるので早く行きましょ行きましょ! メラニーちゃんも忙しいのです」


 メラニーがそう叫ぶと「えッ!?」と一紀はわざとらしく驚く。


「メラニーが?」

「あっ、ひどい! 私だって準備ぐらいはしますよ!」

「そりゃそうか。ごめんな」

「心の」

「仕事じゃないのかよ」

「えへへ〜。イタッ!?」


 メラニーの頭を軽く小突くと一紀は頭を抱えるメラニーを置いて歩き出す。

 そして背中越しに声をかけやる。


「そろそろ行くぞ〜。明日の準備があるしなぁ」

「なんか私が聞き分けないみたいに言わないでくださいよっ!」


 文句を言いながらもメラニーは一紀を追いかけ共に闘技場を後にするのだった。



 真夜中。頭上には丸く見慣れない青い月の光と無数の星々が白く輝いていて地上を優しく照らす。

 人工的な光が少ない分、見える星の数もその輝きも多く、強いものだろう。それらに照らされた魅想城や城下町、森、川、湖、砂漠などと並べて行けばいくらでも並べられるだろうこの国もまた幻想的な、或いは神秘的な美しさがある。

 一紀はそんな美しい光景を魅想城の屋根から眺めていた。

 大抵の人は眠りについている頃だろう。

 とても心地よい静かな夜。

 そんな夜で不意に綺麗な音が奏でられていた。

 力強く、だが優しいそんな音色が美しい夜景に染み渡るように響いていた。

 その独特な高音からその曲は口笛で形成されている事が察せられる。

 滑らかに聞こえてくる曲はどこか郷愁の念を感じさせ、とても懐かしくどこかもの寂しい。感傷的な気分にさせてくれるそんなメロディー。

 それは言わずもがな一紀が発生源であり、まさしく一紀の複雑な心境、心情を物語っている様にも見える。

 一紀にとって口笛は1人でいる時、無意識に吹いてしまう癖のようなものだ。心を落ち着かせるという役割なのもある。

 口を使った遊び、と言えばその行為は口遊くちずさんでいると言えなくもないだろうか。

 一紀は自分が手掛けた国の夜景を見て己の瞳に何を映し出しているのか。一言ではとても言い表せる訳もない。

 元の世界での家族、親友との思い出は嫌でも脳裏に過ぎるものだ。

 今、冷静になって漸く自分の心の不安定さに気づいたのだろう。これもまた危ういものだと自覚している。

 だが、どうしようもなく、そしてどうにもならないのもまた理解しているのだ。


(少なくとも今は……な)


 それにこちらでも友達を作れば良い。

 しばらくはあっちの事は考えない方がいい。家族や晴信の事は一旦忘れよう、と。

 そこまで考えが及んだ所で、なんだと一紀は息を吐く。

 存外、すんなりと結論が出るじゃないか、と。

 でも、そうやって一人で考える時間は必要なのだろう。

 断然気持ちの整理がついた様に見える。

 手には、端末とペンが握られており、景色刻むように目の前の光景を描いていた。

 青い月に照らされる自分の国を。

 絵を描いていると、ふと1つの欲求が生まれた。この世界を回って様々な光景を絵に収めたい。

 そうして口笛がちょうど終わった頃、一紀は背後からフワリと着地する様な気配を感じた。

 その繊細で柔らかな風から振り向かずとも一紀は誰かを言い当てる。

 直感にも似た感覚かもしれない。直感程不確かなものではないが。


「……ヒュール、か」

「……素敵な曲、ですね。あちらの曲ですか?」


 少しの逡巡。なにかを考えた後、当たり障りのない会話を振る。

 切り出しにくい話題でもあるのだろうとなんとなくにでも察する事ができる声音。


「どうだろうな。無意識じゃなきゃオリジナルだと思うよ」


 どこかで聞いたことのある曲の可能性もあるのだろう。そういう所を気にして答えるあたり律儀と言えなくもない。


「そう、ですか。よかったです……とても」

「はは、そうかな。なんだか照れるね」

「「…………」」


 しばらく互いに無言の時間が過ぎていく。

 このまま会話を続けても中身のない会話が繰り返されるだけ。

 ヒュールは口を開けては閉めてを繰り返し、その喉を振るわせることが出来ないでいた。

 不安が躊躇わせる。恐怖が言葉を塞き止める。

 たった一言「なにを考えていたんですか? 帰りたいですか?」と口にできたらどれだけ楽だろうか。

 一紀はやはり元いた場所に戻りたいのだろうか? ここは居心地が悪かったのだろうか?

 ヒュールにはそれがわからない。知りたいが知りたくない。矛盾した感情が彼女を迷わせていた。

 一紀の曲とその曲を吹いている時の表情を見た時そういう疑問が生まれた。

 描かれた絵はどこか義務感によって突き動かされているように見えたのだ。

 もしかしたら本人にもわからないのかもしれない。

 ヒュールは意を決して一紀に尋ねる。


「えと、一紀さ……」

「考えてたんだよ。シルネの言葉について」

「へ?」

「ほら、覚悟を示せってヤツ。あまりにも曖昧で漠然としてるだろ?」

「あ〜、はい」

「それで悩んでたんだよ。ヒュールはどう思う?」

「……そうですねぇ」


 明らかにはぐらかされた。

 そうは思いつつもヒュールは一紀の問いについて人差し指を顎に当て考える。

 覚悟を示せ。

 確かに一言に覚悟と言われても困るだろう。それに示し方と言う問題もある。

 シルネはなにを思ってそんな課題を出したのか。示せと言うぐらいなのだから生半可な覚悟などではなく強い覚悟。強く進めるための覚悟なのは言うまでもない。


「ボクにはわかりませんね」


 ヒュールはお手上げだというポーズをするとそう答える。

 一紀も別に特に期待もしていたわけでもなく「だよなぁ」と苦笑漏らす。


「……でも」

「……ん?」

「少なくとも覚悟を示すのに弱さを切り捨てる必要はないと思いますよ? 隠すのはご自由だと思いますけどねぇ」


 一紀はなんだか心を見透かされたような気がしていた。

 ヒュールは一紀の本心など分からないし帰りたいのかもわからない。でも、もし帰りたい訳ではないのならば、と彼女はそう思う。

 心の弱点は覚悟を鈍らせるものではない筈だ。

 虚を衝かれたような表情をした一紀は思わず苦笑を漏らす。


「ぷっ、ははは。そうだな、うん。なんかスッキリした」

「それは良かったです」

「おう、ありがとな」

「では、明日もあるのでボクはこれで」


 ヒュールがそう言って屋根から飛び立った。

 あの反応からしてここに不満などがある訳ではないのを確認できたからか彼女としても喜びを感じざるを得ない。


「ふふっ」


 優しげに細められた目と僅かに綻ぶ口元がそう示していた。


「でも、本当にボクの言った事、理解してくれてるといいんだけど……」


 しかし、ヒュールは振り返ると今はもう見えない一紀を想い、少し不安そうにそう呟くのだった。

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