魔王

 赤い布地を見上げながら仲治ちゅうじは何が起きたのか、思い出そうと昨夜について思いを巡らす。俺はどこかで倒れたのか? 家で眠りについたはずだ。いや、しかし、家の布団に比べればなんと柔らかく寝心地の良いベッドである事か……。病院の辛気臭い白一色のベッドとは全く違う、この豪奢なベッドに寝かされている理由はなんだ?


 いくら考えても、どう考えても仲治は自分がこんな所で寝かされている理由に思い至らなかった。幸い、どこか気分が悪いと言うのはないので、体を起こして周囲を見渡すとそこは病院の辛気臭さとはまた違うが、なんとも陰気な部屋であった。濁りガラスの向こうから薄ぼんやりと光が差し込んでいるから、朝ないしは日中であると言うのに部屋は薄暗く燭台にはろうそくが細々と灯っている。寝ている間にろうそくを点けっぱなし?


「寝てる間に燃えちまったらどうするんだ」


 そう言葉を口にした瞬間、聞こえてきた声に違和感を持つ。あまりに若い。仲治の少ししわがれ、掠れた声とはまるで違う、張りのある若々しい声に聞こえた。手元に視線を移せば、仲治は思わずぎょっとする。若い指先は、青みがかっていた。……宇宙に戦艦が飛び立つと言う荒唐無稽な物語を少し前にテレビアニメーションでやっていたが、それの敵の宇宙人のような色をしていると仲治は思った。


 石造りの壁を弱々しく照らすろうそくを尻目に、現状を把握しようとベッドより降り立てば視点の高さに驚く。常の物より三十センチは高いか。衰え始めていた足腰などなかったかのような滑らかな動きにも違和感を覚え、何が起きているのか早く突き止めねばと気ばかりが逸る。仲治の逸る心に呼応して、心臓がどくどくと早鐘を打つように鼓動し、聊か懐かしさまで覚えた。


「こんなに焦ったのは、組の代打ちで負けた時か? いや、ルソンまで遡るか?」


 面白れぇ、仲治は嘯く。ここ最近なかった高揚感を僅かに思い出したから。


 姿見を見つけ、僅かに歪んだ鏡面に自身の姿を映し出すと、仲治は小さくあっと叫んだ。そこにあるのは、不機嫌そうな白髪混じりとなった五十年以上見続けてきた黒髪の己ではない、別の者が写っていた。青白い肌、銀色の髪。映画俳優のように整った顔立ちでその彫りは深く、ソ連か米国の将校のように堂々としている。表情は僅かに渋面を作っているが、これは仲治が作らせているのだろう。


「お目覚めでございますか、魔王様」


 音もなく扉が開かれた様で、不意に声を掛けられる。驚き振り返るとそこには肉付きの良い、今の仲治と同じ色の肌の若い娘が、西洋女中メイドの格好で恭しく片膝をついている姿だった。


「オメェさん、今何って言った?」

「……常の様に魔王様とお呼びしたのですが……お気に召しませんか?」

「……そうかい」


 お気に召すも召さぬもないと、そう言いたかったがその言葉は飲み込んだ。何が起きたのかも、魔王と呼ばれるその意味も今は分からない。だが、仲治の勝負勘が告げる。どいつが味方なのか、利害が一致しているのか把握するまで不用意な事を問う物ではないと。


 魔王と呼ばれ傅かれた仲治は、言葉のやり取りを最小限にして周囲を観察することにした。自らをリッテと名乗った西洋女中メイドに導かれるままに朝食の席に赴き、何か分からぬ料理と思しき物を前にしてもほとんど言葉を発さずに、その品々を観察する。

 赤や青や黄色の信号の様な色味が目に鮮やかな肉料理の肉は、鶏肉に似ているか。ルソンでは食糧難から大抵のものは食べたが、果たしてこいつは食えるかどうか。それに、これがここの常食かどうかも分からない。下手に手を出すことが問題となる場合はないだろうか?


 近頃なかった程に仲治は頭を働かせる。ナイフとフォークが置かれているから、こいつで食うのは間違いないとは思えるが、何一つ己の経験が生きず、困惑すると同時に思考が加速する。考えてみれば、無数の選択肢から当りを引き出すと言うのは博打に似ている。

 仲治は、今はルールが分からない博打を打っているようなものだと自身の状況を分析する。その場合はルールを知る者の行動を、表情を盗み見ながら最善手を探していくしかない。


「いかがなさいましたか、魔王様?」

「いや」


 リッテと名乗った西洋女中メイドの声には、気遣うような配慮が見られる一方で隔たりも感じられた。また、仲治の様子に戸惑う素振りを見せながらも過剰な反応はなかった。少しばかり、またかと言いたげな空気は感じたが、それだけだ。隔たりが意味するところは分からないが、仲治は感じた空気にまず賭ける事にした。


「俺は誰だい?」

「……我ら魔族を統べる魔王ヴィシャル様です」

「そうじゃねぇ――。が、俺は何度か自分が誰かを問いかける事はあったか?」

「過去に何度か……。その度に魔王様のお人が変わられます」


 リッテの言葉から、仲治は夢うつつに聞いた奇妙な声を思い出す。俺が俺ではなくなると嘆き恐れていた苦悶の声。仲治は拳を握り掌に爪を立てる。感じる痛みは常の物と変わりはなかった。その痛みが実感させる、器がいかに変わろうとも、仲治と言う中身に変わりはないのだと。

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