目を覚ますと、魔王になっていた

キロール

意味

 戸田仲治とだちゅうじは人生の終わりを日々感じ始めていた。若かりし頃に、ノモンハンと言う地獄を生き残った、その理由を探し求めた挙句、勝負だけが彼の世界になった。その筈だったのに、先日、在りし日の勝負への熱がこの胸中から霧散していることに気付いた。あるいは、残滓としてこの胸中に燻っているのかもしれないが、生憎とそれに気付けるような感性は摩耗しきっていた。


 勝負事、今の日本では精々が賭け事だったが、仲治はそれに勝ちを積み上げてきた。積み上げてはどぶに捨てるように金を使い、そしてまた積み上げる日々も、今はただ虚しいだけだ。

 これは家族と言う物を作らなかった故、ではない。仲治は今まで家族を必要としてこなかったし、これからも必要としないだろう。死ぬときはどこかの路傍で行き倒れるのが本望だ。ただ、結局どれ程勝とうと、命の危険を味わおうと、生き残ったその意味を知る事はなかった。それが虚しさの原因であろうか。


 縁側に出て煙草をくわえる。何処か淀んだ空は快晴で、遠方から工事の音が響いている。煙草をくわえたまま仲治は過去を思い出す。どいつもこいつも死んでいったノモンハンを、そしてルソンを。お国のために! とがなっていた田上も、帰りたいと泣いていた一原も皆死んでいった。マルクス主義が日本を救うのだと信じこんでいた岩川も、娘に会いたいとこぼしていた西松も。


「何で俺が生き残っちまったのかね」


 終戦を迎えて三十年は経とうと言うのに未だに答えが出ない。生き残った所で特に何もなかった仲治だけが死なずに内地に帰還した。仲治よりも生きたいと願っていた者達は、必要とされていた者達は、ノモンハンで、ルソンで、数多の戦場で消えていったと言うのに。


 特に伊鞘享吉いさやこうきちは生きて帰れば何事かを成し遂げた男であった筈だと今でも仲治は思う。頭も良く周囲をよく見ており、度胸もあった享吉は孤立しがちな仲治に声をよくかけてくれた。郷里の話や将来何を成したいかなど他愛もない話でしかなかったが。享吉を思い出すと、あのバルシャガル高地において師団長の命令で玉砕せんと準備していたあの日、享吉が仲治に言った言葉が、この胸にまざまざと甦る。


「仲治、お前は死なないさ」


 事実、仲治は生き残った。軍上層部が敵陣を突破帰還すべしと言う命令を出したことで。師団長は軍刀を振りかざして先頭に立ち、仲治ら第二十三師団の生き残りは計五回の敵陣を突破して生きて帰った。そこに至るまで多くの戦友を失い、片足を吹き飛ばされ仲治の背で生き絶えた享吉を担いで。


「……感謝はしないけどな」


 漸く煙草に火をつけた仲治がぼやく。相手は享吉か師団長か、或いは勝機を逃してばかりで、援軍も寄越さずに突破帰還しろと言った上層部に対してか。あるいはその全てにか。


 ともあれ、仲治は生き残ったあの日から何故生き残ったのかを知ろうとするあまりに、勝負に拘泥し、総合的に言えば勝ってきた。無論、負ける事はあったし、命の危険も何度かあったが、その全ては些末事に思えた。今こうして生きて煙草をのんでいる、あの日から変わらず。それが全てのようにも思えるのだ。


 そして、その日の夜。薄いせんべい布団に横たわり、眠りについた。何も変わらぬ日常、何故生き残ったのか分からぬ自分。求めた勝負への熱が確実に冷めていく焦燥感の中、仲治は不思議な声を聞いた。

 助けてくれ、こいつらはおかしい、このままでは俺が俺でなくなる。

 概ねそんな感じの言葉は、ノモンハンで聞いた苦悶の声に似ていた。奇妙な夢よとその声を黙殺した仲治は、本当に眠りに落ちた。


 翌朝、目覚めると仲治は見知った天井ではなく、深い赤に覆われていることに気付く。木目が浮かぶ木製の見慣れた天井ではなく、しわの寄った絹の様な赤い布地に覆われた天蓋が、視界に広がっていたのだ。

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