第一章 殿下の様子が、ちょっと変です!⑤
マリアをシスティーナ伯爵家の屋敷まで送り届け、それから自分の屋敷に戻ると、なぜか使用人の皆さんはバタバタと忙しそうに走り回っていました。
いったい何があったのでしょうか。
近くにいたメイドに話を聞こうとしたところで、お父様が私のところにやってきました。
その表情はいつになく厳しいものです。
嫌な予感がしますね……。
「フローラ」
お父様が硬い声で告げます。
「辺境伯領から急報があった。国境線の向こう側……西の山脈で大規模な瘴気が確認されたらしい」
瘴気とは人里から離れた場所に出現する黒いモヤで、魔物の発生源として知られています。
ナイスナー辺境伯家に残っている記録によれば、西の山脈が大規模な瘴気に包まれた場合、早ければ二週間、遅くとも一ヵ月以内に魔物の大軍勢が押し寄せてくるようです。
以前の戦いから三ヵ月も経っていないのですが、ペースが早すぎるのではないでしょうか。
疑問に思ってお父様に訊ねると、次のような答えが返ってきました。
「フローラの言う通りだ。過去の記録にあてはめるなら、次の襲撃まで四年ほどの猶予があるはずだからな。……前回と同じく、これまでの常識を捨てて挑むべき事態かもしれん」
「厄介ですね……」
私は前回の襲撃を思い出します。
あの時は本当に大変でした。
普通なら瘴気は一ヵ月ほどで消えてしまうはずですが、どういうわけか半年間ずっと残り続け、継続的に魔物を生み出していたのです。
どれだけ倒しても魔物の数は減らず、むしろ増えるばかり。
もしかすると今回も、似たようなことになるかもしれません。
「わたしは領主として、領地と領民を守らねばならん。これより辺境伯領に戻る」
お父様は床に片膝を付きました。
右手を私の肩に置き、まっすぐに視線を合わせて、真摯な表情で口を開きます。
「フローラ、おまえは殿下に婚約を破棄されたばかりだ。昨夜は落ち着いていたようだが、人の心とはそう簡単なものではない。いずれ感情が乱れる時も来るだろう。……気持ちを整理するための時間を作ってやりたいところだが、状況が状況だ。わたしと一緒に、辺境伯領まで来てほしい」
「もちろんです、お父様」
私は即答しました。
「というか、婚約破棄のことはぜんぜん気にしてませんよ。大丈夫です」
「……それならば、よいのだが」
お父様は私のことを気遣うように、ポンポン、と頭を撫でてくれます。
「子ども扱いしないでください」
なんだか気恥ずかしくて、つい、そんなことをぼやいてしまいます。
「私、もう十五歳ですよ」
「いくつになろうとも、おまえはわたしの大切な娘だよ。フローラ」
お父様は口元にフッと小さな笑みを浮かべました。
* *
私はクロフォード殿下から一方的に婚約を破棄された身ですが、だからといって国境の防衛を放り出すつもりはありません。
もちろんお父様も同じ考えのようです。
「我々が魔物を放置すれば、最初に被害を受けるのはナイスナー辺境伯領に暮らす者たちだからな。それだけはあってはならん」
「もし殿下がひとりきりで魔物の群れに取り残されていたらどうしますか」
「不幸な偶然が重なって、あと一歩のところで救出が遅れてしまうだろうな」
黒い、黒いですお父様。
他の貴族に聞かれたら非常にマズい発言だったりしますが、今は心配しなくてもいいでしょう。
なにせ、ナイスナー辺境伯領に向けて全力疾走している真っ最中ですから。
「ヒヒヒヒヒヒヒィィィィーーーン!」
私とお父様を乗せたナーガ馬が、やたらと長い鳴き声を上げました。
ナーガ馬というのは我が家で飼育している馬の一種ですね。
とても長い胴体を持ち、その背中には大人の男性が三人も跨ることができます。
私とお父様は二人乗りですが、後ろに付き従う護衛の騎士や魔導士のみなさんは三人乗りですね。
満月に照らされた街道を、猛烈な勢いで爆走していきます。
一日でも早く辺境伯領に戻るため、運ぶ荷物は最小限です。
王都の屋敷に置いてきた品々については、マリアの実家であるシスティーナ伯爵家の騎士たちが後から運んできてくれることになりました。ありがとうございます。
ナーガ馬が怪我をしたときは、私の出番です。
「――《ミドルヒール》」
「ヒヒッヒヒーン!」
足に回復魔法をかけてあげると、ナーガ馬は感謝の気持ちを示すためか、すりすりと私に頬擦りしてきます。毛がやわらかくて気持ちいいですね。ふさふさ。
あちこちの宿場町を経由しつつ、私たちは西を目指します。
その途中、枯れ果てた土地をいくつも目にしました。
大地はヒビ割れ、草木の一本も生えていません。
これは『精霊の怒り』と呼ばれる異常現象で、ある日突然、何の前触れもなく森や草原、田畑から恵みが失われ、不毛の地がジワジワと周囲に広がっていくのです。
王立アカデミーの学者さんたちが必死に調査を進めていますが、残念ながら原因は分かっていません。
『精霊の怒り』が起こったのは十五年前からで、被害としては王家の直轄領のほか、トレフォス侯爵を始めとして色々と黒い噂のある貴族家に集中しています。
それもあってか、人々のあいだでは「勝手気ままな王族や貴族に精霊たちが腹を立てたからだ」なんて噂が流れているようです。
やがて二週間に及ぶ強行軍の末、私たちはナイスナー辺境伯領に入りました。
時期はちょうど秋まっさかり、山々は美しい紅葉に彩られています。
魔物さえいなければ、のんびりと紅葉狩りでもしたいところなんですけどね。
ナイスナー辺境伯領は豊かな自然に恵まれており、領内で作られている農作物は国内でもトップクラスの味と品質を誇ります。
これはご先祖さまが残した「ニホンジンの血を引くからには食にこだわりを持て」という教えと無縁ではないでしょう。
お父様はかなりの美食家ですが、それが行き過ぎて、マイ農園を持ってますからね……。
あのクールな横顔のまま田畑を耕している姿は、なんだか崇高な儀式でもやっているように見えます。イケメンって得ですね。
辺境伯領に到着しても、まだまだ移動は続きます。
私たちがいるのはナイスナー辺境伯領の東端なので、領内を横断して西に向かわねばなりません。
「フローラ。体調に変わりはないか」
お父様はナーガ馬を操りながら、後ろに乗る私へと気遣いの言葉を掛けてくれます。
「もし体力的に厳しければ、おまえは途中の街で休むといい」
「大丈夫です。私、鍛えてますから」
ふんす、と袖をまくって右腕を掲げます。
お父様はチラリをこちらを振り返ると、口元に微笑を浮かべました。
「分かった。だが、無理はするな」
そして右手で、ポンポン、と私の頭を撫でてくれます。
くすぐったいですけど、悪い気分ではありません。
領内の街や村に立ち寄ると、そのたびに住人のみなさんが総出で出迎えてくれました。
「おかえりなさい、領主さん!」
「魔物をやっつけてくれよ、頼むぜ!」
「怪我しないでくださいねー!」
さすがお父様、領民の方々からも慕われてますね。
「フローラリアお嬢様だ! フローラリアお嬢様もいるぞ!」
えっ、私?
「おじいちゃんの病気を治してくれてありがとうございました!」
「アンタが元通りにしてくれた足、めちゃくちゃ調子いいんだよ! 感謝してるぜ!」
私は王都だけでなく、辺境伯領でも治療活動を行っています。
みなさん、その時のことを言っているのでしょう。
ひとり納得していると、トテテテテ……と小さな子たちが私のところにやってきて、ぺこりとお辞儀をしました。
「ぎんのせいじょさま、いもうとを助けてくれてありがとうございました!」
「まものにまけないでね!」
「がんばってください!」
「ぼ、ぼくがおおきくなったら、およめさんにしてください!」
最後の子、なかなか度胸がありますね。
こんな大勢の前で領主の娘に求婚するとか――って、ちょっと待ってください。
あなた、男の子ですよね。
だったら、お嫁さんじゃなくてお婿さんのような……。
まあ、緊張のあまりパニックになっているのでしょう。
ここは大らかな気持ちでスルーしておきます。
わざわざ指摘して恥をかかせるのは、淑女のやることではないですからね。
というか、最初の子、私のことを『銀の聖女』って呼んでませんでしたっけ。
あの綽名、辺境伯領にまで広まっちゃっているのでしょうか……?
広まっちゃってました。
とくに大きな街ほど人の往来が盛んで、王都の噂なんかも届いているらしく、到着するなり「銀の聖女様がお越しになったぞ!」「聖女様ばんざーい!」「うちの子を撫でてやってください!」と大騒ぎになったりもしました。
私、そんなご利益ないですよ……?
まあ、撫でることは撫でましたけどね。
赤ちゃんはぷにっとした笑顔を浮かべて喜んでいました。
ほっこり。
* *
王都を出発してからおよそ半月、私たちはようやく西の果てにあるガルド砦に到着しました。
幸いなことに、まだ魔物の侵攻は始まっていないようです。
ガルド砦は国境線を守る巨大な城塞で、初代当主であるご先祖さまによって建設されました。
え?
実際に建てたのは職人であって、ご先祖さまじゃないだろう、って?
それが微妙なところなんですよね。
我が家に残っている古文書によると、「ニホン」という遠い地からやってきたご先祖さまは天才的な魔導士にして錬金術師であり、自分一人でガルド砦を建ててしまったとか。
大昔の記録なので不確かなところも多いですが、私としては真実じゃないかな、と思っています。
「親父、フローラ。長旅お疲れさん。急に呼び戻して悪かったな」
出迎えてくれたのは、私の、たった一人のお兄様です。
名前はライアス・ディ・ナイスナー。
髪は私と同じ銀色ですが、瞳はお母様の影響が強いのか、青というよりは紫に近い印象です。
性格はとても陽気で面倒見もよく、領内の若い男性から「頼れる兄貴分」として慕われています。
ライアス兄様は、私とお父様が王都にいるあいだの留守を引き受けてくれていました。
「西の瘴気なんだが、小規模なものだったらオレと領内の連中だけで対処するつもりだったんだ。けど、あれはヤバい匂いがする。……まあ、説明するよりも実際に見てくれ」
私とお父様は、ライアス兄様に先導される形でガルド砦の西側に聳え立つ城壁へと向かうことになりました。。
ナーガ馬に乗ったまま、ゆるやかな階段を上っていきます。
「ヒヒィン……」
おや。
不穏な気配を感じ取っているらしく、ナーガ馬の鳴き声もどこか心細げです。
城壁の上に辿り着いたところで西の方角に視線を向けます。
「……なんですか、あれ」
私は自分の目を疑わずにいられませんでした。
瘴気って、普通はこう、霧みたいにフワッとした感じなんですよね。
じゃあ西の山々を覆っている瘴気がどんなものかというと、ずっしり、もくもく。
たとえるなら夏の入道雲が地上に降りてきたような雰囲気です。
色は、真っ黒。
驚きのドス黒さが、とんでもなく危険な気配を漂わせています。
「あれ、見るからにヤバそうだろ」
「ヤバいですね」
「……ふむ」
お父様は難しい表情を浮かべたまま、ゆっくりと口を開きます。
「今回は、かつてないほど厳しい戦いになるかもしれん。システィーナ伯爵家にも力添えを頼んだほうがいいだろう」
魔物の襲撃が始まったのは、それからさらに三日後のことでした。
すでにガルド砦にはナイスナー辺境伯家に仕える騎士や魔導士だけでなく、領内にいる冒険者や傭兵の皆さんが集結し、新型の投石機も運び込まれています。
迎撃態勢としては万全です。
ですが――
なぜか私は、これから始まる戦いに胸騒ぎを覚えずにいられませんでした。
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