第一章 殿下の様子が、ちょっと変です!④
「フローラリア様、お久しぶりですのう」
ユーグ様はのんびりとした調子で私に声をかけると、向かいのソファに腰を下ろしました。
「こうしてお話しするのも一年ぶりですかな。お元気な姿を拝見できて、心から嬉しく思っておりますわい」
「ユーグ様はお変わりないですか?」
「もちろん。このとおり、ピンピンしてますぞ」
ユーグ様は法衣の右袖をめくり「ふん!」と腕に力を入れました。
見えているのは肘から先だけですが、聖職者とは思えないほど逞しい筋肉が盛り上がっています。
若いころのユーグ様はテラリス教のなかでも武闘派(物理)で知られた人物で、私のおじいさまとは喧嘩友達、かつ、恋敵でもあったそうです。
当時十五歳だった私のおばあさまを巡り、三日三晩に渡る死闘を繰り広げたのだとか。
戦いそのものは引き分けだったものの、おばあさまはおじいさまと結婚したので、実質的にはおじいさまの勝利でしょうか。
ユーグ様は二人を祝福し、潔く身を引きました。
そして聖職者としての務めに専念し、王都の大司祭にまで上り詰めたようです。
そういう背景もあってか、ユーグ様は私のことを自分の孫娘のように可愛がってくれています。
「ところでフローラリア様、少し、髪形を変えられましたかな」
ええと……何のことでしょうか。
まったく心当たりがないのですが。
「その三つ編み、よく似合っておりますぞ」
あっ。
左手を耳の近くにあてると、そこにはマリアが作った三つ編みが残っていました。
元に戻してなかったんですね……。
左隣に座るマリアにジト目を向けると、彼女はクスッと笑いました。
「まあまあ、落ち着いてくださいまし。こうして大司教様も褒めてくださっているわけですし、ここはむしろわたくしに感謝するところですわよ」
「アリガトウゴザイマス」
「ひどい棒読みですわ。大司教様、どう思われまして?」
「いやはや、お二人は本当に仲がよろしいですな。眺めているだけで心が癒されますわい」
ユーグ様はほっこりとした表情を浮かべています。
ちなみにこの場にマリアがいる理由ですが、私の親友だから、というだけではありません。
実家のシスティーナ伯爵家はテラリス教との関係が深く、さらに、彼女の父親であり伯爵家当主のヘルベルト様は枢機卿として教会の中枢に関わっています。
枢機卿とは、テラリス教の最高権力者である教皇を補佐する立場で、国にあてはめるなら大臣のようなものでしょうか。
マリアの家って、爵位としては伯爵ですけれど、影響力はかなり大きいんですよね。
「そういえばマリアンヌ様、枢機卿閣下はご壮健ですかな」
「ええ。今日も朝から庭で大聖典を振り回していましたわ」
「さすが枢機卿、健康はなによりの財産ですからな」
これはちょっと説明が必要そうですね。
テラリス教にはその教義を記した『大聖典』という分厚い書物があるのですが、これを手に持ってグルンと一回転させると、全文を読み上げて祈りを捧げたのと同じだけの功徳がある……と言われています。
ただ、この話、どうやら私のご先祖さまが広めたっぽいんですよね。
故郷に『マニ車』という道具があって、そこからヒントを得たんだとか。
ただ、大聖典って鈍器として使えそうなくらい重いので、調子に乗ってブンブン振り回し、誰かにぶつけてしまったら大変なことになります。
それもあって、現在では「司教以上の多忙な地位にあり、一定以上の腕力を持つ者だけに許可される特殊な祈り」とされているようです。
ユーグ様も毎朝、左右の腕で五〇〇回ずつ祈っているのだとか。
腕が太くなるのも当然ですよね。
「さて」
前置きは終わった、とばかりにユーグ様がこちらを向き直ります。
「フローラリア様、昨夜のことはすでに聞き及んでおりますぞ。……ご無理は、しておられませんかな」
「大丈夫です。自分でも意外なんですけど、あんまりショックを受けてないんですよね」
「……人間は二種類に分けられます」
ユーグさんの口調は、いかにも聖職者らしい、諭すようなものでした。
「重大な出来事に直面したとき、感情を激しく揺さぶられる者と、かえって落ち着いてしまう者。フローラリア様は後者とお見受けしますが、それは己の感情から目を逸らしているだけのことかもしれません。……ここは神の家、そしてワシは神に仕える者の一人です。決して口外は致しませんゆえ、素直な気持ちを口にしてみてはいかがでしょうか」
「そうですね……」
私は胸元に右手を当てて、昨夜の事件を振り返ります。
突然の婚約破棄。
これについては「済んだことはどうにもならない」という感覚が強いですね。
次に頭をよぎったのは、モニカさんの優越感たっぷりの笑みです。
婚約者の座を奪い取って、それを私に見せつけることができたのですから、きっと幸福の絶頂にあったのでしょう。
とはいえ、王子様と結ばれてめでたしめでたし、はおとぎ話の中だけのこと。
王族の一員になれば、女性同士の人間関係よりもずっと複雑怪奇な、どす黒い政治の世界が待ち受けているわけです。
モニカさん、大丈夫でしょうか……?
他人事ながら心配になってしまいます。
そして最後に私の心に浮かんできたのは、クロフォード殿下の言葉でした。
――辺境伯家など、国の端にいるだけの役立たずだろう。
なんだか胸がむかむかしてきます。
あっ。
自分の気持ち、やっと分かったかもしれません。
「ユーグ様、それからマリア。聞いてください」
「伺いましょう」
「フローラ、やっぱり、辛かったのですわね……」
「いいえ、違います」
私はマリアの言葉に首を振りました。
「クロフォード殿下は我が家のことを馬鹿にして『役立たず』と言いました。婚約破棄のことはともかく、それだけは絶対に許しません。……今更ですけど、殿下のほっぺたを叩いておくべきでした。グーで。三十回くらい」
「ボコボコですわね……」
「クロフォード殿下の命が危ないですな」
ユーグ様は苦笑すると、懐かしむように呟きます。
「しかしフローラリア様は、祖父殿によく似ておられますな。自分自身ではなく、周囲のために怒るところなどそっくりです」
私のお祖父様ですが、すでに一〇年前に病気で亡くなっています。
お葬式はユーグ様が取り仕切ってくださったのですが、途中からお祖父様との思い出話を語り始めて、会場に号泣の嵐を巻き起こしたことは記憶に残っています。
「ともあれ、気持ちは理解いたしました。ワシにとってフローラリア様は大切な孫娘のようなものですし、悲しんでおられるようならば聖騎士たちを率いて王宮に乗り込む所存でしたが、今はひとまず静観させていただきましょう」
是非そうしてください。
フォジーク王国では全土でテラリス教が信仰されていますが、王家と教会というのは大昔からずっと水面下で対立を続けています。
この五年のあいだに関係はちょっとずつ改善傾向にあったのですが、私が原因で決裂するようなことになれば、さすがに頭を抱えるしかありません。
「国王陛下は、聖地の教皇殿に当ててフローラリア様とクロフォード殿下の婚約解消を伝える書状を送ったようですな。……ワシのところに送ると厄介事が起こると思ってのことでしょうが、はてさて、どうなることやら」
「教皇猊下はフローラのことをずいぶんと気に入っていますものね……」
マリアが嘆息します。
「ただ、だからこそ今回の婚約破棄が起こったのかもしれませんわね」
「どういうことですか」
私が訊ねると、マリアは声を潜めながら答えます。
「テラリス教は自分たちと関係の深いフローラを次の王妃に据えることで、間接的に王家を乗っ取ろうとしている。……半年くらい前から、ときどき、そんな噂を耳にしますの」
「その話はワシも聞き及んでおります」
ユーグ様は嘆かわしそうな表情を浮かべました。
「国王陛下は昔から被害妄想が強いですからな。噂を真に受けた可能性はあると思いますぞ」
「ありがとうございます。覚えておきますね」
私は礼を告げながら、心のメモにこの話を書き留めておきます。
帰ったらお父様とも情報を共有したほうがよさそうですね。
「ところでユーグ様、ちょっと相談させてもらっていいですか」
「もちろんです。何でもおっしゃってください」
「今後のことなんですけど、リベリオ大聖堂での治療活動って続けても大丈夫ですか? 私はもう次期王妃じゃなくなっちゃったわけですし、前提が崩壊したというかなんというか……」
「ああ、それについては気にすることはありませんぞ」
ユーグ様はにっこりと笑って私に告げました。
「孫におねだりをされたなら、喜んで答えるのが爺というものでしょう」
あっ、そういう感覚で許可を出してくれていたんですね。
いや、まあ、前にも同じことを言われましたけど、社交辞令とばかり思っていました。
どうやらユーグ様としては本気だったみたいです。
あらためて考えてみれば、私、人間関係に恵まれてますね……。
そのぶん、周囲にお返しができればいいのですが。
「フローラリア様の存在は、王都の人々にとって大きな心の支えとなっております。それは婚約を破棄されようとも変わることはありません」
ユーグ様の口調は、やけに真剣なものでした。
「いずれ大きな転機が訪れるでしょうが、ご自身の思うままにお進みくだされ。それが一番です。ワシも及ばずながら力添えいたしますぞ」
ええと……。
なんだか話の方向性がいきなり抽象的というか、フワッとしたものになりましたね。
まあ、たぶん、ユーグ様としては、私のことを応援してくれているのでしょう。
私は笑顔で「ありがとうございます」と答えました。
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