第一章 殿下の様子が、ちょっと変です!①
突然の婚約破棄。
あまりにも想定外の事態に、私は混乱を通り越し、スッと冷めた気持ちになっていました。
「……どういうことですか」
「言葉通りの意味だが」
クロフォード殿下は眉一つ動かさず、淡々とした調子で答えます。
細い身体と、男性にしては長めの金髪。翡翠色の瞳はどこか昏い光を讃え、今は亡き王妃様の面影を漂わせる端正な顔立ちとあいまって「陰のある美男子」といった印象です。
あれ?
そういえば顔色があんまり良くないですね。
以前にお会いした時に比べると、頬がずいぶんとこけたように感じます。
クロフォード殿下は幼いころから頻繁に体調を崩しており、お医者様からは偏食が原因だと言われていました。
放っておくと、食事の野菜をすべて残しちゃうんですよね。
私が王都で暮らしていたころは宮廷料理人のみなさんと一緒になって『お野菜を食べてもらおうキャンペーン』を展開していました。
成果としては上々で、病気がちだった身体も少しずつ健康に近付いていたのですが、今のクロフォード殿下からはいかにも不健康な雰囲気が漂っています。
私はこの一年ほど、事情があってナイスナー辺境伯領に戻っていました。
王都に帰ってきたのは、つい昨日のことです。
だからクロフォード殿下の身に何が起こったのかは分かりませんが、どうにも嫌な予感がします。
「俺は、貴様がいない一年の間に、生涯を共にすべき本当の相手を見つけた」
「それが婚約破棄の理由ですか。別の女性を、婚約者に立てる、と」
「察しがいいな、フローラリア。その通りだ」
殿下は口の端を歪めると、チラリと左を向きました。
「モニカ、こっちに来い」
「はぁい」
殿下に呼ばれてやってきたのは、薄桃色のドレスを着た女性でした。
まるで勝ち誇るように得意げな表情を浮かべています。
「紹介しておこう。彼女はモニカ・ディ・マーロン、俺の新たな婚約者だ」
「こんばんわぁ、フローラリアさま」
モニカさんの声は、ハチミツに山ほどの砂糖を混ぜ込んで、そこにメープルシロップを何度も塗りこんだように甘ったるいものでした。
「お久しぶりです、モニカさん」
私、実は彼女と面識があるんですよね。
モニカ・ディ・マーロン。
マーロン伯爵家の令嬢で、二年前、春の園遊会で一度だけ顔を合わせています。
ただ、当時はこんなこんなとろけた話し方ではありませんでした。
異性の前ではガラリと態度を変えるタイプなのでしょうか。
そういう人を見ると「結婚してからはどうするんですか」と訊いてみたくなります。
家庭でもずっと演技を続けるのは無理があるでしょうし、夫となる男性以外にもその態度を続けるのであれば、ドロドロしたトラブルのもとになりそうです。
モニカさんに話を戻すと、私よりも一つ年上だったはずなので、今は十六歳でしょうか。
ややたれ気味の目尻は、どこか小動物めいた愛嬌があります。
身長は私と同じく低いほうなのですが、色々と出ているところは出ています。羨ましいですね。
ただ同時に「魔物に襲われたら逃げるのが大変そうだな」と思わないでもありません。
……いけませんね。
つい先日まで西の殺伐とした環境に身を置いていたせいか、物騒なことばかり考えてしまいます。
「さっきクロフォードさまがおっしゃいましたけど、わたし、婚約者になっちゃったんですぅ」
モニカさんはゆるいウェーブのかかった栗色の髪を右手でくるくると弄びながら、まるで自慢するように殿下との馴れ初めを語り始めます。
「フローラリアさまが王都を離れているあいだ、クロフォードさま、とーっても寂しそうにしていらっしゃったんですよねぇ」
「はあ」
いきなり話の腰を折るようで申し訳ないんですけど、それ、本当ですか。
私たちの婚約というのは政治的な思惑によって決まったもので、クロフォード殿下はいつも不満そうにしていました。私の不在を喜ぶことはあっても、寂しがるとは思えないんですよね。
うーん。
なんだか違和感があります。
私が考え込んでいるあいだも、モニカさんは一人で気持ちよさそうに喋り続けています。
その内容も首を傾げたくなるようなものでした。
「わたし、寂しそうなクロフォードさまのことが放っておけなくってぇ、ちょっとでも孤独を癒せたらと思っておそばにいたんですぅ。婚約者の座を奪い取るつもりはなかったんですけどぉ、気が付いたらこうなっちゃいましてぇ……」
「そうなんですね」
ひとまず相槌を打っておきましたが、モニカさん、それは言い訳として苦しいと思いますよ。
婚約者のいる男性に近付くなんて、しかもそれが次期国王である第一王子とか、どう考えたって下心がありますよね。
ニコニコと花が綻ぶような笑顔を浮かべていますが、頭もお花畑になっていませんか。
「ごめんなさいねぇ、フローラリアさま。でも、結婚ってお互いの気持ちが大事ですし、やっぱり愛がないとダメかなぁ、って思うんですよねぇ」
モニカさんは見せびらかすようにクロフォード殿下の左腕に抱き着くと、自分の胸をグイグイと押し付けました。
二人の関係を見せつけたいのは理解できますが、さすがに貴族としての品格に欠けるのではないでしょうか。
私がそんなことを思っていると――
「……チッ」
ちょっと待ってください。
殿下、いま、舌打ちしませんでしたか。
というか、ものすごく冷たい眼でモニカさんのことを見ていたような……。
モニカさんの反応はというと、婚約者の立場を手に入れたことの自慢に忙しいようで、殿下の様子にはまったく気付いていません。
「フローラリアさまのために忠告しておきますけどぉ、いまさらクロフォードさまを奪い返せるとは思わないでくださいねぇ。わたしたち、愛し合ってますから! うふふふふふっ」
「……そういうことだ」
クロフォード殿下は面倒くさそうな表情のまま、突き放すような口調でこう告げました。
「貴様との婚約破棄はすでに父上の了解も取り付けている。さっさと辺境に帰ることだな」
* *
クロフォード殿下とモニカさんが去ったあと、私はその場にひとり残されました。
パーティの会場は騒然としています。
まあ、当然ですよね。
今回の夜会は、一年に及ぶ戦いの末、ようやく魔物の大軍勢を退けたナイスナー辺境伯家を労うために国王陛下が主催したものです。
ところが第一王子のクロフォード殿下が、ナイスナー辺境伯家の娘である私に対して婚約破棄を叩きつけたわけですから、なんというか、色々とぶち壊しになってしまいました。
この国の歴史を振り返ると、恥ずかしい話ですが、王族による婚約破棄というのは決して珍しいことではありません。
政略結婚に反発し、自分が決めた相手と大恋愛の末に結ばれる――。
まるで小説や演劇のような、けれども現実に起こってみれば周囲の人々にとって迷惑極まりないスキャンダルが何度も起こっているのです。だいじょうぶですかこの国。
古い伝承によると、結婚とは精霊の祝福を受けた神聖な儀式であり、一度は決まった婚約を覆すのは罰当たりな行為と言われています。それなのに国のトップに立つ王族が率先して好き勝手をやっているわけですから、精霊が実在するのなら怒り狂っているところでしょう。
ただ、先程の婚約破棄については少しだけ違和感があるんですよね。
クロフォード殿下の、モニカさんへの態度を思い出してください。
舌打ちをしたり、冷たい眼で眺めたり、彼女への愛情というものがまったく感じられません。
あれが真実の愛というのなら、殿下は情操教育をイチから受け直すべきでしょう。
そのあたりを考えると、今回の婚約破棄は恋の熱情に突き動かされての暴走ではないように思えてくるのです。
じゃあ何なのかといえば……実は私、さっきから「婚約を破棄されたショックで打ちひしがれている可憐な令嬢」を演じながら、周囲の貴族たちを観察しているんですよね。
おかげでちょっと答えが見えてきました。
辺境伯家の娘は、転んでもただでは起きないのです。
さて、会場にいる貴族の反応について説明しますと、九割ほどは困惑の表情を浮かべていますが、満足そうに頷いている人もチラホラと混じっていますね。
ヒゲのトレフォス侯爵、太っちょのタルボール伯爵、、頭部が眩しいオクパス男爵などなど、みなさん、ナイスナー辺境伯家を敵視している貴族家の当主ばかりです。
なんだか嫌な予感がしますね。
今夜のパーティにはお父様と一緒に来ていますので、現状について話し合いたいところなのですが、一体どこにいるのでしょう。
そういえばさっき国王陛下に呼ばれて会場の外に出て行ったような……。
――ヒュウウウウウッ。
それは突然のことでした。
肌を刺すような冷たい風が吹き抜けたかと思うと、会場の空気が一変しました。
周囲の人々はひとり、またひとりと口を噤み、私から距離を取るように離れていきます。
いったい何が起こっているでしょうか。
背後を振り向くと、会場の出入口にある大きな扉を通り、一人の男性がこちらに近付いてきます。
その髪は、私と同じ銀色です。
引き締まった長身の持ち主で、黒を基調とする礼服を見事に着こなしています。
名前は、グスタフ・ディ・ナイスナー。
ナイスナー辺境伯家の現当主であり、私の大切なお父様です。
年齢としてはすでに四十歳を越えているのですが、顔立ちは若々しく、涼しげで怜悧な雰囲気を漂わせています。瞳はすきとおるような薄青色で、他の貴族からは「氷の辺境伯閣下」と呼ばれることも多いのだとか。
「フローラ」
お父様が口にしたのは、親しい人だけが使う、私の愛称です。
フローラリア、だとちょっと長いですからね。
「国王陛下から話は聞いた。おまえとクロフォード殿下との婚約を白紙に戻す、と」
「……はい」
私は落ち込んだ演技を続けながら答えます。
「先程、殿下から直々に婚約破棄を言い渡されました。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。私、もう、どうしていいか分からなくて……」
「酷い話だ。我が家の天使に、こんな仕打ちをするとは……」
お父様は目を伏せると、痛ましげな表情を浮かべました。
それから周囲にサッと視線を走らせると、床に片膝を着け、私のことを抱き締めます。
会場にいる人々からすれば、傷ついた愛娘を慰める父親のように見えることでしょう。
まあ、実際は違うんですけどね。
お父様は私の耳元で囁きます。
『実際、婚約破棄についてはどう思っている』
『最初は驚きましたけど、今はそんなに動揺してませんね』
『やはり、そうだったか』
『ええ、もちろんです』
私とお父様は視線を合わせると、小さく頷き合いました。
なんだか通じ合っている感じがして、楽しい気分になりますね。
ちなみにお互い、喋っているのはこの国の言葉ではありません。
私のご先祖さまであるナイスナー辺境伯家の初代当主は遠い場所からやってきた人なのですが、その故郷の言葉である『ニホンゴ』を学ぶことが代々のしきたりとなっています。
これ、意外と役に立つんですよね。
メモや手紙に使えば我が家の人間にしか読めない暗号になりますし、今みたいに内緒話をする時にもピッタリです。あと、気持ちがワクワクしてきます。他人には理解できない秘密の会話とか、それだけで楽しいじゃないですか。
とはいえ、そのあたりの内心を表に出すと演技が崩れちゃいますので、あくまで悲しみの表情を浮かべたままお父様との話を続けます。
『今回の婚約破棄ですけど、たぶん、裏があります』
『ほう』
『クロフォード様は新しい婚約者のことをさほど大事にしていません。それに、トレフォス侯爵を始めとして、我が家を敵視している貴族家の当主たちの様子も気になります』
『よく観察しているな。……まったく、誰に似たのだか』
お父様はわずかに苦笑すると、私のことをさらに強く抱きしめます。
『婚約破棄の裏側についてはわたしの方で調べておこう。辺境伯家は多くの特権を持っているだけに、周囲の妬みを買いやすい。我が家を追い落とそうとする貴族が出てきてもおかしくない』
『私も同じ意見です。とりあえず、今夜はこのまま帰りましょう』
『ああ。できればトレフォス侯爵たちを油断させておきたい。演技は続けてくれ』
『分かりました。私は俯いていますので、手を引いてもらえますか』
『もちろんだとも。馬車までエスコートしよう。……ただ』
お父様はそこで言葉を切ると、いつになく鋭い声でこう告げたのです。
『わたしは、おまえがクロフォード殿下の身体を気遣い、色々と手を尽くしていたことを知っている。あの男はそれを踏みにじった。……どんな事情があろうとも、いずれ必ず報いを受けさせる』
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