kiss×6 俺の初体験
微熱のある
柊もいたら、この景色を一緒に見れたのに。雪の結晶や星、ガラスのオーナメントで彩られたツリーが寒さを吹き飛ばすくらいに俺の視覚と思考を鷲掴みにしてくる。
冷え切った足のつま先も忘れ軽やかな足取りで進む。けれどやはり寒い。
(さっみー! 柊と入ってた布団の中が温すぎた)
お洒落な喫茶店や食パン専門店、雑貨店などが立ち並ぶ商店街をゆくと、ひときわ目を引くバニラアイスクリーム色の外観をした、カフェのような佇まいの美容院につく。ここは柊の兄貴が店長として勤務している店だ。
初めて踏み入れようとする世界に少し後ずさる。
その一歩が踏み出せない。
やっぱり体調不良の柊を無理やり引っ張ってこればよかったか。スマートフォンで時間を確認すると、もうすぐ約束していた十四時になる。
髪の毛が伸びてくると〈シャンプー、セット、髭剃り、耳掃除なし〉の千三百円ポッキリ十分カットの店で普段は髪を切る。
そろそろ美容院デビューしたら? という柊の猛攻撃に合い、俺は初めての美容院にこれから挑もうとしている。
弟の柊とは十二歳離れている。現在二十九歳。結婚して、おやゆび姫のように小さくて可愛い奥さんと三歳の息子と暮らす。
俺も柊同様、聖さんには弟のように可愛がってもらっていた。実際今でも可愛がってもらっているのだが。
カラン、カラン、カラーン
突然、美容院の扉が開く。
「景都、いらっしゃい。どうしたの突っ立って。中入って」
「あ、うん」
運よく聖さんが出てきた。長めの髪はウェーブにしていて後ろで緩く一つに結う。髪色、そういうのに疎い俺にはうまく説明できないが、ファッション雑誌から出てきたような感じに仕上がっていると思った。
「鞄とコート預かるよ」
一人一人仕切られたロッカーのような棚に鞄を入れ、コートはハンガーにかけられた。
(マジか、荷物専用ロッカーかよ! いつも行くカット店のちょい置き棚とは違うな)
やや興奮気味になったので鼻から圧を出しておいた。
ここから先は未知の領域だ。
頼りの柊もいないし全ては聖さんにお任せするしかすべはない。
無料だし兄貴が全部やってくれるし……と柊の策略にまんまと乗せられカットモデルをするはめになった。無料というワードに弱い俺。
んふぅ、んふぅ
今まさに敵と相まみえると思うと鼻息も自然と荒くなる。
「柊から聞いてるけど美容院初めてなんだって? 緊張しなくて大丈夫だよ景都。シャンプー以外は俺が担当するから安心して」
「うん」
全部聖さんがやるんじゃねえのかよ、と突っ込みたくなったが。致し方ない。従うとしよう。緊張からか、いつにも増して口数が少なくなる。
ふっかふかのソファーに座って、ヘアスタイルの雑誌をあれこれ見ては髪型を決める。聖さんは「景都の高校、髪染めるのオッケーだから、ちょっと染めちゃおうか」と軽く言う。
(おいおい、初茶髪かよ)
ざっくりと髪型とカラーの色を決めるとシャンプー台のあるブースへ連行され、シャンプー専用の椅子に腰かけた。
案外座り心地がよくて即眠れそうだと思った。銭湯とか旅館に置いてあるマッサージチェアーとよく似ている重厚感。
「椅子、ゆっくり倒しますねぇ」と全身真っ黒なコスチュームの、さながら吸血鬼のようなゴスロリ風メイドお姉さんが言う。
どうやら聖さんからバトンタッチしたようだ。
「あー、はい」
だが椅子が完全にフラットになっていないことに驚く。
(待った待った待った! 何でこんな中途半端に止まってんの、この椅子! 普通もっとフラットになるだろ! 水が首に入るじゃん。壊れてんのか?)
「旭様、首元にはお水入りませんのでご安心下さいませぇ。この椅子って、腰の悪い方でも利用できるように椅子のような形状で止まるんですよぉ」
静かにパニくる俺にヴァンパイアメイドはシャンプーの準備をしながら俺の欲しかった答えを察してくれた。
「なるほど……俺、初めてなんで」
「そぉなんですね。ではシャンプーしていきますねぇ」
適度な温度の心地よいシャワーの水圧が頭皮にかかる。
「お湯加減は熱くないですかぁ?」
(何、お湯加減だと? 風呂かよ! いや普通に気持ちいいし)
「はい、気持ちいいです」
(はあ? 俺、気持ちいいとか何言っちゃってんの)
「ありがとうございますぅ」
ヴァンパイアメイドによるシャンプーテクは神業で、このまま眠ってしまいそうなくらいに気持ちのよいものだった。
「旭様、旭様、」
んん、どこかで俺を呼ぶ神の声が。
「どこか痒い所はございませんかぁ?」
(はあっ!? 何その攻撃。痒い所って、そりゃ頭皮でどこか痒い部分はないかと聞いてるんだろ。馬鹿正直にどこそこが痒いとか言えるか)
そう尋ねられると、ある部分がちょうどムズムズと痒くなってきたが「いえ痒い所ないです」と答えれば「はい、ありがとうございます」とお礼を言われた。
(何とか回避回避!)
俺の頭皮をマッサージしながら丁寧にシャンプーをしていく。さらに追い打ちをかけるように俺を攻め立てるヴァンパイアメイド。
「力加減はいかがですかぁ?」
「えっ?」
「指の力加減です。もっと強めにしてほしいとか、もう少し弱めにしてほしいとかですよぉ」
そんな辱めなことまで聞いてくるか──!
や、そうじゃない。せっかくこうしてヴァンパイアメイドが俺に尽くしてくれているではないか。答えようじゃないか。
じゃあどうする?
今の力加減が標準ってことでいいんだよな?
だったら俺はもう少しソフトなあたりでもいいように思うが。
いや、でもハードなのも試してみたい気がする。
「旭様、どういたしましょう?」
「あ、や、これで大丈夫です」
嗚呼、勿体ない。どうしてこういう肝心な時に言えないんだ。情けない。
十分カットしか利用したことのない俺にとって人に髪の毛を洗ってもらうなど想像もしていなかった。こんなにも気持ちのいいものだったのかと感動すら覚える。
ヴァンパイアメイドはトリートメントをして流し終えると、タオルで水気を拭きとり椅子を元に戻した。ご丁寧に耳の見えてる部分もタオルをかませた指の腹でクリクリッと優しく拭いてくれた。
(すげえし、美容院。確かに耳の中にも水かかるもんなあ。すげえ)
もはや、すげえしか出てこない。
「あ、ありがとうございます」
「こちらこそありがとうございます。旭様が気持ちよくなられていたのでとても嬉しいです」
母さんが「美容院に行くと姫気分を味わえるから幸せなのよねえ」と言っていた意味が何となくわかった気がした。
「景都、カットする前に染めちゃうね」
「ああ、うん」
聖さんが俺の黒髪に筆のようなものでペタペタと塗り始めた。鼻にツーンとくる液体を塗り込む。その度に頭皮が冷たい。
(ああ黒髪よ、さらば。これがカラーというやつか?)
そして茶髪になる液体はやけに鼻を刺激する。
「頭皮、染みたりしない?」
「うん、だいじょーぶ」
(と思います。刺激臭ヤバいけど)
塗り終えると染まるまで暫く待機。わかりもしないファッション雑誌に目を通して待った。聖さんから再びヴァンパイアメイドにバトンタッチ。カラーを落とすため、またもシャンプー台へ連行される。俺はまた夢の世界へとご招待されていく。
シャンプーをしてもらって頭が軽くなった状態で聖さんの前に座った。少し濡れた髪のまま、伸びすぎた髪の毛を聖さんの神の手によって切られていく。
(うわっ、すげえ! 聖さんやっぱカッコいいなー)
俺は正面の鏡をじっと見つめていた。
俺なのに俺じゃない。
誰だコイツ。
本当にお前、旭 景都なのか。
大型の鏡に映る俺に語りかける。
カットがあらかた終わると、まだ少し濡れている髪の毛をドライヤーで乾かし始めた。乾いてくるとカラーリングされている髪がはっきりと浮かび上がる。
ドライヤーからハサミに持ち替えた聖さんは気になる箇所をカットしながら丁寧に最終調整していく。ヘアクリームを指の腹にすり込んでから髪の毛を持ち上げるようにつけて、手のひら全体で整えた。
「ほら景都。どう? こんな感じで。色白だからそのカラー似合うよ」
「凄いな聖さん。マジでこれ俺なの?」
「イメチェン成功だな。帰ったらカッコよくて柊驚くぞ。景都もこれからは俺のとこ来いよ。カットモデルならいつでも無料でするからさ」
(ふ……柊、何て言うかな)
「うん、ありがとう。聖さん」
カットモデルなので料金は無料。
その代わりにカットした髪型の写真をパシャパシャ撮られた。美容院のHPやツイッター、新聞の折り込みチラシ、タウン誌の広告に使用するらしい。
写真を撮られるのはそんなに嫌じゃないから正面から決めてやろうと思ってたのに、横向きでって聖さんが。
「景都イケメンだし横だけじゃ勿体ないからやっぱ正面いこう」
(待ってました!)
長めの前髪で目元は隠れ気味に、俯き加減に決めたところを何枚か撮っていく。
黒髪から青みがかったアッシュ系へ。その名をブルーグレーアッシュと呼ぶらしい。わけわかんないけどカッコいい。 襟足は刈上げ、前髪は長めに作ってある。鏡で全方向イケてるかチェックしてみる。
モデル気取りのクソブタ野郎とは、まさに俺のことかよ。
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