第107話隣の心春の部屋で、治部煮を食べる。

翼が玄関に出ようと立ちあがると、「心春です」の声。

玄関を開けると、心春が「あの、明日、よろしくお願いします」と頭を下げる。


翼は「承知しています、心配はいりません」と答える。

会釈して玄関ドアを閉めようとするけれど、なかなかすんなりとは、進まない。


心春は聞いてきた。

「入学式の後に、予定はあります?」。

「特にはないよ、武道館だから、そのまま神保町にでも歩くかなとか」

「それか、疲れていたら、そのまま帰って来る」


それでも、「玄関先で立ち話も」と思ったので、「部屋に入ります?」と声をかける。


心春は、笑顔。

首を横に振る。

「翼さんのお部屋でなくて、私の部屋でどうですか?」

何かたくらんでいる表情が見て取れる。


翼が。「はぁ・・・」とためらっていると、心春は翼の袖を引く。

「あの・・・治部煮を作りました」

「お味を見ていただきたくて」

と、誘って来る。


翼は、また迷う。

何しろ、ペペロンチーノを作って食べたかったのだから。

それでも、心春の笑顔と、金沢の名物料理には抗しがたい。

「わかりました、女性の部屋に入るのは緊張しますけれど」

と、了承の意を示す。


翼は、袖を引かれたまま、心春の部屋に入った。

心春の言う通り、確かにテーブルの上に、大量の治部煮。

ていねいに、茶碗と箸が翼の分までセットされている。


心春

「お米は、金沢のコシヒカリ、というか実家の米です」

「お味噌も自家製のものを送ってもらいました」

「お茶は、静岡川根茶です」


翼は困惑。

そこまでの準備か、と思うので、心春に押され気味になる。


さて、「治部煮」は鴨肉や鶏肉の切身に小麦粉をまぶして、季節の野菜と一緒に出し汁で煮込んだ加賀地方の伝統料理。

鴨肉や鶏肉を薄切りにして小麦粉をまぶす事で、肉の旨味を封じ込めて汁にとろみをつけるだけでなく、冷めにくくする。

天然の鴨肉が原則になるけれど、現在では天然鴨肉は稀少のため、合鴨や鶏肉を使うことが多い。

また、季節の野菜として、セリ、たけのこ、れんこん、しいたけ、百合根などの加賀でとれる野菜を使う。

江戸時代から伝わる加賀特産のすだれ麩も一緒に煮込む。

最後に薬味としてわさびを添える事で全体の味を引き立てる。


翼の椀に、心春が治部煮を入れた。

翼は「いただきます」と、口に入れる。

心春は、不安そうな顔。


「出汁が、しっかりとして、いい感じ」

「全ての具材にしみ込んで、素直に美味しく食べられます」

「ご飯も美味しく食べられる、最高の飯の友かな」


心春の顔が赤くなる。

「もともと、家庭料理です」

「金沢の高級料亭と言われる店でも、必ずといって良いほど治部煮を出しますが、家庭料理を九谷焼や金沢漆器などの高級な器に盛り付けるだけです」


翼は、治部煮について、それ以上のコメントは、避けた。

明日の入学式以降に、心春が何をしたいのかを聞くことが、先決と思っている。


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