第44話翼の鎌倉散歩(6)教会をやっと辞し、北鎌倉に

翼は仕方ないので、「もう一曲だけ」付き合うことにした。

曲は、映画「ニュー・シネマパラダイス」のテーマ曲。

オルガンの伴奏に合わせて、女子たちがコーラス、翼が澄んだテノールを教会全体に響かせる。


曲が終わり、女子たちは、翼を再び取り囲む。


「はぁ・・・このまま配信したいくらい」

「翼君に負けている、私たち練習しないと」

「ねえ、指導もして、どうすれば美しい声が出せるの?」


翼は、答えに難儀していたけれど、ようやく声を出す。

「あの、それはともかく、本当にそろそろお暇します」

「行きたい場所があるので、ごめんなさい」

香織にも、目配せ、「本当に」の意味を伝える。


香織は残念そうな顔。

「ごめんね、久々にいきなり逢って、うれしくて」

「でも、一緒に歌ってくれて」

「都合があるなら仕方ないよ」


そして翼の手をギュッと握る。

「また逢ってくれる?一緒に歌ってくれる?」


翼は、香織の顔をつぶしたくなかった。

「うん」と承諾、スマホをポケットから出す。


香織だけではない。

他の女子たちの顔も輝いた。

あっと言う間に、アドレスは登録されてしまった。



さて、翼は、やっとのことで教会を出て、再び歩き出す。

「少し冷たかったかな」と思うけれど、あれ以上居残るのも、不自然と思った。

「また逢うとも、連絡もつくようにしたから」と、最低限の誠意を示したと思う。


若宮の通りを少しのぼると、鶴岡八幡宮が見えて来る。

「とても、あの階段をのぼる気がない」

左側を見る。

「小町も混んでいるかなあ、息が詰まる」

「特に欲しいものもない」


翼は、少し歩いてタクシーに乗る。

「円覚寺まで」

言い終えてホッとした。

円覚寺の境内は広いけれど、北鎌倉駅の目の前にあるから、帰るのにも楽だと思った。


時計を見ると、既に午後三時。

「夕ご飯は、門前の精進料理かな」

「電話して予約するかな・・・そう言えば、武さんいるかな」

かつてグループの和食部門にいた武が、円覚寺門前の精進料理店にいることを思い出した。


「いろいろ教えてくれて、和食の師匠だった」

「厳しいけれど、その中に滋味がある」

「基本をきっちり、手抜きはしない」

「だから、食べていて安心感がある」

「奇をてらうと、その時限り、ロクなことはない」


少しの渋滞があり、タクシーは円覚寺近くになった。

翼は、「ごめんなさい、そこで停めて」と、運転手に声をかける。


運転手も驚いた顔。

「いいんです?そこの精進料理の店で?」


翼は、少し笑う。

「はい、昔からの知り合いが、あそこで掃除していまして」


翼がタクシーから降りると、「武」も気がついたらしい。

大きく手をあげて、笑っている。


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