第43話翼の鎌倉散歩(5)翼の歌と、その効果

翼は、簡単には教会を出られないと判断した。

せめて義理でも一曲は歌わないと難しいと思うし、それで「下手」と判断されて、「お払い箱」になったほうが、手っ取り早いと思った。

これこそ「急がば回れ」「損して得取れ」かもしれない、と香織の次の言葉を待つ。


香織は、翼を囲む女子大生を押しのけて、翼の前に。

「私も含めてコーラスのサークルなの」

「女子大生っぽいけれど、みんな入学前」

「全員フェリスでね、中学と高校の同級生なの」


翼は、「はぁ・・・」と頷きながら、頭を下げる。

「香織さんがお世話になりまして」

その言い方が面白かったのか、全員がドッと湧く。


香織もプッと笑いながら続けた。

「曲は、教会だから讃美歌ってだけではないの」

「何でも歌うよ」

「練習は、土曜とか日曜」

「それでね、今日はカッチーニのアヴェマリア」

「それと、適当にポップスかなあと」


翼は、すでに度胸を決めているので、素直に頷く。

「いいよ、下手だけど、香織ちゃんとは久しぶりだし」


香織の動きは早い。

さっと翼に楽譜を見せ、オルガン担当らしい女の子に目で合図。

そしてオルガン担当の女の子が、小走りにオルガンに。

そのままカッチーニのアヴェマリアの前奏を弾き始める。


他の女の子のハーモニーも始まり、香織がソロを取る。

翼は、まだ歌わない。

注意深く、香織の歌やオルガン、和声に耳を凝らす。


香織のソロによるワンコーラスが終わった。

次は、翼がソロを取る。


翼が歌い出した時点で、香織が女子全員を見る。

そして、全員の顔が輝く。

オルガン女子は、途中から泣いている。

よほど、翼の歌が気に入ったらしい。


そんな状態で、カッチーニのアヴェマリアが終わった。


翼は頭を下げて、全員に謝る。

「ごめんなさい、マジに最近歌っていなくて、声も出ないし、下手で」

「お耳汚しをしてしまって」

「それでは、お邪魔しました」

「今日のことは、忘れてください」

と、再び「教会を出て行く」サインをする。


しかし、また引き留められる。

香織

「子供の頃から、そうなの・・・引っ込み思案の時がある」

「あのね、マジに上手過ぎて・・・はぁ・・・感動したよ、うれしい」

「だから、出て行っちゃだめ、もっと歌おうよ」


他の女子からも、次々に「お引き留め」の声。

「いや、正式にメンバーになっていただけません?」

「もっと、一緒に歌いたいよね」

「香織とだけでなくて、私とデュエットして欲しいなあ」

「ねえ、順番決めようよ、デュエットの」

「このまま、コンサートできるよ」


翼は戸惑う。

「いや、そう言われましても」

「住んでいるのが高井戸で・・・鎌倉には遠いし」

「1時間以上かかりますし」


すると香織が、翼の手を取る。

「問題ない、高井戸でしょ?知り合いだし」

「両方で歌えばいいよ、私たちが、そっちに行ってもいいよ」


そんなことで、翼は、なかなか教会から出ることが難しい。

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