【9】不機嫌なルティーナ

 それからルウム艦長が何を話してくれたのか……。

 とても大切な話だというのはわかっていたけれど、私はほとんど上の空で聞いていたのだと思う。


 ルウム艦長が海賊フラムベルクを追うために、『ノーブルブルー』という海賊駆除専門の艦隊へ行きたいのだということは理解した。と、同時に、私が彼と同じ船に乗る機会は、今後恐らくないのだということも。


 私はそれが寂しいとか、辛いとかということではなく、単に悔しかっただけなのかもしれない。確かに、フラムベルクに焼き討ちされたのは、ルウム艦長のお父様の船だけれど、奴が襲ったのはエルシーア海軍の軍艦でもあるのだ。


 だからフラムベルクは、決して艦長個人の敵ではない。

 けれど、それがわかっているくせにルウム艦長は、私を再びアスラトルへ戻そうとしている。


「じゃ、人と会う約束があるので、そろそろ俺は行く事にする」


 ルウム艦長が立ち上がったので、私も椅子から立ち上がった。


「なら私も……」

「いや、君はゆっくりしていけばいい」


 ルウム艦長は黒い長外套の袂を右手で引き寄せ、静かに首を振った。


「艦長」

「心配しなくても、朝飯代は俺が払う」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど」


 私はちょっとだけむっとした。こっちこそ、ええ、今まで一緒に仕事をしたよしみとして朝食ぐらいおごるわよ。


 だがルウム艦長は急いでいるようだった。ベルトに繋いだ華奢な金鎖をポケットからひっぱりだし、出てきた懐中時計の蓋を開けて時刻を確認した。


「俺に用事があるなら、詰所の方に伝言を残してくれ。まだしばらくはジェミナ・クラスにいるから」

「あっ、ルウム艦長!?」


 じゃ、と私に一瞬だけ目配せをして、ルウム艦長は店内へ入る事ができる扉を開けて足早に去って行った。

 その扉の上部にはめられたひし形の硝子越しに、赤と白の格子模様が鮮やかな三角巾を頭に巻いたマルガリータと、ルウム艦長の黒い長外套姿が見える。朝食代を受け取ったマルガリータが、ちらと私の方を見て、『彼が行ってしまうけれどいいの?』と問いかけるような視線を向けた。


「……」


 私は肩をそびやかし、諦めたような微笑を彼女に返した。

 そうよ。私まで急いで出る必要はないわ。どうせアスラトルへ強制送還されるまでは非番なんだから。

 私はルウム艦長が出て行った扉を開けて、朝の一番忙しい時間をようやく終えたマルガリータに手招きした。


「ちょっと一息ついて、一緒にお茶を飲まない? マルガリータ?」



◇◇◇



 私がマルガリータの店を出たのは、午後1時を過ぎた頃だった。実に三時間以上も私はマルガリータに愚痴をこぼし、あまつさえ昼食さえごちそうになってしまったのだ。我ながらちょっと情けない。


「いいのよ。うちが忙しいのは朝と夕方だから」


 マルガリータは優しくそういってくれたけれど、私が彼女の貴重な時間を浪費させた事には違いない。それを詫びてから、私は嫌々ながら海軍詰所へ歩いて戻った。取りあえず人事部のセラフ主任に会って、私の転属先を聞いておかなければならない。


 なんせ私達のように、火災で船を失った軍人は、次の船に乗ろうとしても乗る船が見つからなくて、陸上待機を一年以上受けることもある。勿論、その間の給金は大幅に減額される。水兵ならば操船にも戦闘用員としても常に需要はあるが、なまじ士官だと、欠員が出るまで何日でも待たされるのだ。

 艦長の異動は人事部が決定するが、私のようなぺーぺーの尉官の異動は所属の艦長が決定する。


「グレイス中尉。お前はアスラトルの沿岸警備艦ファストレス号へ、ルウム艦長が異動申請をしている。二週間以内にアスラトルの海軍本部へ出向して、あっちで手続きをしてくれ」


 セラフ主任は金縁の眼鏡に手をやりながら、帳簿から視線をあげることなく、せかせかとした口調でそう言った。


 機械的に手渡された『申請書類』は、私にとってまだ記憶に新しい。

 なんせジェミナ・クラスへ来てからまだ一年しかたっていないから。

 私は手渡された『申請書類』(書類と言っても紙きれ一枚)を、その場ですぐに目を通した。


 だって、どんな船に自分が異動させられるのか、確認しないと不安じゃない。アマランス号へ異動の時は、紹介してくれた伯父がルウム艦長と知り合いだったから、彼のことをいろいろ教えてくれたのでよかったんだけど……。


 ちなみに『異動命令』は、その命令を出した艦長と協議をすれば、取り消し、または異動先の変更ができる。

 それにしても……ファストレス号か。最近作られた船かしら。

 まったく聞いた事がない名前だわ。


 エルシーア海軍の船名は所属する艦隊によって使う名前が決まっている。

 例えば私の所属する沿岸警備艦は、神話に出てくる伝説上の花の名前。アマランス号の『アマランス』は、天上界にそびえる『生命の木』の下で、永久に白い小さな花を咲かせる花の名で、その花の夜露を死者に与えると、魂を黄泉から呼び戻す事ができるという。


 うう……なんでこんな花の名前をつけたのかしら。私達のアマランス号は燃えてなくなっちゃったけど、いつかまた新しく作られた船が、このアマランスの名をつけられるのでしょうね。


 そうそう。船の名前と言えば、アスラトルの後方(別名:使い走り)の船は、エルシーアの代々の姫君の名がつけられているのよね。特に、王女が生まれた年に造られた船は、絶対にその名前がつけられているの。

 でも後方の船はほとんどが等級外の小さな船だから、なんとなく姫君の名前をつけるということがわからなくもないわ。


 今アスラトルで、初めて大砲を100門積載した『アストリッド』という一等軍艦が建造中なんだけど、そんなごつい船にミュリンとか、アイーシャとか、エレーナとかつけられないわよね。

 私は漏れかかった笑いを噛み潰した。


「なんかいいことでもそこに書いてあったかね?」


 ぎろりとセラフ主任の鋭い目が、金縁の眼鏡越しに光った。

 まずい。ちょっと声が出てしまったみたい。


 だって、いかにも『軍艦』っていうごついあの船に向かって、「アイーシャ号、出港準備完了しました」とか、艦長がフォアマストの帆の張り具合を確認した時、「エレーナのスカートの裾がまくれあがってるぞ。張りなおせ」なんて言うのかと思うと……それで……。


「いえ、別にいいことなんて書いてないんですけど」


 私は再びこみあげてきた笑いを抑え込み、慌てて人事主任へ返事をした。

 するとセラフ主任は書類から顔を上げて、意味ありげな微笑を薄い唇に浮かべている。普段めったに笑わない人なのに、なんなのだろう、この笑みは。

 それに私が驚きつつ、セラフ主任の四角い顔を見つめていると、彼はおどけたように肩をすくめて、ため息をつきながらしゃべりだした。


「嘘をつけ。無口なルウムに比べたら、ツヴァイス艦長の方が何倍もいいと思うぞ」

「えっ?」


 私は慌てて申請書類に目を通した。

 ツヴァイス艦長?

 本当だ。オーリン・E・ツヴァイスと艦長の欄に名前が書いてある。

 さて、こちらも知らない名前だわ。


「あの、セラフ主任はツヴァイス艦長のことをご存知なのですか?」


 ぎろり。

 セラフ主任は頬杖をついて、私の顔を見上げている。


「ああ。ツヴァイス一族はこのジェミナ・クラスの北部一帯に地所を持つ大地主でね。ツヴァイス艦長はそこの三男坊さ」


「ふーん、そうですか」

「おいおい、なんだその気の抜けたような返事は」


 別に地主の息子とか貴族の息子とか、そんなもの海軍には掃いて捨てるほどいる。今更珍しくも何ともない。


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