【10】悪夢

「地主の三男坊がどうしたんですか。それに本当にルウム艦長よりいい方なんですか? この手合は女癖の悪い人が多いっていうし。私、ちょっと不安なんですけど」


 するとセラフ主任は右手を大きく振った。あり得ない、といわんばかりに。


「女癖か。そういえば最近は、アスラトルのスディアス財閥の令嬢といい仲だという噂を聞いたが……どうだろうね。ツヴァイス艦長は実に礼儀正しい青年だよ。優男だが芸術や特に東方連国の美術品に精通していて、その道の人間には有名なようだし、社交界のご婦人達にも人気がある」


 私はなんだか憂鬱になってきた。


「そんな優雅な御趣味をもつ人が、よりにもよって軍人なんて生き方を選んだのか、私には理解できませんけど」


 するとセラフ主任の眼鏡が、今までよりも数倍鋭く光った。


「それはお前にもいえるんじゃないか? なんだって女の身で軍人になったのかは知らないが、ルウムがツヴァイス艦長の船にお前をやってくれたことに、感謝した方がいいぞ。なんせ後はがさつな野郎ばかりが乗る、外洋艦隊ぐらいしか空きがないんだからな」


「……」


 私は敢えて反論しなかった。

 異動先のツヴァイス艦長に関しても、私は彼の事を何も知らないのだし、なまじ中途半端に人に聞いて、間違った先入観をすり込まれてしまうのが怖い。


「それでは、これで失礼いたします。セラフ主任」

「ああ。元気でな、グレイス中尉」


 私は憂鬱な気分を抱えたまま、間借している部屋に帰るため、海軍詰所を後にした。実はマルガリータの店から、更に五分ほど北に歩いた所に部屋を借りているので、彼女とはご近所だったりする。


「はあ……」


 なんだかまだ実感がわかない。

 アマランス号を不慮の火災で失い、ルウム艦長にアスラトルへの異動を命じられて、今はひとり、なじみかけたジェミナ・クラスの街を歩いている。


 赤茶色に焼きしめられた瓦が葺かれた屋根と、混じりっけのない純粋な白亜の壁。建物がモノトーンの色調で統一されたアスラトルと比べて、ここは実に明るくて開放的だ。


 建物と建物が密接していて、人一人しか通れないような裏路地を抜けると、数百年も前に建てられた教会や、小さな箱庭に出たりする。まるでこの街自体が巨大な迷路みたいで、私は新しい通路を見つけると、好奇心に負けてつい足を踏み入れてしまう。


 もっとも、ジェミナ・クラスの治安はアスラトルより悪い。

 毎日朝市が開かれる広場の北側にあるルシ-タ通り(別名『盗人通り』)だけには、女一人で行くもんじゃないと、ルウム艦長に忠告されたこともあったっけ。


 けれど、まもなくこの街ともお別れだ。

 私はアスラトルの海軍本部へ、二週間以内に行かなければならない。

 民間の客船で行こうと思うから、アスラトルへは一週間かかってしまう。

 しばらくのんびりできるかな、なんて考えていたけれど、思っていたより時間はあまりないみたい。


 間借している部屋に帰って、私は軍服を脱ぎ捨ててゆったりとした寝着に着替えた。カーテンをしめて西日を遮り、ベッドへ倒れこむ。

 いろいろ気になることがないわけではないけれど、なんだかとても疲れてしまったのだ。洗濯済のシーツが放つ、石鹸のほのかな香りのせいも相まって、私はほどなく眠りに落ちていった。


 けれど訳がわからない夢ばかりみていたような気がする。

 あのアマランス号の美貌の船首像が出てきたかと思えば、いつしかそれは血肉を備えた人間の姿へと変わり、何故かルウム艦長の手を引っ張って、どこか知らない所へ彼を連れて行こうとするのだ。


 私はそれを止めようと後を追い掛けるのだけれど、今度は私の手を誰かが力一杯握りしめていて、前に進む事ができない。


『君の行く所はそっちじゃない』

『いや、放して。私は止めなくちゃいけないの。あの人を……』


 私は後ろを振り返り、無理矢理その手を振りほどこうとして――。


 浅い夢から醒めると、額にびっしょりと汗が流れていた。

 部屋の中は薄暗くて、私は目を擦りながら枕元のランプに灯りを灯した。

 ランプの側に置いてあった懐中時計へ手をのばし、時刻を確認すると、まだ宵の口の午後7時だ。


「……」


 それにしても変な夢だった。

 夢の中にまであの船首像がでてくるなんて、一体どういうことだろう。

 やたらあの像に構うルウム艦長が気になっていたから、それが印象に強く残ってしまったみたい。


 ベッドの上に座り込み、私は小さくため息をついた。

 そういえばあの像。どこに運んだのかしら。


 ルースという少年が文句を言いながら、老いたロバに引かせていたっけ。

 艦長も艦長で、『大切なものだから、大事に運べよ』なんて念を押しちゃって。

 ひょっとしたら売りに出すのかもしれないわね。私には関係ないことだけど。


 再び私はため息をついて、ゆっくりとベッドから抜け出した。

 急にお腹が空いてきちゃった。

 そういえば、マルガリータの所で食べさせてもらった昼食は軽食程度だったから、無理もないかもしれない。


 私は外出用のシンプルな紺色のドレスに着替え、ざっくりとした目で編まれたレースのケープを肩に羽織った。

 腰まである金髪を頭上で一つに結いあげて、蝶の形が彫り込まれた金細工を挿し、私は意気揚々と部屋を後にした。


 目的地は広場。今頃は多くの屋台が出て、それ目当てにやってきた人々で賑わっている時間帯だ。勿論屋台で夕食をとってもいいんだけど、新鮮な魚介類を使った料理と美味しいお酒を出してくれる、『帆柱亭』に行く事に決めた。


 本当は誰かと一緒に行きたかったけれど、ルウム艦長はもちろん、この店を教えてくれたジルバ料理長の連絡先も私は知らない。

 ジルバ料理長は嫌々ながら、アマランス号の料理長になったみたいだけど、軽そうな外見とは裏腹に、意外とその道には通じていたりする。


 私はふと彼に会いたくなった。

 数日のうちにこの街を発たねばならないことを意識したせいかしら。

 一応、お別れの挨拶ぐらいしておきたいじゃない。


 海軍を辞めさせられて、自由の身になったんだから、今頃どこかのお店で羽をのばしているんじゃないかしら。

 ひょっとしたら『帆柱亭』にいるかもしれない。


 私は一人、夕闇色に染まった空を仰ぎ見ながら、商港へと続く石畳の道を下っていった。


 この後とんでもない出来事に、巻き込まれるとは知らずに――。


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