【8】異動命令

 うわっ。なんてこと。

 私はみるみる顔が青ざめていくのを感じていた。


「そんな……、あの火災は……船が……」

「ルティーナ」


「も、申し訳ありません艦長。きっとジルバ料理長は昼食の支度で忙しかったのに、わざわざ私のいる海図室までお茶を持ってきてくれたんです。それで、鍋の火のことを忘れて……本当に申し訳ありません!」


 あの時私はこともあろうに海図室で居眠りをしていた。朝四時から八時までの朝直を終えて朝食を食べるのはいつも通りだけど、非番になって十一時を過ぎた頃、あの日は妙に睡魔に襲われて仕方なかった。海図室の扉を閉めて、その丸窓から差し込む太陽の光がとても心地良かったのを覚えている。


 ジルバ料理長はしばらく私を起こそうかどうしようか、考えていたに違いない。だって、彼は知っていたはずだもの。私の好みのお茶のを。


『……ナ。ルティーナったら!!』


 結局ジルバ料理長は私を起こしたけれど、彼の持ってきてくれたお茶はいつもと比べてすっごく

 ああ。まさかこんなことになるなんて。

 私はうつむいたまま、顔を上げることがしばらくできなかった。


「ルティーナ。そんなに落ち込むな。君のせいではないのだから」


 マルガリータの果樹園の茂みの中で、野鳥の小さく啼く声に溶け込むように、ルウム艦長の落ち着いた声が朝の静寂を震わせる。


「でも……」


 私がお茶をジルバ料理長に頼まなければ、火事は起こらなかったかもしれないとどうしても考えてしまう。


「いつまでもそんな顔をするな。そういえば、ジルバの奴に言われたよ」

「えっ?」


 私は咄嗟に顔を上げた。ルウム艦長は安堵するかのように小さく息を吐き、あの微笑を――私が一番好きな、何故か『上手くいく』と感じてしまう微笑をたたえてうなずいた。


「ルティーナ、君には嫌な思いをさせてすまなかったって。自分の失態で船を燃やしてしまうことになって申し訳ないと。そう伝えてくれと頼まれた」


「……ジルバ料理長……」


 私は再び肩を落とした。

 ジルバ料理長がルウム艦長に伝言を頼んだと言う事は――。


「料理長、今は営倉にいるの……?」


 たかが沿岸警備船といっても、私達の船はエルシーア国王のものなのだ。どんなに小さくても。陛下から賜った船を自分達の過失で焼失させてしまったのだから、それなりの処分が下るに決まっている。


 ざわりと果樹園の樹の葉が揺れて、ひやりとする風がルウム艦長の黒髪を揺らした。一瞬、ルウム艦長が目を細めたような気がしたのだけれど、その風が通り過ぎた途端、彼はいつも通りの飄々ひょうひょうとした表情に戻っていた。


「いや。ジルバは辞職を願い出た。そしてそれはバルファム中将に受理されたよ。もっとも、表向きは懲戒免職の扱いになるだろうけどな」


「そう……ですか。ジルバ料理長、海軍を辞めることになったんですね。せっかく艦長の口利きで料理長の職にありついたっていうのに」


 ふふっとルウム艦長が唇の端から息を漏らして笑った。


「あんまりジルバ自身は乗り気じゃなかったんだ。船に乗れば親しいご婦人方ともしばらく会えなくなるからって、最初のうちはもう不平不満だらけさ。けれどそれを俺が無理言って引っ張りこんだから。あいつにとってはよかったのかもしれない……おっ」


 不意にルウム艦長が黙り込んだかと思うと、傍らの扉が開いてほんのりと甘いパンと香ばしいリラヤ茶の匂いが漂ってきた。


「お待たせいたしました。マルガリータの『特製黒パンセット』お持ちいたしました」


 リラヤ茶のたてる白い湯気の向こうで、マルガリータの魅力的な笑顔がエルシャンローズのように花開いている。


 そうそう。彼女、まだ二十三、四才だってジルバ料理長が言ってたわ。

 十七でこのパン屋に嫁いできたものの、十九の時に旦那さんを病気で亡くしてそれ以来、独身でいる美貌の未亡人だって。だから彼女目当てで、店に通う男性が沢山いるとかいないとか……。


「マルガリータ、後は俺がやろう」


 ルウム艦長が席を立ち、彼女の腕から料理の載せられた木の盆を受け取った。


「ありがとうございます。ルウム艦長。ちょっと忙しくなってきたものだから、助かります」


「街の住人は皆、マルガリータのパンが大好きなんだよ」

「まあ、艦長ったら。見え透いたお世辞だけどありがたく受け取っておきますわ」


「世辞じゃない。本心だよ。はは。……さ、我々に構わず」

「じゃあ、ゆっくりしていって下さいね。ルティーナさんも」


 私はマルガリータに微笑した。


「ええ。だって三月ぶりなんですもの。是非にじっくりと味わわせていただくわ」

「マルガリータ! 三日月パンが焼けたよ。早く!」

「わかったわ」


 マルガリータは私達に軽く頭を下げて、いそいそと店内へと戻って行った。

 扉にはめられたガラス越しに店内を覗いてみると、ほんの数分前はがらがらだった席が、何時の間にか満席になっている。


 『早起きは1リュール以上の儲けになる』ってことわざがあるけれど、早起きしなくては、ここで美味しい朝食をとることはできなかっただろうと実感する。


 私はジェミナ・クラスへ来てまだ一年ほどだけど、彼女の焼くパンはエルシーアで一番美味しいのではないかと思っている。


 船の火災やその原因を聞いて、ちょっと心が漬け物石をのせられたように、押し潰されかけたけど、マルガリータが自らこしらえてくれた『特製黒パンサンド』を眺めるだけで、受けた痛手がじんわりと癒されていく気がする。


「ルティーナ、実は、君に話す事があるのだが、今はマルガリータが作ってくれた朝食を先にいただこう」


 まだ話す事?


「あ、はい」


 歯に物がはさまった言い方に戸惑いつつ、私は程よく焼き上げられた黒パンサンドに手をのばした。



◇◇◇




「うう……やっぱりマルガリータのパンは最高だった」


 黒ヤギのミルクがたっぷり入った二杯目のリラヤ茶はコクがあって、私は美味しいものが食べられた小さな幸せにどっぷりと浸りこんでいた。


 私達はジェミナ・クラス沿岸を哨戒しているので、一回の航海は長くても一週間ぐらいだけれど、久しく新鮮な食材を使った料理を口にしていないせいか、何倍もマルガリータのパンが美味しく感じた。


「マルガリータのパンを食べたら、備蓄の丸パンなんて絶対食べられないな」


 ルウム艦長も満足したように、肩をゆらして満面の笑みを浮かべている。


「そうですね。艦長、今度乗る船が決まりましたら私是非提案したいわ。調理場にパン焼き窯を作って、何時でも焼き立てのパンを食べられるようにしたいです」


「……」

「……艦長?」


 リラヤ茶を飲み干して、ルウム艦長が静かにカップを受け皿へ戻した。

 磁器特有の澄んだ硬質の音が一瞬時を告げる船鐘のごとく大きく聞こえて、私は思わず驚いた。


 いやそれにもまして、艦長の見せた表情に。

 どうしたのだろう。

 ルウム艦長は不意に眉間を寄せて、額の上に垂れた前髪へ右手を当てた。

 なんだろう。とても不安で嫌な予感がする。


「ルティーナ。……君がアマランス号へ異動して、どれくらい経ったかな」


 ルウム艦長の右手が額に触れて、それがはっと思い出されたかのように再び下りる。軽かったとはいえ火傷が痒いらしい。


「一年です」


 取りあえず今は聞かれた事に答えるまで。

 私はそれ以降自分から口を開かず、艦長が話すのを待っていた。


「一年か。そうか、それぐらいだったのか。俺はもっと長い時を君と一緒に過ごしてきたような気がしていたんだが……」


 ルウム艦長はそっと顔を俯かせると、再びそれを持ち上げた。


「ルティーナ。悪いが、俺の都合で君はまたアスラトルへになった」

「……えっ?」


 異動?

 なんですって?

 それって、私はもう艦長と一緒の船に乗れないって事じゃない。

 いくら乗船する船を失ったからって、そんなことになるなど、これっぽっちも思いもしなかった。だって、私達には大切な任務がある。


「何故ですか艦長。だって、我々はバルファム中将に『海賊フラムベルク』拿捕だほの許可を受けているんですよ。船を失ったからといって、この許可まで消えるなんてことが――」


「ああ。消えると言うか、消されたよ。バルファム中将に」


 私は思わず席から立ち上がった。

 どうしてだろう。目の前のルウム艦長はいたって平然としていて、ただ、私を気遣ってくれているせいで、ちょっと浮かない顔をしているみたいだけど。


「で、でも! フラムベルクは只の海賊じゃないんですよ! あなたにとっては……」


 私はかろうじてそこから先の言葉を飲み込んだ。


 『あなたのお父上の仇なんですよ』

 『あなたは、仇をあきらめるのですか!?』

 そんなこと私がいうべきことじゃない。

 ルウム艦長自身、フラムベルクがどんな存在なのか、よくわかりきっている。


「ああそうだ。奴は『俺』の敵で、『君』の敵ではない」


 すっとルウム艦長が立ち上がった。その右手が伸びてきて、私の肩の上に載せられる。ゆっくりと力がこめられて、私はやむを得ず椅子に腰を下ろした。


「艦長……」


 深く、噛み締めるように、ルウム艦長は言葉を繰り返した。


「奴は君の敵ではない。だから君の異動を決めた。それに、こういってはなんだが、アマランス号が燃えたせいで気持ちが決まった。俺は今度新設される、海賊拿捕専門艦隊の『ノーブルブルー』へ行く事にしたんだ」


 私は思わず両手を強く握りしめている事すら忘れて、ルウム艦長の何者にも揺るがす事ができない、その強い決意に満ちた顔を見つめた。


「ノーブルブルー……?」

「ああ。聞いた事はあるか?」


 私は首を横に振った。

 新しく海賊駆除専門の艦隊の設立が噂されていたのは知っていたけれど、その名称までは知らなかったし、設立されるとしてもまだ先の話だと思っていた。

 ルウム艦長は再び椅子に座り、足を組んだ。


「まあ、知らなくて当然だから気にするな。本部も正式に発表していないし、実はまだ人事選考中で、俺も一週間前にグラヴェール艦長からの打診でその存在を知ったのさ」


 私は次々と明かされる思いがけない出来事に、ただただ呆然としていた。



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