【7】火災の原因
椋の木の扉を開くと、頭上でカランコロンと金色の呼び鈴が軽やかに鳴った。同時にふわっと焼き立てのパンの香りが押し寄せてきて、私は腹の虫を鎮めるのに一瞬息を詰めなければならなかった。
「あら~久しぶり! いらっしゃい」
赤と白の格子模様がついた三角巾の下から、肩口まで切り揃えられたくせのない金髪を揺らして、奥の調理場からこの店の主であるマルガリータが出てきた。
「ルウム艦長にルティーナさんじゃない! すっかりご無沙汰だから、どうしてるのかな~なんて、思ってたのよ」
はきはきとした口調で、マルガリータは傍らの樽の上に、焼き上がったばかりの黒パンが入った籠を置いた。
「あら、ルティーナさんはお仕事で、艦長はお休みなの? あらあら、艦長お怪我ですか? その包帯どうしたんです?」
マルガリータは優しげな青い瞳を丸くして、ルウム艦長の額に巻かれたそれをいぶかしげに見つめている。
「……大したことはないんだが、薬を塗っているので、前髪が当たると痒くなるんだ。だから、それで」
「まあ、それは大変。最近はホント海賊船が横行してるから、いろいろ危ない目に遭う事もあるでしょうし。ルティーナさんも気をつけてね」
マルガリータは優しい人だ。私達の事を心底心配してくれる。
「ありがとう。マルガリータ。何、ルウム艦長がいらっしゃるから、私も安心して船に乗れるのよ」
「……ルティーナ?」
ルウム艦長がヒヨコ豆を喰らった海カラスのように、惚けた眼差しで私を見ている。あまりにもらしくない、こういってはなんだけど、お茶目だったので、私とマルガリータは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
まだ早朝のせいか、購入したパンを食べるために用意されている席に客の姿はない。けれどあと三十分もしないうちに、朝食用にこの店の焼き立てパンを求めて、多くの客が詰めかけるのを私は知っている。
マルガリータのパンを食べたかったら、それこそ早起きして店に行かなければ、あっという間に売り切れてしまうからだ。
特にこの店の黒パンは絶大な人気を誇り、それこそ焼き上がった途端即売してしまうから、私はいつも買いそびれてしまう。
なんて思っていたら案の定。私の背後の店の扉が開き、再びカランコロンと呼び鈴が鳴った。
白い綿の頭巾を被り、パンを入れるための藤籠を持った若い女中さんだ。
急いで来たのか、白い顔に頬だけがほんのりと赤く上気している。
「お早う、マルガリータ」
「おはよう、ミーナ。ええと……いつものアレかしら」
「ええ、お願い。うちの奥様はあなたの黒パンを切らせると、機嫌が一日中悪いのよー」
マルガリータは「わかったわ」と小さくうなずき、ミーナという女中さんの籠を受け取った。そして手早く籠の中に、今焼き上げて、ふわりと湯気を上げている黒パンを六個入れて、次にかりっとした食感がたまらない、細長く焼いた棒パンを二本手にとった。
「ルウム艦長、ルティーナさん。ええとそちらはお持ち帰り? それともお食事かしら?」
見た目はほっそりとした柳腰の美人――マルガリータは、くるくると棒パンを薄紙で巻いて籠の中に入れた。
「忙しい所悪いが、奥で食べさせてもらっていいかい?」
「わかりましたわ。それで、御注文は?」
ルウム艦長が『あれでいいのか?』といわんばかりに、私の方を振り返ったので、私はついうなずいた。
「『特製黒パンサンド』に『スープ・サラダ付き』で。ルティーナにも同じものを頼む」
「わかりましたわ。じゃ、後でお持ちしますから、席の方で待ってて下さる? ……あ、ミーナ、お待たせ」
マルガリータは籐籠を女中に渡し、代金を受け取ると、白い前掛けのポケットにそれを入れて、店から出て行く女中を見送った。
カランコロン。
女中と入れ違いに、今度は色とりどりのスカーフを頭に巻いた主婦の団体が入ってきた。
「ほらー、早く来て正解でしょ。ちょうど焼けたばかりよ!」
「あら本当だわ。私、いつもこれを買いそびれてしまうの……」
主婦達は私達には目もくれず、各々手にした籠の中に、マルガリータ一番人気の黒パンを詰め込んでいく。
その光景に私は一瞬圧倒されていた。焼いてもすぐになくなるわけだわ。
「ルティーナ、我々がここにいると、他の客の邪魔になる。怒られないうちにあっちへ行こう」
ルウム艦長が私の軍服の袖をひっぱったので、私はようやく我に返った。
そ、その通りだわ。現にマルガリータ一人ではどうにもならないから、奥から二人、女の子が彼女に代わって勘定をするべく出てきたわ。
カランコロン。
涼やかな音が再び店内に木霊し、新たな客が入ってきた。
私はルウム艦長に連れられて、店の奥へと移動した。マルガリータの店は、実はそれほど広くない。購入したパンを食べることができる席も、四人掛けの椅子と机が六組あるだけだ。
それと。テラス席が一つだけ。店の裏側ではマルガリータが料理の材料に使用している、自家栽培用の畑兼庭が広がっている。
私達は、店内からそちらへ出られる木の扉を開けて、廃材を組み合わせて作られたテラスの方へ出た。
マルガリータの庭は三方を低い石壁に囲まれていて、林檎やら柑橘類の樹木が青々とした葉を茂らせている。ジャムに使うのだろう、ベリー類が色とりどりの実をたわわにつけていて、ほんのり甘酸っぱい匂いが周囲に漂っている。
朝も早いせいか、まるで小さな森を思わせるそのしっとりとした景色が、私にはとても心地よく感じられた。
「話が話だから、ちょっと人目につきたくないもんでね」
ルウム艦長が意味ありげな口調でそういいつつ、私の為に椅子を引いてくれた。
「原因がわかりました? アマランス号の火災は何故起こったのか」
私の向いに腰を下ろしたルウム艦長は、ゆっくりと小さくうなずいた。
鋭い青紫色の瞳を黒く濃い睫で伏せて、艦長にしては珍しく――ためらいがちにその口を開いた。
「水兵達の証言を聞いて出火元が判明した。下甲板の調理室からだ」
「……調理室ですって?」
別に調理室は意外な場所ではない。それに、火災が起きた時、ちょうどアマランス号では昼食の準備中だった。
けれど……気になることが一つある。
「で、でも、ルウム艦長。ジルバ料理長は出火の直前まで、私達と甲板にいたじゃないですか。彼が調理室へ戻った直後、水兵達が火事に気付いて、急いで甲板に上がってきたんですから、火事は料理長が調理室へ戻った時にはすでに発生していたことになります」
そう考えなければおかしい。でないと火のまわりが早すぎる。
ルウム艦長は表情一つ変えず、顔の前で両手を組んで、静かに私を見つめていた。
「その通りだ。ジルバが調理室へ戻った時には、すでに鍋から火の手が上がり、周囲の壁を焦がしていたそうだ」
鍋から……?
ということは。
ルウム艦長は頭を振って言葉を続けた。
「ジルバは昼食の準備のため、あろうことか油の入った鍋に火をかけたまま、君に頼まれたリラヤ茶の事を思い出し、それを届けるべく、甲板に上がったということだ」
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