第一章 楽園監獄都市《メタユートピアシティ》・横浜(5)

       ◆


 ――一方その頃。

 ゴアール市の小さな中華料理屋で緋月とマキナは、高橋とベルトールが戻るのを待っていた。

「遅いわね、二人共」

「何してるんでしょうねぇ」

 席は高橋が出て行った時と同じなので、現在も二人は隣り合って座っている。

「油淋鶏頼んでいい?」

「別にいいですけど、食べますね緋月……油淋鶏三皿目だし……」

「ここの油淋鶏美味しくて……いつ頃戻ってくるのかしらね」

「あ、ベルトール様からメッセージが届きましたよ」

 言って、視界の仮想ディスプレイ内に、ベルトールのPDAから送られてきたメッセージを表示させたマキナは烏龍茶の入ったグラスを口へと運ぶ。

「ぶーーーーっ!」

 そして吹き出した。

「きったな……」

「え……え!?」

 マキナは目を見開き、勢いよく立ち上がったせいで椅子が盛大な音を立てて倒れた。

 店内の視線がマキナに注がれ、緋月は恥ずかしそうにマキナの服の裾を引っ張るが、マキナはそれどころではない様子でわなわなと震えている。


「ええええええええ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!?」


 中華料理屋の中、マキナの叫び声が響き渡る。

「ど、どうしたのよ」

「ベルトール様が……」

「ベルトールが?」

 数秒の間を置いて、錆びついた機械のような動きで首を緋月に回し、マキナは言う。

「ベルトール様が横浜に行っちゃいました……」


       ◆


 夢を見ている。

 下へ、下へ。

 誰かが叫んでいる。

 己という存在に、魂に課せられた使命を果たせと叫んでいる。

 誰かが呼んでいる。

 下へ、下へ、外へ、外へと呼んでいる。

 何かが見える。

 とても大きく、とても力強い存在が見える。

 それは畏れと同時に敬いの念を抱く存在である事を。少女は知らない。


 五時を知らせる起床の鐘の音が鳴り響く。

 少女、青葉100Fの覚醒はいつも同じ時間だ。

 一分一秒足りとも違えた事はない。

 目に入るのはいつものシミひとつない真っ白い天井。

 いつもの真っ白いシーツ、いつもの真っ白いカーテン。

 いつもの自分の部屋だという事を確認してからむくり、と起き上がり、伸びをする。女子頭髪規定によって定められた肩に掛かる程度の髪の先が跳ねている気配を感じる。

「ん~~~~~~~。はふー」

 思い切り伸びをし、息を吐く。

 寝覚めは良い方だが、今日の寝覚めはあまりよくない。

 その最たる理由は――

「今日は、私が子供でいられる最後の日だから……でしょうか」

 明日は青葉100Fが成人を迎える誕生日だ。

 この都市では成人を迎えると、従事する労働だけでなく、貢献度もこの都市の神たる父祖によって設定される。

 子供は都市の宝。あらゆる罪を負う事なく、全てを許される。大人になれば幸福の義務もあるし、奉仕の義務もあるし、罪を犯せば裁かれる。

 だから、今日は子供でいられる最後の日なのだ。

 大人の責任、まだ子供の青葉100Fには理解できないが、考えただけで憂鬱になった。

 青葉100Fは起き上がり、内履きを履いてからカーテンを開く。

「うん。なべて世は事もなし」

 神である父祖が定めし教典に書かれている聖句を述べる。

 青葉100Fは寝室から廊下に出てリビングを通り、キッチンへ。

 彼女の住む部屋は広いが、簡素だ。どの部屋もそうである。必要最低限の支給された家具しか置いていない。

 だが、それ以上欲する事はなかった。

 欲しがりません、勝つまでは。

 これも教典に記されている聖句だ。

 何に対して「勝つ」なのかは、やはり彼女は知らなかった。

 冷蔵庫から水(アカ)の入った瓶を取り、コップに注いでテーブルまで持っていく。

 横浜市上層。

 教典に曰く、この世界唯一にして最後の楽園。その西部集合居住区画がここだ。

「さて! もうすぐお祈りの時間ですから準備しましょう」

 水(アカ)を飲み干してから支度をし、部屋の扉を開けた所で、同時に隣の部屋の扉が開いた。

 隣に住む成人の男性が、笑顔で青葉100Fに挨拶をした。

「おはようございます。青葉100F」

「お、おはようございます。青葉022M」

「青葉100Fもこれからお祈りに?」

「はい。わ、私は今日が誕生日ですから、子供でいられる最後の朝のお祈りなんです」

「そうですか、もう青葉100Fも大人になるのですね。この前までこんなに小さかったのに……いやはや、時が流れるのは早いものです」

「もう……」

 自分の小さい頃の話をされ、恥ずかしくなって耳が熱くなる。

 記憶に新しい。ついこの前の話なのだ。

「人生は短い、しっかり我らが神、父祖に奉仕して都市に貢献するのですよ。貢献度の低い者から落とされていくのが世の必定ですから」

「は、はいっ!」

 貢献度とは都市に、ひいては父祖に対してその個体がどれくらい貢献できたかという指標だ。貢献度は生活態度、仕事での活躍等により上下しする。

 上層の大人でこれが一定数を下回ると下層落ちとなり、下層で更に貢献度が下がると再奉仕区画送りとなる。

 優れた貢献をし、下層行きを逃れた大人も、老いて上層で貢献ができなくなれば再奉仕区画へと送られる。老いて尚、罪犯して尚、この都市に貢献できる場所こそ再奉仕区画だ。

「それに、私ももういつまで上層にいられるかわかりませんから」

「そ、そんな事言わないで、ください……」

「人は老いるものです。性能が落ち、貢献度が下がっても下層落ちにならずに、再奉仕区画に行きたいものですね……身も心も、余すことなくキミョウし、都市と父祖に奉仕する……それが市民の義務ですから」

「そうですね、私も下層落ちにはなりたくないです」

「しかし子供が大人になると、大人の誰かは下層に行かなければならなくなる。それはとても悲しい事です」

「そう、ですね……」

「この前、泉078Fが思想違反で下層送りになったでしょう? 私達青葉個体と泉個体は危険思想に目覚める率が他よりも統計的に高いらしいですから、青葉100Fも気をつけるんですよ」

「だ、大丈夫です」

 ドキリとした。

 思想違反――即ち教典に背く事は重大な罪である。

 一発で下層落ちだ。

 そのまま青葉022Mと別れ、向かった先は上層外縁部にある広い公園だ。

 教会も近く、お祈りをする前に朝の食事(サバ)を取ろうと考えた。

 公園の入り口の自動支給所で、ホットドッグと紙カップのコーヒーを受け取る。

 公園というのは、平和の象徴であると青葉100Fは思う。

 天然の土の上には芝が敷かれ、小さな花が咲き、子供達が笑顔で駆け回り、それを大人が見守り、風が頬を撫で、街宣空走車(フライトビークル)が市民よ幸福であれと謳い、担架に載せられた老人が再奉仕区画行きのカプセル型エレベーターに入れられている。

 いつも通りの、平和な景色。

 縁に寄り掛かり、支給されたホットドッグを齧る。

「美味しい」

 本物のホットドッグに使用されているソーセージは聖餐で使われる家畜であるマガルで作られるらしいのだが、聖餐の品を青葉100Fなどは口にする事はできない。今青葉100Fが口にしているのは再奉仕品と呼ばれる材料で作られたものである。

 外縁から下を見やる。

「高ぁい……」

 横浜市は、鉄と錆で組み上げられた土台である下層、その中心から伸びる二九六mの大黒柱であるアトラスによって支えられた上層プレートによって成り立っている。

 真横から見れば、ちょうど「エ」の字型の構造になっている人工島だ。

 そして青葉100Fの視界には、土台である下層の一部が見える。

 下層へは成人してから都市への貢献度が低い者、なんらかの罪を犯した者が送られる。教典曰く、監獄である。

 上層の人口二千人に対し、下層は八千人もの罪人が服役しているという。

 下層から上層へと戻ってきた者はただの一人もいない。

 役目を終えるその時まで、苦役を強いられるのだと教えられている。

 上層に住む人間は、その全員が常に下層落ちの恐怖を抱えているのだ。

 顔を上げ、視線を前に。

「外……」

 上層からでも横浜市の外は見える。

 歪んだ景色の向こう側には“外”にある街の灯りが滲んで見えている。

 教典に曰く、過去に人々が起こした罪によって大災害が起き、外の世界はめちゃくちゃになってしまったらしい。

 そこに住んでいる人々は全て横浜市という方舟に乗る事のできなかった罪ある者達であり、横浜市は聖幕によって守られている絶対の聖域であり、故に最後の楽園なのだと。

 だからこの都市を守っている父祖に感謝し、奉仕する義務が市民にはあるのだ。

 上層の皆は、あの灯りを罪の灯りだと言う。

 楽園に入り損ね、父祖への奉仕を忘れた罪人達の灯りなのだと。

 でも青葉100Fは、あの滲む灯りに強い憧憬を抱いていた。

 いつか本当に、外に出て見てみたいと。

「だ、だめです……!」

 慌てて青葉100Fは頭を振ってその考えを追い出そうとする。

 救いの言葉である聖句が結集された教典に書かれている教えは絶対。

 生まれる前から学習させられる事である。

 疑う者などいはしないし、疑えば思想違反扱いだ。

「でも……」

 説明はできなかったが、直感的にこの横浜市という存在自体がどこか不自然な作り物めいていると青葉100Fは無意識の内に感じ取っていた。

 一度として見た事がないのに目を閉じれば浮かんでくる。空の、大地の、海の、この世界の広大さと美しさを。一切の記憶も記録もないのに、彼女は識っていた。

 だからこそ、疑問に思う。思えてしまう。

「本当に……ここが最後の楽園なのでしょうか」

 その言葉は父祖を疑い、教典に疑問を持つのは明らかな思想違反だ。

 考えるのを止めたいのに、湧き出る思考の堂々巡り。

 この場所の“外”への憧憬。

 そして――絶対にあり得べからざる事だが、彼女は“下”に行きたかった。

“下”への欲求は、“外”への憧憬とは違う、身体の内から出てくる衝動だった。

「下層は罪人が送られる、絶望しかない場所のはずなのに、どうして私は下に……?」

“下”に行きたい欲求はあるが、下層に落ちるのは嫌。矛盾する二つの感情を、彼女は抱いていた。

「あ」

 気付けば、コーヒーは冷めていた。

 横浜の空に鐘が鳴り響く。

「い、いけません、遅刻してしまいます」

 市民の義務の一つ、お祈りの義務の時間が近い事を知らせる鐘の音だ。

 コーヒーを飲み干し、近くのダストシュートにゴミを落とし、公園を後にする。

 子供は遅刻や欠席をしても咎められる事はないが、その子供を担当している先生は監督不行き届きとして罰則があると彼女は聞いていた。

 だからこそ、遅刻するわけにはいかない。他人に迷惑を掛ける事は悪い事、そう教育されてきたのだ。

「おはようございます」

「おはようございます」

 すれ違う人々が挨拶をしている。

 いつも見る、いつもの光景。

 それは平和そのものの光景。

「市民よ、健康でありなさい」

「市民よ、誠実でありなさい」

「市民よ、幸福でありなさい」

「《大いなる兄弟》は、市民を常に見守っています」

「世界が平和でありますように」

 スピーカーから、いつもの聖句が流れている。

 彼女が向かう先は、上層にいくつかある小教会の一つだ。

 中央の父祖が住まう大教会と、複数の小教会が存在する。

 小教会はその地区の、大教会は上層の人間全員を収容しても余裕のある広さがある。

 境内の入り口には狛犬と機械鳥居が設置されており、教会に向かう参道にはいくつものホログラム鳥居が立ち並ぶ。

 参道の脇には灯籠が置かれ、外側には白砂利が敷かれた清廉な聖地。

 参道を抜けた先にあるのは、真っ白い建物。

 これこそが横浜市上層小教会だ。

 小教会の内部は薄暗く、天井にはホログラムのステンドグラスが映り、長椅子が立ち並び、奥には講壇があり、更にその奥には父祖の本尊が安置されている。

「我等の父祖よ、救い給え」

「我等の《大いなる兄弟》よ、見守り給え」

「我等の《母達》よ、赦し給え」

 色とりどりのレーザービームが薄暗い空間を裂き、臓腑に響くような大音量で重低音の聖歌が流れ、その中で聖句を詠唱する。

 その音と光、そして画一された聖句は、中にいる者達の思考する力を奪う。

 教典は常に携帯しているが、開く事はない。

 まず初めに学習するのが教典の丸暗記だからだ。

 教典こそがこの都市の全てであり、生きる指針なのである。

「世界が平和でありますように」

 詠唱をしながら青葉100Fは考える。

(本当にこれが正しいのでしょうか)

 外へ、外へ、と。

 下へ、下へ、と。

 思考が渦巻く。

「う、ううん、正しいに決まってます」

 頭を振って、渦巻く思考を振り払う。

 こんな考え自体が、父祖と教典に対する冒涜だ。

「父祖に奉仕し、現世の罪を償う事こそが私達が生まれてきた理由なのですから」

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