第2話 背後の後光

   第三章 ヤマトの結婚

横井ヤマトは友人の死がきっかけで、死についてのさまざまな出来事やニュースが目にとまり、また、雑誌で読んだ文章が心に残ることがあった。


 “ギリシャ神話の死の神はタナトスという名で、その人格や容姿等は不明である。”(「ウキペディア」)


 死の神、夜、眠り、忘却などの文字がヤマトの目についた。

「人にはいつか死が訪れることを、忘れてはならぬ」 

 ヤマトは死の霊魂がそのように語る夢を見た。

 ヤマトは友人が女神レテと共にいる姿を想像した。

 友人は今、光や塵(ちり)となって地上の至る所に存在しているのだろうかと思った。

 忘れられない思い出がある。

 ヤマトは真夏のある日、裕子と鎌倉に出かけたことがあった。

 二人は午前中鶴岡八幡宮に行き、午後は葉山の海岸に行こうと相談した。

 まぶしい日差しのもと、八幡宮の涼しい場所を選んで歩き、鬱蒼とした緑に包まれた境内を回って、源平池で風に吹かれて揺れている蓮(はす)の花を見た。

「八幡宮に古代蓮の花が似合うのね」

 裕子がそう言って笑ったが、口元にきれいな歯がのぞいた。

「そうだね。落ち着いた景色だね」

 ヤマトは裕子の感性を感じた。

「蓮の色がすてきね」

「緑に映えるいい色だね」 

 やがて、池の端で昼食を済ませた彼らは海岸沿いの道路を葉山の立石海岸に向かった。

 海に突き出した岩山の小島に松ノ木が枝を張っていた。

 この光景は広重の旅絵日記の中に出てくるそうである。

「立石という名は、波打ち際に巨岩が突き出して立っているので、その呼び名があるということだよ」 

「いい景色ね」

 ここは夕陽の名所で、数人のカメラマンが三脚を並べていた。

 太陽が沈む方向が霞んでいて見えなかったが、対岸の伊豆の山に陽(ひ)が沈み、富士山や江ノ島をバックに入れることもできる。

 二人は小島に渡り、海をながめたり、砂浜に下りて海水に浸ったりした。

「次の機会には水着を持ってきて泳ごうか」

 若者たちや家族連れが泳いでいるのが見える。

 ヤマトはかつて、自分の家族はお互いの思いやりや温かさが薄い人たちだと思ったことがある。

 自分が育ち、成人した家庭環境には潤いがないと感じたものだった。

 だが、裕子と出会ってから、そのパサパサと乾燥した感覚から抜け出し、世界が様子を変えようとしている、と感じた。

 乾いた砂地に清水が浸み込んできて、緑地の広がるような世界をヤマトは発見したようだった。

 それは胸に沁みる温かさや心を満たす懐かしいような場所でもあった。

 その秋のこと、二人は横浜の港町へ行った。

「横浜は高校の修学旅行以来だわ」 

「久しぶりなんだね」

 彼らは横浜駅近くから乗船して、みなとみらい・赤レンガ倉庫付近を通り、山下公園を結ぶ海上交通船シーバスに乗った。

 この経路はベイブリッジや赤レンガ倉庫を海側から見るという海路コースで、目線が海面近くになる。

「海にいるという臨場感がたっぷりだね」

「そうね。陸からは見られない景色ね」 

 公園前の大通りでは銀杏並木が黄色になり、散った葉が道路一面に敷き詰められていた。

「まあ、真っ黄色だわ」

 裕子が歓声をあげた。

 二人は横浜港を目の前に見ながら山下公園から大桟橋(おおさんばし)までの臨海公園をブラブラ歩いた。

 いい天気で観光客の賑わうなか、彼らは、どちらからともなく手を組んでいた。

 裕子の快活な靴音がリズミカルに響く。

「秋の空気ね」

「うん。いい天気だ」

 童謡で馴染みの深い「赤い靴を履いていた女の子像」の立つ広場にきた。

「赤い靴 履いていた 女の子 異人さんに 連れられて 行っちゃった・・・」

 彼女は優しい声で歌を口ずさんだ。

 ・・・ ありのままでいて、優雅な裕子という存在。

 ヤマトはそう思った。

 大桟橋に着くと日が西に傾いてきた。

「豪華客船アスカだよ」 

「大きいわね」

 ちょうど巨大なクルーズ船が停泊していて、夕焼けを背にして出航するところだった。

 アスカの船影が遠くなる頃、辺りが暮れて、客船から漏れる灯や対岸の光が輝きを増してきた。

 ヤマトは、予約していた横浜港周遊船に裕子を誘った。

 港内周辺を二時間ほどで巡る夕食付きのコースだった。

 ヤマトは乗船時に、桟橋で裕子の手を握って支えた。

 船に入ってからも、二人は手を握り合ったままだった。

 ヤマトと裕子は、ジャズバンドが生演奏されているサンデッキから港の夜景をながめた。

「赤レンガやランドマークの光がきれいね」

 ・・・ 一緒にこうしていると安心できるわ。

 裕子はうっとりしていた。

「灯の映る水面が輝いているね」

 ヤマトも幸せだった。

 夕食の案内放送があって、二人はサンデッキから部屋の中へ入った。

 外の景色が見えるように大きく開いた窓に向かっている席に座ったが、同じデッキの相客は遠くにいる数人だけだった。

「横浜にはこういうすてきな所があるのね」

「そうだね。僕も初めてさ」

 中華料理の食事で、 ピリ辛の本格海老のチリソース、野菜たっぷりのチンジャオロース、旬の牡蠣たっぷり八宝菜風炒め煮等を注文した。

 初めに箸をつけたものが同じ料理、同じ品だねと二人は笑った。

 ヤマトは裕子の名前が入ったケーキと花束を用意していて、それをウエイターが持ってきたので、裕子は目を見張った。 

 花束にはあらかじめ用意しておいた、ヤマトの手書きメッセージカードがついていた。

 〝これからも二人で仲良くやっていこう、よろしく〟

と記してある。

 裕子は心の震えを覚えた。

 ・・・ 自分のなかに脈動する生命力が理想の相手を得て燃えている。この人と生涯を共にしたいという気持ちが本来の自分だ。

「結婚しよう」

 ヤマトは裕子の両手を握ってそう言った。

 裕子はヤマトをじっと見つめて、

「・・・はい。・・・よろしくね」

 裕子がきちんと返事をした。

 ・・・ 信頼できるヤマトさん、親切なヤマトさんを生涯愛するわ。

 ヤマトの鼻に、かすかに裕子の香り、ラベンダーの匂いがした

 ヤマトは自分の手を握り返す裕子の握力の強さを感じた。

 しばらくの沈黙があり、汽笛の音がするまで、二人は互いを見つめ合っていた。

 横浜の夜は二人にとって忘れられないものとなった。

 翌春、ヤマトと裕子は結婚し、アパートで暮らすことになった。

 裕子の家具や手回り品も部屋に入り、生活が始まった。

 ヤマトは東京の港区にある高輪の会社へ、裕子はときどき東京・飯田橋の音楽事務所へ通ったが、二人は行くときも帰るときも出来る限り一緒の時間だった。

「一緒に帰るの、うれしいわね」

 帰りを待ち合わせた最初の日に裕子はそう言って、うれしそうに笑った。

 二人は何事につけても相談して、実行した。

 裕子は、ヤマトが思ったよりつつましく、家内や荷物を整理したり、ヤマトや自分の衣類を作ったりした。

 彼女はタンスの中をきちんと整え、シャツやベストも自分で作り、食事には手間暇をかけた。

「いつも家の中がきれいになっているし、ご飯がとてもおいしい」

 ヤマトが褒めると、

「私の育った家では家の中をきちんとしておく癖があったのよ。だからその習慣が私にも移ったのね」

 裕子はそう説明した。

 ヤマトは裕子の気持ちを尊び、決めたことを実行し、約束した時間を守った。

 裕子はコンサート等で地方に出張したり、外国の演奏会に行ったりすることも多かった。

 ヤマトは裕子の日程への協力を惜しまなかった。

 裕子はヤマトの優しさや心配りを感じたし、ヤマトは裕子の明るさや愛情を実感した。

「ヤマトさんて、優しいのね」

 家の真ん中にいつも温かい風が吹いているようで、裕子の笑顔がヤマトを包み、ヤマトの誠実さが裕子の心に染み透った。

 茅ヶ崎の生活は二人には夢のような時間だった。

「し・あ・わ・せ」

 裕子がつぶやくと、

「僕もさ」

 ヤマトが応えた。

 ヤマトも裕子も幸福だった。

「同じような夢を見たのね」

「そうだね」

 二人はお互いの夢の話をして、そう語り合った。

 二人は、休日に、以前訪れた葉山の海岸に行き、潮騒や星と月のドラマを再び見て、レストランのテラスで以前の夜と同じように過ごしたことがあった。

「あのとき、このテラスにブーゲンビリアが咲いていたわね。あの夜のことを思い出すわね」

 二人はまた、由比ガ浜の海岸や江ノ島などにも行った。

 やがて、子宝の神が裕子とヤマトに宿った。

「子供を授けよう」

 二人は第一子、和志(かずし)を授かった。

 それから三年して裕子は第二子の弘江(ひろえ)を懐妊した。

「体調もおなかの赤ちゃんも順調で、先頃まで悪阻(つわり)がひどかったけれど、この頃は落ち着いてきたわ」

 と裕子は言った。

 間もなく生まれてくるということだった。

 実家から、裕子の母が手伝いにきた。

 裕子は、母親がくると、安心して任せられると、ほっとした様子だった。

 和志は祖母を見るとはにかんだ顔をしながら、うれしそうに飛び跳ねて喜んだ。

「赤ちゃんのなまえ、ヒロエだよ」

 と和志が祖母に教えた。

「弘江と書くのよ」

 と裕子が説明した。

 和志はきのう初めて妹を見て、

「かわいい!」

 と言ったそうだ。

 和志と妹の初対面は無事に済んだわよ、と裕子は言った。そして、

「これから当分は、何事にでも和志を最優先にしようとヤマトさんと話したんだよ。みんなが赤ちゃんに注目するから、まず和志を優先しようということよ。和志が焼き餅をやいたり、ひがんだりしないようにね」

 そう説明した。

 和志が一〇〇メートル走で良い成績をあげる

 弘江はバイオリンコンクールで良い成績をあげる

 ヤマトと裕子一家に七年の歳月が過ぎた。



    第四章 大竜巻(だいたつまき)

 大きな竜巻が一家を襲った。

 その様子を横井ヤマトの日記を抜粋する形で語ろう。記録の初めに次の引用があった。

 

  人生行路の半ば頃

私は、ある暗い森の中にいた。

ああ それを語るのは何とつらいことだろうか

未開のひどく荒れた森

思い出しても恐怖がよみがえる

その耐え難さは死にも近い

(『神曲』「地獄篇」)



      診断の日

 裕子は、胃の具合が悪くなったというので、近所の胃腸病院で診てもらい、薬を飲んでいたが、状態はいっこうにはかばかしくなかった。

三か月後に、市内の大学病院で診察し直した。

 検査の結果、胃潰瘍らしいから手術をするかもしれないというので、私は付き添いとして一緒に病院へ行って話を聞くことにした。 

 私は午前中会社で仕事をして、午後病院へ行き裕子と待ち合わせた。

 はじめ裕子ひとりで診察室に入った。

 室から出てきた裕子はいつもと変わらない表情だった。

「どうだった?」

 と私は尋ねた。

「胃潰瘍だそうよ。あと詳しくは次のとき説明しますと言っていたわ。やはり手術をすることになるだろうって」

 裕子はよく通る声で言った。

「医者に様子を聞いてくるよ」

 ヤマトはそう言って、裕子と入れ替わりに診察室に入った。

 ヤマトはどんな具合でしょうかと医者に尋ねた。

 医師は胃の部分の写真を見せた。

 それは胃カメラで撮影したカラーの写真だった。

「この部分は、年令の若さ相応の極めてきれいな映像です」

 医師は、連続して撮影した何十枚かの写真で、初めの一枚を指して言った。

「この辺り、ずっとピンク色できれいですね」

 と写真をめくりながら言った。

「ところが、この辺になりますと・・・」

 そう言って、終わりの数枚を示した。

 写真の色が、先程とは変化して紫色になっており、一部は赤みが相当増していた。

「ほら、ここは出血しています」

 医者は一枚の写真を指差した。

ヤマトは驚き、慌(あわ)てて聞いた。

「胃潰瘍でしょうか」

「いいえ・・・」

 と言って医師は一息ついた。

 それから、診察室の外を気にしながら小さな声で

「・・・おそらく進行性の胃癌ですね」

短い話を幾つか交わした。

「進行性の胃癌ということですか? 進行性ってどういうことでしょうか」

「進行性の胃癌というのは、早期胃癌に対して、さらに深く進行している胃癌のことです」

 三十代後半と見える若い医者は説明し、

「詳しいことは次回にお話します、患部細胞の検査結果が出ますので」

 と付け加えた。

 あまり長いあいだ話の時間を取っては待っている裕子にまずいと思い、ヤマトと医師は草々に話を切り上げた。

 ヤマトは普段通りの顔つきで診察室を出た。そして裕子に、

「やっぱりかなりの胃潰瘍だね。潰瘍止まりでよかったよ!」

 そう言った。

 以降、診察室というと、病院のドアの色と形がヤマトの脳裏にくっついて離れない。

「子供たちが家で待っているわね」

 裕子は病院の廊下と出口でその言葉を繰り返して言ったが、彼女の心には家で待つ子供らの姿が色濃く影を落としていたにちがいない。

 タクシーがなかなか来なかったこと、帰途を遠回りした運転手が無愛想だったこと、遠くに見えた雲の不気味だったこと、それらがヤマトの心に突き刺さった。

 この日以降ヤマトたち家族の生活は一変し、以来、一家は「地獄巡り」をすることになった。

 このときヤマトは三七歳 、裕子三五歳、和志は一〇歳で、弘江は七歳だった。

 

     入院準備

 予約した診察日に裕子とヤマトは連れ立って病院へ出かけた。

 この日は、先日の一階の診察室とは違う所へ行った。

 エレベーターで三階に行き、長い廊下を歩いて一番奥の場所で、待合室は薄暗く、黙って待っている患者たちに混じって順番を待った。

 やがて裕子とヤマトは一緒に診察室に入った。

 医者は先日来の検査結果の詳細と入院日程、手術の予定などを話した。病名だけは事実を替えて、胃潰瘍と告げた。

 午後からは手術に備えて諸々の検査が行われた。

 では、一か月ほど日をさかのぼって、南都大学病院に初めて行った頃からの生活の様子を抜粋して記したい。

 

 十二月二十日(月)の日記

 裕子が南都病院で胃腸X線撮影。先週十六日木曜に診断を受け、「たいしたことはない」と言われたが、医師が念のためX線検査をしたいとのことだ。明後日結果が分かる。

ヤマトは一日中会議と仕事だった。

 夜、子供ら年賀状書き。

 昼、親戚の育枝より電話あり。住宅改修資金の借金金利の件で、銀行からの金利が今月から数千円分下がった由。

  

 同二十二日(水)

 裕子のX線検査結果で、やはり胃潰瘍だったという診断あり。

 来月七日胃カメラの予定。その結果を見て、入院して手術するか通院して薬を内服するか決めるとのこと。

 

 同二十八日(土)

 今年の仕事を終了し、七時過ぎ帰宅。

 会社の看護師が貸してくれた「胃潰瘍・胃癌百科」という本を読んだ。

 

 同二十九日(日)

 和志と弘江に竹馬を作ってやる。

 庭で三、四時間の作業だ。

 裕子が洗濯物を干すベランダの下で作業。

 こんな平和な風景画がずっと続くかなとふと思った。

 家族でTVドラマを見た。

 裕子の胃潰瘍という一点の心配を胸に、正月の準備を行うなどして、家族の幸福な歳末であった。

 この頃、夜中にハっと目覚めることがある。

年賀状を出した。

 

 同三十日(月)

 午前、きのう作った竹馬を修理。

 書斎整理。本棚入れ替え。換気扇掃除。

 午後、風呂場を洗剤で磨く。

 台所外側の下水掃除。

 夜、同僚の藤野氏宅へ池山・田本両君と出かけ小宴。鎌倉市鈴掛台の美邸。大変なご馳走だった。

  

 同三十一日(金) 、

 雨戸の鍵穴直し。

 外回り掃除。

 和志と算数(歩合)の宿題をやった。易しくはなし。

裕子が野良猫に巣を作ってやる。

 ここ数日の寒波でネコが庭先のボール箱に入って丸くなっていたのに、ぼろ布・新聞紙を詰めた。

 子供らは竹馬やボールで相変わらずの遊び。

 今年も終わる。

 

 年が明けて同三日(月)

 午前中郵便局へ年賀葉書の返事を投函。

 子供と一緒に正実屋酒店前の広場で凧上げをした。

 子供、竹馬乗り。三、四日前まで下手だったが、この頃、すごくうまくなったと本人たちが言っている。

 和志「竹馬を五百歩できたよ、おれ」

 弘江 「三歩できたよ」

 

 同五日(水)

裕子は子供の買い物に付き合ったのだが、出掛けに、

「ズボンがこんなにぶかぶかになっちゃって、ずり落ちてくる。癌じゃないかしら」

 と言う。

 見るとズボンがこぶし一つ分空いていた。

 大工さん大井一郎氏、職人と二人で来宅、四時~六時。飲んだ。

 

 同七日(金)

 裕子胃カメラによる検査。

裕子が医者に尋ねたら

「手術した方がいいと思いますよ」

 と言われた由。

 本日の詳細な結果は十二日に分かるという。

「検査は目隠しをして、すごく大変だったわ」

手術の覚悟を固めざるを得ず。

 

 同八日(土)

 会社の仲間からヤマトに対して、さまざまな忠言あり。

 用務の田本氏が事務室の新年会後、赤い顔でヤマトのところへ来て、

「さっき言おうと思ったんだけどよ、もうこれからは大平さんが細心の注意をして、奥さんに気を使わせないようにしなきゃだめだぜ。大平さんが飲んで帰る。心配する。そこへもってきて家を建てた。そういうことだ。奥さんの胃潰瘍は大平さんのせいだなあ。何でも、そういう病気は気を使ってシコリになったりするとそうなるんだよ」

 ヤマトには、シコリという言葉がこたえた。


 同十日(月)

 我が家庭の上にかぶさって来た暗雲。

 これをどうするか。

 くよくよせずに、やることをやって解決すること。これ以外なし。

 

 同十一日(火)

 いよいよ明日裕子の病状の詳細と対応の仕方が示される。

 午前三時間仕事。

 午後図書室にこもって仕事の調査、構想。

 夕方帰宅。和志は友達と勉強会へ。弘江は道で縄跳び。

 裕子は買い物から帰ってきてカステラ一本ぺろりとたいらげた。

 

 同十二日(水)

 午前中仕事。

 午後裕子と南都大学病院で待ち合わせをした。


 以上が冒頭の「診断の日」までの日記で、まだ胃潰瘍と診断されていないときの記録だ。

 そして、十二日午後、病院の診断。

 裕子が診察室から出てきて、ヤマトが入れ替わりに入室し医者と交わした話は次の通りである。

「進行性の胃癌で第三期です。おそらく回復不可能です。手術後の経過、いわゆる予後は悪く、余命半年程度でしょう」

「悪いシコリが身体の奥深くに巣くっている、治療をしてはみますが、おそらく回復できない段階まで病状が進んでいます」

 と医者は宣告した、あの江戸時代か何かの、ずっと昔の記憶がヤマトの中で蘇った。

 それは、まさしく驚天動地(きようてんどうち)のものだった。

しかし、ヤマトの日記にはこのあと次のように記されている。

 医者「潰瘍が普通のより少し大きいので、手術した方がいいと思います。まだ検査がすべては終わっていないのですが、若い人は早く進行することがありますので」

胃潰瘍の手術・治療は、検査も入れて約三周間の入院の由。

悪性のものでなくて一安心だが手術は大変だと思う。

 祈る安全。


 このようにヤマトは、裕子が万一日記をのぞいても大丈夫なように記録したのだ。

 医者とも相談の結果、この日以後、ヤマトは情報に鍵を掛けた。

 しかし、そのことがヤマトの心にも鍵を掛ける結果となった。

 心に鍵を掛けるというような、そんなことは土台無理なことなのに。

 だが無理でも何でも、こういう病に掛かったことを隠すためには、魂にも蓋(ふた)をせざるを得ない状況だとヤマトは思った。

ヤマトの心に鍵を掛けたことが、やがて家族との心の疎通を著しく妨げ、家族崩壊の危機を招く結果となった。

 どうすればよかったのだろうか。

 しかし、このときは、こういうことしか思いつかなかった。


     入院・手術・退院 

 一月十四日十時、二人で家を出て南都病院へ出かけた。

「手術をして完全を期しましょう」

 と医師は言った。

ヤマトは隙を見て、受付の奥の所で高里医師をつかまえて症状を訊いた。

「予想通り進行性の癌で、予断を許さない状況です」

 と医師は言う。

「若い人は病状が速く進むのですよ」

 と医者は付け加えた。

 状況が分かれば分かるほど、深刻さが増してくる。

「進行性」とか「予後」とかいう用語もこのときに知った。

 予後というのは、病気の経過についての医学的な見通しのことだと。

 ヤマトは、あの部屋の緊迫した空気を生々しく覚えている。

 午後、諸検査と入院の予約をして、四時過ぎに帰宅している。 

 このあとの日々は入院の二十一日まで、「平穏に」過ぎていった。

 平和な家庭風景のうちに静かに病院に入る準備がなされた。

和志と弘江は、買ったばかりの竹馬で元気に遊んでいた。

 彼らがハムスターを飼っていたことも記録されている。

 会社・親戚等への連絡や手伝いの手配。

 病名は胃潰瘍だ。

 日記には「裕子の病気の回復は、医者や医学書が一〇〇%保証している」

 などと書いてある。

 ああ、目前の妻子の姿と、絶望的な病状との、目がくらむ断絶。

 ヤマトたちは何がなんでも耐え忍んで生き抜かねばならない。

 この平和な家族の姿がほんとうは風前の灯だということを、信じられようか。

 このとき以後、くらくらと眩暈(めまい)がするような事態が何度起きたことだろうか。

 

 一月十九日 姉が手伝いのため来宅。

裕子は予定通り一月二十一日に入院した。

 入院の日の記録は次のようだ。

 

 子供ら元気で学校へ行った。 

 平穏のうちに裕子が入院。

 彼女は非常に元気で、明るくさえあった。

「ちょっとホテルへという気分で行ってきます」

 とふざける余裕もある。

 彼女は隣家の森田さんへも挨拶していた。

 午前十時前、病院へ着いた。

 入院病棟は、外来患者が行く棟(むね)より西側にあった。

 まず事務室で入院の手続きをして、ヤマトは裕子に代わり住所・氏名を書いたが、そのとき手が震えたのを困ったなと感じたことを覚えている。

 ヤマトは、もう裕子が無事では帰れないのではないかという思いが胸をよぎったのだ。

 エレベーターで五階のB・五二六号という部屋へ行った。

 四人部屋だった。

 ヤマトたちは一度エレベーターで一階へ下りて購買部で買い物をした。

 ヤマトは裕子とさりげなく別れ、林の中を歩いて帰宅した。

 今後自転車で通うコースを確かめるためでもある。

 ヤマトはいろんなことを思い想い歩いた。

 五十分掛かった。

 このあとこの道を何十回、いや何百回通うことになった。

 家で和志は漫画を描いていた。

 弘江は隣のさっちゃんと遊んでいた。

 食後、弘江は漢字の練習。

 二人とも極めておとなしく平和な気配だった。

 

 一月二十三日(日)

 午前、子供らと手伝いの姉と、皆で病院へ行った。

 今年初めての雪。

 病院では病室と談話室で面会した。

 みんな明朗だった。

「今日は日曜なので大きな検査もなかったけれど、検尿など多少の検査があったわ。検査は朝早くからやるのよ」

 裕子はそう話した。 

 一時間あまりの面会だった。

 雪の降る中、寒さで震える体を、皆で駅前の「角屋ラーメン」で暖め、買い物をして帰宅した。

 それから手術までの日々は検査の連続で、血液検査・バリュームによる胃腸の検査・胃液検査・心電図・エコー・血管動脈造影剤による検査・胃カメラなどなど。

 裕子は、楽ではない諸々の検査もがまんしてやっていた。

 

 一月二十七日(木)

 会社から病院へ直接行く。

 面会一時間余。

 裕子は、同室の鈴木さんと風呂から上がってきたところで、血色良く、病気とも見えないような可愛い様子だった。

(追記 裕子は近所でも評判の、明るい美人と言われている)

 今日は採血を三十分おきに六回やった由で、腕に薄く青痣(あおあざ)あり。

 手術の日は一月三十一日(月)と決定した。

 ヤマトは会社で担当部の部長候補に挙げられたが、この際負担を感じる。

 

 一月二十八日(金)

 裕子は朝から二食絶食して検査。疲労している様子だ。

 ヤマトは家からプリン・帆立貝缶詰等を持っていった。

(手術後、いや、このあとの人生で物をおいしく食べることはできなくなったから、これらの食べ物が彼女の「健康な胃」にとって、最後の食物となった)

 子供たちもがんばっていた。

 弘江は千羽鶴を折り始めた。

 和志はずっと漫画を読んでいる。

 子供らについて生命の精霊が語った。

「遊んで、学んで、眠って起きる。そして成長するのさ」

 姉の澄子さんは、夜、非常に疲労の体で九時に子供たちが寝るのを待ち切れぬようにして寝る。

 ヤマトは落ち着かぬまま、笠原一雄氏の「親鸞」などを読む。

 夜よく眠れず、咳が激しい。子供の頃病んだ喘息が再発したのだろうか。

 このあと、数年咳の発作に苦しむことになった。

 

 一月三十日(日)

子供ら、澄子氏と一緒に四人で病院へ行く。

(子供を連れて病院へ出かけるのは、日曜日にしていた)

弘江は千羽鶴を裕子に渡していた。

裕子と一緒に、高里先生より先日来の検査結果と手術の大要について説明を受けた。

 胃の潰瘍は悪性のものでなく、単なる潰瘍の由。万歳!

 帰り道、茅ヶ崎会館で食事。

 子供のハイソックス二足買う。

 昼過ぎに新宿駅から裕子の兄(一哉さん)より電話あり。明日の手術に立ち会うため、実家の代表として長岡から出てきたのだ。

 裕子の父親は数年前に死去していた。母親は老いて心もとない。

 茅ヶ崎駅まで一哉さんを出迎えると一哉夫人も一緒だった。

 その足で皆一緒に南都病院へ行った。

 裕子は入浴し、血色も良く、まったく元気だった。

 一哉夫妻らが帰るとき裕子はスカーフを巻いてエレベーターの所まで見送ってきた。

 この日裕子の兄夫妻が我が家に一泊。

 裕子の、健康で元気な姿はこの日が最後だったかもしれない。

 ヤマトの脳裏に裕子の生き生きとした様子でいる姿が刻まれている。

 

 一月三十一日(月)

 いよいよ手術だ。

 朝八時十五分病院着。裕子とヤマトは医者と会って話す。

 九時半から一時過ぎまで約四時間の手術だった。

 ヤマトは、待合室で義兄夫妻と一緒に控えていた。

 夫妻は、手術途中で長岡へ帰宅した。

 手術の終了を待ちかねたヤマトが、医者から見聞きしたもの! 見聞きしたこと。

 高里医師が何やら金属製の皿のようなもの(膿盆(のうぼん))をかかえて手術室の入り口に現れて、それをヤマトに見せた。

 切り取ったばかりの臓器だった。

 胃のすべて・膵臓と脾臓の一部・周りのリンパ節。

 先程まで裕子の体の一部だったもので、湯気を立てている肉塊だ。

 その生々しく切ないものからヤマトは目を離せなかった。

「転移する可能性のある所はすべて取りました」

 と医者は言った。

 裕子は四時に手術室から五三一号室へ戻った。

 ヤマトが面会したとき裕子の麻酔が覚めかかっており、かなり痛がり方で、その様子は見ていられなかった。

 ヤマトは五時に帰宅。

 夜、家からナースセンターへ電話して裕子の容態を聞いた。

 看護師「痛み止めを打っています。落ち着いておられます」

 

 二月一日(火)

 ナースセンターへ電話

「痛がっていましたが、痛み止めで痛みは止まっています」。

 午後三時に病院へ。面会十分ほど。

 裕子はうつらうつら眠っていたが、

「きのうより楽になった」

 と一口言った。

 昨日の激痛状態から少しは回復したようだった。

 外の菌や風邪など移してはならないということなので、ヤマトは早々に帰宅した。

 

 二月二日(水)

 二十分あまり面会。

 裕子は昨日よりしっかりしてきたが、目はまだトロンとしていた。

 痛み止め(麻酔)のせいであろう。

 ヤマト「きのうより楽だろ」

 裕子一度うなずいたが首を振り

「楽でないわ」

 と言った。

「痛みはきのうよりいいだろう」

「うん」と裕子うなずき、しかし、

「注射が痛いし、体が動かせず苦しい」

 と言った。

「ティッシュペーパーを二箱買ってきて」

 裕子は財布の指示など二言三言を言うがやっとの様子だ。

 

 二月三日(木)

 ヤマトは出勤した。仕事の処理。

 夕方、病院へ行くと、

「少し熱があるのよ」

 と裕子が言った。

 しかし表情、顔色は日に日に良い。

「麻酔を打たなくなるので体調が戻ってくるのです。熱は心配ありません。若いから体力もあり大丈夫。今は縫合した部分がうまく付くのかが一つの山です」

 槍岡(やりおか)医師はそう言った。

 夕方、ヤマトが病院を辞去する頃から雪が激しくなり寒さが募った。

 裕子はヤマトの帰路を案じて、自分のマフラーをヤマトに渡した。

「赤い柄だけれど、衣服の下に巻けば目立たないでしょ」

 夜、大田自治会子供会と大井一郎氏が見舞いに来宅。

 

 二月四日(金曜)

 裕子は微熱が続く。

 点滴は朝昼夜と間断なく行っている。

 子供がくれた折り鶴を出してと裕子が言った。

「弘江の気持ちが伝わってくるわね」

 裕子がうれしそうに言った。

 裕子は午前中は気分が良くて

「週刊誌を読もうと思ったくらい」と。

「手術後は苦しくて、このまま死んだらいいと思った」

「二、三日前、ヤマトがウトウトしている間にレントゲンを撮ったらしいわ」

「おなかがごろごろ言って気持ち悪いので、浣腸してもらってガスを出したのよ」

「足に注射する点滴で足首が腫(は)れたわ」

 丁字帯を買ってきて。吸い飲みに水を入れてきて。寝巻きとタオル洗濯してきて。

 と今日はさまざまな注文あり。

 このあとの日々、微熱が出たり喉(のど)の周辺が腫れたりしたが、やがて胃の中に入れていた管も取れ、流動食を摂れるようになった。

 わずかな量の食事やおやつにも腹が張ったり声がかすれたりしているが、行動はセイイッパイ生きようとしている姿だった。

ヤマトは毎日見舞い、子供らは毎週日曜日に連れていった。

 

 二月十五日(火曜)

 裕子の退院が明日に確定した。

 検査の結果、喉の部分に脹(は)れがあるが、医師は心配ないと言う。

 あと一週間ほどで脹れは引くだろうと。

 朝から雪、夕方激しく降り、かなり積もった。

 南都大学病院の周辺の木々も真っ白になり、雪の花が咲いたようだ。

 夜皆で退院祝い。部屋中におめでとうの色紙、輪つなぎに絵飾り等を付けた。

 この日子供らの喜びようは大変だった。

 和志はこの日他所(よそ)で遊んでいて

「今日お母さんが帰ってくるんだ」

 と、辺りの人に、うれしそうに言ったそうだ。このことは、後日近所の人が教えてくれた。

 二月二十日に澄子さんも自分の家に帰った。

 彼女は約一か月の間我が家にいて手伝ってくれた。

 

 二月二十二日

 今後の医療費が続くかという心配が出てきたので、会社の互助組合から借金をすることにした。

 裕子の様子だが、ときどき洗濯機を回したり、弘江とお雛様の飾り付けをしたりしたが、疲れている様子で、特に食事をするときの具合がよくない。

 物を食べるとつかえて、吐き気がする。

 水や牛乳にさえ咽(むせ)ている。

 白と赤のツートンカラーカプセルの薬を飲むときも吐き気を催している。

 後日医者に話して薬を替えてもらったが、結局はこの症状は治まらなかった。

 

 二月二十六日

 子供たちもヤマトも裕子が戻ってきたことでかなり落ち着きを取り戻してきた。

 ヤマトは仕事終了後、部長笠井氏の車で、転んで顔にけがをした会社の田本さんを見舞う。

 買い物・・・ヘルスメーター、食パン、ロイヤルゼリー。

 裕子は昼食におじやうどんを子供らと食べたそうだ。

「喉につかえずに八分目ぐらい食べられたわよ」

 午前中近所の奥さんたち三人が退院見舞いにと言ってブラウスを持ってきて、

「速くこれを着て皆で買い物に行きましょう」

 と言った由。

 ピンクの明るい春のブラウスだった。

 夕方ヤマトは子供らの靴を洗った。

 上履き運動靴、そしてゴミ燃やし。

 裕子は二階の床の中でサザエさんなどを読んでいた。

 子供たちにも春・・・ 。

 弘江が「もう暖かいからスカートをはかせて」

 素足が出ると、

「わぁ気持ちがいい」

 そばから和志が聞いていて

「僕も床屋に行ってこようかなぁ。ほら髪の毛がこんなに伸びたよ」

「和志を床屋にやると、夕方さわやかな顔をして帰ってきたわ」

 ここまで裕子が話したことだ。

 和志は竹馬をして、それから前の家の二郎君と漫画を九冊ずつ貸し合いをした。

 弘江は前の道で同級生のやえこちゃんと遊んでいて、花いちもんめの歌が聞こえていたが、やがて「お父さん、パンを買ってきてある?」

 と玄関から声がする。

 弘江は、今朝ヤマトがパンがないから買ってこなくちゃ、と言っていたのを覚えていたのだ。

「買ってきたよ」

「牛乳は?」

「まだあるだろう」

「もう少ししかないよ」

「どれ見せてごらん。ほんとだね。少しかないね」

「うん。買ってこようか」

 彼女は出かけて大きな牛乳のパックを買ってきた。

 弘江は小学校二年生の、頬が可愛い女の子です。

 夜お風呂。弘江を入れる。

 首筋に垢(あか)などたまっていて、洗ってやる。

 

 三月一日 

 会社は午後から業務であったが、ヤマトは免除してもらい帰宅した。

 昼の暖かなうちに風呂に入ったらと裕子に勧めた。

 退院後初めての入浴だ。ドライヤーを掛けてやった。

 裕子はずいぶんやせた。四十七キロほどあったのが三十八キロになってしまった。

裕子の体重はこのあとも徐々に減っていく。

 着替えを手伝う。手術で傷ついた体に乳房はピンと張り、まだ大部分の細胞が若々しいことを告げていた。

 子供らは毎日よく手伝う。雨戸開け閉め、配膳などもする。

 彼らはこのような平穏な家庭生活の永続をゆめ疑っていない。

 第二ラウンドの日々が始まったのだ。

 ヤマトは、買い物・炊事・洗濯、子供の世話や会社の仕事、そして裕子の闘病生活の手伝い。

 希望と絶望の日々。

 ヤマトは第三ラウンドが来ないことを祈っていた。

 しかし、今から省みると、第三ラウンドも最終の四ラウンドもやってくることになった。

 以下、節目だけを記録しておくこととする。

「大平さん、このごろ顔色が悪いよ」

 とヤマトは同僚に言われた。

 裕子は何処へ行くのか。この家庭はどうなるのか、そんな想いがしきりにして、夜中の空間も、仕事中の会社も、しらじらと白けて見えていた。

 ヤマトは生活の激変に疲れていたようだ。

 左記のような記録がある。

「子供らが幼すぎる。弘江は手伝いを喜んでやるが何かをお盆で運びながらよくこぼす。さっきも紅茶に入れる砂糖のビンをひっくり返した。和志は五年生だというのに体も小さく、顔立ちなどは二、三年生のようである。彼は近所の子らとの野球遊びや漫画、雑誌を読むのに夢中だ。

 漫画や雑誌は裕子が子供らに買ってあげた本だった。


 三月四日(金)

 裕子が病院へ行く日。

 朝から「非常にだるい」と、気分が悪い様子。

 昨夜からほとんど物を食べず、頬がこけて、目と歯ばかりが目立つ。

 一応入院する準備して出かけることにした。

 具合が悪いときは入院する手筈だった。そういうふうに医者と連絡がついていた。

 病院は混んでいた。診察室一五号室。

 傷口の診断と採血。外科処置室のベッドで点滴を四時間行った。

 ヤマトは、患者皆が帰ってしまったロビー待合室にずっといたが、裕子の点滴中に高里医師の話を聞いた。

 話はひどい中身だった。

「奥さんはかなり進んだ進行性の癌で、リンパ節への転移は見当たりませんでしたが、切り取った胃の血管の中に癌細胞が発見されました。ということは癌細胞が手術以前に全身にばらまかれている可能性があり、予後は非常に悪いと思います。肝臓障害も多少ありますが、これは手術中の器具その他からの感染かもしれません。こういうことはよくあるんです。食欲のことは抗癌剤の影響か病気そのものから来るのか、今ビクビクしながら薬を使っているのですが」

 薬草の霊魂が裕子に宿った。

「病状が病状だから薬がなかなか効かないが、運命に従いながら、現状を少しでも改善するしかない」

 

 三月七日(月)

 炊事、掃除、洗濯そして出勤。

 帰ってきて買い物。通院。

 果てしないように見える毎日の連続と夜の激しい疲れ。

 だが、たまらないのはそれらのことどもが「裕子の命には何の役にたたない」かもしれないということである。

 その思いは彼女の面影を伴って廊下で、こたつで、仕事場で至る所に現れた。

 ヤマトは思い直して判断や想念を中止するが、また同じ思いが現れる。

 彼女の存在と命が消滅する可能性が大きいことが、ヤマトの思いの中心であり、「なんということだ、何ということだ」という思いが始終襲ってくる。

 激しい胃の痛みで夜中に目覚める。

 会社の看護師がくれた胃潰瘍の薬を飲んだ。

この頃、記録を二重に書いている。

 見られるとまずいので、ほんとうの、深刻な記録は会社で書いた。

 裕子いわく

「三月中はお父さんがんばってね。四月になったらヤマトがやるからね。お弁当も作ってあげるね」

 だが、おそらく五月になっても六月になっても弁当を作れまい。ヤマトはもう永久に彼女の弁当を食べることはあるまい、と思った。

 医者は「予後は非常に悪く、一年以内に再発ということもあり得る」というのだから。

 ホームヘルパーを依頼することとした。

 紹介所は中町だ。勤務先の福利公報を見て電話をした。

 

 三月十日、

 林さんという名前の家政婦が来宅し、夕食の支度をして四時過ぎ帰宅した。

 裕子の具合は割合好調だ。

 声のかすれが直ってきた。

 食べ物飲み物もスムーズに入る。

 体重が一キログラム増え戻して、三十七キロとなった。裕子の体重は元々四十七キロほどあったのが、手術後は三十六キロまで減っていた。

 ヤマトは家政婦が作りかけたあった夕食を仕上げる。

 家政婦が来て、家事から多少は解放され、疲労がいくらか和らいだ。

 弘江は相変わらず無邪気なニコニコ顔で学校へ行く。

 和志も元気で行ってきますと言って出かけた。

 彼らを見るにつけ哀しさが湧き出てくるが、それを止めようがない。

 ヤマトは夜中に目覚める癖がおさまらなくなった。

 咳が止まらず気管支が鳴って苦しい。

 

 四月、裕子の体調が一応安定し、炊事程度は多少できるようになった。

 子供らはそれぞれ六年生、三年生に進級し元気で通学していた。

 下旬、裕子は自転車で買い物できるまでになった。

 

 五月、子供ら二人小学校の遠足。

 裕子は五時半に起きて、いなりずしを作り、ソーセージに卵焼きを付け合わせた。

 神様は、どうして、ヤマトの眼前にやせ細った女房の足と明るい笑顔、幼い子供らの母を呼ぶ声を、取り合わせて示されるのだろうか。

 

 七月中旬

 裕子、まま元気である。

 裕子は、この頃ヤマトの様子が変だという。

 そう言われれば彼女が快方に向かい炊事家事をやるようになったこと、借金返済の件にめどついたことによってヤマトはほっと一息つき、ここ数か月の緊張がゆるんだため疲れてきたのだろう。

 ヤマトはなんとなくだらしのない様子だ。気力体力ともに緩(ゆる)んでしまったようである。

 それが裕子には奇妙に映るのだろうが、ヤマトだってくたびれることがあるさ。ずっと気を張り詰めていたからなぁ。それに会社の仕事がここずっと忙しく、相当な仕事量だよ。(後記 ちなみにこの記録は表用である)

 裕子が、子供らの夏休みになったら一緒に長岡の実家に行きたいという願いを南都病院の主治医に要請し、認められた。

 秋口に涼しくなったらX線検査など総合的な検査をするそうである。

 子供らは例年のように、夏休みの田舎生活を楽しみにしていた。

 田舎には、海岸や小川・釣り・花火等いろいろな楽しみがある。

 しかし、こんな記録がある。

「恐るべきことは事態がだんだん悪くなれこそすれ、好転する見込みはないということだ。裕子は今日このごろ。あんなに元気になってきたというのに。すなわち・・・医者を訪ね容態を尋ねたところ、『この半年の経過は順調ですが、以前お話ししたとおり既に手術前に血管の中に癌細胞が混入して全身にばらまかれていると考えられます。完治する見込みはなく、術後一年または二年が山でしょう。四年も五年も生きている・・・ということはとうてい考えられません』」(裏の日記)

こんな「宣告」だった。

 こういう事態にヤマトの心は耐えられるだろうか。

 

 七月二十二日

 裕子は元気で、買い物からの帰途、茅ヶ崎駅前でコーヒー牛乳をうまそうに飲んだ。

 夏が来た町はいつもと変わらなかった。

 芙蓉の花が咲く以前と同じ道を、同じ景色を背にバスは走っていた。

 この日の帰宅後、夕方から不思議な時間が訪れたと、記録にある。表日記だ。

「ヤマトが飲んでいる薬は制癌剤ではないかしら」

 雑誌を見ていた裕子がそう言った。

「どうもそういうフシがあるわ」

「医者は肝臓の薬だと言っているじゃないか」

それから幾つかかの会話のあと裕子は

「お父さんの様子を見ていると、どうも私が癌だとお医者さんから言われてるんじゃないかなぁという節があるわ」

 裕子は自分が癌ではないかと疑っていたのか。

 そんな心配は全然ないのにそう思わせるほどのヤマトの様子であったわけだ。

「少し長く掛かりますが、癌ではありませんので気長に療養する必要がありますね」

 医師はヤマトにそう言っている。

「何しろ、胃の全摘出ですからね」

 と高里先生は言っていた。

 街の中華料理屋、柳軒の親父さんも胃癌の治療に何年も掛かっている。

 こんな会話がきっかけでヤマトたちは何と一時間近く対話をした。

 近頃珍しいことだった。

 その話が「現実的で、嘘ではない話」なので、気分が落ち着いてくるのであった

 病気は健康人には不幸だが、病人とその家族にとっては必ずしも「不幸ではない」。

 それが現実だから、「不幸だ、不幸だ」とばかり言って暮らしていられないから、ちょっとしたことで「幸せ」なのである。

 夕食は近所の寿司屋へ行った。

 裕子がアナゴ寿司を食べたいと言ったからである。

 しかし、裕子は食べると吐いてしまった。

 だが、子供たちは喜び、ヤマトたちは平安であった。

 このような平穏がずーっと続くことがヤマトたちの最大の願いなのだ(以上表日記)。

 この頃の子供らの動向を記録しよう。

 野球大会で子供たちは小学校へ出かけている。

 和志は遊撃手で三番打者の由である。

 弘江は隣のさっちゃんを誘って、お菓子を持って和志を応援に出かけた。

 

 七月下旬

 夜、子供たちは和協ストアの広場へ盆踊りに出かけ、近所の子たちと二時間ほど過ごしてきたようである。

 だのに、ヤマトの気持ちはずっと鬱々としていた。

 日記のあとに万葉集の歌が引かれていた。

 術(すべ)もなく苦しくあれば出で走り去(い)なと思へど児等(こら)に障(さや)りぬ  山上憶良

 

 八月

 裕子と子供らは新潟・長岡の実家で十日間過ごした。

 ヤマトもこの間お盆休暇が取れて、彼らと一緒にいた。

 ヤマトが、田舎はいい、田舎はいいと連発していたら、裕子は住まいの場所としては「やはり茅ヶ崎がいいわ」と言っていた。

 子供たちも「遊びに来るのはいいけれど、暮らすのは茅ヶ崎がいい」と言う。

 慣れた友達や海の近い林や家や・・・要するに今までの平和で明るい生活が彼らのなかに生き続けているのだろう。

 裕子は実家でくつろいでいたし、喜んでいた。

 子供らも真夏の太陽と海と小川との中で歓声を上げていた。

 子供らの夏休みが終わって九月になってから、茅ヶ崎のおふくろが再入院したとの知らせがあった。

 どうも重い病らしいが、ヤマトにはそれどころではなかった。

 会社の仲間が、ヤマトが気落ちしているのを見て

「元気を出せ」とか、「しっかりしてくれ」

 と言ってくれる。

 裕子も、ヤマトがいろいろなショックと疲労で疲れていると思っていた。

 ヤマトは彼女の病で変になったと思われないように、他のこと何にでもかこつけて、恐ろしい事実を隠そうとしていた。

 裕子には病気の真実はほぼ隠蔽されていた。

 それだけに家の雑事に参っているように見えるヤマトだったのだろう。

 それでよいのだとヤマトは思っていた。

 いやむしろそう思われることがヤマトの目標だった。

 裕子は「元気を出して」

 とヤマトを慰めた。

 やがて、裕子の闘病生活が長期化するにつれ、ヤマトの疲れがだんだんひどくなるようだった。

 今考えるとヤマトは、この頃、心を侵(おか)されアタマにも変調を来していたのではあるまいか。

 ヤマトの体重の減り方も尋常ではなく、ヤマトも病院へ行って心身の治療を受けるべき状態であったと思うが、そんなことはしていられなかった。

 秋が来て「裕子の発病から一年目」が近づいてきた。

 人は励ましてくれるが、ヤマトは、やがて来る事態への恐怖と苦痛で身がすくむようだった。

 しかも恐るべき事態は、むしろ、これから始まったのだ。

 

 十月

 ヤマトは自分の健康な精神作用がすっかり衰えてしまったという自覚があった。

 嫌な夢を見る。

 家族が溶けてなくなる夢だ。

 夜、密かに数珠(じゆず)を持って寝る。

 実家ではおふくろが手術をした由。

 しかし実家へ行く気がしない。

 

 十一月

 兄から電話あり。

 おふくろは癌であると。

 直腸癌の由。

 便通をつける小手術をした。

 そのとき医者から、年ですから危ないと言われたという。

 今のところは幸い治癒した。

 近々退院予定だそうだ。

 

 十二月

 母と子の会話。

 きのうは弘江がロードレースの話をした。

 同級生の女子何百名中三十二番だったという。

 また、

「今日は会社でクリスマス集会があるの」

 それで、土曜日だが弁当を持っていった。

 和志「ロードレースで原君と一緒に走っていて五十三位になっちゃった。去年より遅いよ」

きのう裕子がホットプレート(鉄板焼きの道具)を買ってきた。

 これで牛肉と野菜を焼いて、久しぶりでにぎやかな夕食だ。

 中旬、皆で茅ヶ崎のスーパーへ行った。

 皆がそろって買い物に行ったのは何か月ぶりだろう。

 子供らも釣り竿やら何やら買ってもらい、レストランで昼食を食べて、楽しい日曜日だったようだ。

 裕子は食欲あり。

 食事のほか、鯛焼きを食べており、ヤマトより食べる。

 昨夜はヤマトと子供らが二階へ上がり、親子四人で床を並べて寝た。いつもは裕子だけ二階で寝起きしている。

 明日の夜は夕食にお好み焼きをして楽しむと言っていた。

 

 十二月中旬、南都大学病院で裕子と一緒に高里医師に会った。

「時々貧血と肝機能の反応がちらっと出ますが、これは胃がないのでハンデがありますから仕方がありません。全体に順調です。食事はもう何を食べてもけっこうです。食事制限はありません。むしろ何回にも分けていろいろ食べて栄養をつけるのがいいでしょう」

 裕子、十月からカプセルの薬を替えて、シロップの薬を飲んでいる。

 額の辺りに湿疹が出たので、この薬にしたのだそうだ。中身は同じであるということである。

 注文しておいたシクラメン二鉢が家に届いた。

 ヤマト、曽我量深「本願に生きる」(筑摩書房)を読む。

 年末年始にかけて一家で長岡の実家へ行った。

帰途、茅ヶ崎の実家に泊まり、おふくろを慰めるため、なんとヤマトは歌などを歌った。

 その元気を支えるものは裕子の回復ぶりだろう。

 彼女はけっこう元気だった!

 

 三月四日

「今のところ再発の気配はありません。しかし何度もお話しするようですがこの手のタイプは二年以内に再発することが多いのです」

 高里医師から話を聞く。

 確かめると嫌な話ばかりだった。

 四月、和志は中学一年生になった。

 弘江は小学校四年生へ進級した。

 庭に雪ヤナギが咲いて、ツツジも開き始めた。

 ヤマトは会社で同じ部に所属。

 和志が新しい詰め襟の制服着て出かけた。

 彼が持っていくお弁当を弘江が珍しげに見たがる。彼らの昼食は今までずっと給食だったから。

 また、和志が英語のラジオ講座を聴き始めた。

 弘江はそろばんを習い始めた。

 子供たちはまちがいなく成長している。

 彼らは、眠り、食べ、遊び、学び、祈った。

 また、自分の目標を自覚して、熱意・自制・忍耐・意欲など、自分をコントロールする力がだんだんと働くようになっていた。

 命を維持する本能的な力に添えて、生活への自覚的意志が加わってきたようだ。 

 表情にも大人風の光が少々加わってきて、自分をコントロールするようになったと言え、ヤマトはうれしさを感じた。

 

 五月、皆で江ノ島へ遊びに行った。

 湘南の海が光っていた。

 向こうの砂浜にサーファーが三、四人いて、海に入ろうとしていた。

 陽を浴びた海の紺色が、何層かの横縞模様になっていて、さざ波が白い腹を光らせて寄せてくる。

 和志「あの堤防で釣ろう」

「お父さん、ほら、糸が飛ぶのを見ていてね」

 和志は買い貯めた竿や釣具を使って海釣りをしたが、これは初めての経験だった。

「こんなにきれいなのがあったよ」 

 弘江は砂浜で小鳥のように飛び跳ねて貝を拾った。

 裕子は静かな住宅街を通りかかった時にそう言った。

「この辺りすてきね。今度移るならこんな所もいいわね」

海岸の饅頭屋やイカ焼き屋台前で

「いい匂いだぁ」

 と裕子は言った。

ヤマトは祈った。

 ---- 家族がみんなこのように、元気で暮らせますように。

 帰宅後も、みんなが今日のことを話し合って、また行こうねと言っていた。

 和志は卓球部に入部した。

 

 夏が来るまでは裕子の小康状態が続き、いっときは裕子が太り始めた、と見えたのだが・・。

 外見では健康がかなり回復してきたと思わせた。

夏が来て、ヤマトは新しい仕事も重なり大変なスケジュールだった。

 

 ここで、記録の重苦しさを転換するため、ヤマトたちが幸せな生活を送っていた頃の日々を思い出したい。

 ヤマトと裕子がどのように出遭い、そして結婚したか、子供たちはどうだったのか、ヤマトと裕子が二十代の頃の思い出を記録に残しておこう。

 ヤマトたちが急行列車の中で出会ったことは前述したが、改めて記述したい。

 一九六四年(昭和三十九年)オリンピックの前年のことだ。

 ヤマトは二十五歳で、裕子が二十三歳のときだった。

 ヤマトが同僚とブドウ狩りに行った時のことだ。

 ヤマトらは地下のワイン貯蔵所を見学したり、ブドウの丘でワインの試飲をしたりしていた。

 ヤマトは地下二キロ程続いている貯蔵庫で言った。

「ここは二万本のワインが 貯蔵されていてね、真上にぶどう畑があるので、厚い岩盤を破ってぶどうの根が伸びている所が観察できるよ」

 ヤマトが案内した巨大な岩盤下にぶどうの根が目の前に生きており、驚くべき生命力を感じさせた。

 このとき隣に裕子のグループがいた。やはり観光できていたのだった。

裕子は可愛い小柄な体を乗り出して、岩盤の下に延びているブドウの根を見ていた。

 ヤマト一行がワインを試飲しているとき、裕子たちのグループが同じ樽の上で試飲をした。

 地下上のショップのレジでタートヴァン(試飲用の金属製カップ)を購入すると試飲ができるが、甘口から辛口まで赤白分けておいてあるため分かりやすい。

「手前から白の辛口、奥が甘口、左に回り込んでロゼ、手前に戻るにしたがって赤の甘口からフルボディとなっていますよ」

 ヤマトが裕子らに教えた。

「ワインのこと、詳しいのですね」

 裕子がヤマトに言った。

「地元、勝沼の出身ですからね」

 裕子が貴腐ワインのことなども聞くので、ヤマトが教えると喜んでいた。

 東京に帰ってきてからヤマトたちは時々会った。

 彼女が優しく美しい人であることがさらに分かってきた。

 彼女もヤマトに好意を持った様子だった。

 このときヤマトは茅ヶ崎に住んでおり、商社のOLだった彼女は飯田橋に下宿していた。

 この記録の元になった古い日記帳にはさまって、その頃彼女からヤマトが受け取った手紙が出てきたので書き留めておこう。


「前略

 お手紙どうもありがとうございました。

 先日あなたにお電話いただいてから毎夜月を見ます。あの日からいつも九時になったら月を見ることに致しました。

 ヤマトの住んでいる家の近くに小さな公園があります。九時になったらそこに出てブランコに乗りながら月を見ることにしたのです。今夜も行ってきました。今帰ってきたところです。

 ヤマトの育った長岡の話をしたいと思います。

 ヤマトは長岡の小中学校、それから県立の長岡高校と通い、そのあと三年間は和裁の学校に通いました。

 まだ長岡を離れて東京へ来てから一年と少しですので、時々長岡の街が見たくてたまらないときがあります。雁木通りなどは風情のある景色ですよ。

 冬には雪が降ってひどい年には交通がマヒしてしまうこともあります。不便ですが東京にはない味わいがあって時々懐かしく思います。

 いつかそんな長岡を思い出しながらお話しできるのを楽しみにしております。

 あなたにはヤマトの知らない東京のことをいろいろ教えてくださいネ。そしてあなたの生まれた茅ヶ崎の話もとても楽しみです。

 お宅へもぜひ遊びに行きたく思います。でも、できることならその前に一度お会いできたらとても心強いです。それでは今日はこの辺で失礼いたします。

 お元気で 。 また、お会いしましょうね。

                      昭和三十九年六月二七日                                                                                 裕子」            

 この年の冬、彼女は自分のいる飯田橋から茅ヶ崎のアパートに移り住んだ。

 このとき結婚する意志を二人は固めていた。

 翌年の春、ヤマトたちは結婚した。

 ヤマトは大学を卒業し、東京都港区の南端に位置する、船のコンテナを扱う会社の派遣社員となった。

 正社員にならずに派遣社員として働こうというヤマトは、「上の階層から下りて」生きるタイプだった。

 あくせくして上を目指すより、楽しく生きて人間らしい暮らしを大切にしたいという考え方だった。

 ヤマトは自動車や住まいを買わずに他人とシェアして暮らした。ヤマトは新居・新品を買うのがいいという価値観ではない。他の人と共用出来るものは一緒に使い、周囲の人との繋がりに価値を求めて、老若男女と広く交際していた。

 既存の価値観を捨て、生きる道を自分で創り出そうとしていた。

 裕子はヤマトの生き方を理解し賛同した。

「子供の高級な服や高額玩具を一緒に使っている友人がいるわよ。上手なやり方でいいと思うわ」

 彼女は明るさがはじけるような人だった。純真、快活という「ゲーテの言う理想的女性」を体現した人だと、その頃ヤマトは思っていた。

「声も表情も可愛くて、プロポーションはここの自治会で一番だ」

 近所の人たちからそう褒(ほ)められたと、十年も後のことだが、本人が笑って言っていたことがあった。

 ヤマトたちは駅近くのアパート(杉村アパートと言ったかな)を探してそこで暮らし始めた。

 街中であるのに畑が目の前にあり、「狭いながらも楽しい我が家」というのにぴったりの新婚生活だった。

 ヤマトは毎日勤務先から家に帰るのが楽しかった。

「赤い手ぬぐいマフラーにして、二人で行った横丁の風呂屋、一緒に出ようねって言ったのに、いつもヤマトが待たされた、洗い髪が芯(しん)まで冷えて、小さな石鹸カタカタ鳴った」(神田川編曲)

 この歌のように、ヤマトたちは近くの銭湯へいつも二人一緒に行った。

 ヤマトたちは、皆が羨むような幸せなカップルだったかもしれない。 

 この年の秋の終わりに和志が誕生した。

 二人は天の恵みだと思った。

 夫婦で大事に和志を育てた。

 裕子はこのときには会社を退職していた。

 やがて茅ヶ崎に建てられた住宅公団の抽選に当たってそこへ移ることになる。

 二DKの新しい住宅だった。

 茅ヶ崎の実家にも近く、勤めにも便利な場所だ。

 何よりヤマトたちは若く、自分たちの暮らしを元気で生きようとしていた。

 世の中も元気だった。

 日本の経済が飛躍的に成長を遂げた時期だ。一九五四年(昭和二十九年)十二月(鳩山一郎内閣)から一九七三年(昭和四十八年)十一月(第二次田中角栄内閣)までの約十九年間である。

 この間には「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。

 一九六八年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第二位となった。 

 東海道新幹線や東名高速道路といった大都市間の高速交通網も整備されていった。

東京タワーは、前にも述べたように、日本人の夢と希望の象徴だった。

  国民は夢と希望、経済成長を追い続けた。

 ところで、戦後日本人が求めた豊かさは主に物や経済の豊かさで、責任感や心の豊かさは、それほど重視されなかった。

 ずっと後世、この影響が現れた。一流会社の中にも功績を挙げるため長年にわたって品質データや会計の改ざんが行われていたところがあるのだ。

 事が判明して重大な結果を招き、信用を貶(おとし)めることになったことは、皆が知っておく必要があるだろうが、如何だろうか。

 最近でも東芝の不正会計問題がある。東芝は二〇一四年度までの七年間に合計二二四八億円の利益を水増しした。

 パソコン事業でもテレビ事業でも不正が常態化していた。インフラ事業や半導体でも在庫評価に不正があった。

 また、油圧機器メーカーのKBが、都庁や県庁、有数な大病院や駅舎等々全国壱千件近くの建物の免震・制振装置性能検査記録データを改ざんしていたことが判明し、世間を驚かせた。

 東芝やKBの不正は一例に過ぎない。日本企業に効率第一主義の無責任体質が根強く続いていることを示しているようだ。

「品質の日本」という、かつて日本が担っていた誇らしい看板は今や失墜しているのではないか。

 さて話を戻したい。ヤマトが別の住宅へ引っ越ししたころ、オリンピックが一九六四年に東京で開催されると決定した。

 戦後、焼け野原で何もないところから世界第二位の経済大国まで上り詰めたというのは世界的に見ても例がなく、第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「奇跡」と言われた。

 この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から、日本を手本とする国が現れた(時代背景については、一部、ウキペディア参照)。

 数十年後、ヤマトが卒業した高校の同窓会があり恩師による挨拶があった。 欠席の挨拶を同窓会幹事が読み上げたものだが、非常に印象的な話なので引用しておこう。


「J高校二期生同窓会へ 二〇一六年十月七日

 私、突然の発熱で欠席となり、申し訳ありません。

 お話しする予定の原稿を用意しておりましたので、幹事さんに送ります。

 J高校二十一期生は一九六九年、昭和四十四年卒業ですね。以来四十七年 経ちました。当時、私は三十歳でJ高校勤務四年目が終わり五年目へかかっていました。 

 当時、自宅は世田谷区烏山町にあり、秋に相模原市へ移住しました。

 その時の首相は佐藤栄作、米大統領はニクソン、宇宙船アポロが月面着陸をして皆が驚いた頃です。

 世相では、映画で「男はつらいよ」第一作 、TVで巨泉・前武のゲバゲバ九十分、流行歌で「ブルーライト 横浜」、「長崎は今日も雨だった」等がありました。ジーンズが定着し、パンタロン流行、二ドア冷凍冷蔵庫登場、冷凍食品時代が始まり、企業のモーレツ特訓が流行しました。

 昭和 二十~三十年代には 三世代世帯も多く子どもの数も三人以上ということも珍しくなかったのです。

 しかし、高校や大学を卒業後大都市で就職し結婚するケースが多くなった結果、核家族化が進みました。

 徐々に初婚年齢が上昇し晩婚化が進行し生涯未婚率も上昇しています。さらに、離婚件数も増える傾向にあり、親が離婚した未成年の子どもの数も増加していますね。

 今後は単身世帯の増加が予測され、特に高齢者の単身世帯の増加が予測されているといいます。こうした家族の在り方の変容は地域のつながり希薄化の大きな要因となりました。(昭和 二十~三十年代以後の記述は平成二十五年版厚生労働白書参照)

 日本は高度経済成長期を迎え、その後「バブル崩壊」を経験します。 

 バブル崩壊により一九七三年(昭和四十八年)から続いた安定成長期は終わり、失われた二十年と呼ばれる低成長期に突入しました。

 皆さんはJ高校を卒業して約五十年経ちましたが、その頃日本は昇り坂の時代でした。今の日本はどうでしょうか。

 今年二〇一六年の日経元旦社説が「ズレた日本の自画像をただす必要あり。まず大事なのは、おのれの姿を正確に知ることだ。こびりついて いる世界第二の経済大国の残像修正から始める必要がある」と 述べるような現状です。

 二〇一六年十月六日に、富士通がパソコン事業を中国のレノボ傘下に移す方針を固めたと報道がありました。富士通は中国や台湾のメーカーが勢力を拡大する事業で単打区では生き残るのは難しいと判断したのです。シャープの台湾企業鴻海への身売りに続き、日本の有力電機会社が壊滅状態となっていますね。

 家庭も当時標準家庭と言われたのは四人家族でしたが、今は単独・夫婦のみ・子ども一人等々と多様な家庭像で、コンビニで一人用のお惣菜を多く揃える時代です。子ども用の公園は激減し、老人の徘徊が頻繁になりました。

 国際通貨基金(IMF)がまとめている国別の一人当たり名目 国内総生産(GDP)の統計があります。それをみると、二〇一六年の今年、日本は世界で二十六位となっています。ちなみに一九九三年ころ、二十三年前は三位でした。

 ところで、人の幸福度はGDPのランクで測るだけで分かるかというと、どうでしょう。アジアにブータンという国があります。

 経済的には決して豊かとは言えない国のようですが、国民の九十七% が「私は幸せ」と答える世界一幸せな国ブータンです。イギリスのレスター大学の社会心理学者エイドリアン・ホワイトが、健康、富、教育から独自に算出した世界幸福度指数で、ブータンは北欧諸国などに混じって八位(日本は九十位)にランクインしたほどです。日本は幸福度指数でもイマイチですね。

 皆さんは日本の成長期に高校を卒業し、成熟期に働き、退職して、そして今、どういう時期なのでしょうか。低迷時代言わば下り坂の時代にいると言えるのではないでしょうか。回復の軌道は見つかっていませんね。

 ただ、悲観ばかりでなく、日本の特技や魅力を大切にしたいものです。その芽は幾つかありますが今日は割愛します。

 ところで、当時のJ高校は自由な教育でした。行事も教材も教職員が自由に議論し、生徒を信じて自由に決めていました。生徒は自由闊達でした。

 今はどうでしょう。国と自治体による押し付け教育が主流で、いじめが横行しており、自由で活発な教育は窒息しています。下り坂の環境のなか各地で画一的強権的な教育が強制されているというわけです。いろんなことを考えさせる今日の同窓会です。

 欠席のこと、重ねてお詫び申し上げます。どうぞお元気でお過ごしください」


 さて、話を数十年前に戻そう。

 ヤマトは結婚した頃、職場で一生懸命に働き、裕子は育児・家事を楽しんでやっていた。  彼女の明るい笑顔と笑い声とは天性のもので、近隣や友人、知人の間でも評判だった。二人は、恩師の言う「昇り坂の時代」に生きていた。

 それから三年して長女の弘江が誕生し、ヤマト夫婦は大喜びだった。

 和志も弘江も自然豊かな環境のなかで健康に育った。

 子供用の公園が団地裏側のすぐ前にあって、反対側は広い芝生広場だ。

 買い物や交通の便もよかった。

 裕子は同じ年の子供のいる赤橋さん一家と親しくしていた。

 家の都合で弘江の誕生後一年あまりで同市内の一戸建て住宅へ転居した。

 ヤマトたちは、周辺が樹林で囲まれた家で暮らすようになった。

 子供たちはここで元気に走り回って遊び、丈夫に育っていった。

 環境はヤマトたちの願い通りだった。

 裕子は近所の人たちとも親しくなった。

 ここで暮らして七年目に二階を増築し子供たちの部屋も作った。

 ヤマトたちは張りきっていた。

 この年の冬に裕子が病に倒れたのである。裕子三十五歳だった。

「黒雲襲来」

 ヤマトはそう受け止めた。 

 裕子の病気について診断を受けた日の様子や入院、手術、その後の様子は既に書いたとおりだ。

夏までは裕子に小康状態が訪れた。

 ヤマトたちは裕子が太り始めたと喜んだ。その頃、講談社の雑誌の新聞広告がヤマトの目にとまった。

「人類の悲願、癌の治療薬完成」

 と書いてある。

 佐藤英一という医者が抗癌リンパ療法というのを開発したという。

 この雑誌を買うこと。

 また、丸山ワクチン、インターフェロンの研究をしようとヤマトは決めた。

 丸山ワクチンもインターフェロンも話題の薬だった。

そんな頃、裕子の状態に変化があり、病院通いが頻繁になった。

 彼女は太り始めたのではなくて、むくみ始めていたのだ。

 ヤマトの仕事が忙しさのピークを迎えていた。

「裕子の病気も仕事も同じ時期に山を迎えた。息継ぐ間がない。しかし、このような忙しさがむしろヤマトを救うのだ。

 子供らの純真な顔つきがヤマトにぎりぎりまで力を尽くせと言っているようだ。

 きのうの午後かなり気分が悪かった裕子は、今朝は気分がいいわと言った。それでヤマトは今日一日は大丈夫と安心してこうして会社で仕事をやっている。事態に耐える力を振り絞って生きること。それしかできないきのう今日だ」

 裏日記にそう記してある。


     再入院

 七月上旬

 裕子がむやみに太るので、南都大学病院に電話予約し、九日に診察に出かけた。 

 診察と検査の結果、おなかに水がたまっている、ということだった。

 医師は多分肝機能が弱まっているせいであろうと言った。

「採血検査の結果はそう大きな異常という数値は出ていません。ややおかしいという程度で、去年も夏にこういうことがありましたね」

「どうしておなかに水がたまるのでしょう」

 と裕子は訊いた。

「胃を切った人は一時的そういうふうになることがあります」。

 そしてヤマトに向かって

「病歴が病歴ですから。病気から来ているというケースが多いんです」

 と 医師は答えた。変な言い方だ。

 ヤマトは秘密の日記に薄い字で、力なく「再発かもしれない」と書いている。

 

 八月

 手術後約一年半を経過。

 南都へ再入院の運びとなった。

「腹部の膨張は肝臓から来ている腹水です」

 医師はそう言い、

「この自覚症状は三週間ほどの入院で軽減すると思います。今月十日前後にベッドが空き次第入院しましょう」と。

 記録によると六月頃まで順調に回復しているかに見えたのに、夏の暑さが増すのと歩調をそろえるようにして具合が悪くなってきた。


 八月二日に続いて八月三日にも病院へ行っている。

 裕子の具合が悪いので、両日ともヤマトが病院へ電話したのだ。

 この頃、医者といつでも連絡は取るようにしていた。

 日記に次のように記してある。

「裕子の顔色が悪く衰弱してきた。

 食べ物を入れると激しい腹痛が起こる。

 吐き気も激しい。

 時々頭痛、脚痛がある。

 時には寝ていられないほどの痛みだ。

 左目の視界半分が暗いという。

 ことに腹部膨張による腹痛、重苦しさが辛いようだ。

 南都病院で血圧測定・血液検査・診察・腹部X線検査・点滴。

 ヤマトは一度帰宅し子供に食事させ、再び南都病院へタクシーで出かけて、点滴の済んだ裕子を家に連れて帰ってきた。

 子供らも不安げな顔つきだ。

 

 八月五日

 午前中より具合が悪く、激しい腹痛と吐き気がしている。

 何しろ二階に着替えに行って、そのまま下に降りてこらなれないといった具合だった。

 病院と約束の午後一時まで待てず、正午過ぎ車を呼んで入退院センター受付へ。

 裕子は受付脇のベッドに横臥した。

 一時に五C病棟へ。

 とりあえず個室に入り、痛み止めを行う。三時、五〇五号室へ。

 この日、澄子さん、育枝さんが相次いで来宅し、家事の手伝いや子供の相手をしてくれた。

 知人たちが暑中見舞いの葉書に記録的な暑さですと書いてくるが、ヤマトは暑さを感じている余裕のない毎日だった。

 

 八月六日

 今日は弘江の心の動きを覚えた日でもあった。病院へ行き来するときの会話。

 ヤマト「明日行きなさいよ」

 弘江「どうしても今日行きたい。ちょっと顔みたい」

「では今日行こう。その代わり明日はお兄ちゃんだよ」

十時過ぎ弘江を連れて病院へ。帽子をかぶせ、林の中を行く。

 病院構内の花屋でバラの花を買った。

 どれがいいかなと弘江と相談。オレンジとピンクのバラにする。

 裕子の枕元周辺が少しにぎやかになった。

 裕子はきのうに比べて静かな顔つきだった。激しい苦痛から解き放たれ、割に静穏に横になっていた。 

 裕子「痛みはきのうの午後以来ないわ。少し吐き気がするだけ。今日田島先生が来たので、ヤマトの腹水を取る治療を始めるんですかって言ったら、あと一週間は薬を飲んで様子を見て、検査と並行してそれからですって・・・・早くやってもらいたいのにね」

 ヤマト「うん。でも医者の言うとおりにやればいいさ。ゆっくり気長にやれば」

裕子、うなずく。

 主治医は槍岡氏とのこと。

 弘江、母さんに書いた手紙を出して言った。

「あとで読んでね」

 帰るとき、牧場の林を出た所の広い庭の一角に、キョウチクトウの花が夏の日差しの中に真っ赤に咲きそろっていた

 ヤマト「あぁ、キョウチクトウの花だね」

 弘江「お父さんサルスベリの花もあるよ。サルスベリの花を知ってる?」

「うん」

「どうしてサルスベリという花の名前を知っているか教えてあげようか。関山さんのおばさんとプールに行って道を歩いているとき、おばさんが赤い花を見てこの花何の花かなぁと言ったら、塀の所からおじさんがこれはサルスベリの花だというんですって言ったんだよ」

「ふーん」

 この時弘江が母さんにお土産の飴玉(あめだま)を二つもらって、ヤマトたちは一緒に舐(な)め舐め歩いて帰ってきた。

「お父さん飴玉どうした? 弘江はまだ舐めてるよ」

 十分間舐めてもまだなくならない大飴玉だ。

「さっき捨てたよ。虫歯になるから、弘江ももう捨てな」

「いやだよ、お母さんにもらった飴玉だもん。弘江はほんとは黒い飴がほしかったんだけど、あれはお母さんが好きなんだ」  

 弘江は飴玉だけではなく、お母さんのくれたもの(お人形や本)は、他のものと別の棚に整理して大事にしていた。

 病院から帰宅して家の前にさしかかると、まだソプラノの和志の声がした。

 この日、日記に次の記録もある。

「十里を行くも未だ行かず。百里を行くも未だ行かず。常に着くところに着かざる感あり。しかれども我行かざるを得ず云々(夏目漱石)。この言葉と同じだ。こたえる」

 

 八月八日

 裕子は、腹痛、胸のむかつきが相変わらずの様子で、今日は麻酔科の医師が来て背骨から細い管を入れ、腹部を麻酔する治療をしていた。

「二度目の入院だし特に緊張していないわ。今度は命にかかわることではないものね」

 と言い、

「子供たちはどうしているかしら」

 と、気にしながらも、静かに寝ている。

「子供らはがんばって元気にしているよ」

 とヤマトは言った。

 裕子の腹痛と吐き気が静まることを願うのみ。

 医師たちは手を尽くしている。

 

 八月九日

 裕子の腹痛、吐き気は収まっている様子。しかし、

「昨夜は麻酔の管を入れた背中が痛んで、よく眠れなかったわ」

 唇の色はこの四、五日で一番いい。

「プリンを食べたいなぁ」

 とか、「今度来るとき果物持ってきて」と言う。

「了解!」

この日は和志と弘江が裕子のところへ行きたいというので二人を連れて、NRレストラン近くの新しい道を行った。

 ヤマトには子供を連れていくときが一番切ない。

 彼らの幼顔の残る表情と運命とを、母親の前で見るのが苦痛だからだ。

 

 八月十日

 裕子が衰弱していることが顔色で分かった。

 病室に入ると便器がベッド傍に置いてある。

 トイレに行くのが大儀なので看護師さんが無理しないでと言い、置いていってくれた由。ヤマトは、裕子がわずか二十メートルほど先のトイレに行けなくなっているのかという思いがした。

 高里元主治医は自分の耳の手術で入院中だと言い、代わりに現主治医の槍岡医師と話した。

 槍岡医師の見通しは厳しい。裕子の余命は数か月という。

 ヤマトは医師に丸山ワクチンの使用を依頼した。

 長い一日だった。

 子供らは、手伝いの育枝と読売ランドへ遊びに行った。

 昆虫館などに夢中のようだったと育枝から聞いた。

 ヤマトは「まだ丸山ワクチンがある」と日記に大書した。

槍岡医師の話の要点は次の如し。

 * モウ、コノママ、ウチニ、カエレナイカモシレマセン

 * 臨床上カラミルト、腹部ノ組織に、大キナ癌ガデキテイルト思イマス

 * ソウ、若イデスカラネ、短クテ一カ月、長クテ三カ月クライト思イマス

 *「きのうより今日と、何かいいことがあれば、大平さんと言って声もかけやすいのですが、 ヤマトたちが病床に伺っても悪い材料ばかりですから、気楽に声もかけられなくています」

 *「相当痛いです。叫ぶ人もいるくらいです」

 *「今やっているあの方法が、鎮痛の一番いいやり方なのです」

 抗癌剤・丸山ワクチンについて

 *「相当量の抗癌剤を使ってみるつもりです。しかしこれも有効であるかどうか。そうは思えません」

 *「インターフェロンやリンパ球療法ですか? そうですね・・まだヤマトたちの手元にはありません」

 *「私たちは丸山ワクチンが効くとは思っていませんが、ご依頼ならやってもいいですよ。それはこれという有効な手立てが私たちの手元にもないからです」

 このとき槍岡医師の態度は、医師としては信頼できる最大値のものであろうと見受けた。

 彼は茅原病院の「尊大な」医師とは違う。

(過日、ヤマトは茅原病院に出かけて抗癌剤について相談したことがある。態度の大きい医師が「丸山ワクチン? あれは宗教と同じで、ただの水をありがたがってるようなもんだよ。云々」

 と言う。

 その医者は肝心の癌の治療については結局のところ何も語らず、まったく相談にならなかった)

「この病気の医療は患者さんを中心に家族や医師、看護師などの共同作業です。関係者は同じ目標に向かって進む仲間ですよ。大平裕子さんはヤマトにとって大事な仲間です」

 先日の槍岡(やりおか)先生の言葉だ。

 ヤマトはこれを聞いて涙が出るほどうれしかった。

 しかし、このあと秋から冬に掛けて、ヤマトたち家族は、さらに、言うに言われないような苦痛と悲しみを味わうことになる。

 槍岡医師の話(あと少々の命・・・)についてヤマトは次のように記した。

「こんなつらい話は聞きにくいなぁ。

 ただ、裕子の苦痛を少しでも軽くしたい。だから、早速日本医科大に行って丸山ワクチンを手配しよう。

 今は制癌剤よりもこのワクチンが効く可能性があるだろうと思うほかない。

 今までのところ、裕子には制癌剤は効果を生んでいない。むしろ、吐き気や腹痛など副作用ばかりが目立っている。

 丸山ワクチンは少なくも裕子の苦痛を軽くする可能性がある」

 ヤマトは丸山ワクチンについてずっと研究しており、そういう確信を持つようになった。

「丸山ワクチンは、日本医科大学皮膚科教授だった丸山千里が開発したがん免疫療法剤である。無色透明の皮下注射液である。

 一九四四年、丸山によって皮膚結核の治療のために開発され、その後、肺結核、ハンセン病の治療にも用いられた。支持者たちは末期のがん患者に効果があると主張しているが、薬効の証明の目処は立っていない」(ウキペディア)

ヤマトの経験はこの時点までである。

  後になって厚生省から有償治験薬として供給されることになった」(ウキペディア)

 八月十二日

 南都大学病院で裕子を治療する医師団と会った。

 十五日腹水還流の施術予定ということだ。

 腹水還流の説明を聞いた。

「腹水を透析装置に通すことによって水分だけを排除して蛋白を濃縮します。これを点滴で患者さんに戻します。蛋白を失うこともなく、腹水を抜いて体を楽にする治療です」

 なるほど。

 今回の入院日のこと、ワクチンのことも早め早めにやってきたのではあるが、それよりも裕子の病状の進み具合が早いような事態だ。

 今回の入院に際して、先に高里医師から、腹水還流後三週間したら症状が取れ、退院できるという話があった。

 ところがそれから一週間も経たないうちに槍岡医師が

「このまま家に帰れないかもしれない」

 と言うようになってきたのである。

 ヤマトは丸山ワクチンの使用承諾書を南都の医師に書いてもらうように依頼した。このワクチンはこの時には使用承諾書がないと入手できないのだ。

 

 八月十四日

 朝早く、御茶ノ水経由の電車で日本医科大学付属病院へ行った。当時、このワクチンはこの病院だけで入手できた。

 多くの人々が行列になって並ぶ受付をようやく済ませ、説明会。そのあとワクチンを入手した。

 炎天の中を帰ってきながら、

 ・・・ ついにこの薬を手にした。最善にして最後の試みをやるのだ。

 という考えが頭をよぎった。

 夕方南都大学病院へ行き、槍岡医師にワクチンを手渡す。

 医師「早速明日からやりましょう。本人には適当に言ってからやります」

 医師団が病室を回診。

「明日は腹水還流の日ですね。楽になりますよ」

 明日は覆水を抜き、ワクチン注射も始まるとヤマトは自分に言い聞かせた。

 夜、久しぶりに子供らとゆっくり食事。

 裕子の病状をそれなりに話す。

 そして、子供を慰め励ました。

「お母さんは三週間の入院予定だが、もっと長くなるかもしれない。でも、おなかの痛みが取れるまでうちに帰ってきても何もしてやれないだろう? 病院にいないと手当てができないのだよ。母さんやお医者さんもがんばっているからね、皆でがんばろうね」

「うん」

「うん」 


 八月十五日

 腹水還流で、予想通り、裕子はぐっと楽になる。

 病院で裕子はよくしゃべり、笑顔だった。

 裕子の話。

「腹水五十%を捨て、あとの残りを還流したのよ。捨てた分は六〇〇CCの容器に六本分になったわ。十時四十分から二時まで掛かった。大きな機械で日本に何台とか。大きなスイカを入れたほど張った腹がすっきり平らになったのよ」

 と言って、彼女はヤマトにプヨプヨな腹を見せた。

 田島・吉川両医師と看護師二人がつききりだったという。

 吉川医師は叱(しか)られながらやったそうだ。

「田島先生は昼食のときも(看護師にパンを買いに行かせ)控室で食べたが、看護師に機械の扱いを指示し、このランプがこうなったらすぐ呼ぶようにと言って控室へ行ったのよ」

 このようにして裕子は久しぶりの元気さでよくしゃべり、脚も真っ直ぐに伸ばして寝てみせて、うれしそうだった。

 丸山ワクチンの注射は腹水の様子を見ながら行うということだった。

 今日はやらない様子だった。

 ヤマトとしてはこれを早くやってほしいのだが・・・。

 弘江は隣のさっちゃんと千羽鶴を一日中折っていた。

 鶴が六百個になったという。

 和志は宿題の、植物の葉っぱ集めをしていたが、ヤマトから母親のことを聞き、喜ぶ。

 

 八月十六日

 裕子は左腹部に痛み。

 前の痛みと違う痛みで、まだがまんできる由。

 その左腹部が膨張している。

 医師によると、腹水の残りかどうか不明とのことだ。

 昼食は十日ぶりに重湯などが出たが、食べるとすぐに下痢をした。

 左足が非常にだるく、しびれるというので、看護師が湿布をしてくれた。

 細い腕に、青紫の痣(あざ)が出るほどの点滴・注射・採血検査の痕(あと)がたくさんある。

 それでも彼女は精一杯の笑顔だ。

 近所の関山・森田・湖上さんたちがどうしても裕子の顔を見たいと家に言って来たので、今まで見舞いを辞退してもらっていたのだが、仕方なく行ってもらった。

 夜、和志、弘江はテレビを見て笑ったりして食欲もあるが、彼らの不安と心配がこちらに伝わって来る。

 ヤマトは何かしているのが一番よい。

 今日午前中洗面所をマジックリンで掃除した。

 きのうは風呂場。

 午後は台所のステンレス等々。

 しかし、我が心の戦いすさまじい。

 夜は八時頃になるとくたくたに疲れて寝床に入る。

 

 八月十七日

昨夜から俄雨がぱらつく。

 晴れ間に電柱でセミが鳴く。

 あぁ、子供らの夏休みだなと思う。

 約束していたとおり、彼らを面会に連れていかねばならない。

 呪文を唱え力を抜いて演技するのは毎回のことだが、母子対面となると心が張り裂けるようになる。三時過ぎ病院へ。

 裕子は下痢が激しく一日に五、六回とのこと。

 左足が腫れ、顔はやせて衰弱の気配が濃く、目もくぼんだ。

 裕子の体重は三十一キロ。体重がここまで減ってしまった。

面会の間、弘江は快活にしていたが、少し経って泣き顔になった。

 この涙、ヤマトには一時の悲しみには見えなかった。

 裕子は弘江を励まし、

「もう少しだからね」

 和志はこらえて平静だったが・・。

 こういうのを見ているのは、この世の地獄だ。

 母子の別れの対面だぁ。

 五時、茅ヶ崎駅近くで買い物。

 六時、「ブラジル」で食事。

 辛い一日だった。

このあとの一週間ほど裕子の下痢、腹痛がさらに激しくなった。

「何が起こるか分からない状態です」

 吉川医師はそう言い、血圧も下がっている由だった。

「しかし 麻酔入りの下痢止めがボツボツ効いてくる時期なので、それがうまく行くとまた盛り返すのですが」

 ヤマトは丸山ワクチンを早くやってくれと催促した。

「むろんやりますが、今はあの状態なので、その治療がまず・・」

「何もやらないうちに昇天してしまうかもしれないので早くやってください」

 とヤマトは強く言った。

「市販されていない薬ですし、どういう副作用があるか分かりませんから」

「日本医科大病院では副作用はないと言っていますよ」

 ヤマトは必死だった。

「全力をあげてやります。今の状態では、もうちょっと待ってください」

 ヤマトは制癌剤を大量に使う病院が、何を今更丸山ワクチンの副作用を言うのかと思った。

 繰り返し依頼。

 現状から裕子はもはや期待薄の状態となったことを認めざるを得ず、この頃のヤマトは丸山ワクチンに最後の希望を託していたのだ。

 

 八月二十三日 

 南都病院でようやく丸山ワクチンを打ち始めた。

「今日から皮下注射を始めます。腹水がたまるのを予防する注射で、一日おきにやります」  

 と吉川氏は裕子に断っていた。

 ヤマトはようやく安堵(あんど)した。


 八月下旬、 見舞いが重なる。

 長岡の人たち・近所の人・会社関係。

 しかし長岡以外の見舞客にはヤマトが自宅で対応した。


 八月二十六日 

 自覚症状は大幅に改善され裕子の気分良し。

 下痢も熱も平常に復帰した。

 痛みもなし。

 同室の患者とのおしゃべり。

 週刊誌も借りて読んだと。

 看護師に身体の隅々まで拭いてもらった。

 子供たちとの面会も元気で行われた。

 ヤマトは丸山ワクチンが効いてきたのだと思った。

帰宅後、和志が言った。

「今日一番よかったことはお母さんが元気になったことだ」

弘江「弘江もそうだよ」

子供らは明るく素直で優しい。

 和志「お父さん、何か手伝おうか」

 弘江「弘江は洗い物を今日からやるよ。おもしろいもの」

 彼らは食事作り以外ほとんど手伝う。

 食事の片付け・ゴミ出し・掃除・洗濯物取り入れ。

夜、皆でテレビを見ていた。

 ヤマト「あの人美人だなぁ」

 弘江「母さんの方がいいよ」

 ヤマト「そりゃそうだなぁ」

 弘江「うん」

 裕子は重湯、スープなどを摂(と)れるようになってきた。

 点滴も一本ずつ減って一日に五本となり、三十日には三本になった。

 しかし、エレベーターの前で高里氏が言った。

「また腹水がたまる兆しがあります。まだまだ予断を許しません」

 この頃、近所の人たちの応援が多い。「手伝いやご馳走が多くあり」と記録されている。

 身内のような気がしてと言って裕子を案じてくれる人。

 子供の夕食を作ってあげるわという人。

 また、旦那がくたびれると困るものね、と言ってくれる人。

 和志のお弁当を作ってくれるという人。

 千羽鶴をほんとに千羽折ってくれた人は、裕子の好きな花をいつも持ってきてくれる。

 ある夜、目の前のご馳走を記録してみた。

 炊き込みご飯・お吸い物・焼きサンマ・漬物・枝豆・奴豆腐・白菜漬け・卵焼き・葡萄・キュウリ、ナスのぬかづけ。

 多くの人が入れ替わり立ち代わり来てくれた。

 夏休みが終わりに近くなり、朝夕は涼しく、ランニングだけでは肌寒いようになってきた。

 裕子の苦痛が取れるに伴い、何かにつけて一喜一憂するまいと思う気持ちが湧いて来た。

 これまでもさまざまな症状が間断なく現れたものだ。

 ヤマトたちは今日を精一杯過ごすだけで、一寸先は闇。視界がまったくきかない。

 

 九月に入って子供が二学期のスタートとなり、新学期の準備をさせる。

 衣服・ネームプレート・靴・宿題・通知表 等など。

裕子の容態は一進一退ながらもお粥を食べられる状態だ。

 痛みはなく、下痢が日に二、三回あった。

この日、ヤマトが病院へ行ったとき、裕子は点滴中だった。

 食事はきれいに食べた。

「腸炎の形跡がありますが、癌がここに転移している状態ではないようです」

 と医者は言った。

「一度退院するなら今ですね。おそらくあと一か月かそこらでしょう。丸山ワクチンはご近所の医者にやってもらうのがよいのではないでしょうか。ここで注射してもいいのですが、外来では通い切れないでしょう。むろん家で大変ということならこのまま入院していてもらってもいいですよ。とりあえず明日家で一泊して様子を見てみましょう。あとのことはまたそのあとで相談しましょう」

 槍岡医師がそう言った。

 丸山ワクチンの注射についてヤマトは社医の津田さんに相談することとし、津田先生宅を訪問した。

 その紹介で丸山ワクチンに詳しい柴田医院に行った。

 柴田医師は丸山ワクチンの入手について調べてみますと言ってくれた。

 既に注射をし始めているワクチンを中断できないので、当面は南都大学病院の外科外来処置室でやってもらうように交渉し、了解を得た。

 

 九月下旬

 裕子の実家、長岡の一哉さんと老母松代さん来宅。

 松代さんは当分家にいることに。

 多くの人の好意、応援を得ていたが、中には冷たい目でヤマトをながめている人たちもいたようだ。憂鬱な表情で揺れているヤマトの態度が気に入らないのだろう。

 その人たちには、ヤマトがだらしのない人間に映っていたにちがいない。何と思われても仕方のない状態だった。

 

 九月二十五日 

 裕子腹痛・腹水・吐き気あり。

 

 九月三十日 

 高里医師は裕子を診察し、

「入院しましょう」

 と言った。

 来月、十月三日に入院の予約をした。

 

 十月三日

 裕子が入院した。

 衰弱が増し、具合が悪い。

 子供らも寂しさの影が濃い。

 

 十月七日は土曜日。十八時まで仕事、会議など。

 帰り道、会社の皆に誘われ寿司屋で飲んだ。

 きのう裕子が割合に調子よかったこともあり、ややほっとして気がゆるみ酒量が多くなった。

 この夜中十二時過ぎ、南都病院より電話だと松代さんに起こされた。

 安心していたのに何が起こったのだろう?

 裕子がトイレで倒れて頭を打って具合が悪いので、すぐ来てくれという。

 タクシーを呼んで駆けつけた。

 付き添う。

 裕子は、看護師の呼びかけに返事をしていたが、徐々に反応なし。

 生あくびを頻繁にしている。血圧は上が八十。

 高里医師他二人の医者と看護師が付き切り。

 三時半、ICU特別室へ移った。

「頭の中に血の塊ができたか、腹水が回ったか。いずれにしても時間を争う場合があるので、一応手術承諾書にサインをしておいてください」

 と医者は言った。

 翌朝五時、ヤマトは歩いて一度帰宅し、八日朝、関山さんの車を頼んで再び病院へ行った。

 裕子は意識なく、心電図・酸素吸入・点滴など緊急監視下にいた。

 万一ということがあるのでと医者に言われ、裕子の容態を親戚などへ連絡した。

 徐々に減っていたヤマトの体重は、平常の六十三、四キロから、この頃には四十キロ台後半になっていた。

 この日の朝、和志は、慌てる大人を気にしながら、おむすびを持って体育大会に出かけ、弘江は関山さんに連れられ和志の応援に行った。

 会社より中森・石田・隈川氏来宅。姉の澄子さんもまた来てくれた。

 裕子の容態は九日に少し安定した。

 高里医師は、今回頭を打ったことについては回復の見込みが立ちましたと言い、

「脳外科上は今のところ問題ありません」

 子供らこの日も元気に登校している。

 二人とも散髪。

 

 十月十日になって裕子はICUの部屋を退出し、五階の個室へ移った。

 意識はほぼ正常に回復した。

 裕子「子供たちはどうしているかしら?」

 ヤマト「元気だよ。和志はこの頃釣りに行くことが多く、弘江はそろばんに夢中だよ」

 裕子「入院ばかり長くなっていやだわ」

 と全体的に元気なし。気が弱くなっているようだ。

 ヤマト「こればかりは医者に任せなきゃ。病気に負けちゃだめだよ」

 裕子は少し笑いながら

「みんなこの部屋の四人で愚痴をこぼし合っているの。憂鬱だねって」

この月の半ば過ぎに柴田医師から電話があった。

「奥さんの具合どうですか。丸山ワクチンの件ですが、手に入りましたのでご入り用なときにはどうぞ」

 ワクチンを根津の日本医科大病院まで取りに行かなくても、柴田医院からもらえるようになった。

 おまけに柴田先生が家に往診に来て注射をしてくださるという。

 ワクチンの注射について、時間も手間も大幅に改善して、ありがたかった。

 秋のうちに裕子は南都病院で二度目、三度目の腹水還流をした。

 水を取れば一時は楽になるが、その後また水がたまり出すという状態だった。

 癌性腹膜炎の末期症状のようだと医者は言った。

そしてその後一進一退の病状だったが、入院の日数が長引くにつれ本人が弱気になってきた。

 ここに裕子の手帳に記されていたメモのような詩がある。


   いつの間にか秋が深まり

   窓の外には紅葉した森が見える。

   あの森向こうの家では

   今朝はストーブを焚いただろう。


   病室の窓の外には朝日を浴びて

   小鳥たちだけが生き生きと

   飛び交っている

   子供たちはどうしているだろう

 

   何度目の入院だろうか

   今度はこのベッドに横たわって八十日

   目に映る景色はいつも同じビルの壁

   小鳥のように自由にこの窓を飛び立って

   子供たちの待つあの家に帰りたい 


 これは、あとにも先にもヤマトの知っている、ただ一つの裕子の詩だ。

裕子は家に帰りたがっていた。

 子供を連れて面会に行くとき、面会時間が終わる別れ際に、裕子はいつも五階エレベーターの出入り口までヤマトたちを見送ったのだが、このころからはエレベーターまで送ってくる体力がなくなってきた。

 ヤマトは医者と相談し、いつでも入院できる体制を取れるようにしてもらって、裕子の体調を見計らって退院することとした。

 医者は最後に本人の好きなようにさせてくれたのだろう。

 裕子は家には帰ってきたが、一日中寝床で横になっていた。

 新聞や絵本などを読むが、すぐにくたびれてしまう。

 家政婦紹介所から、新たに田下さんというホームヘルパーを派遣してもらった。

 裕子の状態を見たヘルパーは、来宅を尻込みするような状態だった。

 しかし、勤務中何かあればヤマトに連絡するように言い、無理をしてお願いした。

 ヘルパーには一日おきに家に来て炊事や家事をしてもらった。

 田下さんは九時から五時半頃まで家にいて、あれこれとやってくれた。

 丸山ワクチンは柴田先生が一日おきに家まで来て注射をしてくれた。

 南都大学病院には時々出かけて検診を受けた。

 柴田先生と高里先生との間で、ヤマトを仲立ちにしてカルテのやりとりが行われていた。

 大学病院でもらった薬を飲んだあとに、特に吐き気や腹痛がひどいので、この薬を柴田先生が調べてくれたことがある。

 制癌剤だった。

 裕子はほかに痛み止めの利尿剤なども飲んでいた。

 裕子は自宅にいると、病院と違って、自分の好きな物が食べられてうれしそうだった。うどんを茶碗に半分、ロールキャベツ一切れ、魚の煮付け一切れといった具合だ。みかん一節、柿四分の一というようにデザートも食べた。

 

 秋が終わり、冬が来ていた。

 裕子は食後常に襲うあの大儀な時間。特に今は腹痛がひどい。

 疲弊が激しく、衰弱が著しいこの頃だ。

「イタ、イタ、イタ~イッツ!・・・・・・みんな気にしないでね。声に出すと楽なの」

 と言い、こたつの椅子に寄りかかっている。

 しかし結局は二階の部屋に行って、痛みと疲れを声に出して、大儀そのものとなった裕子の身体だった。

 往診に来た柴田先生にアドバイスされた。

「子供さんに母親が重い病であること、重態であることを言った方がいいですね」と。

 ヤマトは裕子が危機的な状態であることを子供に話す決心をした。

 彼らは悲しみや不安と戦ってきた。

 今度入院するとしたらいつ帰ってくるの? と いった質問をする。

 ヤマトは、それは分からないよ、と言うだけだった。

「母さんもお医者さんも頑張ってはいるが、病気は治らないかもしれない」

 と告げた。

 ヤマトは、子供らの表情を注視しながら、こういう事態を子供に知らせなければならないことを、重い砂袋を背負うような運命だと感じつつ、事態を話した。

 子供の小さな頭は破裂しそうだったにちがいない。

 二人は、裕子の病状について重い事実を知らされ、すすり泣くだけだった。

 間もなく、彼らの自慢だった、朗らかで元気な母の頬が急激にこけてきて、二人の手を握る力はだんだん弱々しくなっていった。

 ヤマトは自分の身体がじりじりと焼き焦げるような苦しさを感じて過

ごした。裕子の症状が末期の日々だった。 

 しかし、朝、陽が昇れば、子供らはじっと耐え、登校し、帰宅して学校の宿題や手伝いなどをしていた。

 母親が二階の寝室でうめいているとき、一階の居間で彼らは手伝いをした。

 仕事をしながら微笑みを絶やさぬ弘江。

 元気に高校入試模擬テストの結果や部活動の様子を語りかける和志。

 ヤマト「静かに。し~っ。母さんが二階にいるよ。静かにして休ませてやってくれ」

命の神が子供らに宿っていた。

 母が重篤の病に伏すという非情な悲しみのなか、それでも、彼らは、眠り、目覚めて頭や体を動かし、食べ、眠り、また翌日へと命をつないでいっている。

 幼い生命力が、抑えられても押されても、外に向かって羽ばたこうとしていた。

 ヤマトも子供らも厳しく荒れ狂う竜巻の中で揉まれながら、皆に支えられ、踏みこたえてきた。

 現在と未来とを見失い、悲しさと不安にさいなまれながら、何とかそれをつかみ直そうとしていた。

 裕子は必死で、しかし、静かに病気と戦っていた。

 彼女は愚痴少なく、運命に従いながら、自分にできることは懸命にやる人だった。普段から潔く、そして努力を惜しまない性格だった。

 ヤマトは、エネルギーを溜(た)めるだけ溜めて放たれた四本の矢、という夢を毎晩のように見た。

 矢は放たれなければ止まない状況だった。

 放たれた矢は何処へ行くのだろうか。


     死去

 その年の冬、雪が激しく降る日に裕子の呼吸が止まった。

 進行性の胃癌が全身に転移したということであった。

 その時、子供らはヤマトと一緒に裕子の手を握ってお別れをした。

 彼女の手はまだ温かかったが、翌日、家に遺体と共に帰った時や葬儀場に行く時に、和志がそっと触った母の手はもう冷たくなっていて、和志はその都度たじろいだそうである。

 死に化粧をした母の美しい表情を弘江は今でも覚えているという。

 裕子が三七歳で、子供らが一〇歳と七歳、ヤマトが三九の時だった。

 裕子は穏やかにほほ笑んでいるように見えた。



    第五章 地獄

裕子の死は、横井ヤマトを未だ見ぬ地獄、地獄の地獄へ突き落とした。

地獄の地獄とは、太陽や月の光が届かない暗黒世界で、大風と豪雨で荒れている所だ。

 ヤマトの様子を彼の日記から抄録しよう。


 1.21

 ・・・ 何ということが起きたのだろう。

 悲哀が心臓の中枢を直撃する。

 悲しみ・苦しさ・孤独・悔恨・不安・絶望が全身に降ってきた。

 ・・・ もう会えないのだ。

 胸がつまり、苦しくなって、溜息(ためいき)、吐息が激しく出る。

首を反対向きにねじ曲げられて、背中に涙を流すという夢を何度もみる。首ねじりは何かで読み知った話だったが、異様な光景だ。

 ・・・ 裕子は私と子供を置いて逝ってしまった。このような寂しい世に生きていたくない。

 真っ黒な出口なしの穴に入っている感じだ。

 夜中に目が覚め、眠られず。

 酒を飲む。

 

 私は、嘗て物の本で、ギリシャ神話の死の神はタナトスという名前で、母親はニュクス(夜)、兄はヒュプノス(眠り)とされており、一説には女神レテ(忘却=三途の川)と弟妹であると読んだことがあったが、裕子がこの一家と同族になってしまったという夢にうなされ、目覚めて、いたたまれずに酒を飲んだ。夜中に酒を飲むという癖がつきはじめていた。

 裕子が死の神や三途の川と一緒にいるということに耐えられない。


1.23

 妻の死亡や、家業不振を経験し、喪失感や孤独から酒を飲み、やがて朝も昼も酒浸りになってしまった人がいる。

酒の切れ目がなくなり、朝から酒屋に走るようになった、私の知人高田裕子さんのことだ。

 高田さんは夜昼の識別が難しくなり、手足が震え、アルコール依存症になった。

 着用する衣服もだらしなくなり、汚れにも平気になった。どうかすると涎(よだれ)をたらすようになった。

 元はまじめな人だったが、家族は離散し、親類や周囲の者たちは混乱した。

 高田さんの言動がおかしくなり、顔色はますます悪く、道端に倒れたりしていた。

 入退院を繰り返し、家にいるときは、酒瓶片手に港町を歩き回った。

 これは、悲しみ・苦しみから酒におぼれて、やがては死に至った人物の話だ。

 私との違いは何だったのだろうか? 

 あと一歩の所で踏みとどまるか否か。周囲の心遣いを感じ生かすのか否か。そういうことだろうと思う。

 

 1.24 

 裕子は多くの人の悲嘆を誘い、皆の心に強い悲しみを残して逝ってしまった。

 私は夜中に妙な夢を見てうなされ、目覚めて、酒を飲む。飲まずにいられない。

 〝バラバラで一緒〟という「哲学」? を想う。「バラバラで一緒、差異を認める世界の発見」とはどんな意味だろうか。

 一人一人、それぞれ個性があってバラバラに見えるけれども、みな、いっしょの運命なのだ。そういう意味だろうか。

 または、一人一人それぞれ違っても、そこに差別や区別はなく、違う者同士が共に生きられる世界ですと、そういうことだろうか。


 部屋に観音菩薩の銅像を置いた。神仏具店で買ってきたものだ。

 銅像に裕子の魂を入れる儀式を自分で行い、花を供えた。  

 魂を入れる儀式とは“念仏を唱え祈願する”というスタイルで行った。

 

 1.25

 仏前にお香を焚(た)く。

 お寺で初七日法要を行う。

 法要一覧表を参考に予定を記入した。

 ・・・ 一緒だね。 

そう思うと、なんだか安心するか。

 ・・・ 身近に来たね。

 そう思ってみた。

 昨夜、酒なしで眠れた。

 出入りの都度、部屋の観音様に祈る。

 心の底にポッと明かりがついたような・・・。


 1.26

 胃の腑に鉛の球が沈んでいる。

 胸に寂寞の風が吹く。


 1.29

 外の駐車場で、裕子の乗っていた車に似ている車を思わず見詰める。

小型のクリーム色乗用車だった。


 2.9

 子供たちは隣の子供らと遊園地に遊びに行った。

 子供らの行動力について、以前書いた記録を思い出す。

「命の神が子供らに宿っていた。母が重篤の病に伏すという非情な悲しみのなか、それでも、彼らは、眠り、目覚めて頭や体を動かし、食べ、疲れて眠り、また翌日へと命をつないでいっている。

 幼い生命力が、抑えられても押されても、外に向かって羽ばたこうとしていた」

この力を伸ばしたい。


 2.14

 夜中に目覚めた時、胸苦しさに襲われる。気持ちが重く、悲しみの極み。つらい思いは簡単には癒(い)えないだろう。

 霊について勉強する。

「霊、魂、心などは、語源的には多くの民族の神話・伝承では同じような言葉から来ている。それは『風・息』というような言葉である。生命の源としての

原理や、精神・意識の源泉原理としての霊や魂が考えられた(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

・・・ なるほどー。霊、魂、心などは語源的には「風・息」というような言葉からきているのだな。


 3.3 子どもら、近所の雛祭りに招かれ、夕食をいただいて帰ってきた。


 3.5 七七忌。お寺で法要。僧侶が読経している途中で、私は気絶し、救急車で運ばれた。周囲の人たちが驚いていたようだ。

心身のストレスが溜まっていたのだろうと医者は言った。病院の緊急外来のベッドで一日休み、点滴をしてもらって落ち着いた。


 3.10 子供らと海へ出かけた。

 ・海の近辺では、以前の裕子の表情や言葉が思い出される。

裕子の生前、結婚前に、私たち二人が誰もいない海辺で過ごしたことがあった。

「夕焼けで西空は橙(だいだい)に染まり、東の空には星が輝き始め、東の青色が徐々に濃くなり、星の明るさが増していく。

 周辺は潮騒の音がするだけで、金色の月が、静まりかえった海の上にくっきりと浮かび上がった。月の周りだけがきれいな青色に染まっている。

 息を止めるほどの美しさに、

「こんな光景は初めてよ。すばらしいわ」

 裕子がつぶやいていた」

 そんなことを思い出した。

 普段使っている時計にも裕子の霊=こころを入れた。

 裕子の悲しみも喜びも、悔恨も希望も受け継ぎ、生かすことにしよう。一緒に生きよう。


 3.11

何だか悲しみの極まる冬の夜。

 最近、「癌」という言葉の「が」の発音が心に刺さってくる。


 3.20

 悲しさも苦しさもこのままでしかたない、そのままでいくほかなし、という認識。

「これでいい」という感じ、20の「そのままでいくほかなし」という思い、これらはずっと以前も、どこかで経験した記憶があるようだ。だが、何時、何処で経験したのか分からない。母親の体験(※)が影響しているのかもしれない、と何処かで思ったが、それ以上は深く考えなかった。

 ※母が話してくれたことがあった。

「戦争や病気で亡くなった子供らの息づかいというか魂と一緒にいる感覚になることがあるよ。合掌すると子供の霊と私の生命とが一緒になっているようなの。祈ること、日記を書くこと、その一つひとつが、亡くした子供らとの断ち切られた日々をつなぎ直し、記憶を過去から未来へと引き継いでいく思いがするの」


 5.15

この頃、よく夢を見る。ゆうべは、裕子が顔にひどい痣(あざ)をつけたまま生きて帰ってきた夢。

 皆がうれしくて泣いていた。子供らは笑っていた。

 彼女は笑い、泣いていた。その優しさ・美しさ・爽やかさは変わらずだった。彼女は密かに私の手をなでた。

裕子の痣の夢、泣いている夢、これらはずっと前も何処かで見たことがあるという感じだが、詳細は分からない。


 7.02

お花畑を皆で遊び歩いていた。

 湿生花園か花咲く渓谷のようだった。

ひろーい丘や大きな川。低地があり、小高い山があった。

 草原や林を抜けると湖沼があり、木道が渡してあった。

 一家でとあるロッジに入って食事をしたり、お土産を買ったりした。

子供たちが楽しそうに笑っていた。

 ・・・そういう夢を見た。


 7.7 七夕の夜、子供らと近所の夏祭りを見に行った。

歩行者天国の通りには屋台が出ており、フランクフルトや焼き鳥を焼いていたり、綿飴屋も出ていたりする。

 金魚すくい大会や盆踊りもやっている。

 子供たちはそれぞれのイベントを楽しんでいる。

 花火大会を見て、食堂で夕食。

しかし、何かが足りなくて、もの寂しい。


 7.28 子供ら、夏休みで釣りにプールにと出かけている。元気そうな様子にほっとする。子供たちと過ごすと、私も少しは元気になる。

(記録はこの後、約九か月中断した。)


 7.21 子供たちが夏休みになった。一緒に海水浴に行こう。いつか家族で登った山にも行ってみたい。


 7.27 子供らと葉山の立石海岸で泳ぐ。

 海に突き出した岩山の小島に松ノ木が枝を張っている場所で、景色がいい。ここは以前、裕子とデートをした所だった。

 子供たちは元気で海に入り泳いだ。二人とも泳ぎ方が上達したようだ。

 海のすぐ上に立石公園があり、椅子が置かれてくつろげるようになっている。ここでおにぎりのお弁当を食べた。

 岩場に降りる道があり、磯遊びもできるので、子供らは大喜びだった。

右側に江ノ島が見え、伊豆半島、伊豆大島もくっきりと見える。


 8.7 子供らを連れて信州の車山に登った。私が以前よく登った山だ。

 車山からは八ヶ岳や南アルプス、中央アルプスが見渡せる。雄大な光景に子供は歓声をあげた。子らの歓声を久しぶりで聞いた気がした。

 帰途、諏訪の温泉に立ち寄った。諏訪湖周辺の温泉は歴史のある温泉郷で、街の共同浴場もなかなかいい。


 8.10 寂しさの底から次のごとき決意に至り、心に「魂を入れる」決心をする。 

 体を動かし、仕事に取り組むこととする。  

 同年の秋。右の決意を断行するつもりでいたけれど、実現には遠く、冷たい秋風が心を通り過ぎることを実感。


 会社で同僚から叱られた。

「貴男は運命に負けていますよ。お気持ちは分かりますが、同じような境遇でも、強く、きちんと生きている方もいらっしゃいます。しっかりしてください」



    第六章 再生 

横井ヤマトは市の健康定期検査で医師から運動を勧められた。中性脂肪の数値がかなり高いそうだ。食べ物のバランス、野菜不足と運動不足が重なっているからだという。

「このままでは病気になりますよ」

秋から市営のトレーニング室に通うことにした。

 トレーニング室には幾つかのランニングマシン、自転車マシン、ストレッチのマシンが置いてあり、老若男女が運動していた。


 ○トレーニング室で知人と出遭った。子供の学域が一緒で知り合った裕子の知人たちがいたのだ。軽く挨拶。

 また、隣近所の知人にも会い、すれ違えば挨拶や身の上話をするようになった。

 

 ○「子供さんたち、お元気でがんばっていますね。おふたりとも目が裕子さんにそっくりで・・」

そのように言った同級生の父兄がいた。子供らの顔立ちが裕子の面影を宿していることは、以前も誰かに言われたことがある。


 ○「大切な方を失ったあなたの悲しみは計りしれませんが、ご自身と子供さんのために、悲しみに負けてしまわないでくださいね」

そういう応援の言葉に体が温かくなった。


 ○年末

「来年からは、魂と体を育て、鍛えよう」

 と思った。または、今度こそ魂を入れ替える、または、新たに生き直すという決心をした。

 子供たちとささやかなお正月をすごした。近所の小さな神社に初詣に行った。

 いつもはひっそりとして神主もいない神社だが、今日は隣町から神主が来たようだ。小さな鳥居は人の背が届きそうな作りだ。

 社務所でお守りや破魔矢を買ったり、絵馬に願い事や目標を書いたりして、今年一年がよい年であるよう祈る。

 絵馬は社寺などの神格化された対象に、祈願や感謝の目的で納める絵。元来は馬の絵をかいた。

 広場で大鍋で作った温かい甘酒を頂いてきた。この甘酒は米こうじと米を原料にして作った甘酒だ。

 この頃、私は魂の窓をすこしずつ開けるようになったかな。


 ○翌春、朝夕の祈りを行うことにした。

 事態の厳しさ悲惨さから、「神仏などいるものか」とすら思った時期もあった。

しかし、「気がつけばこの私にも阿弥陀様」

 こういうカレンダー標語が街のお店にあり、気に留まった。

「阿弥陀は自然の光のことです。貴方にも既に阿弥陀が来ているのではないでしょうか」

 そのような脇の解説が目に入った。

「受け継いできた『いのち』を手渡したい。祖父母から父母、そして自分へと伝わった力や技術がある。だから、私などへと繋(つな)ぐべきものがあるのだよ」

 以前、勝沼の祖父がそう言っていたことを思い出した。

勝沼ぶどう郷を見学した時だった。

 地下のワイン貯蔵所は深くて広く、地下二キロ程まで続いていると現地の係員は言った。

「ここには約二万本のワインが 貯蔵されています。貯蔵庫の真上にぶどう畑があるので、厚い岩盤を破ってぶどうの根が伸びている所が観察できますよ」

 係員が見せてくれた巨大な岩盤下にぶどうの根は目の前で生きており、驚くべき生命力を感じさせた。

 そのうえ、勝沼ぶどう郷の関係者が、さまざまなぶどうの苗や育て方、ワインの作り方を研究していた。ぶどうの生命力を精一杯生かす工夫を重ねているのである。

 祖父は、この勝沼ぶどう郷で自分たちを受け継ぐもの、『いのち』について私に教えたのであろう。

 ・・・「ぶどうそのものが持つ力、本能的生の象徴となるものを生かして受け継ぐ」ということはどういうことなのか。


 ○一緒に生きる

 ヤマトは裕子の面影を胸に、彼女と一緒に生きる気持ち、決心を固めた。

 東日本大震災で被災した知人の母がヤマトに言ったことがある。

「私は津波で流された子供らの息づかいというか、魂と一緒にいる感覚でお祈りするわ。合掌すると子供の霊と私の生命とが一緒になっているような感じなの。それが楽しく思えるわ。祈ることが、亡くした子供らとの断ち切られた日々をつなぎ直す思いがするので、貴重な時間なのですよ。“私は決して一人ではない”という気がするのです」

 なるほど、亡くなった人の霊魂と自分の命が一緒に生きるという時間があると思えた。

 ヤマトの根っこには、戦争の多かった昭和時代に多くの子供を戦(いくさ)で亡くした母が、その時代の流れに批判的に生き、亡くなった子供らの霊魂と共に「平和な時代」を大切にしようという霊魂も甦(よみがえ)った。


 ○桜の咲き始めた頃、ウォーキング、ランニングを再開した。

嘗て私はランニングを習慣にしていた経験があった。

 しかし、混乱した生活にとりまぎれてやめていた。

 最近、閉じこもった生活に息がつまり、久しぶりでランニングしたところ、気分も体調も改善した。ランニングを続けよう。(ヤマトの走る能力の高さが再現したといえる。)

「楽しく運動し、自然力を発揮しよう」というタイトルで市主催の講演会があって参加してきた。

「自然力とは人に本来備わっている力、食欲や性欲、睡眠欲や排泄欲などです。本能の力、本能エネルギー、リビドーと言っていいですね。これを上手に発揮したいですね」

 講師として招かれた先生はそのように話されたが、私の心に響いた。


 ○仕事にきちんと取り組むようにしたい。

裕子の発病以来会社の仕事に気が入らず、病状が重体になって以後は上(うわ)の空で仕事をしているような日々が多かった。

 会社には、私を批判し、部長に私の降格を進言する同僚が何人かいると聞いた。実際に、会社には相当な迷惑を掛けてきた。

裕子が亡くなり、気が沈み込むうえに子供の世話にも気を取られ、会社の仕事がまともにできない日々が続いてきた。

 春になってきたのを機に、子供らや会社のためにも落ち込んだ魂を入れ替え、新たに生き直さなければならない。

 最近では、仕事にもきちんと取り組むようになってきた。

 花ショウブが咲き出した。


 ○衣替えの季節になった。冬物をしまうついでに不要になった家族の衣類や小物等を整理し、古くなって不要な物は捨てた。

 私の古い書籍、子供らの荷物や妻の持ち物も整理した。

 この作業をしながら、「過去の記憶を整理」し、新しい気持ちで出発したいと思った。


 ○「都会では付き合いが希薄な生活をしがちですよね」

 職場の同僚たちが話していた。

「鍵一本で閉鎖できる便利な空間を作りすぎたのですかねえ」

「部屋に鍵をかけて出かけて、外の付き合いの中で活動して、家に帰って、やっと心を開くという生活では、本当の付き合いはできないんだね」

「便利だが、自分中心という鍵が心にも鍵をかけたということでしょうかね。会話のある家庭や近所付き合いを、私たちがいつの間にか閉じるようになったのは何故なのでしょうか」

「便利な世の中に住んでいても、親しいはずの人たちと行き来することが少なくなっていますよ」

「鍵一本では閉じることができない不便な生活の方が、結局は人間らしい生活ができるということなんでしょうかね」

 この会話は私を考えさせる。

 私はいつの間にか心に鍵をかけて暮らすことが通常であるような生活状態になっていたのだろう。


 ○以前からの付き合いが徐々に復活し、加えて新たな交際も生まれた。それにつれ、寂しさもいくらかは薄らいでいくように感じた。

会社の友人や元の職場の事務員、同僚から声がかかる。

「奥様の一周忌には連絡してください。お線香をあげたいので」

「子供さんのお世話をしながらの生活、大変でしょうね。今度、知り合いでピクニックに行きますが、一緒にいかがですか」

「和志さんと同級生の父兄です。今度ご一緒に夕食など如何ですか」

 ・・・ 不幸を悲しんでくれる人、生活を心配してくれる人たちがいる!

 と私は思った。

 ・・・ 私が元気にしていると、喜んでくれる人や子供たちがいる。ありがたいことだ。

「お父さん、あしたのパンを買った? まだなら、私が買いに行ってくるよ」

 小学校二年生の弘江がそのように言うようになったが、これもどこかで夢を見たような気がした。

「お父さん、お風呂を沸かそうか。お風呂の掃除は済んだのかな」

 小学校五年生の和志が言い、私を感激させる。

 私は和志の言った同じ言葉を、ずっと前に夢に見たように感じた。 

 つつじの季節を迎える頃、冷たいと感じていた寝床の、ほんのりとした温かさが肌に伝わってくるようになった。


 ○ヤマトは、親子・親戚や友人・近隣や知人の中で暮らす自分を、もっと生かすように考えたい。もっと強くなって前に進みたいと思った。

学校での出会い、職場の経験を通じて、自由で楽しく、一面では厳しい付き合いが、自分を育ててくれたと思った。

 また、裕子のたどった運命や子供らの生命力が自分を支えていくのだろうと感じた。

 ・・・ 自分の意志で前に進むことがいいのだと、様々な出会いが教えてくれたようだ。自分のペースで少しずつ進んでいこう。皆さん、ありがとう。

 子供らが遠足に持っていくお弁当を作るとき、ヤマトは裕子が言っていたことを思い出す。

「三月中はお父さんがんばってね。四月になったら私がやるからね。お弁当も作ってあげるね」

 ・・・ がんばらなければいけないな。

 妻を失った苦痛や寂しさを免れないとしても、自分と妻の願い、人の援助や声々、そして妻の死も無念も、子らの悲しみも希望も心に刻んで、そのうえで、しっかりと生きていこうと心に決めた。

 裕子の死はヤマトの心と額に消えることのない深い傷を刻印した・・

 裕子の死去はヤマトにとっては「永遠に、かけがえのない忘れ物」のような気がするものだった。

 決して取り返しのつかないものを失った、という思いに苛(さいな)まれる日が続く。

 その一方で、これからの生活に、どう向き合うのかと感じた。

 小さな子供がいたから、ことはなおさら急を要した。

 子育てを慌(あわ)ただしく経験し、忍耐と苦労の日々が過ぎていった。

しかし生活の底に、命(「仏」}の動きが働くような、そういう気配に気づいた。

 疲れても睡魔が自然に眠りにつかせてくれる。強烈な眠気が襲ってきて眠らせてくれる。小用に起きるものの結局はまた眠りにつく。

 眠気、睡魔は自然そのもの即ち命、仏の働きだろうと思えた。地獄で仏に会うとはこういうことではないだろうか、と思われた。

 それに、子供や友人、近隣の動き、援助、励ましがヤマトを動かした。

 ヤマトは「永遠の忘れ物」を思いつつ、これからの生活にどう向き合うのかと思い、今後は自然の動きに従い自分の好きなように生きていきたいと思った。

「鎮魂・希望」というテーマのもと、亡くなった人たちの鎮魂、祈りを行い、更に未来への希望を持つという気持ちだ。


 

    第三章 再出発

 数年後、横井ヤマトは、新たにある女性と出逢うことになった。

 彼女は西山奈津美という名だった。

 ヤマトと西山奈津美の交際経緯の詳細は別に書くつもりなので、ここでは割愛するが、出会いの場面だけ触れておきたい。

妻との死別など、二度とはないような悲しみ、苦痛に出合い、「このまま生きていたくない」と感じた気持ちが持続するヤマトは、学生時代に一度行ったことのある銀閣寺にお参りした。気持ちの転換を図りたいも思ったのである。

 京都の銀閣寺は将軍義政の心を五百年後の現代にも伝えている寺院である。

 金閣寺は豪華絢爛な様子が特徴ですが、銀閣寺は落ち着いた「わびさび」精神を持っており、その幽玄な美しさが人々を惹(ひ)きつける。

 佗(わ)び寂(さ)びとは茶道や俳句などの伝統ある日本文化の中で日本人独特の趣ある感性や美意識を指す。

 佗びとは「貧相でも充足感が満ちていない中でも心の豊かさを見つけだす」「ひっそりと静かな中に綺麗な世界がある」という意味があり、寂びとは「静寂さの中に、奥深い美しさや豊かなものを感じる心」を指し、古語である「さぶ」の名詞形である。

 足利義満が作った貴族的で華やかな北山文化の金閣寺に対して、武家や禅宗の精神世界を「わびさび」と表現した、東山文化を代表する銀閣寺と言われる。

 義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、簡素枯淡の美を映す建築を作り上げたと言われる。

「あっさりとしていながら味わい深さを感じる美しさ」を表現しようとした。

 境内の本堂観音殿は二層構造で、初層は住宅風、上層が仏堂である。外国人観光客にとっては日本らしいわびさびが感じられ、人気がある。

 本堂前には砂を波の形にした庭園の銀紗灘(ぎんしやだん)があり、月の光を反射させるように計算された美しい砂の庭だ。

 錦鏡池という池は池泉回遊(ちせんかいゆう)式庭園になっている。苔寺(こけでら)の庭園を模したといわれるこの美しい庭園は特別史跡に指定されている。

 寺の座禅教室に参加した、東日本大震災で子を失った母が告白した。

「私は津波で流された子供らの息づかいというか、魂と一緒にいる感覚でお祈りするわ。合掌すると子供の霊と私の生命とが一緒になっているような感じなの。それが楽しく思えるわ。祈ることが、亡くした子供らとの断ち切られた日々をつなぎ直す思いがするので、貴重な時間なのですよ」

 この母親を紹介した銀閣寺の僧侶は参詣する者に対して、「祈り」の技を伝授した。

僧侶は、〝心身を解放して、行く雲・流れる水の如く自由な心境に至り、物事の真髄を喝破(かっぱ)する〟という技を教えた。

 この術を教わってから、ヤマトは物事がよく見えるようになった。

 ところでヤマトの知人でクリスチャンの二田(ふただ)は毎週教会に行き、お祈りするのが恒例だ。

「イエス様は人間の痛みと悲しみを知っておられる方です。私たちが悲しみに沈む時、悲しみの人であられるイエス・キリストは近くにおられます。悲しみを経験しない人は、神の慰めも経験できません。あなたが悲しみと孤独の中にあるとき、あなたは決して一人ではないことをお知りになってください」

 二田は牧師の言うこの言葉が好きで、自分はこれによって救われていると言った。

「近くに閻魔堂(えんまどう)があるが、この閻魔は笑っている。どうしてか。方便(苦しんでいる人に近づいて苦しみを除く言葉を話すこと)なのだ。

 閻魔の横には地蔵菩薩が立っているが、閻魔は地蔵の化身という。『他人の為なら地獄にも行く』といってね、お地蔵様は決して怒らず、いつも笑みを浮かべているんだ。その地蔵菩薩の真言は『ハハハ』という笑い声なのだ。

 だから、その化身の閻魔も笑っているんだよ。

 しかし、地獄で苦しむ人に対して何故笑うのだろうか。閻魔によれば、ユーモアとは『にもかかわらず、相手の為に笑うこと』だそうだ。

 笑い閻魔はユーモアを実践し、苦しむ人の為に笑い続けているのだね」

 二田は、そう語った。

 ・・・・・お地蔵様は地獄で笑い閻魔になられたのか。 

 ヤマトはじっと聴いていた。

 ・・・・・地獄で笑う地蔵様の化身がいるなら、地獄の自分も少しは救われるかな。  そう思った。   

 ・・・・・合掌すると妻の霊と私の生命とが一緒になっているように感じて楽しく思えるなら、私はそれで救われよう。

こうして、ヤマトは、真に祈ることを身に着け始めた。

ヤマトは銀閣寺の南にある永観堂も気になって度々参詣した。

永観堂の本尊阿弥陀如来(あみだによらい)立像は、顔を左に曲げた特異な姿の像である。

 一〇八二年、当時五〇歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道(ぎようどう)していたところ、阿弥陀如来が須弥壇(しゆみだん)から下り、永観と一緒に周囲を回り始めた。

 驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言った。

 阿弥陀如来像はそれ以来首の向きを元に戻さず、そのままの姿でいるのだという。 

 歩みの遅い永観は自分の姿そのものではないかとヤマトには思えたのである。

 京都には他にも金閣寺や天龍寺、永安神宮等名刹、神社が数多くあり、各々の神社仏閣が信仰者や観光客を集めているが、ここでは、その詳細な記述を割愛したい。ただ、「私は法然院にご縁のある方々の集いを総称して『法然院サンガ』と呼んでおります。平たくいうと『法然院ファンクラブ』のようなものです。私は寺は開かれた共同体でなければという思いで、当院をコンサート、個展、シンポジウムなどの会場として積極的に提供したり、環境学習活動などを主宰したりし、その結果、様々な集いが当院を舞台に開かれ、活動を通じて親しくなった方々(特にアーティスト)の応援も積極的に行ってまいりました。」と述べる法然院貫主(かんしゆ)の梶田真章さんのような方がいることを紹介しておきたい。

参詣期間を終えたヤマトは帰りの新幹線に乗った。車内は乗客でごった返していた。

 ヤマトがその女性と会ったのはこのときだった。

 彼女は大きな荷物を抱えて持て余しており、周囲の人々に揉(も)まれて困っている様子だった。

「荷物を棚に載せましょうか」

 ヤマトが鼻の頭に汗をかいている女性に声を掛けると

「ありがとうございます」

 女性はヤマトを見て驚いたようにそう言った。

 ヤマトは荷物を受け取り、人混みをかき分けて、荷物を棚に上げた。

彼女は、ほっとした様子で

「助かります」

 と言って笑顔を見せた。

 笑うときれいな白い歯と真っ直ぐな鼻筋が目立つ女性で、どこか裕子に通じる面影だった。

 小柄な体に着ていた花模様のワンピースが似合い、明るい笑顔が人を惹(ひ)きつける女性だった。

「実家に来て帰り道なのです」

 と彼女は弾む声で言った。

「ご実家ですか」

「ええ。高山なんです」

 岐阜県の高山から名古屋経由で東京に帰るところだという。

 彼女は張りのある甘い声であった。 

 女性の声の弾みや張り、甘さは健康な身体が発しているもののようだった。

「ご出張ですか」

 という彼女の問いに

「京都の寺参りです」

 ヤマトはそう答えた。 

 この日、二人はお互いに名前も知らないまま東京駅で別れた。

 ヤマトがこの女性と再会したのは翌年である。

 この年三月下旬になってから大雪となった。

 社長のお供をして商用で京都の山奥へ行ったときのことだった。

 商談が終わって、相手の桜川社長が食事をご馳走すると言い、奥の座敷に招かれた。

 雪の降る様子が雪見障子越しにながめられる座敷で、真ん中にこたつが設(しつら)えてある。

 大粒の雪がしんしんと積もっている。

「大雪ですな」

 社長が白い息を吐いて言うと、 

「今日は多いですね」

 桜川がそう答えた。

 八十歳という桜川が話し出した。

「私は最近病気が多くて、治療やリハビリの人生を生きとりますよ」

「ほほー。治療やリハビリですか」 

 最近は次のような治療、リハビリをしているという。

「膝、脚の痛みを治療してね、リハビリをしています。それから虫歯、歯痛等歯の治療ですわ。肺の病気(肺気腫・間質性肺炎・喘息)の診察、治療は数年前からです」

 桜川が続けて言った。

「けっこう多いですね」

 社長が相槌を打った。

 桜川は、 リハビリテーションはr(再び、戻す)とhabilis(適した、ふさわしい)から成り立っていますと話した。

「私たちがイメージしがちな、歩行訓練などの機能回復だけではなくて、「人間らしく生きる」とか『自分らしく生きる』ことが重要になってくるのですね」

 そのために行われる、全ての活動がリハビリテーションになるのだという。

「結構病気が多いですが、リハビリを続けて元気なんです」

 桜川の血色は良く、顔に艶もあった。

「お宅の会社に収めさせ頂いている商品は、これは優れものですよ」

桜川が言った。

「そのようですね。どのくらい前から作っているのですか」

 社長が聞いた。

「約三五〇年前に始まったそうです。一人の職人が(と)、工程を手作業で念入りに行うのです。質の高い丁寧な仕事ぶりは高い評価を受けています」

「そうなのですか。私の知っている植木職人も丁寧な仕事ぶりで注文が多いのですよ」

「伝統に学んで、そこから自分なりの丁寧な仕事ぶりへつなげることが良い結果を生み、評判を呼ぶのですね」

「なるほど。職人の心意気ですね」

「ええ、そうですよ。ブランドは自分で作る時代といいますね。野球、サッカーの選手や社長、スチュワーデスやタレント等のブランド業界ではなく、大工やケーキ職人など自分の好きなことで自分をきちんと磨くのですよ。課題・難題に次々と挑戦し、クリアして行くことが彼らの特長かな」

 桜川は職人を誇りにしているようだった。

「ただ、シャープや富士通など、日本の有力電機会社が壊滅状態になったような、深刻な破綻が出てきていることには注意しなければなりませんね。経営の誤りか、技術的な遅れか、原因を究明する必要がありますよ」

 桜川は、そのように付け加えた。

 二十歳過ぎの、和服姿の女性が座敷の縁側から雪見障子を開けて、ビールや料理を運んできた。

 彼女の口から白い息が漏れるのが見える。

 雪景色を背景にした美しい女性を見ると、まるで雪国の女神が出てきたようだった。

 ヤマトは、近づいてきた女性の顔を認め、非常に驚いた。

「叔父のリハビリの話が出ていますね」

 彼女は明るい笑顔で言った。

 ----- この前、列車内では花柄のワンピースだった。今日は和服が似合っている。

 ヤマトはそう思った。

「あら、先日の・・」

 彼女も驚いて、きれいな声だった。

 先日、二人が車中で会ったときの話で座が盛り上がった。

「あのときは列車内が大変混みあっていましたね」

 ヤマトが思い出して言った。

「そうでしたね。荷物をかかえていて、ほんとうに困っていたわ」 

 彼女はよく笑う人で、きれいな白い歯と真っ直ぐな鼻筋が目立つところは相変わらずだとヤマトは思った。

 彼女はこの日たまたま東京の勤務先商社から帰省中で、この店でお手伝いをしていると言った。

「新幹線利用で数時間ですから、よく来るのですよ」

 と彼女は説明した。

「西山奈津美と申します」

「横井ヤマトと言います」

 改めて挨拶を交わして、彼女の名前が分かった。 

 彼女は雪座敷の女神が現れて語るように話した。

「雪国にはえも言われないことがあるのですよ。言葉ではとうてい表現できない世界だから、南の暖かい国の人には、なかなか理解できないわ」

 この日以後、ヤマトは西山奈津美と東京近辺で会うようになった。

 奈津美はヤマトと東京で初めて会ったとき、自分の勤める商社の近く、飯田橋の神楽坂近辺を案内した。

「神楽坂には、表通りの商店街のほか、料亭街や横丁の商店街、飲食店街がひかえているのよ。一歩入れば静かな住宅街があって、小、中会社や大学があり、また、古くからの会社や新しいオフィスエリアとも隣接しているのね」

「さまざまなものがある、複雑な街ですね」

「ええ。伝統的なものからモダンなものまでが交じり合って、賑わってきたようね」

 ヤマトは奈津美の案内で街を歩いた。

 彼女と一緒にいると、ヤマトは胸にしみこむような温かさが湧いてくるようだった。

 通りには、ファッション・楽器・美術工芸・ギャラリー・菓子・甘味・喫茶など多くの店が並んでいた。

 石畳の路地や店の佇まいが独特な雰囲気を醸し出している。

 アンテナショップ「京の山国」という店は、名産品をあれこれと展示販売していた。ほかにも、名産のお酒や料理を工夫して出していた。 

「郷里の名前にひかれて、この前一度来たのよ。楽しかったわ」

「郷里のですか」

「そうよ。ここの山菜料理は抜群の味よ」

 奈津美は楽しそうに説明し、ワラビのお浸しを小皿に取ってヤマトにも差し出した。

 山菜料理がずらりと並んでいた。

「珍しい山菜を食べましょうね」

奈津美は細々(こまごま)と説明しては笑い、ヤマトに話しかけた。

その店を出ると、彼女はまた商店街を案内し、ヤマトに語りかけた。

日本料理・中華料理・寿司・そば・居酒屋 ・バーなどが狭い街通りに並んでいる。

 話している彼女の顔が輝いており、若々しいとヤマトは思った。

 若々しさは年令だけではなく、生活の張りや未来に向かう態度から生まれてくるというが、奈津美はどういう生活をしているのだろうかと思った。

 何よりも、彼女の周辺には温かな空気が漂っていた。

奈津美を見た誰もが、滅多にいないような女性だと言った。

 奈津美は、優しい容姿と平穏に暮らす知恵を持っていた。

 ヤマトは奈津美と子どもたちを会わせた。

 これは重要な課題だとヤマトはずっと思っていたので、よい日を選んで実行した。

 奈津美は和志、弘江ににこやかに話しかけ、子どもらは楽しそうに話した。

 奈津美はいつも柔らかい優しい声で話した。

 ヤマトは奈津美を見ると、どこか懐かしい思いを感じ、胸が高鳴った。

 ヤマトは徐々に生活や仕事、趣味や交友に気が入り、命の根元から発する力が出るようになってきた。

 ヤマト一家を襲った暗雲は、いま消え去っていくようだった。           ところが、 思ってもみないことが起きた。                    奈津美が突然失踪したのである。

 ヤマトは探索の限りを尽くした。

 しかし、奈津美は何処へ行ったのか全く分からなかった。             


    第四章 小樽の奈津美                 

 横井ヤマトは、諸々の都合があって、海上コンテナを扱う会社に転職した。

 初めての出張先で夕食をとろうとして、小樽港の西端にこぢんまりしたレストランを見つけた。新鮮な海産物を調理して出す店だった。

 古い石壁の残る店内は歴史を感じさせ、海に面したカウンター席が珍しい。夕食には少し早い時間のせいか、客足まばらの店内だった。

 店員がワインの見本を持ってきた。

「当店で新しく入れた小樽ワインですが、味見をなさいますか」

 キャンペーン中だと言い、小さなグラスに白ワインを注いだ。

 ヤマトは訪問地初日には少し贅沢をすることにしていた。

 店の向こうで生演奏が始まった。

 なんと、演奏者は、奈津美であった。

 ヤマトは心臓の鼓動が聞こえるほど驚愕(きようがく)した。

 ヤマトは彼女を見ているうちに何故か次の詩を思い出した。


   生命はすべて

 そのなかに欠如を抱き

 それを他者から満たしてもらうのだ

 世界は多分

 他者の総和

 しかし

 互いに

 欠如を満たすなどとは

 知りもせず

 知らされもせず

 ばらまかれている者同士

 無関心でいられる間柄

(「命は」吉野弘) 

 

 奈津美は店に時々来て演奏しているようだった。

二人の再会は劇的であったが、その経緯は長くなりすぎるので、ここは省略したい。ただ、奈津美の失踪したことについては、二人とも何も言及しなかった。

 失踪は奈津美自身にも説明不能の出来事だったし、まして他の誰にも分からない禍根(かこん)だっただろう。

 生態も原因も不明のウイルス様の物体は人々を襲う機会を常に狙(ねら)っているのだ。

「お寿司を食べたいが、何処かお勧めの店があるだろうか」

 ある日、ヤマトの問いに奈津美は、とある寿司屋に予約を入れてくれた。予約も取りにくい、評判の店だという。

「このお寿司屋さんは間違いないお店ですよ。食材が地元産です。中には東京の築地からネタを仕入れて数倍の値で売っている寿司屋さんもありますから、注意しないといけませんね」

 ヤマトは予約した寿司屋に行きコースで寿司を頼んだ。新しい取り引きが成立したお祝いのつもりだ。

 最初はひらめからだった。北海道の寿司はヒラメから出してくる店が多い。ここのヒラメは身が締まっていて旨味が濃い。これを塩で食す。ひらめの甘味が感じられる。

 シャリの温度も適温で酢の加減も強くなく、ヤマトには好みの味だった。

「コース」の最後は、うに、いくら、たらこと北海道名産三連荘で、抜群の味だった。

 ヤマトの前に立った板前は、若いが腕もセンスもなかなかで会話も悪くない。あっという間の一時間半だった。

 数か月後、ヤマトは奈津美から地ビールの名店を聞き出し、おまけに、そこで奈津美と会うことにした。名店の店主が奈津美と同郷の知人だという。

 その店は小樽運河の沿道にあった。

「姉が一人、札幌に住んでいるわ」

 奈津美が身の上話をした。             

「札幌に?」

「故郷の町は仕事も人も激減し閉鎖状態だわ」

地方の町は、日本中何処も衰えた様子だ。

「地方都市は何処も皆滅びたわね。関東周辺でも宇都宮、甲府、千葉、新潟、長野等、以前は賑やかだった地方都市は、今や人通りが激減して、軒並みシャッター通りになっていますよ」

 奈津美がそう言った。

 その後、ヤマトは奈津美とデートを重ねた。一度えも言われない不幸な別れを経験しているだけに、二人の結びつきは強くなったのである。

 翌年初夏、二人は、他の観光客と一緒に小樽港発の「積丹半島半日観光」バスに乗った。 奈津美もまだ行ったことがないという岬を見ようということだった。

 彼らは湿原の駅で貸し切りの臨時列車へ乗車して湿原を渡るという旅をした。 車では行くことのできない湿原の中を列車で走って、パノラマのように広がる風景を楽しむ。

 列車が大きな川にさしかかると、奈津美が歓声を上げた。

着いた駅からバスで移動し、木道を約一時間四十分かけて一周する。

「歩きやすい道ね」

 奈津美は健脚で元気だった。お尻の肉付きが締まってパツパツに張っていて美しい。

 ヤマトは奈津美の片方の足脚が冷えないように温湿布を張り付けるよう手配した。

 奈津美はハイキング用の防寒服を用意していて、気配りの良さを思わせた。

 ヨシ・スゲ湿原やミズゴケ湿原、ハンノキ林などさまざまな表情を持つ湿原に、ミツガシワ・ワタスゲ・ヒメシャクナゲ・トキソウなど多くの花々が咲いていて、ガイドが植物の特徴を案内した。

 奈津美は湿原の花々を調べていて、幾つか知っていた。

 港では霧が晴れていたのだが、積丹半島は徐々にガスに覆われ、海岸沿いの光景は霧の中だった。

 バスは一時間半走行し、神威岬に着く。

 岬は濃霧の中だった。駐車場から岬の先まで、凹凸のある道を片道二十分の徒歩コースを歩いたが、景色は霧に隠れて見えなかった。

 ところどころに橙色のエゾキスゲやピンクのハマナスが咲いている様子が見えるが、岬の景色は無論、先を歩く人影さえ見えない。

 薄暗くなって二人は改めて瞳を見合わせた。

 二人は花の咲く木陰で濃霧に包まれたままキスをした。奈津美の唇はラベンダーの香りがした。甘美な匂いだった。

 濃い霧で体が冷え、皆が急いで駐車場まで引き返してきた。ヤマトは奈津美の足を気遣い、安全な速度で歩いた。

 乗客たちは、番屋風の店で「頑固親父のつみれ汁」という椀物を賞味し、体を温めた。

 バスは来た道を戻って小樽港へ夕方帰着した。

 この日は二人にとって忘れられない日となった。

 その翌年、ヤマトは札幌にいる奈津美の姉に会った。

 姉は主婦で、ヤマトに「妹をよろしくね」

 と言った。

 二人は親族にも認められ、親密度を更に増していった。

 ヤマトには、これは究極の恋ではないのかという感覚が湧いていた。

 ヤマトも奈津美も笑顔である。

彼らの背後に後光に輝く太陽があり、星々があった。

                                                              (了)


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一太郎と奈美 @ippo4rasu

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