一太郎と奈美

@ippo4rasu

第1話 洞窟から


  洞窟編

    第一章 都 

横井ヤマトが結婚して住んだ所は東京、下町の一軒家だった。

六畳一間に三畳ほどの台所がついている借家だ。

周囲は畑や林のある閑静な場所だった。緑の多い環境が二人を包んでいる。

家計は苦しかったが、あれこれと便利な場所で、銭湯も商店街も徒歩数分の距離にある。

何よりヤマトたち夫婦は若く、未来が開けているように見えた。

妻の裕子は笑うと白い歯が目立つ女性で、大きな瞳と明るい笑顔が人を惹きつけた。

ある日、ヤマトが彼女の携帯電話に充電してくれと頼まれ、何の気なしにメールをのぞくと、

「先日は実に楽しい時間でしたね。今度はゆっくりお会いしたいです」

そういう文面があり、末尾に見知らぬ男の名前が書いてあった。

ヤマトは面食らい、混乱し、嫉妬した。

ヤマトは彼女を責めた。

彼女は、買い物に行き、そのまま黙って何処かに消えてしまった。家に帰ってこない。

あわてたヤマトは心当たりを探した。ヤマトの混乱はご飯も喉を通らないほどだった。

ヤマトには放屁癖があって、緊張したり心配が過ぎたりすると、腸が膨張して屁(へ)が連発し長く続くという癖があったが、この時も盛んにオナラが出て数日間は続いていた。

 あちこちに連絡した結果、彼女が姉の家にいることが分かり、喜び勇んで千葉県の船橋市まで迎えに行った。屁の連発はおさまっていた。

 ヤマトと一緒に東京下町の家に向かった彼女は、何やら懐かしい匂いがした。

 いや、懐かしいものを持って帰ってきた。それはお腹にいる子供だった。

「あなたの子が私のお腹にいるわ」

 彼女は家に着いてからそう言った。張りのある、弾むような声であった。職場や近隣で評判の美人は、声もよかったのである。

ヤマトは、それ以後、スマホにあった男のメールや男の名前について彼女に問うことはなかったし、彼女も何も言わなかった。

ヤマトたちは、それから間もなく結婚し、新婚生活を送った。

生活を共にするようになると、ヤマトは今まで気づかなかった裕子の特徴が目についた。今までと違う不思議な世界に生きているのだ。たとえば・・・

裕子はなぜか奈美(ゆな)という名の女性になっていたし、ヤマトは一太郎という名の少年になっていた。

 中に入ると良い香りが漂っていた。 

 女の白く透き通るような肌とキリリと跳ね上がった大きな瞳は一太郎の身体を堅くさせた。

 誰もが彼女を見ると、自分の体の中心に震えを覚えるのだが、一太郎は何故か体の芯が硬くなった。

 女はフワッと一太郎に近づいた。

 女の身体が広がって一太郎を包み込み、彼女の体温といい匂いが一太郎に伝わってきた。

 しかし、一太郎は女に殺されかけたのである。

 一太郎が部屋に入ったとき、物陰で女が白い裸身をさらして着替えているのを見たからだ。

 女は均整のとれた、美しい身体だった。

「あっ」

 と一太郎は叫んで、あわてて外に出ようとした。

「見たわね」

 女が振り返って言った。

 一太郎には見覚えのある顔で、近在でも評判の美人だった。

 名を奈美と言ったが、どこに住んでいるか誰も知らず、たぶん山奥に暮らしているのだろうという噂(うわさ)だった。

 女はふんわりと空中に浮き上がり、光の速さで近づいてきたのだ。

 一太郎は、裸のままの、身体を広げた女に抱きすくめられた。彼女の氷片のように鋭く、巌(いわお)のように強い力に締めつけられて、一太郎は失神した。 

 気がつくと、女の口に含んだ水が喉(のど)を流れてきていた。

 女の顔が眼前にあり、その息が一太郎に掛かって、いい匂いがした。

 しかし、一太郎は言いようもなく冷たいものに包まれており、身体中しびれきっていて動けなかった。

 この辺りの山奥には天狗や妖怪も住んでいるという噂がある。

「お前はこの辺りの子だね。前に見たことがあるよ」

 奈美がよく響く声で言った。 

 一太郎がうなずくと、

「歳は幾つになる」

 と奈美は確認するように訊いた。

「・・・一七歳・・・」

 かすれた声で一太郎がようやく答えた。

 女の力は強くて一太郎はまったく身動きできなかった。

「そうか。やはりな」

 女は、万一人を殺さねばならない時でも、子どもを殺めることは避けていた。

「私の裸を見たからには殺さねばならぬが、お前は殺すには若すぎる。生きたいだろう」

 と女は言った。

「生きて都に行かなければならない」

 一太郎はかすれた声でようやく答えた。

 都で一旗揚げることは一太郎の年来の目標だ。

 一太郎の腕前について書いておこう。松風塾は近隣の子弟が通う剣道道場であったが、そこで修業を積み、子弟の中で一番強くなった一太郎は子弟頭として登録された。

 道場でのたゆまぬ練習のほかに、近郊を駆け巡って行う素振りや時々の他流試合によって力を磨き、相当な力量となった。

 また、一太郎は師範の下でさまざまな知恵や技術を習った。

一太郎は、〝新たな自己を実現する〟という業(わざ)を身につけた。

 それは、何をなすかという行為を通して新しい自分を創る術である。

 経験の浅い未熟な新参者として自分を規定することではなく、悪を倒すという行動、そのための厳しい修行を通して、強く新しい自分となるのだということを一太郎は教わり、実行した。

 いわば過去から自分を見ないで、今と未来から自分をつかむという技だった。

 三年後、一太郎はさらに筋骨がたくましく、引き締まった顔付きになっていた。

「修行の中で未来の目的をつかみ、自分を創れ」

 師範はそう繰り返していた。

「都へ何をしに行く」

 女が尋ねた。

「悪いやつらを倒しに行く」

 一太郎が答えると、女は笑った。それから、

「どうしても都(みやこ)に行くのか」

 と女は聞いた。

「行く」

 と一太郎は答えた。

 女はさらに一太郎に顔を近づけ、じっと一太郎の目をのぞきこんだ。

 その白い肌、大きな瞳が、一太郎の顔にほとんど接するようになった。

 女の顔は一太郎の眼前だ。しばらくして、

「それなら、悪を倒すまで待ってあげる」

 と言った。

 女の息が芳香となって一太郎を襲った。

 一太郎は何を待ってくれるのか意味が解らなかったが、黙っていた。

「そのかわり用事が済んだら必ずここに帰ってくるのよ」

 嫌と言わせぬ力が働いていた。

 一太郎は自分の芯(しん)がクラクラするような目眩(めまい)を覚え、思わずうなずいた。

 一太郎はここで夢から覚めた。目覚めたのは夢の一太郎ではない。ヤマトだ。

東京、下町の一軒家、 六畳一間に三畳ほどの台所がついている借家に暮らしている横井ヤマトである。

 そして夢の奈美は、やがて、後にヤマトの妻となった裕子であった。

 この後も裕子とヤマトについては不思議な出来事が起きた。

 ところで、先ごろ、ヤマトの親しい友人が白血病で死亡するという事態が起きた。

 ヤマトは、友人の死がきっかけで死についてのさまざまな出来事やニュースが目にとまり、また、雑誌で読んだ文章が心に残った。

 “ギリシャ神話の死の神はタナトスという名で、その人格や容姿等は不明である。”(百科事典「ウキペディア」)

 死の神、夜、眠り、忘却などの文字が、ヤマトの目に張り付いた。

「人にはいつか死が訪れることを、忘れてはいけない」 

 ヤマトは友人が死の霊魂となり、そのように語る夢を見たが、間もなく、この夢のことは忘れてしまった。

 

 では、ヤマトの大学生時代に戻って話を進めよう。

 ヤマトは、地方都市生まれだが、大学に進学するため東京に出た。

 ヤマトの地元には大学はなく、近隣の都市には小規模の大学が二、三あるだけで、学部の数は非常に少ないので、進学希望者の多くが東京へ出てきた。

 ヤマトの気持ちでは実家から通学できれば一番よかったのだが、近隣の大学を調べてもヤマトの志望するような学校はなかった。

 不安な気持ちを抱えながら、東京の大学を三つ受験し、その内二つの大学に合格した。ヤマト十八歳の春だった。不安は住まいや生活費、学費のことだった。

 あれやこれやと思案し、知り合いに問い合わせ、結局、東京・新宿のパン屋に住むことになり、ここから高田馬場にある大学に通った。

 パン屋の息子の家庭教師をする代わりに、寝泊まりと朝食の費用は免除してもらった。

 しかし、家からの仕送りだけでは生活費が足りない。

 ヤマトは中華飯店の店員として働いた。西銀座の中華飯店カウンター係だった。

 さらに、国の学金を申請し認められた。

 住まいには悩んだ。大学と大学院に七年間在籍している内、住まいを転々としていた。

 世田谷、荻窪、八王子、相模原、新宿、戸山などと移り住み、いろいろな場所で暮らした。

「けっこうな引っ越しだね。生活費や学費がたいへんだっただろう」

 そのように聞かれたことがある。

「学費や生活費は、奨学金と高級レストラン、家庭教師、英語塾、出版社等のアルバイトでかせいだよ」

 だんだんと収入が増えて、学費と生活費のほとんどは自前でまかなえた。

「大きな学校のようだね」

「正門の他に入り口が沢山ある大学だよ。地下の休憩室、学生食堂、学生会館、博物館、大きな図書館など、私には皆珍しいものだったよ。近所の八幡さまやお寺、蕎麦屋、定食屋、古本屋、喫茶店も、一風変わっていて面白い所だった」

「なるほど。当時は喫茶店も多かったようだね」

「そうね。学校近くの喫茶店には“花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ”という額が飾ってあったよ」

 店主によると、これは、同大学を中退した井伏鱒二の直筆の書だそうだ。

「漢詩の訳らしいよ。井伏鱒二の名訳という。ここの焼き林檎は美味しかったな」

 同級生の感想だ。

 井伏鱒二さんは、ユーモアとペーソスをにじませる独自の文学を形成し、『黒い雨』で野間文芸賞を受賞した作家である。

私が大学でY先生に教えていただいた。

Y先生は通常紋付き袴姿で授業をなさり、森鴎外や夏目漱石にも会ったことのあるという教授だった。

 こういう教授に出会い、教えを受けることは滅多にないだろうから、私は幸運な学生だったといえるだろうな。

「自分の考えを中心に据えることだよ」

 この主張がY先生の講義の根幹をなす。あれこれの学者や評論家の言に惑わされないで、自分の考えをストレートに築いていくことが大事なのだと、学生に教えられた。

 私は先生の考え方に共鳴し学んで、自分の研究を進めたが、この方法が大学で学んだ最高の収穫だと私は思う。

さて、やがて、大学を卒業したが、地方小都市の故郷には職がなく、東京都の中堅出版社の募集試験を受け、合格して就職を決めた。

 住まいは世田谷の住宅公社に移った。

 まもなく、自分の住む団地の前五メートルの所に高速道路が開通した。

 団地の住民は計画段階で反対運動を起こしたが、道路公団の計画は、三メートル移動しただけでほとんど変わらなかった。

 道路が完成した後、はたして周辺の騒音と煤煙がものすごいことになった。洗濯物が黒く染まるほどの煤煙が撒(ま)き散らされた。

 この団地は環境悪化から逃れられないと分かり、住民は徐々に移住していった。ことにヤマトの住む棟(むね)では大部分の住民が引っ越していった。

 ヤマトも引っ越したいと思った。住環境にも通勤にも差し障りのない場所を見つけて、あちこちを探したが、なかなか適切な場所が見つからない。

 やがて、同僚の紹介で、横浜市の郊外に住宅公社の提供する空き家を見つけた。

 かくして、ヤマトは「港の見える丘公園」近くの住宅に移住したのである。

 ここは通勤にも差し障りがなく、緑の多い静かな環境であった。

 ヤマトはここから会社に通い、横浜の住民として暮らし始めた。

 雪深い故郷の父母や兄弟姉妹は相次いで他界していた。

 実家は人手に渡り、兄の子供(姪)が一人、その街で結婚して住んでいるだけである。

 ヤマトと姪の行き来はなく、年賀状のやりとりさえだんだん疎遠になっていた。

故郷で、ただ一カ所だけヤマトの胸に迫る場所があった。それは幼い頃遊んだ、小高い丘から眺めた実家の障子窓だった。障子窓の内側に母や父がいて、自分がいた。

 雪の多さは半端ではなく、世界有数の豪雪地帯だった。毎年、三メートルの積雪がある。

 あるとき、ヤマトは、自分にとって昔日の思い出は脆くも崩れ去り、今後は心機一転して新たに出発し直すのが最適だ、という思いに至った。

 昔の思い出が崩れ去ったとはどういうことだろうか。

 同窓会で久しぶりに帰った故郷の荒れ様に、驚きとショックを受けたことである。

 同窓生の集まり具合は不調で、七人が集まっただけだった。会は食事をしただけで散会し、皆がバラバラに帰宅していった。

 ヤマトは父母の墓参りに行った。

 海の見える丘にある墳墓は、生い茂る雑草の中に咲き出したコスモスの花々に囲まれて埋まっていた。

 風に揺れる花々の隙間から、日本海の荒波が白い腹を見せて寄せているのが見える。

 例の、障子窓のある実家で過ごした日々は、ちょうど激しく風になびいているコスモスのように、頼りなく切ない彼方にあった。

 墓から駅方向に向かったヤマトは古里の街を歩いてみた。

 活気の失せた気配が街を覆っていた。

 町の本通りを歩いたのだが、土曜日だというのにシャッターの閉まっている店がほとんどで、Aの家もTの家もなく、Hの家は入り口すら分からない。

 M自転車店やS食堂は開いており、歳とってやつれた主人公が働いていた。

 元住んでいた家の三角屋根や脇の小道は古びたまま存在していた。家屋の壁も変わっていなかった。

 元の我が家前の小路を駅方向へ歩いたが、何処も嘗ての面影はなく、閉まっている店舗ばかりで、人通りもなく、街はほぼ「沈没」したような、色あせて寂しい状態だった。

 私は、帰りの列車の中で“故郷さようなら”という感慨で沈み込んでいた。

 友人と別れてみると、さまざまな思い出さえも既に茫々たる世界の中だったし、故郷の親・兄弟とも死別して数年から数十年が経っていた。

親しかった故郷は、思い出の人も街も生き生きとした姿では存在しなくなっていたのだった。

 横浜に帰ってから、ヤマトはしばらく呆然としていた。田舎の寂(さび)れ方があれほど進行していることに改めて驚き、人も思い出も茫々たる彼方の世界になってしまったと感じた。

「自分としてはここで新しく生き直すしかあるまい」

 とヤマトは、思った。

 思い出の世界は胸の奥にしまって、「今と未来へ歩み出す旅」を歩み出そうとしたのである。

 ヤマトは、今と未来へ歩み出す旅とはどういうことかと考えた。

 ○ 新たに人との絆を深める。

○ 仕事に新境地を開く。

 そういうことを思っていた。

ある日のこと、ヤマトが港ヶ丘公園を歩いていると若い女性に声を掛けられた。

のんびりした様子をしているヤマトは誰からも声を掛けやすい人物のように見える。

「すみません。山手西洋館はどちらに行けばいいのでしょうか」

「ああ、山手西洋館ですか。今、そちらに歩いていますので、よければ、ご一緒に行きましょうか」  

 東の「港の見える丘公園」から西は「山手イタリア山庭園」まで、横浜山手には街そのものの佇まいにも情緒がある。ここはヤマトのウォーキングコースだった。

 彼女は歩きながら、自分が用事でイギリス館やイタリア館に行く途中だと話した。

「お食事のできるところはあるでしょうか」

女性の尋ねる瞳に独特な魅力があったし、顎(あご)の右下に小さなホクロがあって、それらがフェロモンを発散しているようであった。

 山手西洋館には、展示室のほかにレストランや喫茶店が併設されているところがあり、気軽に立ち寄れるようにしていた。

「海に向かって開けるテラスから、美しい花々が見られるレストランがありますので、そこがいいかもしれませんね」

ヤマトはそう言って、まずイギリス館へ案内し、レストランのある西洋館の場所をも教えた。

 女性は小柄で痩せ気味ながら健康な顔色だ。

 顔も体型もクッキリとして、ツーピースの似合う容姿だった。人を見る瞳が深く、印象的だった。その後、ヤマトは、その姿をよく思い出すようになった。

昔、故郷の恋人は病気がちな人だった。高時代に知り合って、ヤマトが東京に出てからは、しばらく手紙やメール交換をしていた。

 しかし、病気の癒えた彼女は、群れを抜く容姿が気に入られ、地元の商家へ嫁いでいった。ヤマトとの連絡も途絶えた。

 横浜山手はかつて横浜開港期に外国人の居住区だったところである。

 港を見下ろす丘に外国人らは自分の故郷に似た住居、施設を造った。

 当時の建物のほとんどは関東大震災で失われてしまったが、大正末から昭和初期にかけて建てられた洋館などが今も残っている。

ヤマトは、この閑静な公園の周辺を週に二、三回は散歩したり走ったりしていた。

ヤマトは東京・千代田区の出版社へ通勤して編集部に所属し、取材や編集に関わる仕事をしていた。

 横浜に住んでいる関係で、横浜観光を扱う記事が多くなってきた。自分のいる山手地区だけではなく、みなとみらい地区、山下公園地区、元町・中華街地区、野毛地区の案内記事を担当した。

 開港以来の歴史や料理、名産品等についても調査して記事にした。

 大桟橋に寄港する外国船が増え、また、ここを基点に発着するツアーが多くなった。

 横浜港発着の「サンプリンセス号でめぐる初夏の北海道とサハリン大自然周遊十日間」というツアーが今年初めて行われ、ヤマトは同乗して案内記を書いた。

 サンプリンセス号は七万七千四百四十一トン、船客定員千九百五十名のイギリス船籍の巨大客船だ。

ヤマトは「つまみ食い観光」ではなく、「定点観光」を提案して、好評を得ていた。

「つまみ食い観光」とは幾つかの世界遺産等名所旧跡を、バスや船で訪ね歩く観光であり、「定点観光」は一箇所または一個のテーマに限定して、その場所や歴史、人物について深く味わうという観光である。

たとえば、ヤマトは「フランス モネを訪ねる旅」を提案し、実現した。

 モネゆかりの地ヴェルノン村に立ち寄り、モネが実際に描いたヴェルノン村の街並みや教会などを見学。美しい自然に囲まれた静かな街を散策し、のどかな時間をじっくりと楽しむ。

 次に、モネが晩年を過ごしたジベルニーの家を訪問する。彼が愛情をそそいだ庭園の美しい花たちを見学。また、ガイドと日本庭園を観光。モネの人生最後までのテーマ「睡蓮」の本物の池を訪ねる。

このように、モネを中心に据えてフランスの地方と中心都市パリを観光する旅を実現した。

 ほかに、人気の観光地モンサンミシェル周辺に滞在して、フランスの自然や文化を見学し研究する旅、イタリアのベネチアに逗留して近辺の世界遺産を見学するツアー等々を企画し、売り出した。

 モンサンミシェルやベネチアで、当地のおいしい食事や菓子を提供するという、ヤマトの企画が好評で、評判を聞いて客が増えた。

さて、田舎の同級生、岡村拓也が横浜の案内をしてくれと言ってきた。上京のついでだという。岡村はヤマトの彼女を見たいとも言っている。

 ヤマトは今まで、成り行きから恋人がいるということになっていたので、考えた末に、団地管理人の娘に恋人役を依頼した。団地管理人とは、日頃の自治会活動を通じて親しくしていた。

 娘の由美は当日都合が悪いということで、代わりに自分の友人を紹介してきた。それが公園で出会ったことのある例の彼女だったのである。

 後日聞けば、由美の都合がつかなかったのは、管理人である父親が脳梗塞で倒れて、入院したせいだった。

 脳梗塞の症状は幸い軽症であり、当面の管理業務は母親が引き継いで行っていて、いずれは父親が復帰できそうだということだった。

 恋人役のアルバイト料は一日二万円を支払うこととなり、下北優子という名前の女性は当日になって団地の管理人室にやってきた。

 管理人室に出迎えに行ったヤマトは、女性が港ヶ丘公園で出会って山手西洋館へ案内した、あの女性だと分かり、仰天した。 

 女性は健康そうな顔色で、ツーピースがよく似合う、クッキリとした容姿は相変わらずだった。

 おまけに深い瞳の色と下顎(あご)のホクロは相変わらずで、年頃の女らしさを感じさせた。

下北優子も出会いの偶然に驚いた。

 ヤマトは、彼女に、「とんでもないお願い」を受け入れてくれたお礼を言い、同級生同行の観光予定を話した。

「恋人役ということですが、どのようにすればよろしいのでしょうか」

 優子がそのように尋ねた。ヤマトを見る瞳が深く輝いている。

「はい、ごく普通の恋人同士という感じで・・・」

「ごく普通のですか・・・」

「はい」

「あの、お名前はどのように言いましょうか」

「ヤマトさんと呼んでください」

「ヤマトさんですね」

「私は下北さんを優子さんと呼びますが、それでよろしいでしょうか」

「ええ、それで結構ですわ」

横浜の案内をして欲しいと言ってきた同級生の岡村拓也とはランドマークタワーの入り口で待ち合わせた。

ヤマトと優子、岡村の三人はエレベーターでビルの六九階展望台フロアに上った。

 ヤマトは、下の光景を指さしながら今日のコースを説明した。

 コースは、ランドマークタワー下から歩道を歩いて二十分ほど、赤レンガ倉庫へ行き、ここで昼食をとる予定だ。

赤レンガ倉庫から臨港プロムナードを歩いて山下公園へ行く。ここで休憩して、中華街を目指す行程だと案内をする。これらの景色が展望台から全て見られた。

「私の住んでいる野毛の街並みも見えるわ」

優子がそう言って、桜木町駅の北側を指した。

ヤマトは、優子が、洋装店を営む実家のある野毛で生まれ育ったと聞いていた。優子の父親が店を経営しているという。

 兄が中国と日本を行き来して洋装の材料を商っているようだ

 野毛は五百店もの飲食店と動物園や大道芸で知られる下町だ。

「野毛方面は、時間が足りないので今回は割愛ということだね」

 ヤマトは友人にそう言った。

「野毛は、海側のみなとみらい地区とは違って、昔からの街並みが続く下町なのよ」

 岡村は、タワーから見える壮大な光景に驚いている。

「大きな街だ。上から眺めても活気が伝わってくるね」

「みなとみらい地区は開発が完成しかかっているようだ」

 ヤマトが言った。

「ここの開発は私が生まれる前から始まっていたのよ」

優子は地元に住んでいるだけに地域のことに詳しかった。

優子は道やお店にも通じていて、当地の案内にははまり役だった。

赤レンガ倉庫へ着くころには皆の親しさが増していた。優子は倉庫内の急な階段を上るときにヤマトに手を引っ張ってもらった。

ヤマトには若い女性の手の感触は久しぶりであり、少し胸が高鳴った。

倉庫にはファッション・雑貨・アクセサリー・名産品・お土産等の店、カフェやレストランがびっしりと並んでいて、三人は人込みの中を散策した。

 優子の案内で入った三階のレストランには音楽が流れていた。

「ここは焼きたてのパンがおかわり自由で食べられる店よ。パンだけでもおいしいのですが、シチューやパスタソースにつけて食べても抜群ですよ」

 赤レンガ倉庫を出ると、三人は新しくできた港沿いの遊歩道を歩いた。大桟橋の脇を通り山下公園へ向かう。

公園への降り口に階段があって、ここではハイヒールの優子がヤマトと腕を組んできた。普通の恋人同士という感じを出したのだろうか。

「赤い靴はいてた女の子」の銅像前で記念撮影。

港に停泊している氷川丸に乗船し、船内を見学した。船の階段でヤマトと優子は自然に手を取り合っている。優子は恋人役として頼んだ女性とは思えなかった。

 岡村は甲板から眺めた港の風景に感激している。

船のカフェで休憩したとき、お互いの仕事の話になった。

 ヤマトは、このとき前の仕事を辞めて出版社に勤めていた。

「出版社では編集部で取材や編集の仕事をしていますが、最近、外国クルーズの記事が多いかな」

 ヤマトはそう言い、

「私は外国へは上海とシンガポール以外には行ったことがないのに、ヨーロッパやアメリカのクルーズ記事を扱っていますよ。仕事に新境地を出すにはどうしたらいいのか考えていますが、なかなかうまくいきません」

 優子と岡村が笑った。

「欧米のクルーズ船を日本に呼んで横浜や神戸から出港し、そこに帰港するプランが多くなったようね」

 優子が面白いことを言った。

「欧米の大型クルーズ船はサービスがきめ細かいって聞いたわ」

「故郷の米を販売する会社で、営業担当です」

岡村は今回の上京も営業の仕事でやって来たと言った。

「米の販路を広げるにはどうしたらいいのか苦戦していますよ」

岡村はライバルの米が増えてきたと言った。

「北海道の“ゆめぴりか”などは強敵ですよ」

「私は野毛の実家が経営する洋装店にいて、仕入れを担当しているわ」

 優子はそう言った。

「引き受けたことは採算が合わなくても、妥協せずにやり遂げるのが、店の方針よ」

 優子の言葉で洋装店の様子が分かる。

 三人は中華街へ向かった。

ヤマトにとっても久しぶりの中華街訪問だった。

 東門をくぐり中華街大通りを進む。夕方の街は人でごった返していた。このエリア内に五百店以上の店舗があるという。

 一行は優子の勧める老舗へ入って、飲茶コースを注文した。

「香港出身の料理人による手作りの点心コースが評判ですよ」

優子は様々な点心にも詳しくて、あれこれと案内した。

ヤマトは優子の言動に感心した。

 岡村の案内を終わって、ヤマトと優子は岡村をJR石川町駅まで送った。

ヤマトと優子は駅前で別れたが、その時の挨拶が印象的だ。

「楽しい一日でした。恋人役を果たしていただき恐縮です。貴重な経験で感謝です」

「楽しいアルバイトでした。ヤマトさんは私には初めてのタイプの方でしたわ」

「え? そうですか・・。また、お会いする機会があれば、うれしいです」 

「そうね。またの機会ね」

 そう言って、深い色の瞳でヤマトを見上げた。

「メールアドレスを聞いてよろしいですか」

「ええ」

 優子はアドレスを教えた。

 この日、二人はこうして別れた。

数日後、ヤマトは団地管理人の娘、由美に優子を紹介してくれたことについて御礼を言いに行き、お菓子を届けた。

 親・兄弟と「お別れ」して、元の恋人も既に茫々たる世界になっていた、孤独なヤマトにとって、優子は存在感のある、大事な人物と思える。

 ヤマトは、優子の言っていた「欧米の客船を使い横浜等を発着するクルーズ」を本気で研究し始めた。面白い観光だと思ったからだ。

 また、この研究を「仕事に新境地を開く」きっかけにしたいと思った。今までの仕事に新しい視点を加えようと思ったのだ。

 優子の言うようなクルーズが現にどの程度あるのか、その調査から始めた。

ヤマトはクルーズ研究を更に行って、仕事に幅と深みを持たせるつもりだった。

 その気持ちの合間に優子の面影が往来し、優子と知り合った幸運を感じた。

「新しく生き直す」と決めていたヤマトの前に、願ってもない人物が現れたからである。

下北優子が脳裏をかすめることが多くなった。

 ヤマトは再び優子に会いたくなり、不思議な光のある瞳を思い出した。

 何かきっかけがないかなとあれこれ思案した末、ヤマトは優子にメールを送った。

 “この前はお世話になりました。ところで、その時話題になった欧米のクルーズ船のことで、もっとお話を聞きたいので、申し訳ありませんが、時間をとっていただけませんか”  

 しばらく返事がなかったが、数日後に

 “クルーズ船のことは詳しく知りませんので、私ではお役に立てないと思います。その方面に詳しい横浜市役所勤務の同級生を一緒にお連れしますが、よろしいですか”

そういうメールが返ってきた。ヤマトは了解し、感謝しますとのメールを送った。

ヤマトは日曜日に桜木町駅近くの喫茶店で待ち合わせた。

優子の同級生という井上徹はヤマトより二、三歳若い男性だった。

「船舶の発着施設を大黒埠頭に整備し、チャーター船で乗客を大黒埠頭から大桟橋に運んで出入国チェックを行うという案を検討しています」

 横浜市の港湾局に勤めているという井上はそう言っていた。

「今後も横浜港が日本を代表するクルーズポートであるため、魅力ある港をつくろうというのです」

 と井上は続けた。

ヤマトと井上との話が済み、用事があるという井上が帰った後、優子は残ってヤマトとあれこれと話をした。

「この前、新潟から来た同級生の岡村拓也が横浜のご案内を喜んでいました」

 ヤマトがそう言うと、

「元町や野毛方面がご案内できなかったわ」

 優子は言った。

「面白いお店が多いんですよ」

 ヤマトは優子を昼食に誘った。

 優子は承諾した。

 二人は喫茶店を出て、馬車道のレストランへ向かった。

舗道の階段でヤマトが差し出した手に優子がつかまり、そのまま二人は手を組んでいた。

「恋人のようね」

 優子がそう言ってヤマトを見た瞳が笑っている。

「ええ、そうですね」

 ヤマトは返事をしたが、二人とも手を離すでもなく組んだまま歩いていた。

ただ二回か三回会っただけの二人だったが、お互いに通じ合うものを感じていたのかもしれない。

ヤマトは、以前優子がヤマトを「私には初めてのタイプ」と形容したことを覚えていた。どういうことだろうかと思っていた。

優子はヤマトが自分との出会いを「貴重な経験」と言ったことを覚えていて話題にした。

「初めてのタイプって言ったのは、ただの男性じゃないなと思ったことだわ」

優子は、ヤマトが近頃のおとなしいだけの青年ではないと感じたという。

何処までも突き進むようなところがあるとも言った。

 二人は煉瓦で舗装された道やガス灯の街路灯などレトロな環境にある、「馬車道十番館」に入った。

ここは明治の西洋館を再現したレストランで、横浜らしい建物だ。

 ヤマトが前回の、優子による横浜案内を貴重な経験と言ったのは、港が丘公園で偶然出会った女性が、管理人の娘の紹介で恋人役を引き受け、“カッコよく”その役をこなしたことだった。

「失礼ながら、ただの娘さんではないと感じました」

「ただの娘ではない、とですか?」

「ええ。観光役を引き受けてテキパキと案内してくださる優子さんのおかげで、楽しく印象的な時間を過ごせました」

「テキパキと案内ですか?」

「優子さんは容姿も心もクッキリとした、中身の濃い女性と岡村君も言っていました」

 容姿や中身が濃いとは、危ない表現だった。

「中身の濃いですか?」

「・・・ですか?」

 と受けて、押してくる優子にヤマトは押され気味だった。

「ええ。中身のある、印象の深い時間を過ごせました」

 それに、優子の瞳が人を惹きつけること、そのことは言わなかった。

 いささか怪しい話になってきたので、ヤマトは話を曖昧に濁した。

 昼食は、優子の勧める「十番館ランチ」を食べた。

優子はこのランチはお手頃値段で横浜の味が楽しめる料理だという。

 ヤマトが先日、七里ヶ浜・江ノ島方面へ仕事で行ったことが話題になった。

「江ノ島には中学の遠足で行って以来、久しく行っていないわ」

「湘南の海、なかなかよかったですよ」

「行ってみたいな」

「今度、一緒にいかがですか」

「ご一緒にですか?」

「ええ。よければ車を借りていきますよ」

「どういうコースかしら」

「鎌倉駅前を通って由比ヶ浜に出ます。そこから稲村ケ崎、七里ヶ浜など海岸沿いのコースを江ノ島方向にたどります」

「楽しそうね」

「ええ。なかなかの豪華なコースですよ」

 優子は、仕事の日程を考えて返事をすると言った。

 二人は一時過ぎに別れた。

 ヤマトは、前に書いたように、新しく生き直す決心をしていた。しかし、過去の世界が時々夢の中に現れた。

 廃(すた)れた故郷の生家や街の景色が出てくる。

 古い畳の波打つ座敷、物置小屋の破れた壁、汚れた便所等を夢に見た。

 寂(さび)れた映画館、狭い図書館。雑草の茂る森の小道や汚れたブランコ、ヤマトがよく登った山の、寂しい山麓風景も出てくる。

 それらは、現にあったときよりも寂しさや虚(むな)しさが強調されているようだ。

 夢の中には幼(おさな)馴(な)染(じみ)や同級生が映ってくるが、彼らは鮮明な像を結ばず、ボーッと霞んでいるような感じだった。

 図書館や映画館等の、かつて賑わっていた施設は今は閉鎖しており、人気のない街角に風が吹いている。

 しかし、ヤマトはそうした諸々の思いを、胸の奥にしまって、自分の針路を歩み直そうとしていた。

 具体化の一番は、同僚や近隣等、人との絆を深めるという目標だった。だから、優子にも近所にも積極的だった。

 ヤマトは住宅公社自治会の主催する住民交流会にも出席した。

住民交流会は、大地震の発生等、非常時の協力が狙いだった。非常時の対策については先の東日本大震災後、住宅公社でも自治会でも常に話題になっている。

 ヤマトは進んで救援係になると申し出た。救援・食事・飲料水・トイレ・入浴等を担当する係が必要だったのだ。

住民交流会で簡単な昼食会が行われた。お互いの顔を見知っておくことが大切という趣旨からだった。

ヤマトの会社でも、非常時対策や訓練は行われていた。

 帰宅困難時の水や食料、宿泊施設等について会議や同僚会で話題となり、準備していた。

 ヤマトは会社でも宿泊施設整備係に応募した。非常時に備えることは、会社に於いても大事なことだと思ったからだ。

 十日ほど経ってからヤマトは優子からのメールを受け取った。

「湘南へのドライブ、よろしくお願いします」とある。

優子はこのように送ってきて、日時や待ち合わせ場所について問い合わせてある。

 ヤマトは大きな喜びを感じた。夜が明け、新たな世界が始まりそうな感じだった。

 仕事にもいつになく熱が入った。

 人はある世界にさようならをしても、新しい世界を見つけることができれば、元気に生き直すことができる。

 ヤマトは新たな幕開けの舞台に立ったと感じた。

ドライブの当日、ヤマトは自宅の港ヶ丘公園近くでレンタカーを借りて、優子の住む野毛へ迎えに行った。

 優子はこの日、花柄のレギンズパンツをはいており、いつものツーピース姿ではなかったが、クッキリとした体形は相変わらずだった。

優子の顔や姿の陰影がはっきりしており、人を見る瞳が深いのは、岡村が指摘したように、実は心の中身が濃いところと一体であるとヤマトは思った。中身の濃さが容姿に現れていると思ったのだ。

 中身、心の濃さとは何だろうか。それは自分の気持ち・感情がしっかりとしていること、ものを見る目・判断力が正確で深いこと、自由で優しい気持ちがあふれていることであり、それらが顔や姿に現れて輝きを放つのだろうとヤマトは思った。

二人が湘南海岸に向かう車窓の景色を楽しみながら、あれこれと話しているうちに、車は鎌倉の由比ヶ浜にさしかかった。

 ヤマトの横に座っている優子の顔に朝日が差してきた。

 運転中のヤマトには優子の顔が見えないのだが、すぐの所で彼女の手や脚が動くのが新鮮だった。

 彼らは潮の香が漂う浜に降りたち、江の島を目の前に浜辺を散策した。

 この浜は鎌倉市南部の相模湾に面した海岸で、夏には海水浴客で賑わう。しかし桜が散ったばかりのこの季節、しかも早朝には、サーファー数人の姿が見える程度で、静かな景色が展開している。

相模湾に日が昇って間もなくで、海は凪いで風もほとんどない。

 海の紺色が何層かの横縞模様になっていて、朝日を浴びた細波(さざなみ)が光って静かに寄せている。

彼らは、しばらく歩いた後、近くの喫茶店に入って休憩した。

 ここからは、江ノ電の走る風景、七里ガ浜方面から江の島、湘南の海一帯を見ることができる。 

 二人は、目の前の風景やヤマトの仕事である「横浜観光」、優子の職業「洋装」のことなど、とりとめない話をした。

「向こうに見える江ノ島には仕事でたまに来ます」

「お仕事で?」

「ええ。鎌倉・江ノ島方面に来る観光客に、良いスポットがあるか探しに来るのです」

「私は江ノ島にはずいぶん長い間行っていないわ」

 江ノ電は、路地の軌道を抜け出た瞬間眼前に海が広がり、カラフルなヨットやウィンドサーフィンが見渡せる場所に出る。 

 夏、由比ヶ浜・七里ガ浜・稲村ガ崎周辺は、マリンスポーツを楽しむ若者でにぎわう。 古都鎌倉とは趣を異にする一帯は湘南の名がふさわしい。

 鎌倉ツアーには、源頼朝が鎌倉幕府を開いた鶴岡八幡宮周辺、鎌倉五山と言われる建長寺や円覚寺等の禅宗寺院を巡(めぐ)るコースがある。

 鶴岡八幡宮の見どころは、一直線に続く参道「若宮大路の段葛(だんかずら)」、続いては三の鳥居の奥にある「太鼓橋(たいこばし)」、折れた大銀杏の幹や蘖(ひこばえ)、本宮(もとみや)、神苑牡丹園(しんえんぼたんえん)、源平池、舞楽(ぶがく)が行われる舞殿(まいどの)等々だろう。

 これらのツアーは湘南地帯とは違う、古都の趣(おもむき)を中心に据(す)えた渋味のあるコースだ。

 建長寺は臨済宗建長寺派の大本山である。一二五三年の創建で本尊は地蔵菩薩。地蔵さんのが本尊というのは非常に珍しい。お地蔵様は決して怒らず、いつも笑みを浮かべている、その地蔵菩薩を本尊としたのである。

 円覚寺では日曜説教や坐禅会を行い、門徒や参加者は座禅によって修行の一端を体験する。

 湘南は神奈川県南部の相模湾沿岸一帯の地名で、葉山・逗子・鎌倉・茅ヶ崎・大磯・平塚などがある。温暖な気候と風景に恵まれた観光地であり、保養地・住宅地でもある。

「お仕事は横浜の観光が中心でしたわね」

「ええ。横浜に住んでいる関係で、横浜観光を扱うことが多いのです。近頃は横浜発着のクルーズが人気で、日本の船だけではなく外国の大型観光船関係の仕事も増えています」

 クルーズに関する仕事は、ヤマトの仕事量の半分を占めるまでになってきていた。

「十三泊とか十四泊で回る日本一周クルーズがあるそうね。新聞で見たわ。寄港地は横浜、神戸、鹿児島から金沢、小樽、函館などね」

「半月近くも日本の周辺を巡るツアーですね。人気が出てきていますよ」

「行きたいわ。おいくらなのかしら? 私、船旅に出るのが夢なんです」

「近頃では、そう高額ではありませんよ。宿泊費の他、三食・交通費込みで考えれば、むしろリーズナブルです」

「船旅では移動の費用や食費もすべて入っているのですね」

「そうですよ」

横浜の観光には、中華街・外人墓地の案内や横浜港周辺クルーズもあった。

 中華街は約〇.二平方キロメートルのエリアに五〇〇店以上もの店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。

 横浜外人墓地は港の見える丘の上に四〇か国余、約四四〇〇人の外国人が葬られている。

「優子さんの仕事は洋装関係でしたね」

「ええ。近頃では横浜での結婚式や記念パーティの衣装を扱っています」

「記念パーティですか」

「ええ。会社創立三十周年記念カクテルパーティとか、ご家族やお仲間のパーティ衣装も扱うんです」

「結婚式や記念パーティというと、正装ですね」

「ええ。正装は和装でと決めている方もいますが、洋装の方も多いですよ。洋装で列席する結婚式やパーティのときは、華やかさのあるドレスをお勧めします」

「華やなドレスですか」

「ええ。昼の場合はアフタヌーンドレスやエレガントなスーツ、夜の場合はイブニングドレスやカクテルドレスですが、ただ、結婚式では花嫁より華やかにならないようにしなければいけません」

優子はそう言って笑った。

江ノ島に行った二人は正面の江島神社や島の裏側を歩き、海の見えるレストランで昼食をとった。

 江の島には江島神社があり守護神である女神が祀られている。交通安全・豊魚、豊作の他、幸福・財宝を招く神様として多くの人々に信仰されている。

 優子は、以前ここに来たときは島の裏側に回る道は閉ざされていたと話した。

「裏側の岩屋、洞窟が崩れて長い間閉鎖していたようです」

 彼らは洞窟続きの岸辺から小型の観光船に乗り、のんびりと島入り口の駐車場近くまで戻った。

 優子はヤマトのゆったりした様子に快さを覚える。

 午後は逗子、葉山の海岸沿いをドライブした。

 海に突き出したカフェで休憩をとった。

 潮騒の聞こえるテラスから、先ほどまでいた江ノ島が見える。

夕方、二人は道が混まないうちにと、五時前に横浜へ戻った。

 ランドマークタワー近くのレンタカー店舗へ車を返した後、早めの夕食をした。

 レストランの席に座ると、太陽が西の海に沈むところだった。

 ビールで乾杯。窓辺に夕景が迫ってきた。

 ヤマトは、夕光に映える優子の表情を眩(まぶ)しく感じた。

 そして、楽しい時間を過ごしてきた優子との絆(きずな)に喜びを感じた。

 優子も久しぶりに開放感を覚えた日だと言った。

二人の初デートは、こうして終わった。

ヤマトは、崩れ去り遠くへ去った故郷や、悲しい思い出が占めていた胸の空虚さが、横浜の新しい出会いによって埋められ、新たな喜びがひたひたと胸を潤してきたような気がした。

 ヤマトにとって青春時代は始まったばかりだと言って良いのかもしれない。



   第二章  東京都立下町高校

 横井ヤマトは勤めの帰り道、同僚数人と度々馴染みの寿司屋に立ち寄り酒を飲んで帰る。柳寿司は駅に近い商店街にあり、鮮度の良さで有名な店だ。

 ヤマトは知人お世話で東京都立下町高校の教師になっていた。

 寿司屋は新米のヤマトには贅沢な店だが、先輩教師の教え子がいる店で行きつけだったから同席できたのである。

 寿司職人は特別なつまみや心遣いでヤマトらに応対してくれた。つまみは、サザエの尻尾を油炒めにしたり、マグロの切れ端を刺身で出したりした。

 店にいるのは一時間ほどだから、会計の金額も知れたものだったし、気楽な飲食が身心を和ませてくれる。ありがとう、楽しい寿司屋さん、という気持ちだった。

「東京都立下町(したまち)高校(こうこう)」の同僚は、大手短歌雑誌の編集長やJ詩賞をとった詩人、組合の猛者、新聞社文学賞を受賞した小説家、それに物理学教科書の執筆者、ローム層研究で著名な博士、大学講師、美人教師、芸術家風の絵描き先生等々個性的な人たちが多かった。

 勤務している高校は自由な校風で、生徒も教師ものびのびしている。それでいて、何事にもやる気が充満していた。

子供らの進学や就職、課外活動の状況も、元気があって好調だった。

中でも、文化祭や演劇活動が活発で、その時期になると学校中が盛り上がった。

学校は下町にあり、柳寿司がある商店街も近かった。

 ヤマトが初めて下町高校を訪ねたときのことを話したい。このとき、ヤマトはまだ結婚していなかった。

 校舎は入母屋(いりもや)屋根と数奇屋造りの外観で、玄関や 応接室も和風だった。

 和風建築とは日本風の建築様式で、主流が木造建築を占め、柱や梁など直線的な材料で組み立てる。

 一方、西欧諸国などの外国の建築は、レンガ造りや石造のものが多く、壁を主体とする面的な構成をとるのに対して、日本建築は線的な構成となる。(参照 ウキペディア)

 ・・・おや、珍しい学校だな。

 と思った。

 念願だった高校教師になれるということがヤマトの気持ちを明るくしていた。

 三度目の訪問の時、数奇屋造りの廊下を通って和風の校長室に入った。 

 壁も白色ばかりの硬い塗りではなく、漆喰風のベージュ色と木の腰板が目を引く、ぬくもりのある造りだった。

 どっしりとした柱や梁(はり)、高い天井の下で、ヤマトは落ち着きを感じ、漂っている木の香りで気持ちがなごんだ。

 ・・・この学校で働くことになる。

 ヤマトはそう思って辺りを見回し、喜びを感じた。 

 ヤマトは校長、副校長と話をした。

「国際化という美名の下で、日本人は情緒のある美しい国柄を知らぬ間に置き去りにしてきました。経済成長を追い求めるかたわらで、日本の伝統的な文化や家族の絆を失ってきたのではないでしょうか」

 女性の校長はそう言った。

「気づいてみたら、犯罪や不祥事が多発する嘆かわしい社会になってしまいました。物欲偏重と我儘(わがまま)な個人意識が原因です。これからは、日本本来の情緒を養い、国語を重んじ、金銭に支配されない品性を身につけなければなりません。本校の教育目標は伝統・国語そして品性です。貴方にもしっかり取り組んでもらわねばなりません」 

そう言われたヤマトには、小柄な身体で顔も小さな、鼻筋の通った校長の顔が、太い梁と同様に凛(りん)として見えた。

「解りました。全力で取り組みます」

 ヤマトは、校長の言うことに同感だったうえ、この学校で働けるという喜びで、力を入れてそう答えながら、

 ・・・信念の固そうな校長だ。 

 と思い、しっかりと働く決意を改めて固め直した。

 ・・・ただ、家族の絆が失われたのは、我が儘な個人意識が原因だという点はどうだろうか。

 とヤマトは思った。

 ・・・家族構成の変化は著しい。一九六〇年代の後半に「核家族」が過半数になり、少子高齢化が進んだ。「標準所帯」即ち夫婦と子供二人によって構成されているという世帯の形態は崩れた。

 晩婚化や未婚化が進んで、ひとり世帯や兄弟だけの世帯、老老世帯が増えた。家族の形が多様化したのだ。

 それは国の経済的社会的要因が働いているからではないか。我が儘な個人意識が原因だというだけでは説明できないのではないか、とヤマトは考えた。 

 ヤマトは思い出した。作務衣姿で蹴(け)ロクロを回している父、傍らで姉さんかぶりをした母が素焼きの茶碗に釉薬を掛けている。姉が粘土の菊練りをしており、職人たちがタタラ板や刷毛を洗ったりしていた。

 ・・・私はこうした家族の中で生きてきた。だが、こういう家族の形は現代では少ない。仮に、家族の繋がりが少なくなっても、周囲と支え合うようにすればいい。 

 そこで、ヤマトは周囲の老若男女と広く付き合い、何か共用出来るものがあれば一緒に使うようにした。

「部活動ですが、貴男の剣道経験を活かして剣道部の顧問を担当していただきたいのですがよろしいですか」

 脇に座っている痩せた副校長がそう言った。

 ヤマトは履歴書に剣道で高校インターハイ入賞、大学の剣道選手権三位入賞などという経歴を記しておいたのだ。 

「はい、喜んでやらせていただきます」

 ヤマトが応えた。

「話題が変わりますが、わがままな個人意識、自己中心で他の見えないのは一部の若者だけではなくなりました。目線に余裕のない男性老人が増えています。要注意ですな」

 副校長が言った。

「確かに、街を歩いていてもそんな感じがしますし、私は図書館をよく利用しますが、そこでも朗らかな表情の老人は少ないわね。自分は周りからぞんざいに扱われているというような被害妄想的な心理が働いているのではないかしら」

 校長がそう相槌(あいづち)をうつと、

「周りから孤立したり、被害妄想になったりする老年男性はますます増えそうですね。身体を動かしている女性には、そういう方は少ないようです」

副校長が付け加えた。

「ところで、伝統・国語・品性という言葉は、校長先生のご持論を示す目標なのです」

 副校長は話題を戻した。

 ・・・よさそうな学校だし、珍しい校長だな。

 ヤマトは一々うなずきながら聞いていた。 

 用事が終わってから

「もし、お望みなら、貴方の住まいに地元地主さんの離れを借りてあげますが、どうですか」

 和服姿の校長は少し顔を和らげ、そう聞いてきた。

「え、地主さんの離れですか」 

 ヤマトが驚くと

「地主の大家は我が校のPTA会長よ」

 校長はそう答えた。

 この校長は一年中和服で通しているそうだが、この日、藤色の色無地を着ていた。

「校長さんはすべてにおいて和風を好むのです。和食を食べ、車には乗りません。洋風を否定はしないが、批判的です」

 顔にエラの張った副校長がそう説明した。

 しかし、副校長は洋風が好きな人だった。

 人のいない所では洋食を食べていたし、洋風の家で暮らし、流行の洋装をして余所に預けてあるドイツ製の高級車でドライブしてストレスを発散していた。

 ただ、公には自分も校長と同様に和風好きだという触れ込みで、洋風の自宅には絶対に人を招かなかった。

副校長はヨーロッパ旅行に行くことが無上の喜びだった。

「この前のクルーズ船で出会った外国人ファミリーと毎日夕食が同じ場所なので親しくなったなあ。中年の夫婦が多く、日本で出会う高齢者とは違う年齢層だったかな。みなさん若くて明るい人たちだ。イタリアの若い女性バスガイドやスタッフは特に魅力的な娘さんだったよ」

 どうやら副校長はエーゲ海ツアーに行ってきたようだった。

「現地のお土産屋さん、アメリカの観光客。うさんくさいサンマルコのガラス商人、ことさら威張っていたオランダ空港の検査官なども忘れがたい。それから空港でトイレを教えてくれたオランダレディは二百メートルほど歩いて案内してくれたよ。親切な外人レディに比べ、帰国した成田空港の無愛想な店員が目立ったかな。日本人はゆとりがないのかな」

 副校長のヨーロッパ好みはこういう具合である。

 さて、校長は、大家の子どもが使っていた離れが子どもの結婚と独立で空いているとヤマトに教えた。

 ・・・地主がPTA会長ということか。昔からの下町らしい所だ。

 ヤマトがそう思っていると、

「学校から近いので便利でしょう」

 と校長は言った。

「それはありがたいです。よろしくお願いいたします」

 ヤマトが住んでいる所からこの下町に通うのは少々時間がかかるので、ヤマトはすぐに承諾し、依頼した。 

 離れにはもう一人、女性が前年から入居しているそうで、二つの離れは庭をはさんで分かれているという。

「別の家のようだから問題ないでしょう」 

 副校長がそう言った。 



    第三章 出会い

 始業式の始まる七日前に、横井ヤマトは下町高校近くにある離れの貸家に引っ越した。

 母屋(おもや)の入り口に植え込みがあり、二つの離れは地主の住む母屋をはさんで南と北にある。 ヤマトの借りる北側の離れは洋間と和室の付いた部屋で、大きな庭に面していた。

 部屋はきれいに片付けてあり、畳が新しかった。

 引っ越しは軽トラック一台で荷物を運び、簡単に終わった。

 夕方、荷物を入れ終わったころ、赤ら顔をした大家のPTA会長が来て、同居する美術教師に引き合わされた。

「どうぞよろしく」

 中肉中背、和服姿の女性はそう言って、庭先でヤマトに挨拶した。

 びっくり!その人はなんと下北優子だったのである。

 ・・・どういうことだ。

 ヤマトはそう思った。

 優子は、確か横浜・野毛の実家が経営する洋装店にいて、仕入れを担当していると言っていた。

 洋装店を経営している父や兄と意見が合わず、縁があって都立下町高校に転任してきたと言った。

「ここはね、面白い街よ。それに職場は面白い高校だわよ」

 彼女は江戸小紋が似合っており、深い瞳(め)の色は相変わらずだった。

専門は美術で、授業で絵を中心に教えていると言った。

「国語を教えます」 

 ヤマトはそう自己紹介した。

「部活動では剣道部の担当になりました」 

 翌日、ヤマトは優子の案内で下町を歩いた。

 下町とは、山側を山の手と呼ぶのに対し、川や海に近い低地を示す。

 商工業に携わる人や町民が多い庶民的な地域で、個人商店が多いという特徴がある。

 これは江戸城の近辺とその西側の高台の山の手台地を幕臣などの居住地帯として開発したことに対する。

 下町、山の手とは昔からの住み分けがそのまま残っているとも言えるようである。

 彼女はやはり和服姿で、食堂や喫茶店、青果店、肉屋、菓子屋、銭湯などを案内してくれた。

 ヤマトは和服姿の若い女性と一緒に歩いた経験は今までにほとんどなかった。彼女と一緒にいると面(おも)映(は)ゆいような気持ちで胸が高鳴った。いつものヤマトではなかったと言えるだろう。

 通りにはうなぎ屋、漬物屋、汁粉屋など多くの店が並んでいて、下町らしい商店街だった。

「優子先生、今日は彼氏と一緒かい」 

 魚屋の店先でそこの親父さんらしい人が声をかけてきた。

 商店街でも美しい優子の人気は目立っていて、あちこちから呼び声がかかった。

「違うわ。同僚を案内しているのよ」 

優子の頬はうす赤くなり、あわててそう言ったが、ヤマトの方は光栄でもあり、うれしくもあった。

 下町歩きの途中、ヤマトたちは〝もんじゃ焼き〟の店に入った。

店に入ると香ばしい焼き物の匂いが漂った。

「この前一度来たら、おいしかったのよ」

 もんじゃ焼きはヤマトにもおいしかった。

 二学期になってしばらくしてから、優子が担任をしている女子生徒が家出するという事件が起きた。

「優子先生の家へなら帰ると言っていますが・・」 

 夜になって、家出した桜井由美の男友達から優子へ電話があった。

 そして、その話が彼女からヤマトに入った。

「とにかくここへ連れてくるのがベストですよね。こういう遅い時間ですから、本当に申し訳ありませんが、ヤマトさんにお願いしてよろしいでしょうか」

 優子は恐縮していた。

 ヤマトは、夜の十一時過ぎに川沿いにある男友達の家まで出かけた。

 桜井由美は男友達をユーイチと呼んでいたが、彼も由美の扱いに困っているようだった。

 由美を優子の離れに連れてきたのは、深夜十二時過ぎだった。

 優子は由美を風呂に入れ、自分の浴衣を貸し与えて部屋に寝かせた。

 翌日、優子とヤマトが桜井由美の、今までの顛末(てんまつ)を聞き終わったとき、優子は深いため息をついた。

「ずいぶんいろいろとあったわね」

「まったく、そうですね」

 ヤマトは相槌を打った。

 優子が席をはずした時

「行く先が落ち着くまでしばらくここにおきましょう」

 優子はヤマトにそう言った。

「父親と話す必要がありますね」

 父親に学校へ来てくれるようにと連絡をとったが、やって来ないので、校長や生徒部主任と打ち合わせたうえ、優子はヤマトと一緒に由美の家に出向いた。

「勝手に出て行った娘です。帰ってきてもいいが、うまくやっていけるのかどうか」

 父親の様子は、不機嫌で冷ややかだった。

 ヤマトたちは学校へ帰り、校長や生徒部長と相談した。

「ともかくも身の落ち着き先を見つけなくてはねえ」

 校長も思案顔だった。

「家に戻ってもあの親では桜井はまた家出するでしょう」

 ヤマトは男親の、のぺーっとした、不機嫌な顔を思い出しながらそう言った

「この際、桜井が身を置ける所というと、・・・」

 保坂主任が腕組みをして言った。

「私、心当たりに当たってみます」

 優子がそう言った。

 彼女は親身になって動いたようだ。優子は温情の深い女性だった。

 二、三日して、由美は優子の世話で以前からアルバイトをしているパン屋に住み込みで働くこととなり、桜井由美の家出事件は一段落した。

 下町高校では生徒指導を相当細かく行っていた。

 欠席しがちな生徒、遅刻の常習者、当番のさぼり常習者、シャツの裾を出しズボンを引きずって歩く者、極端に短いミニスカート常習者、授業中にジュースを飲んだり歩き回ったりする生徒等々、一々のケースに対して指導した

 校長は、個々の事柄に個々の教師が当たるだけではなく、難しいケースにはチームとして指導する体勢をとるように指示した。

「子どもが朝起きないから先生からきつく指導してほしい」

 こういう事例には、〝家庭でのしつけがあって、そのうえでの学校教育です。まず、ご家庭でしっかりしつけをしてください〟ということを親に言う。愚かな親が多いのだ。 

 五月に入るとすぐに、信州に行って〝新入生合宿研修〟という行事が行われた。三泊四日の合宿だ。 

「二百名の生徒に学校の方針を徹底的に伝達し、今後の高校生活に慣れさせるのです」

 と教務主任が新入教師に説明した。

 合宿先の高原は、山岳・湿原・森林など自然の景観に恵まれた場所だった。

 新たに赴任した十余名の教師たちも全員が高原合宿に参加した。

 ヤマトは新緑の萌える高原の景色に囲まれ、いつにない開放感を味わっていた。

 校長、副校長、五クラスの担任のほか、数人の教員が同行し、中に優子もいた。

 彼女は生徒の前では洋服で通しているが、その洋服がまたよく似合っており、生徒から下町高校のベストドレッサーと言われているようだった。

 合宿先のホテルで行われた教員に対する挨拶で校長訓示があったが、これは入学式の挨拶をさらに詳しく説明する内容だった。

 校長は、いつものように声は柔らかかったが、内容はメリハリのきいた断固たる話だった。

 校長の方針は三つあり、伝統と国語・英語の重視、そして品性だった。

「これらを通してしっかりとした人間をつくることが我が校の目標です」

校長は「しっかりした人間」という言葉を繰り返し、

「この目標を実現するには、ひとえに皆さんのお力が必要なのです。品位のある先生、個性のある教師がいなくなってきました。教師が変われば子どもも変わります。どうぞがんばってください」

 そう話を締めくくった。 

 下町高校は、前述したように、玄関・応接室・校長室が和風だったが、他にも職員室・保健室・図書室・食堂・教室にも壁や設備に和風の工夫がしてある。

 生徒たちが自由に使える談話室も設けてある。

 これらの部屋の壁も漆喰で、腰板に和風模様が施してあり、収納棚や教卓・机はすべて木製だ。 

 各部屋出入り口の戸は数奇屋造りで、校内放送の音楽も琴の音曲や和風歌謡だった。

「学校とは思えない環境です。落ち着いていますね」

 来客が皆口々にそう言った。

 こうした和風の雰囲気は生徒・父兄にも評判がよかった。

 副校長によると、生徒向けに行ったアンケートで「本校の木造校舎を自慢できるか」という問いに、八割を超える者が「自慢できる」と答えたそうである。

「それに、校長さんは地元との連携をはかるため、保護者・地元向けの英語講座や園芸教室、野菜・花の販売なども企画していますよ」

ヤマトは副校長からそう聞いた。

校長は、園芸科の生徒が近隣の並木や公園の垣根、植え込みを整備する計画を立てさせていて、道の脇に農園樹林から苗木をとって生け垣にしたり、植え込みを整備したりという予定だった。

生徒を収容するだけではない高校、生徒の心をなごませる学園、地域とともに生きる学校をつくりたいと校長は言っていた。

下町高校の職員会議で保健室の養護教諭から生徒の疾病報告があった。養護教諭は定期的に疾病の現状を報告するのが慣例だ。

 数十名の病名と経過が、○秘という赤いゴム印の付いたプリントに載っている。

貧血症や喘息など一般的な病名が多い中、蜂アレルギー、胃潰瘍、肝機能障害、慢性腎炎、IGA腎炎などの名も載っていた。

 同じ職員会議で、優子の指導する美術部が全国高校文化祭美術部門で入賞し、ご褒美として旅行に招待されるという明るい話題も報告された。

 数日後に、優子自身が日本新人絵画賞で特選を受賞したというニュースが伝わった。

 山里の四季を描いた四枚の絵が受賞の対象となったという。

 この賞の受賞者からは優れたプロ画家も生まれているそうだ。

 この頃、優子は「少女」というタイトルの絵を描いていて、やがては絵本にしたいとヤマトに語っていた。

「里山に住む少女が豊かな自然の中で育っていくというお話よ。でも、時間が足りなくてね、なかなか進まないのよ」

 そう話す優子の瞳が輝いていたが、おそらくそれは彼女自身の体験を基にした絵本だろうとヤマトは思った。

 夏休みにヤマトは剣道部を引率して千葉の海岸で一週間の合宿を行った。

 学校所有の寮には数十人が泊まれる部屋と大風呂があり、さまざまな部や同好会が入れ替わりやって来て合宿を行った。

 地元の漁師が管理する寮で、ヤマトはこの漁師と、早朝、キス釣りをして刺身にしてもらったりしてご機嫌だった。

 海岸の素振りや休憩の水泳はヤマトに似合いの行為で、ヤマトはすっかり日焼けをして帰京した。

 部活動にも授業にも熱心に取り組むヤマトは、既に生徒の信頼を得ていて、人気教師の一人となっていた。

 二学期末には、三年生で就職試験に通った者や大学推薦入学合格者も出て、下町高校は初めての経験に沸いた。

 生徒の進路がきちんと決まるのは、生徒は無論、後輩や教職員、父兄等学校関係者全体にとってこの上なくめでたいことであった。

この上守備は、彼らが受験先の面接試験で述べたという、下町高校の教育方針が先の会社や大学に驚きと感動を与えたようだった。

 下町高校で働くヤマトたちは大いに喜び、校長は紅白の祝い餅を商店街へ特注して作らせ、教職員に配った。

「何だか私たちも誇らしい気持ちよね」

 優子がうれしそうにヤマトに言って笑った。 



    第四章  別れ

 都立下町高校三年生の進路が順調に決まり始めたという、誠にいいこともあったが、皆を落胆させる、驚くべき事態も起きた。

 三学期が終わり、生徒らが春休みに入った三月下旬、突如として、校長に転勤命令が出たのである。

 校長の転勤は三月下旬に発表されるのが通例だ。

 開校してまだ三年を経過しただけの学校長が異動するのは異例のことであった。

 下町高校で学校中が動揺した。 

「貴方とは一年間のお付き合いでしたが、貴方のがんばりが印象に残っていますよ。いい先生になってくださいね」 

 校長は、廊下でヤマトと出会った時にそう言って笑ってみせた。

 横井ヤマトは胸が詰まり、やりきれない思いがした。

 ヤマトが優子にその話をしたとき、

「私は、お別れねと言われて思わず泣いてしまいました」

 彼女はそう言った。

 数日後、急遽行われた校長離任式で、生徒も教職員も校長の異動を惜しんで胸がいっぱいになり、多くの者が目に涙をにじませた。

 和風校舎を建て、和服を着て、自分の信念で個性的な教育を熱心に行ってきた校長を惜しむ気持ちが皆の心に染み渡ったのだ。

「新学期には新しい校長が来て、他の学校と同じような、個性のない教育方針を述べ、平凡な学校生活が始まるだろう」

多くの同僚はそういうことを話し合った。

公立高校では式辞をはじめ学校の運営に該当自治体の教育委員会が作ったものを利用するケースがほとんどであるので、平凡で個性のない内容になってしまう。公立校に地域の特性がなくなってしまったのである。

 ヤマトがたまげるほど驚き、心底からがっかりする事態がもう一つ起きた。

「一身上の相談があるので、実家に行ってきます」 

 優子はそう言って横浜に行ったが、数日後に東京に戻ってきた。

 その夜、彼女はヤマトに話があるといい、ヤマトの離れを訪ねてきた。

ヤマトは部屋に入ってきた彼女の気配が改まっているのを見て、何事かあるに違いないと思った。

 ヤマトはとりあえずお茶を出した。

「私の一身上のことなのですが・・・。敬愛していた校長先生がお辞めになり、・・・ヤマト先生には悪い言い方になるのですが・・・個性的な空気がなくなりそうな学校で、これ以上働く気がなくなりました」

 彼女はそう切り出した。

「忙しすぎて自分の時間が持てない生活に不自由さを感じてはいたのですが、それでも、あの校長先生のもとで個性のある教育に励むことのできる下町高校に魅力がありました」

ヤマトは聞き入った。

「ですが、校長が代わり学校の個性も失われそうな所で働き続ける自信がありません」

 ヤマトは優子の言い分が頭で分かった。

「幸い、出版社から絵本を作成しないかというお話もあり、これを機会にフリーになって、絵で生きる道を目指そうかなと思います。実家にはそのように話してまいりました」

 優子の話はここで一区切りした。

「退職なさるということですか」

 ヤマトの声は小さかった。

「ええ。退職して絵を描くわ」

「今までのように、お勤めをしながら絵の勉強をするということではなく・・・」

ヤマトの声はさらに小さくなった。

「ええ。あれこれと用事の多い教職を続けながら絵を描くことは私には無理なのです。そのうえ、下町高校がだんだんと窮屈になってきそうで・・・。絵の道一本にしぼって生きたくなりました」

 ヤマトは、彼女の言うことを頭では理解した。

 生活の心配がなければ、他にも同じような気持ちの教師がきっといるに違いない。

「この住まいのことなのですが、PTA会長でもある大家さんの離れですから続けてお世話になるというわけにもまいりません。絵の仕事場として少し手狭でもあるので、他に部屋を探そうかと思います」

 ヤマトは黙って聞くだけだった。

こうして、ヤマトは敬愛する校長を失っただけではなく、今また、親しかった優子と別れることになった。

 ヤマトは、自分の状況がどう変化するのか理解しかねた。

 というより、急に自分の身辺の薄ら寒さ寂しさを覚え、混乱したというのが当たっているだろう。

 ヤマトは、校長と優子との出会いによって、自分の前に新しい世界が開けつつあると感じていた矢先だけに、激しい失意から呆然として暮らした。

 校長は希望を、優子は人の温かみを、ヤマトの中に植え付けかけていたのだが・・・。

 優子への好意、いや、淡い恋心のような気持ちは、ここで断ち切られることとなった。

 ヤマトは数年ぶりに放屁癖が再発して、仕事場で困るほどだった。

 何かストレスが強いときは腸が膨張して屁(へ)が連発するのはヤマト旧来の癖だったのだ。

 新学期、下町高校に通う道すがら、一緒に過ごした校長と優子の姿を思い浮かべ、自分の将来の姿を下町の空に描こうとしたが、それは灰色の渦の中にあって、はっきりとしなかった。ヤマトの放屁は当分続くだろう。

 四月下旬、下町高校教職員の歓送会があった。転勤したり退職したりした教職員の送別を行い、お花見と船遊びも兼ねる催しだ。

 屋形船の宴会は辞めた校長の発案で始まったものだった。

 屋形船は船の上に屋根をもった家形の小座敷を設けた遊び専用の川船である。

 ヤマトは、退職した優子や転勤した校長に会うことができると、心待ちにした会であった。

 桜橋周辺を周遊する浅草発着の大型屋形船で、刺身の舟盛りや天ぷら各種、ご飯、サラダ等が出て、飲み物も飲み放題という、ヤマトには豪勢な会だ。

優子も校長も顔を見せ、久しぶりの挨拶を交わした。

「春に咲く桜は、大地の命の蘇る春、命の、生のシンボルです。ところが、桜は生と死の両方の比喩でもあります。皆様ご存知のように、桜は命の比喩の片方では、別れ、送別の比喩でもあります。また、昔は女の比喩の桜があるときは、散る桜が武士即ち男の死の比喩になった歴史もあるのです」

乾杯の後、しばらく歓談をして、やがて始まった屋形船の専属ガイドは能弁だった。

「桜は女性のシンボルとして、また、男の心中の女性として歌われました」

 三十代後半の女性ガイドはいい声でそうしゃべった。

「桜は、時代が変わっても、その時代時代の基本的人間関係の絆に現れます。現代の我が国で、勤め先の男女同僚と花見をするのが盛んなことも、その一環なのです。皆様のこのお花見も送別であり、お互いの絆の確認でもありますよね」

 ガイドはますます好調だ。

 やがて、下町高校を転退職した教員の挨拶になった。

「松尾芭蕉は、美しく、それでいてシンボルとしても豊かな意味を持つ桜のことを三百年以上も前に見事に表現しています。

 さまざまの事おもひ出す桜かな 

 という俳句です。              

『おもひ出す』とは、そのときの悲しみ、喜び、ペーソスなどの情が心に甦ることであるという日本人の思いを、桜に託して端的に表しているのではないでしょうか」

 転勤した校長は、さすがに古典の教養を披露した。

 優子の挨拶の順番になった。

「夜桜は、昼間の花見と同じように人気がありますよね。ところが、青空を背景にして見る桜と、夜桜は随分異なります。夜桜の美しさは、闇の恐ろしさを背景に、その恐ろしさの故に生まれて来る美しさです」

 美術の教師らしい挨拶だ。

「例えば、夜桜は歌舞伎で桜木の精である遊女墨染のような美妓の艶やかさに譬えられますし、それは、万葉集や古今和歌集の恋と同じく、人間を結び付ける絆(きずな)の比喩だそうです」

優子はそう言い、ヤマトの方を、あの深い色の瞳で見た。

 船は隅田公園の桜並木を見渡せる所にさしかかった。

 隅田公園は旧水戸藩下屋敷の庭園を生かして人々の憩いの場となっている桜の名所だ。

 ここは火除けを兼ねた台東区区内で最も大きな公園で、春には隅田堤に桜が咲き乱れ、花見客で賑わう。

 区民によるさまざまな模擬店や靴やかばんなど地場産業品の販売店が船からも見え、人々のざわめきが聞こえた。

 ヤマトは酒杯にひらひらと舞い落ちてきた桜の花弁を見た。その花弁は、優子の美しい衣装から飛び出したようであった。

 夜桜の模様をあしらった和服姿の優子は一段と艶やかだった。

ヤマトが優子と話をする機会ができた。

「教師という職業はこの上なく多忙で、あらゆることに気を使い続ける仕事なのね。学校を離れてから、そういう現実がよく分かったわ」

 退職後、自分の絵を追求しているという優子がヤマトにそう話した。

 優子は出版社から絵本を作成しないかという誘いがあったことは前述したが、優子は

「絵で生きる道を探しているところよ」

 と言った。

 そのことでヤマトと優子はあれこれと話した。

 優子は、絵本の構想を練る一方で、益子にいる陶芸家で大学時代の友人から、陶器に焼き付ける絵の相談を受け、暫くの益子行きを考えていると語った。

「里山に掛かる月と、原を駆ける銀狐(きつね)の入った絵で、抽象、具象の混じったような図柄を考えているのよ」 

優子はがんばっているように見えた。

 ヤマトの方の話は次のようだった。

「新学期には新しい校長が来て、他の学校と同じように、個性のないワンパターンの教育方針を述べ平凡な学校生活が始まるだろう」

下町高校の同僚たちが、そういうことを話し合ったが、

「皆さんの危惧通り、窮屈な学校になってきたようです」

 これが優子へ話した概要だった。

「生徒も教職員も従来のような伸び伸びとした空気がなくなりました。決められた枠の中で、改革と称する教育を強いられています」

 ヤマトは下町高校を辞めた優子に訴えるように話した。

 新校長は「新しい時代の幕開け」と宣言しているが、学校は不自由な有様になってきたようだ。

「今、教員生活の中では、こうしたい、ああすればよいという自分たちの希望や理想を追求するのが困難な状態で、日常の業務や目前の雑用を片づけたりするので精一杯なのね」

「多くの教員が朝から晩まで根限りやっていますね。精一杯すぎてゆとりがなく忙しい生活に埋没していることが多いですね」

 新米のヤマトも下町高校の現実に気づき始めた。

 歓送会は瞬く間に時間が過ぎた。

「貴方の机にでも置いてちょうだい」 

 優子は別れ際に、花の小さなオブジェをヤマトに渡した。

「私が選んだ草花で作ったのよ」

 鈴蘭、都忘れ、山吹、霧島躑躅などが霞み草とともにあしらってあり、優子の個性が滲み出ているオブジェだった。

「鈴蘭の花言葉は幸福が帰る、幸福の再来ということだそうよ」

優子はそう言ってほほえんだ。

「またお会いしたいわ」

 と言い添えた。

優子の深い瞳(め)の色と明るい笑顔は相変わらずだった。

 送別会が終わって二人が別れるとき、ヤマトの胸がキューンとしたが、彼は放屁をこらえるのに必死の様子だった。

 ヤマトにとって、その後の生活はなんとも寂しいものだった。

 日々学校に通い、勤務する。授業をする。体育館で部活動を指導する。生徒指導をする。そんな忙しさの中で一息入れるとき、退勤して家路につくとき、周囲に優子の姿がなく、声も聞こえないということが意識され、遣る瀬(やるせ)なさに襲われた。

 高校の門を入るときも、弁当の蓋(ふた)を開けるときも、帰宅して家の敷地に入るときも、空虚な気持ちになった。

 この寂しさは何ものだろうと見詰めると、それは楽しかった生活の喪失感、優子と一緒の生活を失った空虚さだと自覚した。

 一方、優子は、絵画への意欲で下町高校を離れた空白感を埋めていた。 

 彼女は、友人の陶芸家から陶器に焼き付ける絵の相談を受けていると、ヤマトに語っていたが、当面は次のような図案を構想していた。

 一つは、渦巻く炎か海の渦巻きか、そのどちらにも見える模様をシンプルに浮き彫りにする。これは自分の中に渦巻く命の動きだった。

 他の一つは、星の輝く益子の空に銀狐と月の形を凹凸の出るように彫り込むという案で、夜空の月を仰ぎ見る狐を、山と森の影を背景に絵にするつもりだ。

 ただ、ヤマトに故郷を語る手紙には寂しさが滲んでいた。


「前略

 お手紙どうもありがとうございました。

 先日あなたにお電話いただいてから毎夜月を見ます。あの日からいつも九時に月を見ることにしました。

 私の住んでいる家の近くに小さな公園があります。九時になると、そこに出てブランコに乗りながらお月さまを見ることにしたのです。今夜も行ってきました。今帰ってきたところです。

 きょうは私の育った会津の話をしたいと思います。

 私は会津の小中学校、県立の会津高校と通い、そのあとは神奈川の女子美術大学に通いました。

 神奈川や東京へ出てから時々故郷の街が見たくてたまらないときがあります。

 冬には雪が降ってひどい年には交通がマヒしてしまうこともあります。不便ですが、東京にはない味わいがあって時々懐かしく思い出します。

 いつかそんな会津のことをお話しできるのを楽しみにしております。

 あなたは私の知らないことをいろいろ教えてくださいネ。その話題がとても楽しみです。

 お宅へもぜひ遊びに行きたく思います。でも、できることならその前に一度お会いしたいです。それでは今日はこの辺で失礼いたします。

 お元気で。 また、お会いしましょうね。

 早々

        

 ヤマトはこの手紙を大切にしまっている。

 懸命な努力で大震災から復興の足音が聞こえ始めたとはいうものの、被災地では今日まだ二万人を超える人々避難所で暮らしている。

 ただ、復興支援のボランティア活動を行う人や団体がいることが救いである。

 また、ヤマトの同僚の発言も注目したい。

「東日本大震災で、暴動が起きず、窃盗もほとんど見られない日本ですよね。住民が給水車の前に行儀よく並んで待っている、そのことに外国が驚きと称賛を贈ったようですね」

「復活しかけた仙台や大船渡の海鮮市場で、夕方、自分らの仕事帰りに同僚と飲み交わす一杯はこたえられないようですね。他にもこういう所はあるでしょうが、外国人には珍しい景色のようですよ」

「甘エビ・イカマグロ、いくら、サーモン等綺麗で華やかな海鮮丼。まさに海の幸をまるごと味わうことのできるちょっぴり贅沢な丼。これだけ具材が乗って価格も安い」

 他の同僚がそう言って笑った。

 ヤマトは彼女の存在が自分に、ある光明を与えていたこと、今はその存在がいないという空虚に気づき、彼の身体はますます屁を作る方向へ向かった。

 ヤマトは優子に関わることがらについて思い出すことが多い。たとえば・・・ 

 元気に見える生徒の身体を蝕んでいる病気や、生活の厳しさを見詰めさせる事件が起き、ヤマトが優子から相談されたことがあった。

 優子が担任をしている女子生徒が家出をしたことがある。

 生徒、桜井沙織の父親は「蒸発」中であり、母親は精神科病棟に入院するという厳しい話だった。

「先生の家へなら帰ると言っていますが・・」 

夜になって、家出した桜井の男友達から彼女へ電話があった。

そして、その話が彼女からヤマトに入った。

「とにかくここへ連れてくるのがベストですよね。こういう遅い時間ですから、本当に申し訳ありませんが、ヤマトさんにお願いしてよろしいでしょうか」

優子は恐縮していた。

 ヤマトは、夜の十一時過ぎに川沿いにある男友達の家まで出かけた。

桜井沙織は男友達をユーイチと呼んでいたが、彼も沙織の扱いに困っているようだった。

優子を優子の離れに連れてきたのは、深夜十二時過ぎだった。

優子は沙織を風呂に入れ、自分の浴衣を貸し与えて部屋に寝かせた。

翌日、沙織がヤマトと優子に語った話の概要は次のようだった。

 

私が物心ついた時には、父親は家にいなかったです。

元々集団就職で田舎から都会に出てきた祖父は東京タワーが建設中の昭和三十三年にこの街に来て、かけはぎの店に勤め、その技術を身につけたそうですが、知り合いもいない中、慣れない仕事や言葉のため、涙を流したこともあったようです。

祖父の跡を継いだ父もかけはぎ屋をしていたそうですが、一時順調だった仕事も客が減ってしまって、やがて店をたたんで家を出て何処かへ行ってしまったと母が言っていました。

母親はだんだんと気がおかしくなって街をうろうろ歩いていて、近所の人や医師の勧めで精神科の病棟に入ったのです。

「お母さんは抑鬱状態が激しく、不眠と食欲不振のため起きているより寝ている時間が長い。顔色も悪く、やせ細っていますので入院をお勧めします」

お医者さんはそう言いました。

仕方なくなって母が入院したので、私は近所に住んでいた祖母の家に身を寄せ、今までの家は明け渡したのです。

下町に住んでいる祖母はお裁縫を教えて細々と生計をたてていましたが、通って来る生徒は年々少なくなっているようでした。

祖母は私に何かをさせようとして、お裁縫や着物の着つけ、礼儀作法を教えてくれた。

祖母は元豊かな家に育ったらしく、いろいろなことを知っていました。

母は時々病院を抜け出して、元の家の周りを歩いていたようです。

街を歩いている時は、母はいつも「遠くへ行きたい」という歌を口ずさんでいました。

桜井沙織の語り口は、思い出して自分に語るような調子になったが、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 ヤマトと優子は身じろぎもせずに聞き入った。

 

母の入院している病院にはたまに出かけるけれど、母は私が行っても誰と解らなくなってきてから、お見舞いに行く回数はだんだん減ってきたわ。

母親は不思議そうに私をながめるだけになって・・・。

そんな母親を見ていると泣きそうになるから、だんだんと行きにくくなった。

祖母が小遣いもくれたけれど、近所の居酒屋でアルバイトを募集していて、そこに行けば小遣いに困らなかったので、内緒で働いた。

人前に出るのが苦手だった私は〝おとなしくていい子〟だということになり、評判は悪くはなかったのです。

ただ、高校の始業は八時半で朝早いので、仕事は夜の十時で終わらせてもらうことにしました。

ところが、ある日、横にいた居酒屋のマスターが、突然、私の胸に手を入れてきたのだよ。

驚いた私はキャー!と叫んで、お店を飛び出したのだ。

川に架かる橋まで夢中で駆け抜け、橋の上で立ち止まったけれど、足がいつまでもガクガク震えていた。


 桜井沙織の話を聞き終わったとき、同席していた優子は深いため息をついた。

「ずいぶんいろいろとあったわね」

「まったく、そうですね」

ヤマトは相槌を打った。

「行く先が落ち着くまでしばらくここにおきましょう」

 優子はヤマトにそう言った。

「父親と話す必要がありますね」

父親に学校へ来てくれるようにと連絡をとったが、やって来ないので、校長や生徒部主任と打ち合わせたうえ、優子はヤマトと一緒に沙織の家に出向いた。

「勝手に出て行った娘です。帰ってきてもいいが、うまくやっていけるのかどうか」

父親の様子は、不機嫌で冷ややかだった。

ヤマトたちは学校へ帰り、校長や生徒部長と相談した。

「ともかくも身の落ち着き先を見つけなくてはねえ」

校長も思案顔だった。

「家に戻ってもあの親では桜井沙織はまた家出するでしょう」

ヤマトは男親の、のぺーっとした、不機嫌な顔を思い出しながらそう言った

「この際、桜井沙織が身を置ける所というと、・・・」

保坂主任が腕組みをして言った。

「私、心当たりに当たってみます」

優子がそう言った。

彼女は親身になって動いたようだ。優子は情の深い女性だった。

二、三日して、沙織は優子の世話で以前からアルバイトをしているパン屋に住み込みで働くこととなり、桜井沙織の家出事件は一段落した。

こんな具合に、ヤマトは優子に関わることをよく思い出した。

 ヤマトが優子と過ごしたのは一年間だったが、思い出は尽きないほど多くあった。



   第五章  再会

 下北優子は出版社で働き、絵本の仕事を担当しながら、自分本来の絵を追求していた。


 短歌「火の海を 燃えつつ沖へ流れゆく 漁船数隻 阿修羅となりて」

                         宮城県 気仙沼市 内海 和子さん

【詞書き】高台に避難して眺めていた、地獄の海でした。大津波の襲来の夕方、商港の重油タンクが倒壊・引火。火の海となり七二時間燃え続けた。

爆発音・炎・黒煙・第三波までの津波に湾はうず巻かれ、小さな船は力果て、やけただれ、沖へ流されていった。その時、私の夫は行方不明で、不安に震えながら眺めていた。(東日本大震災プロジェクト「震災を詠む」(2)NHKオンラインより)


 大震災後のある日、優子は東京でこの詩(うた)を読んで、衝撃を受け、阿修羅の漂う火の海を想った。

 福島県会津にある優子の親戚に津波は届かず、福島原発から遠い所だったので放射線被害も免れたが、県下東部の親戚が被災したせいもあって災害の様子は身近に迫って感じた。


「べーべーと呼べば鼻寄す飼牛を殺し来たると農婦のつぶやく」

 この歌は優子が新聞で読んだもので、解説も切なかった。

「解説 福島県双葉郡川内村では、多くの酪農家が避難前に牛や鶏を殺していた。それを苦にするお年寄りたちが、河川敷に座り込んでいた。

東京電力福島第一原発事故の避難者が多く暮らす福島県郡山市で、元中学国語教師の橋本英之さん(七一)が、このような人々の苦しみを短歌につづっている」(毎日新聞二〇一二年七月五日)


「毎日大切にお世話をしている牛を殺すという農家の方の気持ちはどんなだったのかしら」 

 優子は同僚とそう話し合った。

「福島第一原発で牛に『ごめん』警戒区域化で最後の世話」(二〇一二年四月二一日付け)という記事が優子の目を引いた。やはり、世話をしている牛を死なせざるを得なかった経験を語っている住民の話だ。

 

 楢葉町(ならはまち)牧場主の話

 福島県楢葉町の蛭田(ひるた)牧場。二〇キロ圏外のいわき市に避難している経営者の蛭田博章さん(四二)は二一日、約一三〇頭の牛たちに最後の餌を与えた。強制力のない「避難指示」の段階では、三日に一回のペースで餌やりのため牧場に入っていたが、二二日午前〇時以降は不可能になる。蛭田さんは「何もしてやれず、ごめん」と牛たちにわびた。

 この日、蛭田さんが干し草を積んだトラックで到着すると、エンジン音を聞いた牛舎からは一斉に鳴き声が起きた。まず飲み水を与え、次に干し草を一列に並べると牛たちは我先にと食べ始めた。与えたのは一日分。牛が飲まず食わずで生きられるのは約一カ月が限度という。

 子牛の牛舎を見ると生後三カ月の雌牛が栄養不足で死んでおり、別の一頭が絶えそうな息で横たわっていた。蛭田さんは重機で掘った穴に死んだ子牛を埋め、瀕死(ひんし)の子牛の背中をずっと、なでた。「ごめんな、ごめんな」。涙が止まらなかった。

 立ち入りが禁止される今回の事態を前に、牛舎から牛を解き放とうと何度も悩んだが、近所迷惑になると考え、思いとどまった。最後の世話を終えた蛭田さんは「一頭でも生かしてやりたかったけど、もう無理みたいです。次に来るときは野垂れ死にしている牛たちを見るのでしょう。つらいです」。それ以上、言葉が続かなかった。(毎日新聞 袴田貴行)


 優子は、東京発の東日本大震災復興支援ツアーがあると聞き、出版社の同僚とボランティア活動に応募した。

 彼女は、作業着や合羽、長靴、ゴム手袋、軍手、防塵マスク、ゴーグル(保護メガネ)、着替え、タオルをそろえ、釘の踏み抜きの危険があるので、踏み抜き防止の、鉄板入り中敷きが付いた長靴を用意した。

 復興支援ツアーの貸し切りバスは新宿駅を気仙沼に向けて出発した。福島支援のツアーは、このときは放射能を浴びる恐れがあるということで、募集していなかった。

「今回のツアーではあの時のままの被災地を見て頂きます。何かを感じて頂こうと、夏休みに親子でも参加できる設定を致しました。女性の一人参加も歓迎です」

車中、添乗員から、そのような挨拶があった。

 また、同乗のベテランボランティアが、ボランティアの意味、被災地についてのガイドを行った。

 この東日本大震災復興支援にヤマトが来ていたことがあった。

 ヤマトと優子は被災地で再会したのだった。 

「こんな光景は初めてよ」

「ほんとにすごいですね」

 ヤマトと優子の二人は海岸でドラマティックな景色をながめたが、恐ろしいような、鳥肌の立つ感覚が優子から横井ヤマトに流れ、その感じはやがてヤマトから優子に伝わっていった。

 星と月だけが輝き、人気のない海辺は、限りなく切なく、寂しい。

 波打ち際に映り込む壊れた汽船の影や海に沈みかけて崩壊した家屋が見える。

 精霊様が二人に宿った。

 このときの二人は、地震や津波で亡くなった多くの霊魂に囲まれていた。

「限りない蒼暗(あおぐら)さの中で、月に照らされながら亡くなった方々の気持ちが伝わってくるようだわ。精霊様の動きがあるのは、陸上だけでなく海の下も同じね」

 優子は神秘的なことを言った。

 月光の下に優子の美しい顔かたちが浮かんで妖艶に見える。深い瞳の色は前と変わらずに光を湛(たた)えている。

「冷たい海水にさらされながら瓦礫(がれき)と一緒に沈んだ人たちの霊魂が動いているのかもしれませんね」

 ヤマトが言った。

 潮の音が高鳴り、海の香りが強く漂(ただよ)った。

 亡くなった人たちが眺めた末後の月が、西の空に傾いていくように見える。

 二人とも何かの思いを自覚し、何事かを感じ合う気持ちがひときわ強くなっていた。

 彼らはこういう時間をしばらくの間過ごした。

 やがて、ヤマトは、優子とともに宿舎に帰った。

二人は翌日も港の泥かき、瓦礫の整理を行い、夜は被災住民の経験談を聞いた。

復興支援ツアーが終わり、ボランティアたちは帰路についた。

「被害が大きいため、まだまだこれから支援が必要な地域・場所が数多くあります」

 帰りのバスでは添乗員から、そういう案内があった。

数日後、ヤマトのもとに優子からの手紙が届いた。

「私はあのような時間を過ごしたことはなく、特にヤマトさんと見た海の景色が忘れられません」

そう書いてあり、最後は、何処かで会ってまた話したいものですと結んでいた。

手紙には、優子の印象に残った被災者の短歌が記してあった。


「大津波は 町の全てを 押し流し 我が子の墓も 瓦礫(がれき)となりぬ」

                        宮城県 仙台市 海老塚 忠さん

【詞書き】八年前に新婚の息子が亡くなり、墓地を作った。しかし、そのお墓も津波で流されてしまった。

(東日本大震災プロジェクト「震災を詠む」(2)NHKオンラインより)


ヤマトは、我が子の墓も瓦礫となった被災者の短歌を書いて送ってきた優子の気持ちを想った。

ヤマトは、今度、優子の勤める会社の近くでお会いしましょうと言い、福島在住の詩人和合亮一さんの詩を載せて、私もこのような詩を読みましたと返事を書いた。


「放射能が降っています。静かな 静かな 夜です」

 和合さんは、震災の体験をストレートな言葉で表現した詩をツイッターに発表し、注目を集めました。

哀切極まりない絶望と希望とを描きます。


「宅配便の箱。

 辺りにはカレイや海苔や

 袋に入った小魚が

 転がっている。

 この箱は、永久に届かない」

(和合亮一著「詩の邂逅」)

 

 ヤマトは、確かめい、泣き笑って、また会うことの出来た嬉しさに、再会した学舎で窓をあけようと叫んだ和合さんの詩を優子に見てもらいたかった。優子にその旨を書いてメールで送った。

 優子から、和合亮一さんの詩に感動したという返信があった。

 ヤマトと優子は手紙やメールのやり取りの合間に、優子の会社近くで会い、また下町高校の近くでもデートした。

 二人は更に親しく付き合うようになったのである。



    第六章  益子焼き

 優子は、半年ほど前から週末に栃木県の益子町へ陶芸の絵付け修行に通っていた。

 益子町は江戸時代からの歴史を持つ東日本最大級の陶器産地で、作家の窯や店舗が軒を連ねる。

 彼女は益子の空や雲、多い緑、店舗や民家、それに町の匂いが好きだった。

 この町には日本の都会がとっくに失ってしまった昔風なものや、懐かしい空気があった。 

 優子は益子に来ると、深呼吸をして益子の匂いを吸い込むのが常だった。

 田園、丘陵、木立があり、山、谷、川があった。その中に農家、陶器の工房が点在し、小さな商店街には陶器店が並んでいた。

 町には染物屋、肥料・種屋、饅頭屋、煎餅屋、造り酒屋などが三、四十年前の風情のまま存在していた。

 ここには多くの町で姿を消した古来の建物や珍しい物があった。

 高いビルはなくて、ずっと向こうまで景色が広がっている。火の見櫓(やぐら)や土蔵が残っていて、葡萄園、イチゴ園、リンゴやナシの畑もあった。

 馬も牛も飼われていたし、鳥、リス、狸(たぬき)、野(の)兎(うさぎ)、鬼ヤンマ、赤トンボ、蛙にカブト虫がいた。山には椎、ブナ、樫をはじめモチノキ、山桃が自生し、ムラサキシジミ、モンキアゲハのような珍しい蝶類もいる。

 山は渡り鳥の貴重なルートになっており、川や池には翡翠(かわせみ)や背黒鶺鴒(せきれい)が見られた。

 夏の夜は、田圃や谷間に蛍が飛んでいたし、秋から冬の夜には星座の光が空に満ち、オリオン座の三ツ星などがはっきりと見え、見上げる優子が息を止めるほどの緊張感があった。

 神社、お寺がたくさんあり、閻魔堂や三重塔まであった。

 ・・・かぐや姫がいたって不思議ではないような所だわ。

 山里、谷川の周辺は、優子がそう想うほどの環境だった。

 あちこち林には桃一太郎や花咲じいさんが住んでいるようにも見えた。

 畦道(あぜみち)、小川があり、季節ごとの山野草が花を咲かせていた。

 ・・・この自然を活かして自分の焼き物や絵をデザインしたい。

 それが優子の望みだった。

 益子の祭りには狐、ひょっとこ、おかめが山車と一緒に歩いていた。

 田園の中を蒸気機関車が走り、古い民家や蔵には昔のままの白壁、柱が光っていた。

優子は益子が訴えかけているものを作品に表現したかったのだ。 

 益子に行くと、優子は、指導を受けている陶芸家清水百合子の工房に向かう。

 清水工房は坂道を上った小高い場所にあり、南側には商店街が、北側には田園が見渡せた。

 東日本大震災のとき、ニュースでは被害があまり注目されなかった益子で、町内に約五〇基あるレンガ積みの登り窯が全半壊し、また、膨大な数の陶器作品が割れた。

 益子を拠点として人間国宝となった濱田庄司の収集品を展示する「益子参考館」でも、浜田が使っていた窯が崩れ、数々の貴重な作品が壊れた。

 清水工房も、ゴーッという地鳴りの後に、経験したことのない揺れに襲われた。

 登り窯は崩壊し、倉庫の天井は落ち棚もはずれ、湯呑み茶碗や皿などの作品約五百キロ分が破損した。

 百合子は東京の百貨店で五月に個展を予定していたが、開催を諦めた。

「登り窯を修復できる職人は町内には一人しかいないので、復旧にはかなりの時間がかかるわ」

 百合子はお手上げだった。

 しかし、益子焼協同組合の理事長は「登り窯の九割は損傷したが、修復のための基金があり、ボランティアによる支援も始まりました」と前向きだった。

 自ら被災地でありながら、益子町は東北復興支援を早い段階から行っており、積極的な応援を継続していた。

 食器を被災地へ送ったり、イベント出展で得た義援金の寄付をしたり、さまざまな支援内容であった。

 優子は百合子の手ほどきで作った益子の釉薬を去年から準備しておいた。 

 ツルウメモドキの赤や月と星に使う黄、狐の金色は一度焼成が終わった後上絵に使うが、この色は百合子が世話してくれた薬を使う。

 自然界にヒントを得た絵柄の多い女性作家として活躍している清水百合子は、優子にとってうってつけの指導者だった。

 優子はまず花瓶内部の釉薬付けをした。

 花瓶の口から柄杓(ひしゃく)で白灰の濁色に仕上がる釉薬を注ぎ入れ、花瓶を傾けて手早く回しながら、上下を入れ換えて一気に釉薬を外に吐き出させた。

 それから外側の絵付けに掛かった。空間に、深い紺青色に発色する粉末釉で夜空の色を付け、さらに益子の山と森の影を、薄墨色に色が出るように、単純化して描いた。

 星は橙色の星だけを幾つか散らしただけで、黄、碧の星色は上絵で付けるつもりだ。

 これらの星々を背景に、夜狐が満月を仰いでいる姿を描くが、これは後から上絵で付ける予定だった。狐と満月は凹凸が出るように彫り込みを入れた所だ。

優子は大皿の一つに、渦巻く炎か、海の渦巻きか、そのどちらにも見える模様を浮き彫りにした。これは自分の中に渦巻く命の動きの模様だった。

 渦巻きが激しく動く感じを出すために、カキベラ、カンナを大胆に使って、渦巻き部分の形だけ残してほかの所を削り落とした。

 窯小屋の裸電球と焚き口や色見窓から漏れる炎で、この周辺だけが明るい。

 深夜、火炎が、全ての窓という窓、口という口から噴き出して燃え、後ろの煙突からは煙と一緒に一メートル以上もゴゴッーっという音と共に立ち昇った。

 登り窯は、怒り狂った龍が火を噴いているかのように見えた。

「窯の火炎は、人を日常と違った、何か灼熱の異境といったところに入るような感じにさせるわね。柔らかな土が窯の中で硬く美しい陶器に変化するんですものね。人間が火の神の力を貸してもらって、作品を作り上げるんだわ」

 百合子が言った。 

 優子には、周辺の森や空、太陽や雪の様子まで、今までとは違うものに見えた。自分が空中に入っていって、それらと直に接しているような感じがしたのだ。

「一日中、昼から夜中、朝まで外で時間を過ごすんですものね。何だか生まれ変わった場所に生きているようだわ」

 夜、ずっと火の番をし続けて、その後迎える朝焼けはすがすがしい。

 太陽が山の端に昇るのに先駆けて、東の空の雲が浅漬けの紅生姜のような色になり、空が幾らか紅く染まってくる。

 空気が冷え込んでいて鳥の声は夕方よりも鋭く響く。西空はまだ暗い夜の色で星が光っていた。

 やがて東の森影に掛かる雲がくすんだ茜色に染まってきて、西空は濃いブルーになった。今朝は雲が東側の空半分に掛かっていて、その雲が紅色に染まった。

 間もなく、日の昇る辺りの空間が真っ赤に燃えているような色になったが、山向こうに太陽が顔を出したのだろうか。

「おはよう!」

 思わず、優子はそう言った。

 山の上も森の上も、きのうの夕焼けよりも紅い緋の色だ。周囲の木々の緑が光を受けて薄く輝き始めた。 

 赤松林の木の幹は東側が茶色に輝き、西は影になっている。

 陽光が向かいにある工房の窓ガラスに映ってきて、真紅の色が緋の色に、やがて白銀色に変わった。   

 優子はこの陽(ひ)色(いろ)の変化が窯焚(かまだ)きの炎の変化と同じであることを理解し、その一致に驚いた。

 ・・・昇る太陽と窯の火の燃え具合、光り方が同じ色柄だなんて。窯の中に太陽を呼び込んで焼くということになるのだわ。

 屋外の窯で陶磁器を焼く限り、焼き手は空と星、それに太陽と何日間も一緒に生活することになる。

 優子が突然中国へ行きそうな気配になった。

 優子によると、兄の中国関連の商売で洋装と中国語に堪能な優子に声がかかったのだという。

「どのくらいの間、向こうにいるの」

突然のことに驚いたヤマトが尋ねた。

「中国関連の商売が軌道に乗って、見通しがつくまでということよ」

 優子が応えた。

「数か月なのだろうか」

「数か月か数年になるのか、まだ分からないわ」

 優子も青ざめた顔だった。

数か月後、優子は中国へ旅立ったのだ。

 このようにして、お互いに未練を残しながら、優子とヤマトは遠く別れて暮らす運命となった。

 ヤマトは、寂しく孤独な生活に戻された。

 ヤマトと優子が別れて生活し始めた初め頃は、お互いに連絡も頻繁に行い、必ず再会しようと誓い合っていた。

 しかし、月日が過ぎるにつれ、交信が少なくなって、 やがて、たまに電話が来るという程度になってしまった。

 優子の仕事が忙しいらしく、時には、こちらの連絡にも返事が来ないような状況になった。連絡の無さは人と 人の絆を消滅させる危機を孕む。

 ヤマトの心に冷たい秋風が吹く。



   第七章  奈美

 ところで、横井ヤマトは清水百合子の工房に行き、本焼きを見学したことがある。このときは優子は百合子の手ほどきを受けて陶器の絵付けを学んでおり、中国行きの話は皆無だった。

ヤマトは見学した窯焼き現場の迫力に絶句したものだった。

益子には小さな山がいくつも重なり、美しい里山と田園風景が広がり、そこに陶器の工房が点在し、商店街通りには陶器店が並んでいる。

ある日の夕方のことである。益子の丘陵は昔日からの面影のまま存在している。

 山の沢陰で奈美が考え事をしており、珍しく深刻な表情でいるところにヤマトこと一太郎が通りかかった。 

 奈美は一太郎に顔を見られて驚いた。

 一太郎は走り寄り、

「どうかしましたか」

 と心配声で言った。

 奈美が一太郎を見上げた。

 奈美の潤った目が大きく見開いていた。

 一太郎はこれほど大きな眼差(まなざ)しを見たことはなかった。

 奈美はしゃべろうとしたが、このときはうまく話せなかった。 

 奈美は何かをこらえていた。

 一太郎が思わず奈美の肩に手をやると、奈美は一太郎にそっと寄り添った。

 奈美の呼吸の動きが一太郎に伝わってきた。

 一太郎は目の前の土手に咲いている山百合(やまゆり)を見つめながら、そっと動かずにいた。

 一太郎が奈美を、奈美が一太郎を、お互いに想い合うようになって幾年が経っただろうか。

奈美が益子にいると、工房でも田園でもいつも一太郎と共にいる姿があった。

 周囲の誰もが二人の親しさを認めるようになり、二人を見守っていた。

 一太郎も奈美も、一緒にいると心が満たされることを感じ合うようになっていた。

 一人になるとすぐにまた会いたくなった。

 一太郎は奈美の美しい笑顔を思い出し、奈美は優しい一太郎の面影を追うようになった。

 ある日、一太郎が奈美を追って益子に来ると、奈美はいつもの丘の上で、山麓から登ってくる一太郎の姿を遠くに認めて、手を振りながら山道の端まで迎えに出ていった。

 一太郎は奈美の姿を遠くから見て、やはり手を振り、坂道を駆け上がってきた。

 奈美も道を駆け下った。

 坂道で会った二人はどちらからともなく手を取り、互いに瞳を見つめ合った。

 一太郎は思い出した。

 以前、洞窟で裸の奈美が一太郎に顔を近づけ、じっと一太郎の目をのぞきこんだことがあった。

 奈美の白い肌、大きな瞳が、一太郎の顔にほとんど接するようになった。

 女の顔は一太郎の眼前だ。しばらくして、

「それなら、悪を倒すまで待ってあげる」

 と言った。

 女の息が芳香となって一太郎を襲った。

 一太郎は何を待ってくれるのか意味が解らなかったが、黙っていた。

「そのかわり用事が済んだら必ずここに帰ってくるのよ」

 嫌と言わせぬ力が働いていた。

 一太郎は自分の芯(しん)がクラクラするような目眩(めまい)を覚え、思わずうなずいた。

そういうことがあったと思い出したのである。

 一太郎ことヤマトが奈美との結婚を決意したのはこの時であった。

 さて、優子が中国へ行く前のことであるが、優子はヤマトと『いのち』という絵本を発行することにした。 

 優子が以前から検討していた「里山に住む少女」に関わる絵本だ。

 優子とヤマトは次のような原案を考えた。

 

○ あいしているよ

 LOVE

 

 周囲への思いやり、寛容のこころが大切ということ。一緒に笑い、泣くということ。

 親愛の人々が次々に亡くなったりします。父母兄弟は無論、妻や子を亡くすことだってあります。亡くした人へのLOVEはいっそう鮮明です。


 ○ いきよう

 Life

 心身の健康を保つようにする。

 とりあえずは、生きて、「こんにちは」「いってきます」「おやすみ」等々と挨拶をしよう。


 ○ めざします

 Let‘s aim for・・・。

 仕事で成果をあげるのは相当に困難なことだと思い知りました。目指せない人生も、いや、目指しても行き着かない道があります。


 ○ あそぼう

 Let‘s play。

 友人・知人や親しい人と遊ぶの、楽しみですよね。


 原案作成はここまでで、東日本大震災が起きたため未完成のまま暫く休止とした。

 裕子の変身した奈美と、ヤマトの変身した一太郎は、文字通り連理の枝・比翼の鳥の如く、仲睦(むつ)まじく暮らした。

「連理の枝」は、並んで生えている二本の木が、枝の部分で一つに繋がっているという伝説上の樹木のこと。

 中唐の詩人・白居易の『長恨歌』の中に、玄宗皇帝と楊貴妃が七夕の夜に愛を誓い合ったことばとしてある「天に在りては願わくは比翼の鳥と作り、地に在りては願わくは連理の枝と為らん(天上では二羽一体で飛ぶ比翼の鳥に、地上では二本の枝がくっついた連理の枝になろう)」に基づく。

 

 奈美は一太郎の腕の中

 一太郎は奈美の腕の中

 強い一太郎と可愛い奈美とが一つになって、二人は夢の中

 

 翌年、一太郎と奈美夫婦は一子の小太郎を授かった。

 小太郎を育てるうち、一太郎は生まれて初めて愛の何であるのかを知った。

 自分の命と同じように大切なものがこの世にあると解ったのである。

 奈美と小太郎は一太郎の命そのものとなった。

 そして、大切なものを守るために出発する時が来たと思った。

 その矢先に、魔物・悪霊は、産後間もない奈美の中に巣くったのである。

 ある日、自分の瞳の中に妙な物陰が映ったので、奈美はいぶかしく思った。

 それからしばらく腹痛が続き、漢方の特効薬を飲んだが、痛みが去らない。

 奈美は医者の門をくぐった。

「どうやら腹中に腫瘍があるようだ。しばらくここに通うように」 

 医師は診察後、奈美にそう告げた。

 奈美は治療に専念したが、病状はいっこうにはかばかしくない。

 長引く病を不審に感じた一太郎が医師を訪ねて、病気について聞き出した。

「悪いシコリが身体の奥深くに巣くっている、治療をしてはみるが、おそらく回復不可能だろう」

 と医者は宣告した。

 一太郎は何時になく驚愕した。

 不吉な黒雲の予感。

 一天にわかに掻(か)き曇り、黒雲があっという間に一太郎を台風の中に巻き込んだ。

医者の言葉は、思ったこともない悲しみ、苦しみを一太郎に与えた。

 この時の様子について、後年、一太郎は図書閲覧室で読んだ詩をよく思い出した。

 

  人生行路のなかばごろ

ある暗い森の中にいた

ああ それを語るのは何とつらいことだろうか

未開のひどく荒れた森

思い出しても恐怖がよみがえる

その耐え難さは死にも近い

(ダンテ 神曲)

 

 奈美の中に入った悪塊を駆除するために、医者と一太郎は持てる力を総動員した。

 医者は奈美の腹部を開き患部を切除した。

 医師は何やら皿のようなものをかかえて手術室の入り口に現れて、それをヤマトに見せた。

 切り取ったばかりの奈美の臓器だった。

 胃のすべて・膵臓と脾臓の一部・周りのリンパ節。

 先程まで優子の体の一部だったもので、湯気を立てている肉塊だ。

 その生々しく切ないものから一太郎は目を離せなかった。

 その後、一太郎は自分の健康な精神作用がすっかり衰えてしまった。

 嫌な夢を見る。

 奈美が溶けてなくなる夢だ。

 夜、一太郎は密かに数珠(じゆず)を持って寝るようになった。

 奈美の顔色が青くなり衰弱してきた。

 食べ物を入れると激しい腹痛が起こる。

 吐き気も激しい。

 時々頭痛、腰痛がある。

 時には寝ていられないほどの痛みだ。

 左目の視界半分が暗いという。

 ことに腹部膨張による腹痛、重苦しさが辛いようだ。

 医者は医術のすべてをあげて闘ったが、たちの悪い腫瘍には通用しなかった。

「駆除しても駆除しても、たった一粒残った魔物の種子が増殖してまた悪塊に変化し、身体全体を侵すのです」

 と医師は言った。

 美しい奈美の容貌がやつれて身体中の肉が落ちた。

 乳房は垂れ下がり、おなかと背がくっついて、目だけがキラキラ光るようになってきた。

 あんなに可愛かった奈美の容貌が骸骨のようになり、よそ目にも命短かしと思われる状態になってきた。

 一太郎は自分の日記にわざと嘘を書いて、奈美の見えるところに次のように記して置いておいた。

「悪性のものでなくて一安心だが、手術は大変だと思う。祈る安全」

 このように一太郎は、奈美が万一日記を覗いても大丈夫なように記録したのだ。医者とも相談の結果、この日以降情報に鍵を掛けた訳だ。

「私が飲んでいる薬は悪性腫瘍の薬ではないかしら」

 あるとき、奈美がそう言った。

「どうもそういう節があるわ」

「医者は肝臓の薬種だと言っているじゃないか」

それから幾つかかの会話のあと奈美は

「一太郎の様子を見ていると、どうも私が悪性腫瘍ではないかという節があるわ」

 奈美は自分が悪性癌ではないかと疑っていた。

 そんな心配は全然ないのに。

「少し長く掛かりますが、悪性の腫れ物ではありませんので気長に療養する必要がありますね」

 医師は私にそう言っている。

「何しろ胃の全摘出ですからね」

 と医師は言っていた。

 山の仙術師でも胃癌の治療には何年も掛かっているのだから、気長に構えたい。

 書いておいたメモは以上だ。

 奈美は必死で、しかし静かに病気と戦っていた。

 彼女は愚痴が少なく、自分にできる事は懸命にやる人だった。

 普段から潔く、そして努力を惜しまない性格だった。

 ただ、大きな瞳が下を向いて考え事をしているような時が多くなった。

 病魔は確実に進行し、奈美の奥に深く食い入った。

 胃にできた進行性の悪性腫瘍が全身に転移したということであった。

 癌の終末期、癌患者の多くが苦痛・吐き気・呼吸困難を訴え、家族に欝症状が出ることも多いという調査があるが、奈美は非常な痛みと吐き気で苦しみ、それに接している一太郎も気が狂いそうな混乱に陥った。

 それから数か月後、雪が横振りに激しく降る日に、奈美の呼吸が止まった。

 彼女は、息を引き取る間際に一太郎を見つめ、

「小太郎を頼みます」

 と、苦しい息のなかで言い、一太郎と小太郎の手を握ったまま死んだ。

 彼女の手はまだ温かかったが、通夜を迎えたときや葬儀場に行く時に、小太郎がそっと触った母の手はもう冷たくなっていて、その都度小太郎はたじろいだ。

 死に化粧をした母の美しい表情を小太郎は今でも覚えている。

 奈美を失った一太郎の悲しみ、苦痛は筆舌に尽くせないものであった。

 一太郎は様々なシーンの夢を毎夜のように見た。

 ゆうべは奈美のにこやかな表情だった。

その姿になまなましい現実感がある。

 一太郎は夢の中で、「これでいい」

 夢が覚めて、「このままでいく」

 と言っている。

夢をそのまま、現(うつつ)もそのまま、

 悲しさも苦しさも

そのままでいこう、ということ。

「奈美が私や小太郎にかけた思い。

 奈美がかけられた思い。

これは実在する。

これを生かす」

 一太郎はそういうことを思った。

 奈美の腹中に悪質な腫瘍が宿った件は、現実に起きた出来事だ。

 このため奈美こと優子は、若くして夫のヤマトと我が子に「さようなら」をしたのである。



    第八章 ヤマトの夢 

 この頃、横井ヤマトはよく夢を見る。

 ある日、優子(こずえ)が自分の好きだったイタリアのベニスにある溜息(ためいき)橋(ばし)の話をしている夢を見た。


「ベニスの溜息橋は私に強烈な印象を残しました。

 この橋は十六世紀に架けられた格子窓付きの部屋のような橋で、左手のドゥカーレ宮殿の尋問室と右手にある古い牢獄を結んでいます。私もこの窓から外の景色を眺めました。

 溜息橋からの光景は囚人が投獄される前に見る最後の景色だったといいます。溜息橋という名前は、厳しい取り調べを受けた後、美しい風景を見られるのは最後であるというので、囚人が溜息を吐くことから名づけられたのだそうです。

 死刑執行の柱もこの近くにあります。牢獄も死刑執行の場所も公開されており、私は宮殿から溜息橋を渡って近辺を見学したのですが、この橋からながめた末後の海は忘れません。一太郎さんと見た被災後の気仙沼の海と同じ、蒼黒い色でしたわ。この光景は、ベニスの富と権力を象徴するドゥカーレ宮殿の豪華さ華麗さと隣接する、恐ろしい景色だけに身の毛がよだちます」

 

 また、こんな夢も見た。やはり、夢の中で優子が話していた。

「フランスのゴシック美術の傑作、世界遺産ブールジェ大聖堂を見学したときのこと。上階の華やかなブルーのステンドグラスやゴシックドームと、地下の霊安室の明暗対比が鮮やかすぎるのです。霊安室には歴代司教のお墓や手首の骨、聖人遺体レプリカ、釜茹でにされた人々の彫刻があり、ひんやりした冷たい空気の漂う齋室の暗さが、私には不気味でした」


優子は美術の勉強のためヨーロッパへ行きたがっており、ベニスやゴシック美術、大聖堂のことをよく話していた。

 ベニスの溜息橋やブールジェ大聖堂のブルーステンドグラスのことは特に関心を持っていた。

 ある夜は、優子が顔にひどい痣(あざ)をつけたまま生きて帰ってきた夢だった。

 皆がうれしくて泣いていた。

 小太郎は笑っていた。

 優子は笑い、泣いていた。

 優子は密かにヤマトの手をなでた。

 目覚めたヤマトは自分の手をなで、日を追うごとに強くなる苦痛を感じた。

 優子が亡くなって一年以上経ってからも、ヤマトは夜毎夢を見て、寝汗で下着も寝巻きもぐっしょりと濡れ。言うに言えない胸苦しさが襲ってくる。

 これは何だろう。

 よく見ると、それは取り返しのつかない寂しさ、孤独だと分かった。

 それでも、一日の終わりには疲れと眠気が一太郎を眠りにつかせてくれる。

 魂が帰ってきたのか。

 悩みの深い日々であっても眠らせてくれる。

 自然の眠りはヤマトをよみがえさせるようだ。

 小太郎が、眠り、目覚めて頭や体を動かし、食べ、疲れて眠り、また翌日へと命をつないでいくように、一太郎も小太郎と同じように自然が命を運んでいる気がする。

 ある日、ヤマトは小太郎を連れて信州の霧ケ峰に登った。以前よく登った山だ。

 霧ケ峰からは八ヶ岳や南アルプス、中央アルプスが見渡せた。

 その雄大な光景に小太郎は歓声をあげた。

 ヤマトは小太郎の歓声を久しぶりで聞いた気がした。

 宿で作ってもらったおにぎりのお弁当を美味しく食べ、そよ風に吹かれながら八島湿原を歩いて渡った。

 帰りに諏訪の温泉に立ち寄った。

 諏訪湖周辺の温泉は歴史のある温泉郷で、街の共同浴場も一太郎には懐かしかった。

 この頃、ヤマトは寂しさの底から次のごとき決意に至り、こころに「魂を入れる」決心をする。 

「体を動かし、仕事にしっかり取り組むこととする」  

 正月、初詣に行ったヤマトは神社の社務所でお守り、破魔矢を買ったり、絵馬に願い事や目標を書いたりして、今年一年が良い年であるよう祈った。

 神社広場の大鍋で沸かしていた温かい甘酒を子供と一緒に頂いてきた。

 この正月、ヤマトが久しぶりに夢に見た父は、作務衣姿で蹴ロクロを回しており、傍らで、やはり作務衣を着て姉さんかぶりをした母が素焼きの茶碗に釉薬(ゆうやく)を掛けていた。

 作業小屋の向こう側には弟子の職人たち五、六人と姉が粘土を菊練りしたり、タタラ板や刷毛を洗ったりしていた。

 ヤマトがこの家族の中で元気に生きているという夢だった。

 優子は益子焼の師匠清水百合子の手ほどきで作った釉薬を準備して、ツルウメモドキの赤や月と星に使う黄を塗り、狐の金色は一度焼成が終わった後、上絵に使った。

 自然界にヒントを得た絵柄の多い女性作家として活躍している清水百合子は、優子にとってうってつけの指導者だった。

 この頃、ヤマトは魂の窓をすこしずつ開けるようになった。

 ヤマトは春から朝夕の祈りを行うことにした。朝に礼拝、夕べに感謝というのが目標となった。書斎に安置したまま放っておいた観世音菩薩の塵を払って、祈りを捧げることにした。

 ヤマトは事態の厳しさ悲惨さから、「神仏などいるものか」とすら思った時期がある。

しかし、「気がつけばこの私にも菩薩様」というカレンダー標語が街のお店に貼ってあり、ヤマトの気に留まった。

「阿弥陀、菩薩は自然のことです。貴方にも既に阿弥陀様が来ておられるのではないでしょうか。よく見詰めてください」

 そのような脇の解説が目に入った。自然

「その通りかもしれない。私も子供もこうして生きてがんばろうとしている」

 そう思った。

 桜の咲き始めた頃、ヤマトは、以前から行っていた剣道の練習を再開した。

嘗てヤマトは剣道を習慣にし、鍛錬していた経験があったが、混乱した生活にとりまぎれてやめていた。

 最近、閉じこもった生活に息がつまり、久しぶりで運動したところ、気分も体調も改善した。剣道を続けようと思った。

 衣替えの季節になった。ヤマトは冬物をしまうついでに不要になった家族の衣類や小物等を整理し、古くなった物は捨てた。

 ヤマトは古い書籍、不要な荷物や優子の持ち物も整理した。

 この作業をしながら、「過去の記憶を整理」し、新しい気持ちで出発したいと思った。

 ヤマトは、この数年、いつの間にか心に鍵をかけて暮らすような生活状態になっていたのではないか、という思いがしていた。

 最近では以前からの付き合いが徐々に復活し、加えて新たな交際も生まれた。それにつれ、寂しさもいくらかは薄らいでいくように感じた。

ヤマトの表情が開いてきたのを見て、友人、知人や、元の職場の同僚から声がかかるようになった。

「奥さんの一周忌には連絡してください。お線香をあげたいので」

「小太郎さんのお世話をしながらの生活は大変でしょうね。今度、知り合いでハイキングに行きますが、一緒に行きませんか」

「小太郎君と同級生の父兄です。今度ご一緒に夕食など如何ですか」

 ・・・・ 自分たちを心配して、応援してくれる人たちがいる!

 と、ヤマトは思った

 ・・・・ 自分が元気にしていると、喜んでくれる人たちがいる。ありがたいことだ。

 と感じた。

「お父さん、お風呂を沸かそうか。お風呂の掃除は済んだのかな」

 小学生の小太郎がそんなことを言うようになった。

 つつじの季節を迎える頃、冷たいと感じていた寝床の、ほんのりとした温かさが肌に伝わってくるようになった。

 ヤマトは、親子・親戚や友人・近隣や知人の中で暮らす自分を、もっと生かすように考えたい、もっと強くなって前に進みたいと思った。

ヤマトは小太郎が遠足に持っていくお弁当を作るとき、優子が言っていたことを思い出す。

「冬中はお父さんがんばってね。春になったら、前のように私がやるからね。お弁当も作ってあげるね」

 ・・・・ がんばらなければいけないな。

 人々の援助や声援のなか、自分と優子の願い・そして優子の死や無念・小太郎の悲しみ・希望、それら全部を心に刻んで、しっかりと生きていこうとヤマトは思った。

 ヤマトは優子の新盆(にいぼん)に小太郎を連れて彼女の実家がある福島県山間の町に行き、墓参をしてお寺で法要を行った。

 実家のお墓は、地域の人口が減り寺に住職のいなくなった所だったが、頼んでお坊さんに来てもらった。

 実家周辺の村々には「墓じまい」といって、墓を他へ移したり墓を終(しま)わったりする家も多くなっていた。

 きっぱりと移住し「墓じまい」を行って故郷と縁を切る家は別にして、古里と縁を維持し、金銭をさほどかけずに墓のメンテナンスを行う家もある。業者等に依頼してお墓の除草や清掃等を行い、墓地をきちんと維持するというわけだ。

 今は様々な業者がお墓対策を行っている。「墓じまい」には莫大な費用がかかるうえ、故郷と縁を切ることになるから、この方法は賢いと言えるかもしれない。

 ヤマトらは町の精霊祭り・夏祭りに加わった。

 東日本大震災によって多くの町が被災し、ずっと続いてきた夏祭りが開催できないという地域もあったが、優子の故郷は「震災で亡くなった家族や友人の霊を弔いたい」「祭りを通してもう一度地域の絆を取り戻したい」と、祭り開催に踏み切ったのだという。

「鎮魂・復興・希望」というテーマのもと、亡き人の鎮魂と町の復興を祈るという夏祭りだった。

「大きくなったなあ」

優子の両親は小太郎を見て涙を流して喜んだ。親戚の人たちもやってきた。

 灯篭(とうろう)流しや花火大会が小規模ながら行われ、山車が練り歩き屋台も出た。

 家の軒先には盆提灯や祭りの行灯(あんどん)が下げてあり、夏祭りの雰囲気を出している。

 犠牲者を慰霊するため太鼓と鉦(かね)が打ち鳴らされ、鎮魂の気持ちと将来への希望を託す、そういう音や動きが展開された。

「にぎやかだね」 

 小太郎はそう言い、地元の人たちの中に入って太鼓、鉦をたたかせてもらっていた。

 その音を聞くヤマトの胸にも優子の鎮魂を祈り、将来へ進む思いが湧いてきた。

 地元住民の祭りにかける気持ちは、例年とは比べものにならないほど強く、さまざまな思いが込められたものだった。

 福島から帰京後、ヤマトは、未完成のままになっていた絵本、優子との共著『いのち』 の原案に手を加えた。


 ○ あいしているよ

 Love

 ○ いきよう

 Life

 ○ めざします

 Let's aim for・・・。

 ○ あそぼう

 Let's  play。


 原案はここまでで中断していたのだが、次の項目を本の先頭に付け加えた。

 ◎ いのります

 We play  to・・・。

そして、最後のページを次のようにしめくくった。

 ◎ いっしょだね

 Always with you

 亡くなった人も生きている人も、都会も地方もつながりあおう。人間をはじめ動物、植物も生きとし生けるもの同士、一緒に生きよう。

 

 ヤマトは、この原稿を基(もと)に絵本『いのち』を出版した(東京・千代田区 郁朋社)。

 一か月後、なんと、『いのち』は日本図書館協会選定図書に選定された。

 この本について、ヤマトの地元新聞が書評を掲載した。以下、記事の全文である。


大型絵本で命の愛しさ描く

エッセイ、小説と相次いで出版しているヤマトこと白洲一歩氏が、今度は絵本作家の根本比奈子氏と組んで、A4判という大型の絵本『いのち』を郁朋社から上梓(じようし)した。

 白洲氏が書いた六つのシンプルな表題に、根本氏が絵を描き、表題には英語も記されている。

 見開き二頁ごとに配された絵はメルヘン調ながらダイナミックで、「いのります」(We pray to・・・)、「あいしているよ」(Love)、「いきよう」(Life)、「めざします」(Let's aim for・・・)、「あそぼう」(Let's play)、「いっしょだね」(Always with you)の、六枚構成で、計十六頁。

 人間をはじめ動物、植物など生きとし生けるものの原点である愛とか幸せ、共存の讃歌が描かれ、それに太陽や月の輝きが添えられている。

 そんな中で「めざします」が太陽に吸収されるが如く描かれているが、たじろぐ人の姿もある。「いっしょだね」は曼荼羅(まんだら)調だ。

 そうした生の営みが未来永劫、平穏に続くようにと巻頭にあるのが「いのります」で、祈る人たちの姿は「厳粛」というより「ひたすら愛しい」。

 白洲、根本両氏の感性が投合した「命」への希求がこの絵に凝縮されており、胸を揺さぶる。(相模経済新聞)

 



  現代編                       

    第一章 現代のヤマト、学びの時代 

 横井ヤマトは幼稚園以来の友達を、この上なく親しい人々としてずっと忘れない。

ヤマトが通った幼稚園には周囲に桜の木があった。

 木の周りで学芸会の練習やクラス会がしばしば行われた。

 担任の小嶋先生は、こういう広々した場所が好きなのだ。

 友達と先生の息吹(いぶき)は、今でもヤマトらの心に残っている。

今日は、ヤマトと友達のことを書こう。

友人の中に、後に有名になった者が三人いる。

まず、科学者となって感染症予防に貢献した志倉ユウジのことだ。

彼の父親は周辺の世話役で、周囲を飛び回って簡易水道を引くなどの仕事もした。

母親は幼稚園の先生をしていた。 

忙しい両親に代わり、同居していた父方の祖母が孫の面倒を見ていたが、祖母はよく勉強していて記憶力もよかったという。

ユウジの考え方や行動は祖母の影響を強く受け、なかでも、「情けは人のためならず。めぐり巡りて己がため」という考え方が、一番大切なのだと教えられたそうだ。

後、ユウジは地元の地味な高校から地元の大学に進学し、やがて学者となった。

 ユウジは微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を四十五年以上行い、これまでに類のない480種を超える新規化合物を発見し、それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。(この項ウキペディア参照)

「コツコツと積み上げて最後まで諦めずに貫き通した」、その経過について今回は割愛するが、ヤマトはユウジから地道な努力の凄さを学んだ。

ヤマトは病気で二ヶ月間入院したことがある。

肺結核という診断で、注射・薬 ・絶対安静の療養生活だった。気胸を併用し治療は退院後も続いた。

気胸は気胸療法の略語で、胸膜腔に空気を送り込んで結核に冒(おか)され肺を押し縮め、結核の治癒を促す療法だ。

週に一度気胸をする時は学校を早退した。

長年、療養と治療が行われたが、ヤマトは苦しいとき、ユウジの弛(たゆ)まぬ努力を、彼のソバカスだらけの顔とともに思い出し、自分も頑張るように自らを励ました。

 ユウジの日常の特徴として運の良さと、毎日の【plan・do・see】という努力の積み重ねが目に付く、と言えるかもしれない。

 ユウジの家は耕作や家畜の世話などの家業に従事していたため学校の勉強はあまりしていなかったが、農作業の勉強等自分流の努力は常に行っていて、ヤマトは、その感化を受けた。勉強の概念を広く捉(とら)えるようになったのだ。

 ヤマトたちはサイレンの警報で敵機来襲を知り、家の横にある防空壕に逃げ込む日が度重なるようになった。

 ヤマトは穴蔵の暗闇に肩を寄せ合う隣人たちやローソクの明かりをぼんやりと覚えている。

 ヤマトには苦難に満ちた戦時中の生活はほとんど記憶にないが、ヤマトの母が書いた記録で鮮烈なメモが残っているので、一部を紹介しよう。


「私たち家族にとって昭和とは、どうやら【落日の時代】だったような気がいたします。

 戦争の進行と敗戦とともに、家運も国も傾き、家族や隣人たちが不幸になっていったからです。

 この時代、特に戦争が終わるまでは次々に連続する不幸な出来事を受け取って、そのままやっと息をして、また翌日を迎えて老いていく、そういう生活しかありませんでした。

 ですが、長男の病気が回復してきたことや、紀子さんとの縁が戻ったことなど、希望が見えてきたことが何よりの喜びです。

 希望の光を点(とも)し続けて、日が高く昇る時を迎えたいものです。

 昭和前半の連続した不幸は、私たち家族だけの特殊な運命だったのか、それとも日本の多くの家族に共通の出来事だったのか、今、還暦を迎えた私は過ぎ去った時代と家族を見つめています。

 家族や家業のこと、この町のこと、戦争と敗戦、経済成長など、なんと様々なことがあったことでしょう。

昭和の数十年が過ぎ去っていきました。今後の時代はどのようになっていくことでしょう。

私たちの希望は過去の反省から汲み取れることを信じ、我が家族の昭和を記録に残します。

この記録に協力してくれた人たちの多くは記録が仕上がる前に亡くなってしまいました。ですから、これは私が、この人たちに捧げる鎮魂歌でもあります」

 

 昭和前半の連続した不幸、と母が書いたのは、まず知人の兵士和知(わち)さんが経験した不幸である。

 和知さんは、水も飲めず飢えに苦しむ状態の中で頭が朦朧とした極限体験のなかで異様な精神状態に陥るという状況を書いている。


 ●ヤモリ、トカゲ、コウモリ、イボガエル、モグラ、ゲンゴロウ、トンボなどの昆虫類を食べました。

 私は道々で死んでいる日本兵や白骨化した兵を見ましたが、恐ろしいことに、このような光景に徐々に慣れてきたのでした!

 ここで「私」というのは、知人の和知(わち)さんのことです。

 私は何か叫んだり、そこにある物に食いついたりしました。

 やがて木々を嘗め、地上を転げ回り始めたようなのです。

 また、私は何かを振り払うような奇妙な動作をし、何事かを訴えるような異様な踊りをするようになりました。

 私はボーフラの湧いている水溜まりの水を飲み、涼しい熱帯樹の影で休憩しました。

 ある日、私は空中に、故郷の山河や恋しい人の顔を見て、声を立てました。

「あれ、観音様・仏様。何じゃのお呼び。@*$#・・・天皇陛下様・神様・・・・」

 私は言葉をしゃべるのですが、何だか分からない内容でした。

 異常体験の連続で私は奇妙な言葉を発し、異様な夢を見ました。

 自ら命を絶った同僚が奇怪な怪獣と化し罰として炎熱の海に漬けられる、また、私が友軍とともに岩穴に入れられて炎に包まれ体を焼かれ内臓を露出する、こんな夢を見て汗びっしょりになって目覚めるのです。

 この頃の状態について詳しいことは覚えていません。目覚めると、ほとんど水分のない痩せ衰えた身体から、汗が滴り落ちるほど出ていました。

 

 この辺で抄録を終わるが、和知さんの驚くべき運命は、このあと米軍の捕虜となり、極限状況を脱して日本へ帰還することになるのである。

 和知さんの生命力は、ヤモリやトカゲ・白骨化した日本兵・ボーフラの湧いている水溜まり・青鼠(あおねずみ)・黄百足(むかで)・観音様・天皇陛下様等々の中から、やっと生き延びてきた。

 母は次に、自分たちの生活を襲った不幸つまり食糧難や米軍の爆撃を綴っている。以下、その抄録である。


 ●銃後の生活を襲った不幸。統制された生活の不自由さ。なかでも食糧難はひどいのもでした。

 ネズミまでが食糧になったことをご存知ですか。

 日本国民の食糧不足は、ドイツ・ヒトラーが集団収容所の拘禁者に与えた食糧の量とほとんど変わらない、相当にひどいものであったようです。こういうことはしっかり書いておかないと後に残りませんね。

「頭の悪い指導者の中には、自分は上等の飯を食いながら、『前線では兵士が蝸牛(かたつむり)を食っている、銃後もよろしく蝸牛を食え』と言いかねない馬鹿があるから情けない」

 と、俳優の徳川無声さんが日記に書いたのは、昭和十九年七月十日です。 歴史家は次のように記しています。

「国民の多数が飢えに苦しんでいるのをしりめに、高級軍人・高級官僚・軍需工業経営者等の一部特権層は、「顔」の力で特別の闇ルートを持ち、連日のように赤坂・新橋等の花柳界で酒色にふけり、その家庭には一般国民の手にできない物資が山積するという状況を呈していた」(※注)。

※注 『太平洋戦争』家永三郎

 ●さて、不幸という表現についてだが、当時の昭和天皇が使う「不幸」の例を挙げてみよう。次の如し。

 終戦後、昭和天皇が訪米したことがあるが、帰国後記者会見で記者からこういう質問が飛び出す。

「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、お伺いいたします」

 昭和天皇はそれに対してこう答えた。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりませんから、そういう問題についてはおこたえができかねます」

 広島、長崎への原爆投下についても聞かれて、

「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」

 これらの天皇発言は恐ろしく評判が悪い。ハーバート・ビックス(※注)も「統治下の出来事に対してまったく責任のない傍観者のような昭和天皇の言い逃れは、多くの日本人にとってあまりにも非情であった」と評しています。この言葉には確かに「しかたなかった」という意味合いがある 。

 ※注 ハーバート・ビックス アメリカの歴史学者。ニューヨーク州立大学ビンハントン校教授。『昭和天皇』(講談社学術文庫)でピューリッツァー賞を受賞。

 平成天皇については、昭和天皇の言動を踏まえ、昭和の清算としての追悼・慰霊、そして象徴天皇制の確立というキーワード三点で語ることができると歴史家が言っている(※注)が、これは妥当な見方だろう。

 たとえば、「天皇は昭和の戦争を、皇后と共に追悼と慰霊という形で歴史的な決着をつけつつ、そのことを踏まえて国民と共に歩む象徴天皇制をお二人で創造していった」という言い方ができるという。(昭和の清算の傍点は白洲一歩)

※注 保阪正康(毎日新聞二〇一七年十二月九日)


平成天皇=明仁天皇は平成元年(一九八九年)一月九日、即位後の朝見の儀で、「ここに 皇位を継承するに当たり、(略)みなさんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓いますと宣言されてい ます。

 それは右の言葉にも あるとおり、「平和と民主主義を大切にする現在の日本国憲法を、自分は徹底して守っていくのだという強い決意の表明でした。ここ が 明仁天皇と昭和天皇の最大のちがいであり、最終的に明仁天皇がたどりついた、 新しい時代の天皇制の立脚点だといえるでしょう。(「天皇メッセージ」矢部宏治・須田慎一太郎 株式会社小学館)

 

 この指摘は昭和天皇と平成天皇を分けるものとして、非常に重要な指摘である。平成天皇は、戦争と平和について昭和天皇が使ったような、曖昧模糊とした表現は使っていないのである。

 

 さて、ヤマトは小学校入学前、さまざまな出来事や当時の流行歌をラジオ放送で聞いていた。

 一九四五年(昭和二十年)年には日本は無条件降伏し、一九四六年は吉田内閣が発足し、新憲法公布が行われた。

 しかし、ヤマトには、これらの意味や意義は分からなった。

 流行歌 並木路子「りんごの唄」がはやった。日本の戦後のヒット曲第一号となった歌で、敗戦直後の日本人の心に“希望の風”を運んだ奇蹟の歌と言われた。

 ヤマトは小学生時代、遊びに明け暮れた。 

 ヤマトはユウジら近所の子供と夢中であそんだ。メンコ、ビー玉、紙飛行機、竹スキー、独楽、カルタ、スゴロク、たこ揚げ・・・

 遊び場は神社や町役場周辺のほか、道路や路地が多く、川や山にも行った。

 今のように、子供の誘拐や殺人事件はめったにないから、自由自在に遊び回っていた。山には、家の釜戸に使う焚き付けの枯れ松葉を拾いに出かけた。

 古い芝居小屋があり、どさ周りの芝居やターザンの映画をよく見に行った。

 ノミ、シラミの退治のため、学校でDDTを身体中に散布された。

 小嶋先生 が「鐘の鳴る丘」や「みかんの花咲く丘」など唱歌を教えてくれて皆で歌った。

「みかんの花咲く丘」は、第二次世界大戦の終戦直後に生まれた、日本を代表する童謡の名作で、作詞家の加藤省吾が伊東行きの列車に乗り、列車の中で作曲を始めたという。

 車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近で前奏が浮かび、伊東線の宇佐美駅付近でようやく曲が完成したといわれ、美しい歌謡である。

 日本の首相はずっと吉田茂で、米大統領はトルーマンだった。

 ヤマトが小学校三年生の時に東京裁判の判決があり、五年生で朝鮮戦争が勃発しているが、ヤマトの記憶にない。

 一九五二(昭和二十七)年ラジオドラマの「君の名は」が大人気で、この年砂糖の統制が十三年ぶりに撤廃され、甘い物が出回るようになった。

 キャラメルの好きなヤマトは近所の菓子屋に頻繁に通ってキャラメルを買い食いしていた。

一九五二年(昭和二七年)、ヤマトは中学生となった。

 中学校の赤松という校長先生が朝礼の度に「自主性」の大切さを話したので、ヤマトた

ちの頭にはその言葉がこびついてしまった。

 中学の先生方にも戦後の「民主教育」が定着してきたのだろう。

 教室ではグループ学習や発表会が盛んに行われた。

 友人のユウジ君は「校長先生自ら教えてくれた。本当に平和な国になるのだと実感した」

 Mさんは「自主性とか戦争放棄という漢字を覚えた」と言った。

 専門家が言っている。

「短い間に進む方向が出そろった。戦前の教育勅語では『朕(ちん)思うに』と天皇が国民に命令するの対し、戦後の教育基本法では『我等は』という書き出しに。つまり今後は、国民が教育をつくっていくということ。こういうことを受けて新しい教育が動き始めた」

 なるほどー、中学校の赤松校長先生は戦後の教育基本法で言う『我等は』の大切さを教えようとしていたのだと理解できる。

 ヤマトが中学生活を送ったのは、首相が吉田茂から鳩山一郎に変わるころで、世の中に電気洗濯機など「三種の神器」ブームが起きていたが、家では洗濯は「たらい」で行い、そうじ道具は箒(ほうき)だった。家に掃除機や冷蔵庫が入ったのはずっと後だった。

 ヤマト十二歳。日本の首相が鳩山一郎、電気洗濯機がブームとなったころで、流行歌は「別れの一本杉」(春日八郎)、「この世の花」(島倉千代子)がトップを争った。

 日本は当時経済苦境期を脱出しておらず、一万円札の発行や東京タワー完工等が行われ高度経済成長期が始まるまで、まだ六、七年ある時代だったが、世の中になんとなく活気がある感じがした。

ヤマトは進学先を考えるにあたり自分の目標を自覚して、自制すること・学習意欲を維持することなど、自分をコントロールする力が働くようになっていた。

自然に備わっている能力(命への本能的意志)に加え、経験し学んで獲得する力を身につけ始めたということだ。

 本能的意志だけでは認知機能が働かない。経験や学習の大切さを学ぶ機会が増えて、物事を認識し判断し、認知機能が向上する。

さて、同級生の中に漫画を描くことが大好きな佐藤アツシという少年がいた。

 彼の個性的な生き方を紹介したい。

アツシはヤマトらと同じ道を仲良く通園していた。

幼稚園の裏手に通じるその道を三年間通った。

アツシは開放的な家庭に育ち、漫画とアニメーションに親しむ、想像力豊かな少年だった。

アツシの家の広い庭は昆虫の宝庫であり、昆虫採集には最適の環境だった。

彼はアツシら友達に庭や昆虫を開放してくれたので、皆が昆虫採集に熱中した。

アツシが九歳の時、日中戦争が始まり十三歳で太平洋戦争の開戦を経験した。少年兵に志願させられたが、近眼のため失格した。

アツシ少年は「特殊訓練場」に入れられ、終日軍事訓練をした。

訓練場で栄養失調とストレス、水虫に悩んで病気になり両足切断寸前まで進行した。

終戦直前、アツシは大阪大空襲に遭って命の危険にさらされたが、潜り抜けて漫画を描くことに精進し、地域新聞の漫画特別賞を獲得した。

さらに、アツシ作の『鉄腕アトム』が日本初の連続テレビアニメ番組として放送を開始した。

 この放送の視聴率は三十%を超える人気を博し、また、世界中で放映された。(『鉄腕アトム』の項目はウキペディア参照)

 ヤマトは、アツシから好きなことを自由に学ぶこと、苦労を克服すること、友を大切にすることを教わった。

三人目の友人だが、ヤマトが中学に進んでから、裕子という女子生徒が北海道から同じクラスに転校してきた。

 夕張の鉱山が閉じて父親が職を失ったため、夕張を出て親戚のある当地、山梨(母方の祖母のいる所)に来たのだという。

 裕子は非常に可愛い顔立ちで皆から好かれた。

 ヤマトは彼女を見ると胸の高鳴りを覚えるようになり、恋をしたのである。裕子はヤマトの初恋の人となった。

彼女は学業成績優秀だったが、実技にも優れていて中でも音楽と縫い物が得意だった。

裕子は学校の演劇祭の時に自分や仲間の衣類を作った。また、周囲の荷物を整理するのが好きだった。

彼女はシャツやベストも自分で作った 。

「身の回りがいつもきれいだね」

 ヤマトが褒めると

「祖母や母は家で暮らすことが多いので、家の中をきちんとしておく癖があってね、私に様々なことを」

裕子はそう説明した。

 祖母の家は茅葺(かやぶき)屋根の農家で、築二百年以上といわれている建物だ。

 その家に行ったときの様子を書いてみよう。

 戸を開けると十坪以上もある広い土間、奥には囲炉裏がある。

 左手は釜戸や五右衛門風呂があり、右手に広い座敷、座敷の奥には寝間と仏間がある。ヤマトらの家とは趣が全く違う家の造りだった。

 校長先生が朝礼の度に「自主性」の大切さを話したこと、中学の先生方にも戦後の「民主教育」が定着してきたこと、教室ではグループ学習や発表会が盛んに行われたこと、Mさんが「自主性とか戦争放棄という漢字を覚えた」こと等は前述した。

 つまり、日本の民主主義教育が、ヤマトや裕子らを対象に初めて行われたという記述だ。

映画「原爆の子」(監督新藤兼人)、「山びこ学校」(今井正監督)が上映された。また、野間宏の『真空地帯』、大岡昇平の『野火』がベストセラーになった。

これらの風潮とは逆に、ヤマトが入学した高校ではバンカラで「右寄り」の教育が行われていた。裕子は別野高校へ入った。

 バンカラとは、ハイカラ(西洋風の身なりや生活様式)をもじった語で、明治期に、粗野や野蛮をハイカラに対するアンチテーゼとして創出されたもの。一般的には言動などが荒々しいさま、またあえてそのように振る舞う人をいう。(『ウィキペディア参照)

ヤマト通学時の服装は、坊主刈りに下駄履きで白線の入った学帽をかぶり、腰に手拭いを下げるという旧制高校風のスタイルだった。

 校歌の三番は次のようなものだ。


 三 質実剛毅の魂を

  染めたる旗を打ち振りて

  天皇の勅もち

  勲立てむ時ぞ今


「天皇の勅もち」は「すめらみことのみこともち」と読み、教育勅語を奉戴するという意味である。

「勲立てむ時ぞ今」は、「いさおしたてむときぞいま」と読み、手柄を立てるときは今だと言っている。まさに天皇制や臣民の心得を強調し、軍国主義を鼓吹する校歌であるが、ヤマトらはその意識もなくただ歌っていた。

高校の環境は抜群だった。笛吹川には清流が流れ、ブドウ畑には果実がたわわに実っていた。北の空に山々の峰が見えた。

“青空に峰を分かつや大菩薩の雪”

 これはヤマトが国語の時間に作った俳句だ。

 学校行事で一二六キロマラソンがあった。高校から東京・京王線の明大前(女子は淺川、現高尾駅)までを、一昼夜で歩き、走るのである。運動靴はまだ普及しておらず、わらじ履きで甲州街道を走り、笹子峠と小仏峠の2峠を越えて歩いた。

 当時の流行語は「一億総白痴化」「太陽族」、流行歌は「哀愁列車」(三橋美智也)「有楽町で会いましょう」(フランク永井)。首相は石橋湛山、岸信介。米大統領はアイゼンハワーだった。

 米国が初の人工衛星の打ち上げに成功し、フルシチョフがソ連首相に就任した。赤線廃止 し、一万円札が新しく登場した。

 ヤマトは祖父とワイン資料館を見に行ったことがあった。

 一九〇四年(明治三十七)に建てられたという蔵造りの日本最古の醸造所を、メルシャン勝沼ワイナリーが資料館にしたものだ。

 明治初期、勝沼に初めてワイン作りを広めた高野と土屋の書簡、日誌を始め、日本のワインの歴史資料や従来の道具などを展示している。

 ワイン生産の状況を知る貴重な機械や日本最古のワインも展示してあり、現在も貯蔵庫を兼ねる樽には熟成中のワインが眠っていた。

 ワイン資料館の裏手に「見本ぶどう園」があり、本場フランス・ボルドーなどと同じ仕立ての畑にしている場所も見学した。

 ぶどう棚は見事な生育ぶりで、大きな粒の果実がたわわに実っていた。

 ここで栽培するぶどうの品種は約十四品種におよぶという。

「貴腐ワインのことですがね、日本では研究の歴史が浅く、未だに作られておりません。私がフランスで見学したときは、腐敗したように見える外見からは想像できないような、芳香と風味を持ったワインが醸造されていました。勝沼でも近々作る日がくるでしょうね」

 係員はそう話した。

 貴腐とは、白ワイン用のぶどうについたボトリティス・シネレア菌が、ぶどうの果実に侵入し、 水分を蒸発させることで、ぶどうの糖度が高まる現象のことである。

 このぶどうによってつくられたワインが貴腐ワインと呼ばれる高級なの白ワインで、主にデザートワインとして飲まれる。

「ほほー」

 と祖父は言った。

「貴腐ワインではフランスのソーテルヌワインが有名です。ソーテルヌ地区はボルドー地方を流れるガロンヌ川の中流にあり、なだらかな丘と小さな谷のある地形となっていて、この点は勝沼ぶどう郷に似ているのですね」

 地下のワイン貯蔵所は深くて広く、地下二キロ程まで続いていると係員は言った。

「ここには約二万本のワインが 貯蔵されています。貯蔵庫の真上にぶどう畑があるので、厚い岩盤を破ってぶどうの根が伸びている所が観察できますよ」

 係員が見せてくれた巨大な岩盤下にぶどうの根は目の前で生きており、驚くべき生命力を感じさせた。

 祖父は、この話を聞きながら、この勝沼ぶどう郷で自分たちを受け継ぐ者について考えた。

 ・・・自然の力も伝統的な技術も放っておくと荒れて枯れてしまう。これを大事にして磨くときに、しっかり育つ可能性が出てくるのだ。自然も人も元の個性・本能に従いながら、泣いたり笑ったり、磨いたりしているうちに、認知機能が向上する。

 さらにそれをコントロールすることで一層活性化するといえよう。ヤマトはその第一歩を踏み出しているようだな。

 さらに、祖父は周辺の「人」や生き物の「いのち」について考えていた。

 ・・・受け継いできた「いのち」を手渡したい。祖父母から父母、そして自分へと伝わった力や技術がある。だから、ヤマトなど子孫へとつなぐべきものがあるのだ。

「アツシや裕子は上等なワインの素材だよ」

 ヤマトはそう言っていた。ヤマトは彼らの活力が好きだった。

「ヤマトもそうだよ。ヤマトは甘く濃厚なワインの芽だよ。アツシは辛口で重厚な味を出すかな」

 と祖父が笑った。

 祖父はヤマトや友達の向上心を得難いものだと感じていた。

「よいぶどうがよいワインを生むように、人が自分の力を磨き、技術を鍛錬することが、豊かで味のいいワインを作るだろう」

「ぶどうそのものが力・本能的生の象徴だね」

「勝沼と一緒に生きているヤマトたちが、ここの伝統を守っていくのだろうね」

祖父は祖母とそのように話し合った。

ヤマトは祖父母からぶどう栽培の経験を学んでいたし、祖父母はヤマトに生き甲斐を感じていた。自然豊かな地方の環境の中で、「いのち」の受け渡しをしようという家族だった。

 ヤマトは翌春一九五八年(昭和三十三年)、大学に合格した。

 学校はぶどう栽培と醸造技術の専門家が教えている東京の大学だった。

 彼は新宿の実家へ行って、そこから通学することになった。

 休日には勝沼に来てぶどう栽培を手伝うつもりだ。

 ふだんは、通学のため勝沼を離れて新宿で生活する。これは今までと違う場所で違う人たちと暮らし、生活することを意味する。

 平日には、この勝沼に関わる人とのきずな、地域との関(かか)わりを離れて、都会の新宿に住むことになる。きっと、ヤマトの新しい世界が開けることだろう。

 この年の十二月、東京タワーが完成した。東京タワーは日本人の夢と希望の象徴だった。

「国民は夢と希望、経済成長を追い続けるんだね」

「そう、日本人は豊かさを求めて生きてきたんだね」

 戦後、日本人が求めた豊かさとは、物や経済の豊かさだった。

 一九五九年、オリンピックが一九六四年に東京で開催されると決定した。

 以後、道路は地下鉄工事の鉄板で覆われ、首都高速道路や道路沿線のビル工事が行われて、東京中の大改造が始まった。

 競技施設の他に、新幹線、ホテル等さまざまな施設の整備が始まった。

 ヤマトは自分の力を磨き、深める決心を固めた。

 そして、日本のぶどう栽培と西欧のワインについて学び、勝沼で新しいワインを作りたいと思った。

 かくして、上等なワインのような、ヤマトや裕子の初々(ういうい)しい生命が育つことになる。

 高校を卒業した裕子は東京芸術大学音楽学部で学ぶため、新宿の叔母の家に寄宿した。前述した、叔母が洋裁店を営み、店員二人と一緒に住んでいる家である。

 裕子の努力はこれまでと変わらず、音楽学校での成績は首席だった。

 最高学年のとき、彼女は日本ジュニア・ギター・コンクールで最優秀賞を受賞し、さらに学生ギター・コンクールにおいて最優秀賞を受賞した。

 さらに裕子は東京国際ギター・コンクールで優勝を果たした。

 彼女は津田ホールにてデビューリサイタルを開催し、同年、デビューCDを発売し、ギタリストとして世に出た。

 一九九六年、イタリア国立放送交響楽団の定期演奏会に招待されてトリノにおいて共演し、ヨーロッパでのデビューを飾った(各賞の受賞について、ウキペディア参照)

さて、裕子は、演奏先各地の街角を散歩することが好きで、街の様々な風景を写真に撮ってきて皆に見せてくれた。彼女はいつも友達を忘れず、あれこれと親しく連絡してくれた。

ヤマトは裕子から女性の優しさ、控えめな強さ、厳しい環境を克服する力を教わったが、自分が彼女を恋していると気づいた。しかし、その気持ちを告白することはできなかった。

ヤマトは、自分の弱さに打ちひしがれそうなとき、彼女の姿を思い出して耐えた。

さて、ヤマトだが、彼は、友人たちのように名のある人物にはならなかった。というより、なれなかった。

生き方、能力や興味、関心の在り様が彼らとは違っていて、進む路もヤマト独自の道をたどった。

ヤマトは、もともと自分の好きな道に進みたいと思っていたが、それはユウジのような科学の道ではなく、アツシのように漫画の方面でも、裕子のような音楽でもなかった。

ヤマトは、この世にある何か美しいものや、どことなく懐かしいものに興味、関心があった。

美しさ好き、優しさ好きを満たすため、当面、映画を見たり小説を読んだりして過ごしていた。

 ヤマトは、船のコンテナを扱う会社に転職した。

日本中を回って行う業務を務めながら、出先の町で映画を見たり、その地域に縁のある小説を読んだりしていた。

ヤマトは、たまにアツシ、ユウジ、裕子らと会って、彼らと話し合うことが何よりの楽しみだった。

今後、ヤマトは自分自身の人生を見つけながら生きるに違いない。

(注 ヤマトの友達三人には、それぞれ実在のモデルがいる)

 一九六二(昭和三七)年、東京都が世界初の一〇〇〇万都市になった。

 東京オリンピックの前年一九六三(昭和三八)年、ヤマトの家は東京・世田谷の千歳烏山へ転居した。

 近くの湿地でザリガニがとれ、寺が二十幾つも並ぶ寺院通りの近くで、環境のいい所だった。

 ヤマトは高校講師や出版社編集助手などのアルバイトで稼ぎ、大学院へ進んで二十六歳まで在籍した。

 日本文学が専攻だったが、ヤマトは独仏等西欧文学も好んで読んだ。

 ヤマトはこの時代に、特にアルベール・カミュやヘルマン・ヘッセ(注※)から影響を受けた。夏目漱石も研究した。

人間について認識を深め、また、歴史や戦争について学び視野を広げた。

「誰よりも君を愛す」(松尾和子)、「アカシアの雨がやむとき」(西田佐知子)などが流行した頃だ。

 一九六〇(昭和三五)年、大学で安保騒動を経験、池田内閣が発足し、「所得倍増計画」が登場した。

 この頃マリリンモンローが急死し、ケネディ大統領が暗殺された。

 東京五輪ではヤマトの自宅前の甲州街道が競歩のコースになった。王選手と長嶋選手がON砲と呼ばれ大活躍した。ミニスカートが流行して、世は所謂(いわゆる)高度経済成長時代に入っていった。

「昭和時代」は、これから十数年続くがヤマトの「青年時代」はこの辺で終わったと言えよう。


 


    第二章 裕子の義足

 都市郊外の病院は松林に囲まれた静かな所だ。元々一帯が樹林だった。

 ある日、交通事故で脚の折れた裕子が救急車でこの病院へ運ばれた。脚の骨を折ったという。重傷だ。 

 五十代のベテラン医師は手術と安静の、二つの治療方法を考えたが、足に麻痺(まひ)がなかったので、裕子を東病棟に移し、一か月の完全安静期間で骨を固め治療するという方法をとった。 

 医者はプランを立てるについてロボットによる治療方法も研究していた。

 また、遠隔医療やオンライン診断にも取り組んでいる。

 この医師は自分のプランで意欲的な医療を行うことを目指した。

さて、東病棟は手術をしないで、安静等で治療をする患者の病棟だ。

 裕子が入った部屋は四人部屋だったが、実際にいた患者は二人だった。だから広々して静かであった。患者が二人だけというのは滅多にないことだという。

 裕子は食事も大小便も全てベッドの上で行った。

 昼も夜も看護師が頻繁に来て、検温や血圧測定を行い、また骨を強化する注射を行い、史尿器を交換したりシーツを交換したりした。 

 看護師は食事等の世話から、半月後に始まった歩行練習まで何から何まで面倒を見た。

 裕子は食事がまずいのには参っていた。 塩分のまったくない大きなパンや惣菜が出てきた。太り気味だったうえ血液検査の結果から、糖尿病予防食になったのだ。

 裕子はご飯を半分食べて後は残した。味気なくて食べられないのだ。

 二か月の入院で体重は十キロ減った。お腹(なか)は谷間が出来たように凹み、パジャマの紐が余って長く垂れ下がった。

 ここには二十代の女性看護師が多く、彼女らが裕子の看護をするたびに、若々しい顔と腕が裕子に接近した。

この病院で看護師は笑顔が特徴だ。ナースコールのベルを鳴らすと彼らは直ぐにやってきた。

 看護師は便器を代えたり上掛けを直したりして、裕子が「有り難う」と言うと、彼女たちは「いいえ、また呼んでくださいね」とか、「また来ます」と、裕子に笑い掛けて言った。

「有り難う」という裕子に「来てよかったわ。またね」と応える看護師もいる。

 看護師も介護者も、患者に温かく寄り添って看護するように教育されているのだろうか。

この病院へ運ばれた直後に入室した中央病棟では手術前後の患者が沢山入院していた。

 だからか用事の多い看護師たちは誰も、忙しさで走るように動いている。患者への応対は事務的にならざるをえない。

 裕子が用事を頼み、看護師が応対し終わって、 裕子が「有り難う」と言うと、彼女は「は」と言うが、「い」の声は入り口を出るときに聞こえる。だれもそういう対応だ。笑顔で「また呼んでくださいね」と応対する東病棟の看護師とは大違いである。

この病棟は昼も夜も夜中でも、廊下を通してざわざわした騒音や話し声が伝わってきた。静かな東病棟とは全く違う環境だ。

 忙しく騒がしい環境が、患者中心に動けという病院の方針やスタッフの人間性を奪っているのだ。

 先に触れたように医師は問診や諸検査から治療方針を決める。医師は裕子について、絶対安静とコルセット装着、フォルティオ注射や薬剤による治療を指示した。医者は週に二度回診にやってきて患者と応接した。

さて、裕子の足を見た介護士が水虫に気づいて看護師に知らせ、 看護師がやってきて治療する薬剤を手配したことがある。

介護士は、着替えの介助・食事の介助・排せつ介助・入浴介助・口腔ケアなどを行う。

入院後、一週間ほどして理学療法士によるリハビリテーション が始まった。

療法士とは病気、けが、障害などによって運動機能が低下した状態にある人々に対し、運動機能の維持・改善を目的に運動、電気、などの物理的手段を用いて行われる治療法だ。

担当の主任療法士は初め裕子の病床へ来てマッサージや足の運動をしたが、十日後から病院一階のリハビリテーション室を使って足脚の運動機能回復を図った。

ここでは平行棒・歩行器・杖等を使って歩行練習をする。ベッドや階段への上り下り等の練習を丁寧に行った。

女性の療法士はスキルを身につけるため、未来を思い描いて更に学校に通い、自分のノルマを作ってやる気向上を図っていた。

この病院の、医者や看護師、スタッフが職務を全うしているには背景がある。それは院長や顧問が進取の気性をもって経営に参画していることだ。

院長は次のように言っている。

「私たちの病院は、創始者のK博士が生涯を通じて示された「叡智と実践」・「不撓不屈」の精神に基づき、患者中心の医療を掲げ、活動してまいります」

院長はここ更に、医療の質の向上と医療安全の推進と向上を主軸に運営する、と述べる。

このような院長や顧問の進取の気性が病院のスタッフ全体に良い影響をもたらし、 患者に沿って動く空気を生んだ。

ところで、裕子の治療は絶対安静やコルセットの二十四時間装着・フォルティオ注射・鎮痛薬服用という、総合的な方法で、一か月余りが経った。

 しかし治療経過が良くなくて、骨折部分の痛みが取れず神経を刺激して麻痺するようになってきた。

 そこで医者は思い切って脚を切断して義足にするという方法に転換して治療を始めた。

 これが裕子が義足を付けるに至った経緯である。


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