書評『一九八四年』/ジョージ・オーウェル
吟遊蜆
書評『一九八四年』/ジョージ・オーウェル
誰もが認めるディストピア小説の代表作である。読んでみるとたしかにそうだと言わざるを得ない。同じ作者の『動物農場』と比べても、ちょっとレベルが違う。
徹頭徹尾、とにかく示唆に富んでいる。物語の端々から発せられるのは、現代社会への警告であり人類の未来への危惧。ここで言う現代社会とは、残念ながら一九八四年でも二〇二〇年でもあって、どちらもたいして変わらない。むしろ予見が具現化されてしまっているぶん、いま読んだほうが身につまされるかもしれない。
描かれているのは、情報化社会の末に訪れる管理および監視社会。自由と便利さを求める人類がたどり着いた先にある不自由。効率化のなれの果て。
「情報」という非物質的なものが価値を持てば持つほど、「情報操作」ですべてを変えられる。無から有を生み出せてしまう。
《未来へ、或いは過去へ、思考が自由な時代、人が個人個人異なりながら孤独ではない時代へ――真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代へ向けて。》
主人公は切にそう願っている。つまり目の前にはそれとは正反対の現実があるということだ。まるでいまの我々がそうであるように。
彼は「真理省」と呼ばれる省庁に勤め、過去の文書を現状に合わせて都合よく改竄する仕事に就いている。世に存在するすべての文書を書き換えてしまえば、歴史は捏造可能である。これはまさに、ブログで先日レビューした問題提起の書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』に出てくる「ブルシット・ジョブ」そのものである。
今年発売された先進的書物の内容が、一九四八年に書かれた小説の内容に合致している。これぞまさに、本書『一九八四年』が未来を予見していることの証左だろう。
ちなみに、「ブルシット・ジョブ」の定義をここに改めて引用しておく。そこには科学技術が発展した末に、無駄な仕事が大量に生み出されているという逆説的現実がある。
《ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。
(『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』/デヴィッド・グレーバー)》
『一九八四年』の民衆らはあらゆる場所に設置される「テレスクリーン」によって四六時中監視され、党の意向に沿わぬ発言をすればただちに投獄され罰せられる。街中には党のトップである「ビッグ・ブラザー」のポスターが貼られている。《ビッグ・ブラザーがあなたを見ている》という不穏なスローガンとともに。
《自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。》
つまり明らかな正解すら口にできない世の中であるということだ。それは「空気を読む」ことが最優先されるいまの世の中に、どこか似てやしないか。いや現代社会そのものではないか。
《ある意味では、党の世界観の押し付けはそれを理解できない人々の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしようが、かれらにならそれを受け容れさせることができるのだ。》
理解できない人たちを、理解することを放棄する人たちをねじ伏せるための言葉とシステム。いまで言うならば、たとえば携帯電話の煩雑な料金システムなど、明らかに理解できない人を丸め込むためにわざわざ仕掛けられた装置であるように見える。
理解できる人よりも、理解できない人を相手にしたほうがビッグ・ビジネスになり大きな票田になる。そしてそこにこそ、誰のなんの役にも立たない不毛な「ブルシット・ジョブ」が生まれる。いっそ料金プランをシンプルに、一般人にも理解可能なものにしてしまえば、説明に必要な人件費など大幅に削減できるというのに。
最後に、やや長めだがこの小説の結論めいた箇所を引用しておく。抽象的ではあるがネタバレといえばネタバレになるかもしれないので、未読かつこれから本書を読む意志のあるかたは、まだ読まないほうがいいかもしれない。
《そろそろ分かってきただろう、われわれの創り出そうとしている世界がどのようなものか? それは過去の改革家たちが夢想した愚かしい快楽主義的なユートピアの対極に位置するものだ。恐怖と裏切りと拷問の世界、人を踏みつけにし、人に踏みつけにされる世界、純化が進むにつれて、残酷なことが減るのではなく増えていく世界なのだ。われわれの世界における進歩は苦痛に向かう進歩を意味する。昔の文明は愛と正義を基礎にしていると主張した。われわれの文明の基礎は憎悪にある。われわれの世界には恐怖、怒り、勝利感、自己卑下以外の感情は存在しなくなる。他のものはすべてわれわれが破壊する――何もかも破壊するのだ。》
「勝利感」を「マウンティング」と言い換えてみれば、途端にこれはSNSを中心とする現代社会の縮図となる。「われわれの文明の基礎は憎悪」、この言葉が心に重くのしかかる。この作品を読んでリアリティを感じない世の中になってくれたらどんなにいいだろうかと、そんな作者の願いが聞こえてくるようである。
だが残念なことに、この小説には普遍的かつ圧倒的なリアリティがある。だからこれは、いまこそ読まれるべき警告の書であると言えるだろう。いや「いまこそ」ではなく、「いつだって」なのかもしれないが。
書評『一九八四年』/ジョージ・オーウェル 吟遊蜆 @tmykinoue
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