第三十八話 蝿の王

 悪魔・ベルゼブブ。それは、七つの大罪──キリスト教において罪の根源とされる七つの感情や欲望の中で、『暴食』をつかさどるとされている悪魔である。

 けれど、悪魔が存在するのはで、不思議の国ワンダーランドに居るわけがない。いいえ、そんなものが居てはいけないのよ。

 ……だというのに。白の王から「帽子屋」と呼ばれていたその男は自身の正体がベルゼブブであると認め、あまつさえも私の体に取り憑き、暴食の罪の権化ごんげらしく持参したナイフで私の手首から肉をぎ落として、今まさにフォークで口へ運び咀嚼そしゃくしている最中だ。


(痛い痛い、痛い……っ!!)


 厚さ二センチ・縦横五センチ程度の肉を失っただけで吐き気を起こしそうなほどの激痛が腕の骨を伝い、心臓が早鐘を打って額に脂汗が浮かぶ。

 体は私の命令よりもベルゼブブの指示を優先させるせいで逃げ出すどころか抵抗することすらままならず、ついには発言権も失ったのか叫び声もうなり声も喉の奥へ消えていった。


「嗚呼、嗚呼……嗚呼、やはり……בשר של אישה צעירה טעים שלא ניתן לעמוד בפניו《若い女の肉はたまらなく美味だ》……」


 恍惚こうこつとした表情で再び理解不能な言語をもちいたベルゼブブは、口の端から伝い落ちる鮮血を赤い舌で舐め取り「はあ」と大きな息を吐く。

 ……ぞわぞわと全身に鳥肌が立ったのは、彼のイカレた様子に恐怖したからではない。このワンダーランドへやって来る前──十八年間の人生の中では、ベルゼブブの唇から落ちた言語を一度も耳にした覚えはないと断言できるはずなのに。漠然と、直感的に、だ。

 そんな些細な変化で『私の体はもう完全にベルゼブブの入れ物と化したのだ』と思い知らされ、大きな絶望を突き付けられる。


(……落ち着いて、アリス。そう、まずは落ち着いて考えるのよ)


 この最悪な状況をどうにかして打開できないだろうか?と必死に頭を働かせるけれど、浮かんだ策は全て『体を動かせないのなら意味がない』という結論に至り、絶望の色が濃くなるばかりだった。


(どうしたらいいの……!?)


 先ほどの口ぶりからして、イカレ帽子屋マッドハッターは間違いなく──……このまま私を食べようとしている。

 扉の向こうから漂う熱気が肌を撫でて、キャビネットの中で私たちの様子を静観する白い食器達からはなぜか哀れみの眼差しを向けられているように感じた。それから、ほんの少しの悲しみに似た感情が頭の中に流れ込む。

 まさかとは思うが、この物言わぬはずの無機物達は『何か』に対して悲しんでいる?ああでも、ただの真っ白な食器がどうして?……いいえ、今はそんな瑣末さまつな事象に構っている暇なんてないわ。

 焦りの感情が心の奥底から溜まり続けるにつれて、次第に『赤の王』に対する怒りが湧き上がってくる。


(役立たず! 役立たず……!!)


 いったいぜんたい赤の王はどうしてこんな人肉嗜食者カニバリストのイカレた男を野放しにしているのかしら!?私や芋虫さんよりも先にこの男を『呪う』べきだと考えなかったの!?本当に無能でどうしようもない男ね!!

 同時に、教会で切り刻まれた際の記憶が脳裏をよぎり、傷口はとっくに塞がっているというのに腹部がじくじくと熱を持った。あああ!腹が立つ!腹が立つ!!


「ンッフフ……レディ、どうかご安心を。小生もの方による『呪い』をしかとこの身に受けております」


 悪魔憑きにより私の思考回路を全てリアルタイムで見聞けんぶんしていたベルゼブブは、愉快そうに眉を吊り上げてナイフとフォークを一旦右手にまとめて持ち、自身の胸元に左手を添え口元に弧をえがく。


「小生の行う“悪魔憑き”は元々、味覚・嗅覚・触覚・痛覚の共有が断たれていたのです。入れ物を使い回す上では全て不便でしかない機能ですからねぇ……ンッフフ。ですが、彼の方は小生に言いました。『食材となる生き物の痛みを知り、命の尊さを学ぶべきだ』と」


 一度そこで唇を引き結んだ彼は目線を斜め上に向けて何か考えるような素振りを見せてから、左手を顎に当ててわずかに首を傾けた。


「ンンー……説明が面倒ですねぇ。まあ平たく言えば、小生が『食材』と認識して“憑いた”生き物とは痛覚のみ共有されるようになってしまったのです」


 長身の男は世間話に似たトーンでさらりとそんな事を告げるけれど、私はといえば全身の肌が粟立あわだまばたきの方法さえ忘れるほどの衝撃を受けてしまう。

 だって、だって……!つまりこの男は、私が味わった激痛をその巨体で一緒に受けながらも躊躇ためらいなく肌を切り刻み、肉を削ぎ、涼しい顔で食べていたという事になるじゃない!?正気の沙汰じゃないわ!!


「ンフッ、ンッフフ……食材の痛み、命の尊さ……ンン〜ン〜。彼の方はとても、とーっても優しい心を持っていらっしゃる。小生は深く感動し、そして、諧謔かいぎゃくろうする彼の方に尊敬の念をいだきました」


 ひどく愉快そうに喉の奥でくつくつと笑った彼は、三度深く頷いてから優雅な足取りで私との距離を詰めて上半身をかがめると、息がかかる距離まで顔を近づけ笑みを浮かべた。


「いやはや、まったく……そんなものは、何の意味もさないと申しますのに」

(〜〜ッ!?)


 ギラギラ。青い瞳がまたたいて。

 キラリ。左手でナイフの先が赤く光る。

 それから、ズググ。銀色が私の胸の皮膚を引き裂き、無遠慮に肉をこじ開けながら体内に入り込んできた。


(熱い、熱い……っ!!)

「呪い……ンッフフ。呪い、ねぇ……? ンッフ」


 ナイフ自体は平均的な大きさをしているというのに、刺された箇所がどうしようもない程に熱くて、体内から火で焼かれているかのような錯覚におちいる。

 身体を動かせないせいで傷口を確認することさえ叶わず、私はただただ目の前で笑う悪魔の顔を見ていることしかできない。遅れてやってきた激痛よりも、神経を焦がす灼熱しゃくねつの感覚が思考回路を乱した。

 なおもベルゼブブは手を止めず、やいばをぐぐぐと深く私の肉に押し込んで、取っ手をしっかり握りしめたまま時計回りにナイフをひねる。


(お゛……っ!? あっ゛、ア゛ア゛っ、ア゛〜〜ッ!!)


 グズズッ、グジュリ。心臓付近の肉と血管が掻き回されて、無様に暴れて叫びたくなるほどの痛みが脳の中で弾けた。

 けれど、どれだけ『私』が苦痛にあえいでも“悪魔”に憑かれたままの体は口を開ける動作すら放棄しており、ひたすらに頭と心の中で叫喚きょうかんを反響させるばかり。

 それでもなお、海色の瞳をギラつかせる悪魔はまるでかのようなニヤケ面を晒し続け、二拍分の間を置いたあと耐え切れないといった様子で息を噴き出すと、私の体に突き刺さったままの刃先をぐりぐりと何度も強く押し込みながら笑い始めた。


「ンフッ、アハハハッ!! 嗚呼、嗚呼。嗚呼、まさに。彼の方が小生にした事は骨折り損のくたびれ儲け! 無駄な努力をご苦労様ですとしか言いようがありません!!」

(ぐっ、ヴヴ──ッ!!)

「ふぅ」


 かと思えば、すうと息継ぎをして右手にフォークを持ったまま自身の鳩尾みぞおちあたりを撫で下ろし、涼しい顔でナイフをゆっくりと抜き取る。

 そして、付着した血がしたたさまを横目に唇を持ち上げた。


「ですが、それでも自身の扱う『呪い』に抑止力よくしりょくがあると信じていらっしゃる彼の方を尊敬しているのは事実です。ですから小生は大人しく、それらしく。しおらしく、此処ここで『呪い』に苦しむか弱い帽子屋のふりを続けているのです」


 刹那──未知に近かった“本能的な恐怖心”という存在をようやく明確に理解する。

 私がこの国へやって来てから何度か抱いた『恐怖』など、この悪魔と比べればきっと赤子のようなものでしかなかったのだ。……白の王との一件を除いた、その他全て。

 決してあってはならないことなのに断言できる。できてしまう。……赤の王でさえ、蝿の王ベルゼブブには敵わないのだと。


(どうしたらいいの!? 考えろ、考えろ……!!)


 生きとし生けるものには皆、多かれ少なかれ「こわいもの」が存在する。『恐怖』は人から思考力を奪い、判断力をいちじるしく低下させ、とてつもない支配力を持つものだ。

 そしてこの国の住民は、誰もが赤の王による『呪い』を恐れている。しかし、ベルゼブブにとっては『呪い』などちょっとしたハンデや暇潰しの一環でしかないのだろう。

 彼にそのたぐいの脅しが効かないというのは、つまりを封じ込める手段が無いにひとしい。その事実は今の私にとって、とてつもない恐怖でしかなかった。


(助けて、助けて……!)


 数分前まで正常だった思考回路が端からじゅわじゅわと熱に溶けて、唯一自由な心の中で何度も何度も懇願こんがんする。


(お願い、助けて! 助けて……姉さん)


 ──……チリン。小さな鈴の音が耳たぶを撫でた。




***




「あら、どうしたの?」


 おだやかな時が過ぎるリビングに落ちたのは、花が咲き誇るような優しい声音。ソファに座るは笑みをたたえたまま、片手でちょいと手招きをした。

 だから私は小走りですぐ側へ寄って、腕の中に抱いていた教材を彼女に向けてずいと差し出し、膨れっ面で先ほどの言葉を反復する。


「姉さん、たすけて」

「ふふ、どこが分からないの?」

「ここよ! 何回かんがえても、まちがえちゃうの!」

「この問題?」

「そう!」


 不機嫌を隠す努力もせずドスンと隣に腰掛ける私を見て、は何が楽しいのかくすくす笑ってテーブルの上に教材を開き、白く細い指の先を向けて一つ一つ丁寧に説明してくれた。

 姉さんが少し首をかたむけるたび、綺麗なブロンドヘアーがふわりと揺れる。きらきら光を弾くさまが宝石に似ていて、私はよく目を奪われていた。


「ん? なあに?」


 慈愛じあいに揺れる空色の瞳があまりにまぶしくて、時々直視できなくなる。


「姉さんは、どうしてそんなにやさしいの? どうして、何のりえきもないのに、わたしを助けてくれるの?」

「利益なんて関係ないわ。私があなたを助けるのは当たり前よ。だって──……」




***




 いつかの思い出を心でなぞる。

 不意にただよう甘い香りが私に正気を取り戻させて、無意識的に開いた唇と震える声帯は大人しく『私』の意思にしたがった。


「……ねえ、ベルゼブブ。取引をしましょう?」

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