第三十四話 真っ白な食器

 玄関扉を入ってすぐ目に飛び込んできたのは、リビングに設置された立派なキャビネットたちだった。

 壁に沿って設置されているのは全部で五つ。アンティーク調で高級感があり、遠目に見ても木の温かみを感じる『それ』は正面と側面そくめんがガラス張りになっていて、ショーケースの中には真っ白な皿やティーカップが綺麗に飾られている。


「……アレ、近くで見ても良いかしら?」

「ンフフッ。ええ、勿論。よくください」


 私が指差す先へちらりと視線を向けた彼は、口の端を引いて二つ返事で頷いた。

 アリスらしくおだやかな笑顔を作り、形式だけの謝意を述べてつかつかとキャビネットへ歩み寄ると、背後でガチャンと扉の閉まる音がする。

 意識をほんの少しだけ物音に向けながら、前屈みになってガラスの奥を覗き込んだ。


(すごい。どれもミルク色だわ)


 定期的に手入れをしているのか、視認できる範囲ではほこり一つ見当たらない。

 ディナープレート、コーヒー・ティーカップ、対になるソーサー。ティーポットとボウル。数はたくさんあるけれどがらは一切入っておらず、彼が意図的に無地の食器を購入しているのだとしたら、よほどの潔癖症か変わり者である可能性が高い。


(それにしても……収集へきでもあるのかしら?)


 姿勢を正して二歩下がり、キャビネット全体を再度ぐるりと見渡す。

 視覚から几帳面さを感じ取れる程に美しく・規則的に飾られた真っ白な光景は、個展や陶器店を連想させる。しかし値札や作品タイトルはどこにも見当たらないので、“これら”は完全に彼の趣味もしくはへきの一環なのだろう。まあなんにせよ、家に招いて頂いている立場の私が口を出して良い範囲でないのは確かだ。

 そんなことを考えながら首だけで振り返り、変人の家主を一瞥いちべつしたタイミングでパチリと視線が交わる。


「ああ! どうぞどうぞ、お掛けになってください」


 どうやら彼は今の今までぼうっと立ち尽くして私の後ろ姿を眺めていたらしい。

 けれど、剽軽ひょうきんに肩をすくめて両手の平をぱんと合わせると、ワルツでも踊るような足取りでキッチン付近に設置されたダイニングテーブルへ移動して、椅子の背もたれを引き口の端を吊り上げる。


(酔っているのかしら? 素面しらふよね?)


 いざなわれるがまま席に腰を下ろせば、変人は真横からずいと私の顔を覗き込み指先で肩をくすぐってきた。


「──!? な、何かしら?」

「ンッフフ。肩に髪の毛が付いていましたよ」

「ああ、そう……ありがとう」

「いいえ、こちらこそ」


 予測不能な挙動に、どうにも調子が狂ってしまう。

 ニンマリと笑った彼はキッチンの中へ入り、鼻歌混じりに戸棚とだなあさり始める。


「ン〜ンンッン〜ン〜ッ……ああ、レディ! 紅茶でよろしいですか?」

「ええ」

「ンッフ、わかりました。シュガー二杯のミルクティーですね、少々お待ちを」

(え?)


 ……私はいったい、白の王の前以外でいつ『ミルクティーが好きで、いつもシュガーを二杯入れる』と口にしただろうか?

 二者択一で赤の王側に立つ彼が、私がここへ着く前に白の王からその話を聞いたとは考え難い。そもそも、“アリス”の嗜好しこうに関して教えるほど親しいのなら、私の目を盗んだりせずに堂々と隣を歩いてここまで付き添い目の前で会話のネタにするはずだ。当然、道案内をドードー鳥に任せたりなんかもしない。『白の王』とはそういう人である。

 それなのに。


(まさか、の?)

「さあ、レディ。お待たせしました、どうぞ」


 不信感と嫌悪感がじわじわと心の底から湧き上がり、どうやってこの邪魔者ニセモノを排除しようかしらと思考を巡らせ始めた時。いつの間にか真隣に立っていた『彼』が私の前へ真っ白いソーサーをトンと置き、その上にミルクティーの入った真っ白なティーカップを載せて口元に笑みを浮かべる。


「……ごめんなさい。やっぱり紅茶は結構よ」

「ンンー? お嫌いでしたか?」


 ──……ああ、白々しい。苛立ちで胃の中が熱くなる。

 視線で彼の体の骨格を辿りつつゆっくりと顔を上げ、丸眼鏡の奥にあるブルーの瞳を真っ直ぐに見据た。


「いったい何をたくらんでいるの? イカレ帽子屋マッドハッター

「はて? 企む?」


 白の王から聞いた『ドードー鳥にとって怖いもの』は、彼──マッドハッター。通称・帽子屋と呼ばれる男の存在だった。

 不思議の国のアリスの物語内において、ヤマネ(ネムリネズミと呼称こしょうされる場合もある)や三月ウサギと共にイカレた御茶会にきょうじる人物であり、物語の中では“アリス”も彼に誘われて御茶会の席に加わっている。故に、私が会いに行かないわけにはいかないだろう。

 ……と。ええ、心からそう思っていたわ。姿


「ンフフッ、企むだなんてとんでもない。小生は、」

「いいえ、違うわね。貴方、本当は『帽子屋』ですらないんでしょう?」

「ンン〜?」


 あれは……そう、たしか三年くらい前かしら。“お母様”への殺意が日々明確に、大きくなってきた頃の事。図書館でたまたま手に取った書物にはこんな話が載っていた。

 ──その者。真っ黒い巨体を持ち、炎の帯を巻いた頭には二本の角が生えている。足はアヒル、尾は獅子。眉毛はつり上がり、目をぎらつかせていた。ジル・ド・レは、その者がひょうの姿に変わるのを見たと言う。


(炎の帯や角は見当たらないけれど、それでもどうして私は彼に会った時点で文献ぶんけんを思い出せなかったのかしら)


 黒の衣服に身を包んだ男は口元に三日月を浮かべたまま、姿勢を正して静かに私の言葉を待っている。その顔をギロリと睨みつけてやれば、ブルーの瞳がギラギラとまたたき、形の良い眉が楽しげに吊り上がった。

 そして、背後で獅子の尾がふわりと揺れる。


「私、知っているのよ。貴方の本当の名前は、」


 刹那せつな──なぜか声を出せなくなる。

 例えるならば、喉に設置された蛇口を第三者の手によって固く閉められているせいで、言葉が喉を通らないような感覚。

 思考回路は不自然なほどにさっぱりと透き通っているのに、脳みそが何度指示を送っても、発声方法など初めから知らないとでも言いたげに筋肉と神経が命令を無視しているのだ。


(どうして? 赤の王みたいに『呪い』を受けたわけじゃないわ。それなのに、どうして)


 到底理解不能な突然の事象に疑問符がぐるぐると頭の上を旋回せんかいするけれど、さいわいな事に体の自由までは奪われておらず、真隣に立つ男の顔をあおぎ見たまま椅子から立ち上がって一歩、また一歩と後退あとずさる。

 無駄に落ち着いている脳みその端で、野生のくまに遭遇した際の対処法をふと思い出した。

 ……不自然だわ、あまりにも変よ。脳は本能的に危機を察知しているというのに、私の心臓ときたらいつも通りのリズムで鼓動を打っていて、肌には冷や汗の一滴も湧いて出ない。体だけが冷静で、まるで自分のモノではないかのように感じてしまう。


「……レディ、ジャパンの国語はお好きですか? ンン〜ン〜……画竜点睛がりょうてんせいく、ぎたるは猶及なおおよばざるがごとし、しょうりて大を失う、麒麟きりんつまずき。君子危きみこあやうきに近寄らず、触らぬ神にたたりなし! ンフフッ」


 視線の先に立つは訳の分からない言葉を並べて楽しげに小首を傾げると、ギラつく瞳をすっと細めた。


「嗚呼、レディの母国でもこう言うでしょう? ほら──……好奇心は猫をも殺す、と」


 息を一つ吸った次の瞬間には体の自由も失っており、天井付近の壁に飾られた生首の剥製はくせいが視界に映る。

 よく出来たネズミとウサギの剥製は、冷たい目で私を見下ろしていた。

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