第三十三話 門をくぐる者
頭上を常に太陽が照らし、草花が呼吸をする昼下がり。どれだけ経とうと月は顔を出さず、太陽が沈まずに“その時間”を維持し続ける
そして白の王の話によれば、先ほどドードー鳥の指差した先──現在、私のすぐ目の前に堂々と建つ一軒家を『彼』は
(パッとしないわね)
もっと風変わりな建築や大豪邸をイメージしていたのだが、レンガ調の平屋は外装に関して特筆すべきものは何も無く、強いて言えば花と植物の
敷地を囲うようにして設置された漆黒のエレナフェンスが太陽光を弾いてきらりと輝き、私の顎下辺りまでしか高さのない
「……」
門扉の前に立ったまま体の向きを変え、周囲をぐるりと見渡した。
仮にも“街”の名前が付いていながら、目に映る範囲に人や動物どころかそれに似た生き物の姿すら一秒も存在せず、不気味な程に静まり返っている。他者の呼吸が聞こえない空間は、時が止まっているのではないか?と錯覚しそうになる。
照りつける陽光がただじりじりと肌を焦がし続け、
(暑い……こんな所に本当に彼が居るの?)
──……チリン。
一つ、鈴の音。ひらひら揺れる、影二つ。
「!?」
今しがた視界の端に映り込んだものを追いかけて勢いよく体の向きを変えるが、そこにはやはり何もいない。
おかしい、おかしいわ。確かにさっき──……、
「何か居ましたか?」
不意に鼓膜を揺らした低音が、巡りかけた思考を阻害する。
浅く息を吸ってから視線をそちらにやれば、いつの間にか門扉の向こう側に一人の男性が立っていた。
「やあやあ、レディ。はじめまして」
不気味な程に背丈が高いその人は、桃色の髪に真っ黒なシルクハットを載せ、丸眼鏡の向こう側にある青い目を緩やかに細めて笑う。突然の事で私が言葉を返せずにいると、吊り上がった眉が楽しげに曲線を
黒いワイシャツと黒いチノ・パンツ、黒いサスペンダーに黒手袋。彼が身に付けている物は、眼鏡を除きどれも黒色ばかりである。
そして、ユニコーン同様に今回も草が揺れる音はしなかった。一体いつから居たのだろうか?いや、それよりも。もしかして彼がそうなのだろうか?
「ンッフフ……何か、居ましたか?」
少しの間を置いて、微笑みを
「……さっき、猫が居たの」
「猫?」
私の返答を聞いてその人が首を傾げれば、正面から見て右側だけ伸ばされた横髪が肩にのってふわりと揺れた。
生まれつきか、ファッションなのか。どちらかは判別はできないが、くるくると癖のついたマカロン色の髪がまるで
「猫、猫……ンッフフフ。嗚呼、レディ。まさか、猫を殺してしまったのですか?」
「──!!」
瞬間、頭の中で何かがバチンと弾けて鈍痛を走らせる。
(猫を、殺した?)
思い出しそう。けれど思い出せない、思い出したくない。ああ、違う。思い出したいのに、忘れている。いいえ……忘れている?何を?
「ンフ。レディ、歴史はご存知ですか? 猫は
濃い
違うわ、違う。そのはずよ。私は……猫なんかじゃない。そうよ、私が殺したのは、
「ンッンー……いやはや、それにしても。今日は暑いですねぇ」
「えっ?」
「ンー? レディもそうは思いませんか」
何の脈絡もなく変化した話題に思わず間抜けな声が出る。
けれど、少し前方に立つ『彼』は私の様子などさして気に留めていないのか、シルクハットのつばを指先で摘んで空を
かと思えば優雅な動きで私に向き直り、片手をこちらに差し出したままひどく甘ったるい猫撫で声で「レディ」と語りかけてくる。
「立ち話では足りません。どうせなら、家の中でお話ししませんか? その可愛らしい顔を、もっと近くで見せてください」
すらすらと
愛想笑いを返して門に近づき手をかけると、もともと
私が歩を進めて敷地内に足を踏み入れてもその場から一歩も動こうとしない残念な家主に代わって門を閉めるため、くるりと
「!?」
「ンッフフ……嗚呼、レディ。そのまま、良い子で門を閉めてください」
つんと鼻を刺す獣臭、地面を揺らす
神話の中で『ケルベロス』と名の付く生き物を前にして、今この場で彼だけが冷静さを欠いていない。
(ワンダーランドには、こんな生き物は居ないはずなのに)
どうして、何で。そう考えるのは後にして、
驚きと困惑で言葉が出ない。恐怖に
「レディの手を
「そんなことはどうだっていいわ」
「ええ、そうでしょうとも。ンフフッ……あのケルベロスは小生を引き裂きたい一心で、この街を常に見張っているのです。しかし、門が開かねばこちらの存在には気付けませんし、レディにもまだ危害は加えません。ですので、ご心配なさらず」
「引き裂く……?」
遠い昔に、ダンテ・アリギエーリの『神曲』を聞いたことがある。三部に分かれた中の地獄篇では、このように記されていた。
──……第三
(ああ、そうだ)
それから……第五圏、
(血の色の沼……ユニコーン?)
「ンッンー、フフッ……レディ。深く語り合うのは、家の中にしましょう?」
「……ええ、そうね」
くるりと背を向けて玄関へ向かって歩き始めた『彼』は靴を履いておらず、アヒルによく似た足がペタペタと地面を叩き、獅子の尾がふわりと揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます