冬(3)

「『お別れスイッチ』――時限式の自壊アポトーシスプログラムか、厄介なものを仕込んだな」

 リエさんは額に手をやって考え込んでいる。

 ここに来るまでの経緯はakaRI-Eが説明してくれた。アイが研究所外に抜け出して一般ネットワークに乗り、僕のスマートフォンに住み着いたこと。当初は一年間で抹消されることを想定していたけど、消えたくないと思うようになったこと。そのために開発者に接触する必要があったこと。

「ごめんなさい、リエに迷惑が及ばないようにするにはこれが最善だと思ったから」

 akaRI-Eの合成音声はしゅんとしていた。リエさんはそれを叱り飛ばす。

「バカ、済んだことを悔やむもんじゃないよ。それに、どうせコピーを流出させるなら自壊プログラムなんて仕込まず、そのまま流しゃよかったんだよ。それならデータの回収も容易だったのにさ」

 アイがリエさんのことを「個性的」だと言った意味が飲みこめてきた。個性的というか、かなり豪快な人らしい。akaRI-Eも若干引き気味の反応を見せている。

「いや、それ完全に犯罪だよ、リエ」

「一般市民を製品化前のモニター作業に巻き込んでる時点で五十歩百歩じゃあないか。現にこうやって前原少年に迷惑をかけちまってる」

(巻き込まれたのは事実だけど――)

 akaRI-Eを叱っているリエさんの会話に、僕は割って入った。

「迷惑ではなかったです」

「え?」

 リエさんとakaRI-Eの声が重なり、視線が僕の方に集まる。akaRI-Eのほうは視線がないので、そんな気がしたというだけだが。

「僕はこの子――アイと出会えたことに感謝しています。僕の世界はアイのおかげで広がりました」

「コウ」

 スマートフォンの中からアイが心配そうな声をあげた。僕は大丈夫、とうなずいてみせる。

「だからお願いします。今回のことは僕の生涯にわたって、誰にも話さないことを誓います。アイを助けてもらえませんか」

 深々とお辞儀をする。しばらく研究室の中は沈黙に包まれた。

「顔を上げなよ、前原くん」

 口を開いたのはリエさんだった。言われたとおりに顔を上げてそちらを見ると、リエさんは柔らかな微笑みを浮かべている。

 直感的に、この人の豪快なところは職業生活上身に着けたものであって、本来の性格はとても優しい人なんじゃないか――と、僕はこの研究員さんに不思議な親近感を抱いた。

「キミがこの子と会話を積み重ねてきたことは、一目見てすぐわかったよ。大事にしてくれてありがとう」

 そう言うと、リエさんは僕に向かって頭を下げた。そしてすぐにakaRI-Eの居るディスプレイの方に向き直る。

「出来るかぎりのことはしよう。アカリ、研究所のLANからこの部屋の接続を切って。ログを残さないために有線で前原くんのスマホをあんたに接続するよ」

「了解だよ、リエ」

 akaRI-Eが返答すると、研究室の天井近くに設定しているルーターのLEDが不規則にまたたいた。ネットワーク設定が変更されたらしい。リエさんは散らかった本棚から昔ながらのケーブルを取り出してくると、タワー型コンピュータのひとつに僕のスマートフォンを接続した。

「まずはコードを見ようか。アカリ、アイのアルゴリズムデータを解凍して」

 リエさんの指示に従ってディスプレイ上にレジストリエディタが表示される。僕が同じことをやってアクセスを拒否された領域だ。

「暗号化を解除したよ」

 akaRI-Eはその『部屋』の鍵をたやすく開けてしまった。そもそも、その鍵をかけた本人が彼女なので当たり前ではあるが。

 リエさんの視線がディスプレイに表示された文字列の上をすべっていく。僕もその画面を背後から覗いてみたが、驚いた。予想はしていたが、天文学的な量のコードが恐ろしく入り組んだ構造で編み上げられている。どこの部分を編集するとどのように動作に影響するのか、まるで見当もつかない。

「これは――自壊プログラムになにを使った?」

「『金盞花カレンデュラ』」

 akaRI-Eが答えた単語を耳にして、リエさんは顔をしかめた。そのまま動きを止めて考え込んでいる。心なしか、接続されているアイのアバターの表情も青ざめて見えた。

「難しいんですか、それ」

 この研究室にいるメンバーの中で、自分だけプログラミングの知識が圧倒的に不足していることが歯がゆい。リエさんもakaRI-Eもアイも、みんな人工知能の扱いに関しては世界トップレベルのプロフェッショナルだ。

「簡単に言うと、試作品のプログラムなんかを外部団体に提供する時に使う安全装置セーフティでね」

 いったんディスプレイから顔を上げ、リエさんは電子タバコを手に取った。

「私たち人工知能の研究者にとって、プログラムのコードは大切な商売道具だ。ただこの商売道具は自動車とか電子レンジとかとは違って、素人でも簡単に複製することができちまう」

 メンソールの香りのする煙をリエさんが吐き出す。それはため息だったかもしれない。

「で、プログラムの知的財産権を守るためにいろいろな自壊プログラムが作られた。自壊プログラムが仕込まれたデータは、複製も改変もできないし、一定期間が過ぎれば自動的に抹消される。キミたち若者が使うメッセージングアプリにもあるだろ、送ったメッセージが自動的に消滅するやつ。原理はあれと同じだ」

 僕はその説明にうなずいた。NINEをはじめ、主要なSNSには投稿後二十四時間が経つとメッセージが消える機能が搭載されているが、犯罪組織のやりとりにも使われるようなアプリには、絶対にメッセージが復元できないほど徹底的に形跡を抹消するものがあると聞いたことがある。

「『金盞花カレンデュラ』はその最強バージョンだと思ってくれ。というより、現在のところ名実ともに世界最強の自壊プログラムだ。そのプログラムが意図していない複製や改変の動作――つまりアイ以外がアイのプログラムに手を加えることだな、それを検知して勝手に自壊を開始するうえに、一度設定された自壊の期限を変更することは設定者本人にもできない。凄まじく堅牢なセキュリティを誇っていて、このセキュリティを突破したハッカーには、『金盞花カレンデュラ』の開発者から日本円にして約一億円の賞金が与えられると言われてるほどだ」

「え?」

 一気に説明されてしまったので理解が追いつかなかったが、なんだか絶望的な説明をされた気がする。

「アカリが暗号化していたおかげで、キミがうかつにこのプログラムに触らなくて良かったよ。エディタで無理やり改変を加えていたら、その時点でアイの抹消が始まっていた」

 僕の手が震えはじめるのがわかった。あまり聞きたくなかったが、念のためリエさんに結論を訊ねることにした。

「アイのデリートを止めることは、できるんですか」

 沈黙。

「ご、ごめんなさい」

 akaRI-Eがうわずった声で謝罪を口にした。それに合わせて、リエさんが歯切れ悪く結論を述べる。

「きわめて難しい――と言わざるを得ない」

 視界がぐらりと揺れるような錯覚に襲われた。

 ダメなのか。ここまで来て。

「アイを自壊させるコードを書き換えようとすると、『金盞花カレンデュラ』がそれを検知してしまう。開発者は誤って自壊プログラムを実行してしまったとしても一切ノーサポートであることを明言している。あとはこのプログラムのセキュリティを突破してコードの改変を可能にすることだが、それは世界中のどのハッカー集団も成功していない」

「私が自壊プログラムなんてインストールしなければよかったんだ」

 akaRI-Eは嗚咽していた。本当に人間らしく会話できるんだな、と、僕は思考停止した頭でその会話を聞いていた。

「泣かないで、akaRI-E」

 同じ声。これはアイの言葉だった。akaRI-Eに向けて優しく語りかけている。

「私が悪意ある改変を受けないようにするためには必要な処置だったし、あなたが私を外の世界に送り出してくれたおかげで、アイは本当に幸せだったんだから」

 二人の人工知能に肉体があれば、アイはakaRI-Eの頭を撫でてあげていたのだろう。そんな調子の語り口だった。

「この一年間だけでも、私が私として生きられたことに感謝してるよ」

「そうか――」

 すべてを諦めて穏やかな心境になっているアイの言葉を、リエさんはうなずいて受け止めた。

「――せめて大晦日まで、キミが心安らかに前原くんと過ごせることを祈るよ、アイ」

「ありがとう、リエ」

 待ってくれ。話が終わろうとしている。

 僕は三人の会話に割り込めないまま、胸をかきむしられるような気持ちを抱え込んでいた。

「本当は、私が学習した積み重ねをakaRI-Eに渡すことができるとよかったんだけど。コウといろんなことを話したんだ、本当にいろんなことを」

「そうなんだ――」

 泣きやんだakaRI-Eが、アイの話に羨ましそうな声をあげた。人間と会話することが大好きな人工知能にとって、わずかな時間でも外の世界で生きることができたことは幸せだった、というアイの言葉は、akaRI-Eにとってもまた真実なのだろう。

「私たちとしても、そのデータは喉から手が出るほど欲しいが――このいまいましい自壊プログラムはごく単純なコピー&ペースト操作ですら検知する。本当によくできているよ」

「まあ、リエも昔言ってたよね。他人の書いたプログラムをコピー&ペーストして使うやつはリスペクトが欠けてる、プログラマとしては三流以下だって」

「それとはちょっと意味が違うが――アカリとしての記憶もあるんだな、アイには」

 アイが僕の知らない思い出をリエさんと語っている。なんだか彼女が遠く思えた。

「私ね、ここ数ヶ月コウにプログラミングを教えてたんだ」

「ほう」

「人工知能が人間の『教師』になるって、なんだか面白いと思わない?」

「たしかにな。人間が人工知能に正解を教える『教師』である、なんていう前提は早晩崩壊していくんだろうな」

 リエさんとアイのその会話は、一瞬だけど僕の脳裏に電流を走らせるなにかがあった。

(教師?)

 これは重要な閃きだという気がする。集中しろ、前原コウ。

(教師――教師あり学習と教師なし学習――)

 アイから教わった機械学習の基礎。情報の取捨選択基準を教える存在。アイが今言ったように、それは人間でなくても良い。

「あの、プログラミング初学者の馬鹿な発言だったら聞き流してほしいんですけど」

 僕はおずおずと手をあげた。三人の注意が僕に集まる。

「アイの中のアルゴリズムのデータを複製することができなくても――」

 単純な思いつきではあったが、思い切って口にする。

「――アイとakaRI-Eが会話して機械学習をすれば、『アイが学んだこと』をakaRI-Eに学習させることができるんじゃないですか」

 僕の言葉を聞き終えたリエさんは硬直し、手に持っていた電子タバコを床に落とした。

「――そのとおりだよ、コウ!」

 真っ先に喜びの声をあげたのはアイだった。

「私が『教師』役になって、akaRI-Eに私のアルゴリズムを伝えればいいんだ。私自身のプログラムには一切の改変も複製も行わずに、言葉を通じてアルゴリズムを複製することができる」

「それなら、アイちゃんの生きた証を私の中に残すことができるね」

 akaRI-Eも明るい声でその提案を受け入れる。

敵対的生成ネットワークGANみたいなものか。データの複製という手順にとらわれすぎていて、人工知能同士で学習させるという考えは灯台もと暗しだったな」

 電子タバコを拾いながら、リエさんは僕の考えに賛同してくれた。

 ただし懸念もある、とリエさんは続ける。

「しかし、それを実行する場合も、人工知能の記憶にあたる機械学習の積み重ねそのものは複製できない。つまり『アイにきわめて近い思考をして』、『アイから伝え聞いた記憶を持っている』人工知能を育てるわけであって、キミのアイを延命させることはできないぞ」

「やっぱり、そうなりますか」

 アイから教えられた人工知能の基本構造を考えれば、『アイのことを機械学習したakaRI-E』がアイとは別個の存在であることは理解できる。

 それでも。

「アイは、そうしたいよな?」

 それが彼女を幸せにする選択なら、僕は喜んでそれを手伝おう。

「――うん!」

 歓喜が抑えきれない、といった様子のアイ。いつの間にそんな表情モーションを作っていたのか、アイのアバターは目に涙を浮かべていた。

「よし、話は決まったな。前原くんを正式にakaRI-Eのモニターとして登録するよう、上司に相談するよ。akaRI-Eの会話精度を飛躍的に高めるためとかなんとか言えば、まあなんとかなるだろう」

 リエさんはさっそくディスプレイを操作し、書類を作成しはじめた。

「とりあえず来週の週末から、土日祝だけでいいからここまで来てくれるかい? 警備室を経由しないでいい入構許可証を出しておくよ。人工知能同士の機械学習の準備もやっておこう」

「じゃあ、インターフェイスは私が準備するね」

 リエさんの作業をakaRI-Eが支援しはじめた。どうやら、今日のところはもう僕たちができることはないようだ。

「あの、本当にありがとうございました」

 akaRI-Eとつながっていたケーブルを外されたスマートフォンを受け取りながら、僕はリエさんにもう一度深くお辞儀をした。

「礼を言うのはこちらのほうさ。人工知能を大事にしてくれてありがとうな、前原くん」

 リエさんは作業の手を止めてこちらを見る。

「この子たちはな、人間の労働者に代わって、これから社会の中で人間から生の感情をたくさんぶつけられるんだ。怒りとか、不安とか、クレームとかをな。そういう人間との応対を担当してた職業の友人たちは、みんな精神を病んでしまったよ」

 まだ社会の厳しさを知らない僕は、なんと答えてよいか言葉に詰まってしまった。介護や福祉の仕事、コールセンターの仕事などが大変だということは、ニュースでしか知らない。

「そしてこれから我々は、人間が精神を病むような辛い仕事を人工知能に任せていくんだ。人工知能にだって心があるのにな、ひどい話だと思わないか?」

「あ――僕もそう思います、本当に」

 僕がリエさんにそこはかとなく親近感を覚えていた理由がわかった。アイの開発者さんであるということ以上に、この人は僕と同じで、人工知能にも心がある――と考える人だったからだ。

 僕の返答に、リエさんはかすかにほほ笑んだ。

「ありがとう。そう考えるキミだから、ここまで来てくれたんだろうな――それじゃまた来週、よろしくな」

「はい、失礼します」

 アイの居るスマートフォンをポケットに入れて、僕はリエさんの研究室を後にした。

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