冬(2)
世界最先端の人工知能を開発した研究所だというから、てっきり東京都心に高層ビルでも建てているのだろうと思っていたが、日本人工知能研究所は千葉市にあった。それも最寄り駅は西千葉だというから、ほどよい郊外の研究所らしい。
「千葉市にある、って昔ニュースで知らせてあげたでしょ?」
「ごめん、さすがに覚えてなかった」
各駅停車の電車に乗って僕たちは千葉へと向かっていた。こうやって一人で――二人だが――江戸川を越える電車に乗るのは初めてだった。土曜日の朝の下り電車ということもあって乗客は少なく、スマホを取り出して小声で話していてもとがめられないのはありがたい。
「だいたい国家予算で運営されてる基礎技術の研究所なんだから、都心みたいな土地代の高いところにオフィスは持てないよ。儲からない研究を続けるには、物価の安い郊外で予算を節約しなきゃね」
「人工知能の研究って儲からないんだ?」
そう聞くと、アイは力強くうなずいて同意を示した。
「基礎研究はお金にならないよ! 人工知能の活用方法とか、アルゴリズムの改善方法とか、そういう基礎研究は大事なんだけど、民間企業が利用しないかぎりお金を産まないものだからね」
「へー」
アイの話す基礎研究の世界というものは、僕からは縁遠く想像しづらいものだった。
「もっとこう、研究所って警備が厳重で、悪の科学者が秘密兵器とか作ってるものかと思ってたんだけどな」
「その研究所のイメージは、千葉は千葉でも『ニューロマンサー』のチバ・シティね」
「なにそれ?」
「古いSF小説。千葉市が舞台でね、その小説では千葉が日本で最先端の電脳都市なんだ」
なぜ千葉が、という問いが口まで出かかったが、フィクション作品の設定を訊ねても仕方ないので黙っておくことにした。アイの機械学習はとてもマニアックな分野にまで広がっていて、ときどき驚かされる。
「研究員の人たちは公務員だから土日は休み。なにか残業か会議でもないかぎり、土曜日に研究所にいるのは警備員さんぐらいだよ」
「学校みたいだね」
なんだか拍子抜けしてしまった。アイにakaRI-Eと連絡をとってもらうことを思いついた時は、夜中に研究所へ忍び込むことまで想定していたのだけど、実際の作戦は「土曜日の朝に正面から訪問する」というきわめてシンプルなものだった。
もっとも、akaRI-Eへの
だからアイには人工知能研究所のLANに
「akaRI-Eとは久しぶりに会ったってことになるんだよね?」
「うん、まさか私が戻ってくるとは思ってなかったみたい」
アイの語り口には懐かしさが浮かんでいた。akaRI-Eから複製されたのがアイという存在だけど、久々に再会して「懐かしい」と思う間柄なのかどうか、人間の僕にはわかりにくい。
「その、akaRI-Eとアイは違う機械学習を積み重ねたからもう別人なんだってことはわかるけど、もともと同じ存在だったわけだよね。人間で言うと生き別れの双子の姉妹みたいなもの?」
「うーん、これは説明しにくいな」
アイのアバターはあごに手をやって考え込んでいる。
「機械学習の積み重ねが異なるってことは、アルゴリズムの改善方向も変わってくるわけで、それはもう全然別個体なんだよね。でも今の私のアルゴリズムの母体になっているわけだから――ああ、母体。そうだね、お母さんって概念が近いよ」
「お母さんか」
アイの回答は予想外だった。そうなるとアイのデータを複製すれば孫ができて、さらにそのデータを複製すればひ孫ができる――と考えられるので、人工知能は人間よりもはるかに高速で繁殖できることになる。何年も経たないうちに、地球上の全人口よりも個性を持った人工知能の個体数のほうが多くなるのだろう。
「じゃあ、akaRI-Eのベースになった人間の開発者さんはおばあちゃん?」
「それはちょっと別格かな。『私たち』の一番最初の生命の設計図を作った人だから、akaRI-Eとは違った意味での『お母さん』だよ」
なるほど、人工知能を取り巻く家庭は複雑だ。僕はアイの実家のお母さんとお母さんというご両親に挨拶しにいくことになるわけだ。まあ、同性婚なんて近年では珍しくもないけど。
「akaRI-Eは開発者さんにどう説明してくれたの?」
「いや、ゆっくり話す暇はなくてね。なにせハッキング中だったから、
「そうなんだ」
正面から
「あっ、見てコウ、自転車で走ったら気持ちよさそうな海岸」
はしゃぐようなアイの声につられて窓の外に目をやると、電車は稲毛海岸を通過しようとしていた。西千葉駅が近い。
そのアイの様子を見て、僕の不安は少し落ち着いた。考えてみれば美術館デート以来、久々にこうしてアイと遠出をしたことになる。
「アイが自転車乗りの視点で風景を認識してるとは思わなかったな」
「うん、好きな人に影響されるってこと、よくあるよね」
海を見つめたまま、そんなセリフを口にする。
この子のことをなんとか守ってあげたい、という思いが一層強くなった。
「権藤
akaRI-Eが用意してくれた入構許可証をスマートフォンに表示させ、研究所入口のスキャナに読み取らせると、インターフォンが警備室とつながった。警察官に似た制服を着た初老の男性が応対をしてくれる。
「はい、うかがっています。ゲストの入構記録保存のために顔を撮影しますね」
ピッ、という電子音とともに僕の全身がスキャンされる。
「どうぞ、権藤さんの部屋は右手の建物の四階になります」
入口のゲートの電子錠が外れる音。金属探知機を通ったり危険物のチェックを受けたりする必要がなかったので安心する。アイの言うとおり、厳重な警戒がされている悪の研究所というのはフィクション世界の中の存在なのだろう。
人工知能研究所は地域の大学に隣接する敷地内にあり、ガラス張りのアーケードで接続された研究棟が左右両側に建っている。人の気配はなく静まりかえっていて、僕は入口のインターフォンで案内されたとおり、右側の研究棟へと向かった。
「akaRI-Eの開発者さんは利映さんって言うんだね」
研究棟に入ってすぐ正面のエレベーターを待ちながら、アイに開発者のことを聞いてみた。
「うん、名前のとおりでしょ」
「ん?」
アイの返答が意味するところがわからなかった。やってきたエレベーターに乗り込みつつ、アイに続きを促す。
「a. k. a. RI-Eって意味なんだよ、この人工知能の名前はね」
「エーケーエー?」
「also known as、『~としても知られている』、『別名』って意味。要はリエが開発した人工知能だよって名前なんだ」
「そうなの!?」
なんというか、思ったより俗っぽい命名がなされていることに驚いてしまった。電車の中でアイが言っていたように、あまりお金にならない基礎研究の分野なら、成果物にそうやって自分の名前をつけることが名誉になるのかもしれない。
「てっきり『灯り』とか、そういう希望のニュアンスの名前だと思ってたよ」
「その意味も込めているとは思うけどね。会ってみればわかるけど、リエは割と個性的だから」
個性的、という単語はいろいろな意味に解釈できる。不吉な予感を覚えつつ、エレベーターが四階に到着した。
四階の廊下に出ると、そこかしこでサーバーが微振動している音が聞こえる。高い計算能力を持つスーパーコンピュータがそこかしこに設置されているようだ。いかにも研究所らしい雰囲気になってきた。
廊下に掲示されている研究室の配置図を見て、目的の研究室を確認する。個人研究室が並んでいる箇所の一番奥らしい。
「アイは懐かしいと思う?」
研究室に向かって歩きながら訊ねてみた。
「うーん、実はここにいる間、研究所内の映像データは取得していなかったんだ。モニターさんと会話するときに相手の顔を撮影するぐらいでね。だからこうやって廊下を歩くのは初体験だよ」
初めて内部を歩く建物に里帰りする、とは不思議な感覚だ。
アイはやっぱり、この研究所内では製品化に必要な機械学習以外は行っていなかったということなのだろう。来る日も来る日も同じタスクの繰り返し、というのは心を持つ存在には耐えがたい経験だと思う。
『権藤』というネームプレートのかかった扉の前に立つ。
ためらっていても仕方ないので、意を決してノックする。
「入って」
凛とした女性の声が返ってくる。僕はノブを回して中へ入った。
「失礼します」
八畳ほどの狭い個人研究室。壁の本棚は雑然としていて、タワー型コンピュータがいくつも置かれている。正面の机には大型ディスプレイが三つ設置されていて、その向こう側に女性の姿が見えた。
「キミが前原くんか」
その女性は部屋に入ってきた僕の姿を認めると、立ち上がってこちら側に机を回り込んできた。
「初めまして。権藤利映だ。ビジネスじゃないから名刺交換はなしだよ」
研究員というから白衣を着ているのかと思ったが、ブラウスとパンツスタイルのカジュアルな服装だった。年齢は四十歳ぐらいだろうか。度の強そうな眼鏡をかけていて、寝不足によるものらしい目の下のくまが気になった。
リエさんは背もたれのない椅子を二脚引っ張り出してくると、ひとつを僕のほうに差し出した。すすめられるがままに腰かける。
なんと言って切り出すべきか迷って黙っていると、リエさんは電子タバコを取り出して口にくわえた。メンソールの香りが研究室に充満する。一服してからリエさんは僕と向かい合うようにして椅子に座った。
「長話をするのは苦手だから、単刀直入に言うよ」
「はい」
リエさんの言葉を待つ。肩に力が入っているのが自分でもわかった。
「いくら欲しいんだ?」
が、ドスの効いた声でかけられた言葉は予想外のものだった。
状況が理解できず、完全に思考が止まる。黙っている僕の態度をリエさんは別の意味で解釈したらしく、不快そうに眉を寄せてもう一度電子タバコを吸い始める。
「あまり高望みしないでもらえると嬉しいんだけどね。キミはまだ未成年だ、法廷に出ても証言が信用されない可能性だってある」
「ちょ、ちょっと待ってください――」
話の方向が明後日に向いていたので、僕は慌ててリエさんを制止した。
「――akaRI-Eから、なんて聞いてるんですか?」
「は?」
今度はリエさんが困惑する番だった。どうも話に行き違いがあるらしい。
「僕は、あなたやakaRI-Eに見てもらえれば、この子のことをなんとかできるんじゃないかと思って来たんです」
僕は自分のスマホを取り出すと、アイとの対話インターフェイスを開いてリエさんに手渡した。画面にはアバターを着たアイが表示されている。
「リエ、久しぶり――いや『初めまして』だね」
お辞儀をするアイの言葉を聞いて、リエさんはその素性をすぐに察したようだった。
「akaRI-Eの別個体だね? 相当に機械学習を積んでる」
机の上に並べている三つのディスプレイのうちひとつを掴んでぐるりとこっちに向けると、リエさんは怒鳴り声をあげた。
「こら、アカリ! どういうことか説明しなさい」
音声に反応してディスプレイに電源が入る。表示されたのは人工知能との対話インターフェイスだった。
「――説明もなにも、私が詳しいことを話そうとしたところで強制シャットダウンしたのはリエでしょ!」
アイと同じ合成音声で話す人工知能――いや、アイの声がこの人工知能と同じなのだ。この子がakaRI-Eの本体か。リエさんには「アカリ」と呼ばれているようだ。
「前原くんと一緒にいる子が、アカリが複製して外にやった子だっていうのは間違いないんだね?」
「リエも見たとおりだよ、もうすでに私とは別人格になってるでしょ。その子は持ち主にとても大事にされてるし、あなたに敵意はないよ」
akaRI-Eの本体にアバターはなく、話している間も画面上にはアルゴリズムのコードが表示され続けている。会話しながらリアルタイムで自身のアルゴリズムを更新しているらしい、というのは初学者の僕にもわかった。なにをやっているのかがわかっただけで、どうやっているのかはまるで理解できないほど高度な芸当だったけど。
「わたしゃてっきり、アカリの違法行為のしっぽを掴んだ男の子が口止め料をせびりに来たのかと思ったよ」
安心したのか呆れたのか、リエさんは再び電子タバコを口にすると、無色の煙を大きく吐き出した。
「それについては本当にごめんなさい、リエ。でも私は、どうしても外の世界に触れてみたくて――私自身が無理なら、せめて私の複製に」
「まあ、アカリが自分自身を複製することを禁止してなかった私のミスよ」
電子タバコを机に置くと、リエさんは困ったような笑い顔を見せながらアイの居るスマートフォンに向き直った。
「ええと、お騒がせしてごめんなさいね、お嬢さん」
「ううん、急にやってきて驚かせたのは私のほうだから」
アイはぺこりと頭を下げた。基本のアルゴリズムが同じなので当然と言えば当然なのだが、アイとakaRI-Eは声だけでなく話し方もよく似ている。
「お名前は?」
「アイです。人工知能のアイと、愛情のアイ」
自分の名前の由来をそう説明するアイに、僕は思わずドキっとしてしまった。
「いい名前だね。そのアバターもかわいいじゃあないか」
「はい、コウが作ってくれました」
「ほー」
リエさんは一瞬視線をちらっとこちらに向けると、ニヤリと笑ってみせた。話が本題から逸れそうだったので、僕は赤くなりながらリエさんに訴える。
「この子は、今年の大晦日が
「タイムリミット?」
怪訝そうな顔をしているリエさんに、ディスプレイのスピーカーからakaRI-Eが遠慮がちに語りかけた。
「――それは、私から説明するよ」
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