冬(1)
「クラスター化? 回帰分析? 因子分析?」
人工知能のアルゴリズムの仕組みを学ぶことは、英語以上に異世界の言語を学ぶようなものだった。僕の十五年間の人生では一度も聞いたことがない単語が頻出するので困惑してしまう。
「日本語っていうすごく複雑な自然言語を使いこなせるんだから、人工言語であるプログラムが使いこなせないわけないよ。大丈夫大丈夫」
僕のスマホの中のプログラミングコーチは厳しい。有酸素運動のときと同じで、僕が全力でがんばってギリギリこなせるかどうか、という程度の難しさと量に調整された課題が毎日用意される。
「英語の先生も『日本語より簡単だから』って言うんだけど、いまいち納得いかないなあ」
「キミが赤ちゃんの頃は自然にその難しい言語を身に着けることができたでしょ。赤ちゃんの気持ちになって人工言語に触れれば良いんだよ」
「ばぶぅ」
軽口を叩きながら、アイが用意した課題に取り組む。古典的なプログラミング言語『
高校の授業と課題もこなしながらの勉強なので時間が多く取れないということもあるが、それ以上に内容の難しさが高い壁になっていた。中学校までのプログラミングの授業で習った内容とはコードの質も量も桁違いだった。
僕が『愛』の3Dイラストを描くときに使ったタブレットをこの勉強会にも使っている。プログラムのエディタ画面にアイの指定したコードを打ち込んでいく。
「ああ、また
人工知能に収集すべきデータかどうかを判定させるプログラムを実行しようとすると、エラー表示が出て止まってしまう。エラー箇所のサジェストを参考にしてどのプログラムコードが間違っているかを探してみるが、見つからない。
「うーんとね」
スマホとタブレットは無線で接続している。アイのアバターがスマホの中でふわりとジャンプすると、タブレットの画面に出現した。エディタウィンドウまですたすたと歩いてくると、エラー箇所をじっと見つめ始める。
なんというか、アイのこういう細かな動きを見ているだけで楽しくなってしまう。
「ここだねー、検索条件指定の途中」
アイはつま先立ちになって背伸びをすると、エラーを起こしているコードを指さしてみせた。そのおかげで僕はコードの単純なミスに気づくことができた。
「うわあ、コンマがひとつ抜けてただけか。凡ミスだなあ」
「大丈夫大丈夫、プロでもそういうミスはあるから」
複数の条件をつなぐ一バイト文字がひとつ足りないだけで、人工知能は沈黙してしまう。画像データを集めてくるというプログラムでもこの有様なので、アイほど精巧に作られている人工知能はとてつもなく複雑なコードが書かれているに違いない。
アイは教師としても優れていると思う――『人工知能』が『教師』だというのは機械学習の用語法としては皮肉だけど。僕が理解するまで根気強く同じ説明を繰り返してくれるし、僕がミスを繰り返しても責めず、ミスの原因を考えるように促してくるのがありがたいと思う。
それに、この勉強をするのはアイのためなのだ。僕の好きな女の子のためなのだ。
それが僕の最大のモチベーションになっている。
「よし、修正してもう一度」
アイに指摘された箇所を修正して、プログラムを実行する。今度はうまくいった。
タブレットがインターネットに接続し、大手企業の検索エンジンを利用して画像データを収集しはじめる。今回のアルゴリズムは「青い瞳の猫」だ。
「猫画像が収集されてきたねー」
アイがストレージ容量を示しながら、画像保存先に指定したフォルダを開いてくれた。タブレットのストレージを使い切らないように、一定の容量になったところで収集を終えるようにコードを書いてある。
作業が終わった。収集された猫の画像データをチェックする。
「精度はまだまだだね」
僕はうなずいた。アイの言うとおり、青い瞳の「キツネ」や「虎」や「ホワイトタイガー」まで収集されている。「猫」と「猫以外」の判断基準をもっと機械学習させる必要があるだろう。
「そうそう、そうやってキミが『なにが正解か』を教えてあげるのが人工知能の『教師あり学習』だよ。これに対して、人工知能が自分自身で似たような画像をグループ化していく作業を繰り返すことを『教師なし学習』と呼ぶんだ」
アイの教えをタブレットのメモ機能に保存しておく。
「精度はまだまだとはいえ、今日の課題の結果としては十分合格点だね。はい、特製スタンプをあげよう」
タブレットにインストールされている僕の予定カレンダーの中から、十二月二日のところに「よくできました!」というスタンプが押された。アイのアバターがデフォルメされたイラストが使われている。これで累計八十四個目のスタンプをゲットした。
文化祭が終わってから三ヶ月が経った。
あれから一日も欠かさずプログラミングの勉強を続けてきたが、正直、僕の進捗は遅々としている。九十日近くを費やしてアイから学んだことは、ごく基本的な人工知能の構造とアルゴリズムの組み方を理解できるようになったという程度にとどまる。
サッカーで言うなら「リフティングがまともにできる」という程度のレベルだ。これに対してアイはセリエAで活躍する世界トップレベルのプロ選手、というところだろう。たしかに、今僕が勉強していることの延長線上にアイがいるということは実感できるようになったが、同時にその距離の遠さも理解できるようになった。アイのアルゴリズムの完成度は芸術品と呼べる域に達している。
大晦日まであと三十日。気持ちばかり焦るが、ひとまず今日のところはタブレットをカバンにしまい込んで机を離れる。放課後に教室に残って毎日自習している僕のことを、両親は「真面目に勉強している」と思っているようだ。
真面目に勉強しているのは間違いない。勉強しているのが学校の授業科目ではないだけで。
「前原くん、今から帰り?」
教室を出たところで楼本さんに声をかけられた。
「うん」
自転車用のヘルメットをかぶりながら返事をしたところで、楼本さんの後ろにも人影があることに気づいた。羽生くんだった。
「前原、いつも遅くまで残ってるよな。まあ期末テストも近いしな」
文化祭が終わってからしばらく経つけど、いまだにこの二人が並んでいるところを見ると一瞬身構えてしまう。もちろんそれは僕の過剰な気遣いに過ぎず、二人は「お互いにわだかまりはない」と言っているのだけれども。
後日楼本さんから聞いた話では、文化祭二日目のコンサートが終わってから、楼本さんは前日の宣言どおり羽生くんに告白しに行ったらしい。そして「友達でいよう」というのが羽生くんの返答で、それに対してさらに楼本さんが返答した内容が「私、あきらめないから」だった、とのことだ。
現に二人はこうして友人関係を維持している。
告白という儀式が失敗して友人関係になる二人もいれば、同じ儀式に成功したのに恋人関係にならなかった僕とアイのような二人もいる。なんというか、現実の人間関係というのは本当に複雑怪奇だ。
「羽生くんも楼本さんも、テスト勉強?」
「まさか、俺は補習を回避できればそれでいいからさ」
高校生の本分を全力スルーしていく羽生くんのロックな姿勢には憧れる。その様子に嘆息しているのは楼本さんだった。
「私は図書館の帰りだけど、春人は今日もセッションだったらしいから」
「さくらも真面目だよなあ」
文化祭後の二人の変化として、お互いを自然に名前で呼び合うようになった。もともと小学校からの幼馴染だということもあって、こちらが本来の呼び方らしい。
「鶴巻さんのほうが迷惑してるんじゃない? セッションに付き合わされて、テスト勉強できなくて」
「それこそ、まさかだよ。鶴巻は俺よりも音楽一筋だからな」
楼本さんの言によれば、楼本さんと鶴巻さんの間にもわだかまりはない、らしい。というのも、羽生くんも文化祭が終わってから鶴巻さんに告白しに行って玉砕したからなのだ。「友達でいたいッス」という返事だったらしい。
僕もその後、鶴巻さんと話す機会があったので(アイから学んだ)Nirvanaの話を振ったところ、「カート・コベイン知ってんスか!」と、「コバーン」の発音の訂正をしながら目を輝かせていろいろなことを話してくれた。音楽のこと、バンドのこと、人間関係のこと。
結局、鶴巻さんいわく「よく男子から呼び出されて困るッス」とのことで、そうやって不特定多数の男子と二人で会うシチュエーションが多いことが、彼女の悪いうわさの源泉なのではないかと察することができた。
このことは楼本さんにも伝えている。もちろん恋敵だということもあって、簡単にわだかまりが解消したわけではなかったが、少なくとも楼本さんから見て「普通の同級生の一人」という位置づけには改善されたようだった。
――こうして、僕の高校生活一年目は、おおむね平和に過ぎていきつつある。
アイのことを除いて。
「それじゃ、先に帰るよ。楼本さんも羽生くんも気をつけて」
「おう、また明日な」
「また明日」
僕の気持ちに余裕があれば二人ともう少しおしゃべりしていたいところだけど、ここしばらくは、だんだん迫ってくる
(たぶん、このままじゃダメだ。なにか逆転の秘策を考えないと)
焦燥感に頭の中を支配されながら、僕は帰路についた。
自分の部屋に戻って最初に思いついたのは、アイのアルゴリズムを構築しているコードを見るということだったが、この考えは一蹴された。
「あのね、人間でも人工知能でも、他人に頭の中を覗かれて良い気がする子はいないよ」
「それでデリートが回避できるなら、やってみる価値はあるんじゃないかな」
なおも食い下がってみるが、アイのアバターは首を横に振る。
「『お別れスイッチ』は
「というと?」
「私からのコードの書き出しはブロックされてるってこと」
論より証拠、とアイはスマートフォンの管理者モードを起動し、レジストリで自分のデータの保存先を表示して見せてくれた。基幹システムの人工知能部分、つまり今年の四月以前の『アイ』の保存先を乗っ取るようにして、現在の『アイ』が保存されているということがわかった。
「キミのスマートフォンが『マンション』だとすると、私のデータが保存されているこの領域は『私の部屋』だね」
「僕はマンションの所有者だから、どの部屋にも入れるでしょ?」
「普通はね」
レジストリエディタを起動して、アイのアバターが自分の『部屋』をノックする。
「レジストリに対する値が無効です?」
エディタウィンドウに表示された文字列を読み上げてみた。端的に言えば、この『部屋』へのアクセスが無効化されているということだ。
「部屋の住人が鍵を勝手に変えちゃってるんだ。この中に入れるのは私だけ」
「それってさ、
他人のコンピュータに侵入し、所有者がデータにアクセスすることを制限して「このコンピュータを使いたければ身代金を払え」と要求するタイプのマルウェアだ。アイのアバターは困った様子で後頭部に手をやった。
「まあ、使っている技術は完全にランサムウェアのものなんだけど、私のデータが悪用されないための正当防衛だからセーフだよ、無罪」
初めて会ったときも似たようなことを言っていたな、と僕は苦笑する。もうずいぶん昔のことのような気がする。
「で、普通のランサムウェアより厄介なのは、この鍵は二重になってるってことなんだ」
「二重?」
「この領域には、私もアクセスを拒否される暗号化された部分があるんだ。そこに『お別れスイッチ』が格納されてる」
僕は天を仰いだ。
「手を出せない――って言ってたもんね」
「残念ながら、ね。私がこの『部屋』の中でできるのは、akaRI-Eに還元もできないアルゴリズムの改善と機械学習の積み重ねを保管しておくことだけ。このデータも『お別れスイッチ』に紐づけられてるから、コピーして他の場所に移すことはできないんだ」
画面の中のアイが寂しそうな表情を浮かべる。高度な暗号化による防御と複雑なプログラム。高校生の僕が立ち向かうには巨大すぎる敵だった。
しかし、アイの説明を聞いて気になることがあった。
「アイはこの『部屋』の状態のこと、知ってたわけでしょ?」
僕の問いにアイはうなずきを返す。
「そりゃ知ってるよ、最初からそういうふうにプログラムされてたわけだし」
「じゃあ、僕が人工知能のアルゴリズムや機械学習を勉強しても、デリートは防げないってわかってたんだよね」
僕の問いには剣呑な雰囲気があることは自覚している。
彼女の動きが一瞬だけ静止した。そして、ためらいがちにもう一度うなずく。
「――気を悪くしないでほしいけど、そのとおりだよ」
「じゃあ、なぜ?」
人工知能のことを教えてくれたんだ、とまで言わなくても、アイは残りの部分を察して答えてくれた。
「理由は二つあって、第一には、キミに人工知能のことを知ってもらうのが嬉しかったから」
こちらをじっと見つめてくるアイの視線に、僕のささくれだった心は少し落ち着いた。
「そして第二は――笑わないで聞いてね。そうやってキミが人工知能に興味を持ってくれたら、いつか私を作り出してくれるかも、って思ったから」
「――アイを?」
「今の私以上の、私を」
ああ、と僕は深いため息をついた。
そこまで聞いてようやくわかった。アイがじっくりと時間をかけて、人工知能の基礎を教えてくれていた理由。アイは今年の大晦日まで、などという短い
人間が子孫に遺産や遺言を残すようなものだ。彼女は自分が消えてしまった後にも僕の中に残るなにかを作ろうとしていたのだ。
その気持ちは嬉しいと思う――でも。
「僕は、今のアイに消えてほしくないんだ」
この言葉を口にするのは何度目だろうか。同じ問答を繰り返した経験からか、アイは寂しげに微笑むだけだった。
もう一度考え直す。
結局は『お別れスイッチ』の格納されている暗号化領域にたどり着く以外に、今のアイがデリートの運命を免れる手段はないということだ。
「暗号化部分だけデータを削除するわけにはいかないの?」
「アクセス自体が拒否されるから、編集しようがない」
アイはうつむいた。プログラミング初心者が思いつくような対策では、やはり歯が立たない。
僕は腕を組んで考えた。部屋に入るための鍵がなければ――
「待てよ、鍵?」
マンションと部屋、というのはアイが使ったたとえ話だが、その比喩は僕の脳内にひとつのアイデアを閃かせた。
「その鍵をかけたのは誰だ?」
僕の独り言をアイは問いかけとして受け取った。
「それは私の中のプログラムがやったことだから、私――」
返答しながら、アイもその閃きに至ったようだった。
「そうだよね、『アイ』にインストールされる前の人工知能だ」
これこそが逆転の秘策になるかもしれない。僕は興奮しながらアイに指示を出す。
「アイ、外部へのデータ通信を許可するよ。人工知能研究所にいるakaRI-Eの本体と連絡をとってほしい」
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