夏(4)

 教室の窓から外を見ると「桜花祭まであと二十八日!」と書かれた立て看板が目に入った。日付の数字のところはパネルを入れ替えるカレンダー形式になっている。この高校は近くに桜の名所として有名な公園があるので、秋に開催される文化祭ではあるが、桜花祭という名前がつけられたそうだ。

 今日の夏期講習は終わったが、校舎内には冷房が効いていて涼しいので、炎天下に出ていくふんぎりがつかないでいる。

 十年前の世界的なウイルスパンデミック以降、すべての公立の小・中・高校には二段階の換気システムを備えた冷暖房が設置された。教室内の空気を入れ替えるときは換気専用の空間と接続して行うので、教室内の冷気が外に逃げにくい。感染症対策をとりながら快適な気温も維持できるということで、放課後も校舎内に残って自習する生徒は多く、それを推奨する家庭も少なくなかった。

 僕もそういう生徒にまじって参考書を取り出し、自習をするかのような雰囲気を出していたが、雰囲気だけだ。意識はもっぱらスマートフォンの操作に集中していた。

『発信元:ハルト。文化祭でバンド演奏します! みんな見に来てくれよな。写真を送信しました』

 来月に迫った桜花祭で行われる展示について、クラスのNINEグループに宣伝メッセージが飛び交っている。羽生くんはバンドを組んでいる三人組の写真と一緒にステージでの公演予定を知らせていた。

 写真を見る。メンバーの名前だけは羽生くんから聞いていた。

 ベースボーカルが羽生くん。ギターボーカルはC組の女子、鶴巻さん。ドラムはB組の男子、長谷部くん。三人ともスラっとした長身で写真映えがするので、白背景で撮影すればそのままジャケット絵になりそうなくらいだ。楽器を演奏できる人というのはそれだけでモテそうに見えるから不思議だ(そんなわけないだろ、とこの前羽生くんにツッコミを受けたけど)。

 演目一覧に目をやる。最近人気のJ-ロックの曲以外では、Oasisの『Whatever』、Nirvanaの『Smells Like Teen Spirit』――うん、全然わからん。四十年近く前の古典的な名曲らしく、羽生くんに言わせればロック好きを名乗るなら「マストだろ」ってぐらい知名度があるらしい。

「アイは知ってる?」

 ソーシャルディスタンスに配慮された間隔での机の配置のおかげで、声が届く範囲に他のクラスメイトがいないことを確認すると、僕は小さな声で人工知能に呼びかけた。

「私にとって『知ってる』っていうことの定義は『オフラインでもすぐに対応できる話題の辞書の中にあるか』って意味だけど、その意味で知ってるよ」

 常時ネットに接続している人工知能の感覚は、やっぱり人間と大きく異なっているらしい。そりゃそうか、知らない話題でもネットで検索すれば対応できるわけだから、ローカルストレージに保存しておくのは話題になる頻度が高い事項だけでいいのだ。

「昔のロックミュージックの知識がアイに保存されているのは意外だなあ」

「だって、OasisやNirvanaが音楽チャートで活躍してたころに二十代の若者だった人が要介護世代になる時代だもん。若いころによく聞いていた音楽の話をする人って多いから、有名どころのサビはスッと出てくるように機械学習してるよ」

「あー、なるほどね」

 相手の好きなものを自分も好きだと言うことで共感を示す、モテの形式の基本テクニックか。確かに、「そのバンドのことは初めて聞きました!」と回答されるより、「そのバンド知ってますよ! 〇〇って曲が有名ですよね!」と回答されたほうが喜ぶ相手は多いに違いない。

「2030年でも通用する名曲だと思うけど、現代の高校生が興味を持つかというと、うーん――ハルト氏の名誉のために、マニアックな選曲だなー、というコメントにとどめておこうかな」

「フォローになってなくないかな、それ」

 羽生くんのバンドの公演が人工知能による予測をくつがえして大人気になることを願いつつ、アイの言葉の中に気になる表現があったので訊ねてみる。

「アイの言う『名曲』って、いい曲とそうでない曲を判断するアルゴリズムがあるの?」

「あるよ。私にプログラムされている最優先基準は『相手が良いと言っているものを自分も良いと思う』ことだけど、それ以外の音楽とか美術については、再生回数とか閲覧数とか売り上げのデータ上で『良い』とされているものを『名作だ』って判断してる。ハルト氏の演目に入ってる曲は、どっちも過去のミュージックビデオの再生数がものすごいことになってるから、間違いなく名曲だね」

 思ったより俗っぽい判断基準だった。

「ディスクの売り上げ数が多いアニメは良アニメだ、みたいな話だね、それ」

「いやいや、馬鹿にしたものじゃないでしょ。多くの人に鑑賞されている作品には、それだけの良さがあって鑑賞されてるわけだから、『売れてるものは良いものだ』は合理的な判断基準だと思うけどな」

「『埋もれた名作』みたいな、世間では評価されてない良いものが埋もれたままになっちゃわない?」

「そういう作品を発掘する人工知能になるには、それ専門の機械学習が必要ね。音楽のフレーズとか絵のタッチとかをデコーディングして、『多くの人の目に触れれば評価されるはず』っていう形式を持った作品を探す作業になるかな。面白そう」

 その作業を「面白い」と言える感覚は僕にはわからなかったが、アイが興味を持ったことに僕の興味も引っ張られた。

「じゃあ今度、美術館にでも行ってみる?」

「え」

 実のところ、僕は人生で一度も美術館という場所に行ったことがない。だからこの誘いはまったくの気まぐれでしかなかったのだが、アイの食いつきは想像以上だった。

「行ってみたい!」

 目を輝かせて、という表現ができそうなくらい明るい声のトーン。ここまで反応されては、「実は美術館って行ったことないんだよね」などと言い出すことはできそうもない。

「じゃあ夏休みが終わる前に、日曜日にでも行こうか」

「うん、ありがとう! デートだね!」

「グフッ」

 不意をつかれると変な笑い声が漏れてしまう癖があることを僕は自覚した。

 そうか、女性の人格を持つ子と一緒に美術館に出かけるわけだ。デートと言っても過言ではないだろう。でもそうか? はたから見ると一人で出かけて一人でしゃべっているだけに見えるんじゃないか? いや、他人からどう見えるかは重要なことか?

 アイが言うところの「会話力の幅」が僕にはなく、予想外の話題を振られると自問自答が始まって思考回路が混乱する。前もこんなことがあったな、あの時は――

「前原くん」

 そう、楼本さんの話を羽生くんにされた時だった。

「前原くん?」

「グフッ!?」

 その楼本さんが僕の前に立っていたことに気づき、本日二度目の変な声を漏らしてしまった。しまった、どのあたりから机の近くにいたんだろう。アイとの会話を聞いていただろうか。

「ど、どうしたの、楼本さん」

「ずいぶん集中してたね。その割に参考書が上下逆だけど」

 からかうように楼本さんは笑った。

 本当だ、机に出しておいた英語の参考書が上下逆になっている。自習をしている雰囲気すら出せていなかった。僕は顔を赤くした。

(焦らない焦らない。楼本さんはキミを注意しにきたわけじゃないんだから)

 アイのささやき声がイヤフォンから伝わってきた。

 そのとおりだ。別にカンニングを見つかったわけでもないのだから、焦って隠す必要はない。少し気持ちが落ち着いた。

「いや、今日の授業で出てきたto不定詞の話が複雑だったから、逆から読めばわかるかなって思ったんだよ」

「なにそれ、勉強法としては斬新すぎるでしょ。前原くんってときどき面白いよね」

「ときどきかー」

 苦しまぎれの軽いジョークだったが、それなりにウケたようだ。ひとしきり笑ったあと、楼本さんは改めて僕の方に向き直った。

「忙しくないなら、帰りにモール寄ってかない?」

「駅前の? うん、いいよ」

 忙しくないことはバレバレだし、そのお誘いを断る理由はなかった。

 しかし何の用事だろうか。平静を装いながら訊ねてみる。

「まだ暑いだろうし、アイスクリームでも食べていく?」

 駅前のモールには人気のアイスクリーム店があって、うちの生徒もよく立ち寄っている。

「それもいいね。ただちょっと、うちの生徒にはあんまり聞かれたくない話だから、アイスクリーム買ってテラス席で話す感じでもいいかな?」

「話?」

 聞きようによっては意味深なフレーズだ。

(さくらもととか、絶対前原のこと好きだと思うんだよなあ――)

 江の島へ行ったときに羽生くんが言っていたセリフがフラッシュバックする。これは、そういうことなのか? いや待て、中学三年生のときの苦い経験を思い出せ。あの記憶を上書きするには、一人で舞い上がって勘違いするという失敗を繰り返すわけにはいかない。アイのアドバイスどおり、まずは落ち着くことだ。そして「モテの形式」に従って行動することだ。

「僕でよければ、なんでも聞くよ」

 受容の姿勢。これが正しい回答のはずだ。

「ありがと。それじゃとりあえず、駐輪場で」

 楼本さんはさらりと返答すると、身を翻して教室を出ていった。運動神経のいい人に特有の身の軽さが楼本さんにはあるよな、と再認識する。

(こういうときに相手を待たせるのはマイナス印象だからね)

 動きが鈍い僕をアイが急かす。

 そのとおりだ。ろくに読んでいなかった英語の参考書を急いでバックパックにしまいこむと、僕は駐輪場に向かって走り出した。


 駅前のモールのテラス席は頭上にシェードが張り出していて日陰になっているうえ、冷却ミストが散布されているので予想以上に涼しかった。

 夕方のショッピングモールを訪れる客は涼を求めて屋内にとどまる人が多く、楼本さんの見込みどおり、テラス席は閑散としている。

「はい、ラズベリー味」

「ありがとう」

 僕の右手のラズベリーアイスを楼本さんに手渡す。彼女の注文の品だ。

 こういう場合、席取りをするのとアイスクリームを注文しに行くのとでは、僕はどっちの役割を担当すべきか迷ったが、アイいわく「断然アイスの注文に行くべき」との返答だった。そういうものか、と納得して二人分のアイスクリームを買ってきたところだ。

 左手の中の僕のバニラアイスを落とさないようにしつつ、小さな円形テーブルをはさんで楼本さんと向かい合う形で椅子に腰を下ろす。北町にあるこのモールのテラス席からは、南北に大きな高低差のある町の様子が見渡せる。日没までには少し時間があるけど、西日が差し込んできていて、なかなかいい景色だった。

「久しぶりに食べた。おいしい」

 付属の小さなスプーンでラズベリーアイスを食べ始めた楼本さんにならって、僕も自分のスプーンをとりあげた。

「今日も暑かったからねえ」

 そう言ってからバニラアイスを口に運ぶ。乳脂肪分たっぷりの甘い味が口に広がる。うまい。

 僕と楼本さんはしばし無言でアイスクリームを食べた。

 心の中では「で、話ってなに?」というセリフが浮かんでくるのを意識的に押さえつけている。話しにくいことなら、話すことを急かすのは「モテの形式」から見て正しくない態度だろう。

「文化祭の展示、前原くんはどうする?」

「ん、展示?」

 ややあって口を開いた楼本さんが触れた話題は、世間話に近いものだった。なんだか拍子抜けしてしまった。

(これが本題じゃないことぐらい察しなよ! 「その話題はどうでもいい」なんて雰囲気を出すのはゼッタイNG。相手が話しやすい空気を作ってね)

 明らかに気が抜けた僕の様子を見て、アイが叱咤を飛ばしてくる。うなじから後頭部にかけている骨伝導イヤフォンの位置を調整しながら、僕はうなずいた。

「中学の時から、美術は壊滅的な成績だったからなあ。なんにも考えてないよ、二年生みたいにクラスで出し物をやるならいいんだけどね」

 僕の高校の文化祭では、一年生は生徒が各自で夏休みに制作した作品を展示、二年生は演劇などクラス単位での出し物、三年生は模擬店やお化け屋敷などをやるのが慣例になっている。要は一年生は文化祭当日にやることがあまりなく、二年生・三年生の企画を見に行くお客さんになることが想定されているのだ。

「私もだよ。いきなりなにか制作しろって言われても困るよね。どうしようかな、編み物とかアリなのかな」

「楼本さん、編み物するの?」

 どちらかといえばカワイイ系ではなくカッコイイ系女子のイメージがある楼本さんには意外な趣味だった。

「大したものじゃないけど、あみぐるみとかね」

「え、写真とかある? 見せて見せて」

 ちょっとわざとらしいぐらいに興味を示す。実際興味はある。

 楼本さんは少し照れながらスマートフォンを操作すると、自作のあみぐるみの写真を見せてくれた。

「こんなの」

 春にやりとりをした、NINEスタンプにもなっているヤマナシさんの動物キャラクターたちだ。化粧品販売のパグさん、筋肉インストラクターのウシさんの二人(単位は人でいいのだろうか?)が白と黒の毛糸で器用に編み上げられていて、ひいき目なしに見てもよくできている。

「めっちゃカワイイね! すごいな、公式グッズって言われても信じるよ」

「そうかな?」

 楼本さんはそそくさとスマートフォンをしまい込んだ。その端末の中にはもっと多くのあみぐるみの写真があるのだろうが、そっちを見せてこないのは楼本さんらしいなと思った。

「展示にはバッチリだよ、それ」

「なんか、私には似合わないかもなって」

「いやあ、似合うとか似合わないとか、そういうこと気にして他人に見せないのはもったいないよ。よくできてるもん」

 さっき(楼本さんのイメージからすると意外な趣味だ)と思った自分のことは思いっきり棚上げして、僕はそう促した。

「うん、ありがとう。じゃあ私の展示はこれにするよ」

 楼本さんが満足そうにうなずくのを見て、ほっと安心する。まずは話しやすい空気を作れただろう。

「僕はどうしようかな。羽生くんに何にするか聞いてみようかな」

「いや、部活動やってる人はそっちの展示だよ。あいつの場合は軽音楽部、バンドの公演ね」

「あ、そうか」

 部活動単位での展示がある場合はそちらが優先される。個人単位で制作物を展示しなければならないのは僕や楼本さんのような帰宅部の一年生だけだ。ロードバイク部(非公認)をちゃんとした部活動として学校に申請しておくべきだっただろうか。その場合もなにを展示するんだっていう問題は残るが。

「しかし羽生くんのバンドはカッコいいよね。女子にモテそう」

 なにげなく僕の本音が漏れたセリフだったが、それを聞いた楼本さんの手が止まった。ラズベリーアイスを口に運ぶ途中で固まっている。

「ん?」

 ただごとではない楼本さんの硬直っぷりに、僕はなにか禁句を言ってしまったのだろうかと心配になった。と同時に、おそらくはこの話題こそが楼本さんの「あんまり聞かれたくない話」で、今日の本題なのだろうということは察しがついた。

「アイス、落ちるよ」

 スプーンが空中で止まっていることを指摘すると、楼本さんは我に返ったようにそれを口に運んだ。一瞬でアイスを飲み込んでから、ゆっくり話し始める。

「――前原くんは、鶴巻さんって知ってる?」

 つい最近どこかで聞いた名前だ、と思っていると、アイのサポートが飛んできた。

(ハルト氏のバンド仲間)

「羽生くんのバンドのギターボーカルの女子」

 これこそカンニングをしているようなものだよな、と思いつつ、アイの答えをなぞって回答する。楼本さんはうなずいた。

「会ったことは?」

「ないよ。今日NINEグループで羽生くんが送ってた写真を見たのが初めて」

「うーん、そっか」

 僕の返答に若干落胆した様子で、ふたたび楼本さんはアイスを食べ始めた。

「その子がどうかしたの?」

 楼本さんが知ろうとしていることは何なのか、突っ込んで訊ねてみる。しばらく言いづらそうな様子をしていたが、周囲を見渡して誰もいないことを確認してから楼本さんが口を開いた。

「あんまりよくないうわさを聞いたから。カレシが二人いるとか」

「えっ」

 羽生くんがNINEに送信した写真を思い出してみる。バンド三人組のセンターに陣取っている栗色の髪の女子。たしかに、かなりかわいい子だったように思う。

(こういう場合の女子のうわさ話、特に悪いうわさは話半分に聞くのが吉だよ)

 反応に困っていると、アイからの高度なアドバイスが聞こえた。女子同士の会話にはまた違った共感のコツがあるらしく、僕の会話術はまだその領域に達していない。とりあえず楼本さんの話を鵜吞みにするな、という結論だけ受け取っておく。

「確かな話なの?」

「確かじゃないから、前原くんならあいつからなにか聞いてないかなって。付き合ってるのかどうか」

 ああ、それが聞きたかった本題なのか、と僕にもわかった。僕が周りに気を遣ってしゃべらない可能性を考えて、あまり人がいないこの場所を選んだわけだ。

「いや、少なくとも江の島サイクリングに行ったときは、カノジョはいないって言ってたよ、羽生くん」

「そうなんだ」

 湘南海岸で水着の女性に目を奪われていた話は伏せておき、あの時聞いたままの話を楼本さんに伝える。これで安心するかと思いきや、楼本さんは複雑そうな表情のまま糖分摂取を再開した。信用されなかったのだろうか?

「嘘は言ってなかったと思うけどなあ」

「ああ、違うの、別に前原くんの言うことを疑ってるわけじゃないの」

 残り少なくなったラズベリーアイスを一気に片付けてしまってから、楼本さんは自分の懸念を話し始めた。

「あいつ――羽生くん、実際かなり音楽の才能あると思うの。それなのにバンド内の恋愛関係のいざこざで音楽やめちゃったりしたら、もったいないでしょ」

「それは確かに」

 と同意する姿勢を示しつつも、僕はまだ羽生くんの歌を聞いたことがなかった。プロで通用するほどなんだろうか。バンドみたいなチームでやる活動で、チーム内に恋愛関係があると面倒だろうということは想像がつくが。

「他はなにか言ってなかった? 気になる人がいるとか、そういう関連で」

「特には思いつかないけど――」

 かなりアグレッシブに質問してくる楼本さんの姿勢に違和感があった。ふだんあまり自分から話題を振るタイプの女子ではないだけに、今日の楼本さんはいつもと違って見える。

「――なんでそこまで気になるの?」

「なんでって――」

 返答に詰まった楼本さんの顔は、一見してわかるほど赤くなっていた。

 その様子を見た瞬間、世界の時間が静止したような感覚に襲われた。これは、中学三年生の時に味わった感覚に似ている。

(あちゃー、それ聞いちゃうか)

 アイのアドバイスの声は、心なしか呆れているようなニュアンスがあった。

 悪いね、状況がここまで至らないと察せなかったよ、と心の中で愚痴を吐きながら、周囲に誰もいないことを再確認して、僕は楼本さんの目を見ながら訊ねた。

「好きなの? 羽生くんのこと」

 楼本さんはますます顔を赤くして、数秒間ためらってからうなずいた。

 正直、その様子はかわいいと思った。こんなかわいい女子に好かれている羽生くんに軽く――いや、結構な重さでジェラシーを感じながら、「モテの形式」に従った会話を組み立てる。

「応援するよ。楼本さんなら絶対うまくいくって」

「あ、ありがとう」

 僕が示した受容の姿勢に、楼本さんはようやく表情を明るくして喜んでくれた。なんだか自分の足元がふらついているような気がして、僕はしゃべり続けることで踏ん張ろうとしていた。

「なにか羽生くんの様子に変わったことがあれば伝えるし、本人にもそれとなくバンド内の人間関係について聞いてみるよ。でもどうかなあ、羽生くんってかなりニブいほうだと思うんだよね」

 自分のことを好きな女の子のことを、他の人が好きだと勘違いするぐらい――という言葉は腹の底にしまっておいた。

「ああ、たしかに春人は、ニブいニブい」

「幼馴染の目から見ても、やっぱりそうなんだ? それは困るなあ。かといって、あんまり僕から露骨に言うのも変に思われるだろうし」

「うん、前原くんが応援してくれてるだけで嬉しいよ。ありがとう」

 内心の混乱をよそに、自分でも驚くほど口から言葉がすらすら出てくる。しかもその表面的な言葉を楼本さんが喜んでくれることに、わりとショックを受けていた。

「恥ずかしかったけど、前原くんに相談してよかったよ。ごめん、今日はもう行くけど、またメッセしてね」

「うん、気をつけて」

 赤くなったままの顔で立ち上がると、楼本さんは足早にショッピングモールの出口へと向かっていった。ウキウキしている、という表現ができそうな足取りだった。

 僕は完全に空白状態の思考でそれを見送る。

(うん、満点の対応だったと思うよ)

 しばらくそのまま固まっていると、アイが話しかけてきた。今はあまり返答する気が起きず、黙ってうなずきながら考える。

 羽生くんを恨むのは筋違いだろう。彼も僕と同い年の高校生男子だ。

 僕が中学三年生の時に盛大な勘違いをやらかしたように、羽生くんも勘違いをしていただけだ。この年代の男子がよくやらかす類の勘違いを。

 それに僕は楼本さんに一目惚れをしていたわけでもない。仲良くなれそうな可能性がある女子だったから、「モテの形式」に従って仲良くなってみようと、そういう思いで人間関係がスタートした仲だ。恋人関係になれるチャンスが相当に低くなったからと言って落ち込む必要はない。仲の良い女子の友達がいるっていうことは、今後僕がモテるために大きなプラスになることは間違いない。

 ――と、言い訳じみた思考を並べてみたが、「そうか、楼本さんが好きなのは僕じゃなく羽生くんなのか」という、言葉にするととても単純なその事実は、少なからず僕の心に喪失感をもたらしていた。

(アイス、溶けるよ)

 アイに指摘されて気づいた。僕のバニラアイスはすでに半分液状化してしまっている。とりあえずスプーンでかき回しておく。

 アイはもっと早く楼本さんの気持ちが向いている方向に気づいていたのだろう。女子の心を察することについては、アイのほうが僕より数枚上手のようだ。ただ、この段階になって「ああすればよかった、こうすればよかった」とアドバイスしてこないあたり、さすが気遣いのプロ人工知能だなと思う。終わったことを悔やむより、次の行動を起こすべきだ。

 いや、終わった、だって?

「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ」

 昔の青春映画のセリフを口ずさんでカラ元気を出す。

(ずいぶん古い映画を知ってるね)

 アイに茶化されながら、重い体を持ち上げて僕もモールの出口に向かう。

 今はその軽口がこころよかった。

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