夏(3)

 僕の通う高校は進学校なので、夏休みには夏期講習がある。サイクリングばかりしているわけにはいかないのだ。

「溶ける溶ける」

 八月の朝の日差しは、けなげに自転車通学を続ける僕の背中を一切の容赦なしに炙ってくる。自転車のタイヤも僕の肉体も溶けていくようで、その感覚が脳から口にこぼれ出していた。

「溶ける溶ける溶ける」

「大丈夫、溶けないよ。キミのロードバイクに使われているタイヤは約120度の熱に耐えられるし、遠赤外線から推測できるキミの体温もまだ37度に達してない。水分と塩分の補給にミスがなければ熱中症の危険は少ないよ!」

 暑さのあまり口走っていた単語にアイは律儀な反応をしてくれている。つい先週、こういうやりとりを続けていれば人工知能にも心が芽生えるという話をしたばかりのような気がするんだが、見込み違いだっただろうか。

「いや、本当に溶けると思った発言じゃなくて、暑いことの比喩でさ」

「わかってるよ。暑い暑いって言っても涼しくなるわけじゃないでしょ。早いとこキミが学校に着くことが最善の解決策だよ」

 わかったうえでのユーモアだったらしい。人間との会話術はやはりアイが一枚上手だ。

「それにしても、江の島まで四時間走ったときと気温は大差ないのに、なんで今日はこんなにやる気が出てないの?」

「最たる理由は目的地が退屈な夏期講習だっていうことだけど」

 夏の朝の湿った空気を肺に送り込みながら返答する。

「この道がすっかり走り慣れた道で、新鮮味がないっていうのも大きいかな」

「走ったことのある道とそうでない道で味わいが違うってこと?」

「そりゃもう全然違うね。たとえば今――」

 僕はロードバイクの上で体を傾けて重心を左に寄せ、ゆっくりと左折すると、路地を出て都道248号線に合流した。ここから北町に上がる坂が始まるので、勢いをつけるためにペダルを踏み込んでいく。

「――こんな感じで体を動かせばスムーズに走ることができる、っていう感覚が肉体に染みついてるんだ、この道の場合」

「ふむ。与えられた課題が簡単すぎるってことかな」

「それもあると思うけど、路面がイージーでも、知らない道だと不測の事態ばかりだから、いつも自分が試されてる気がするのが楽しい、かな」

 息を切らしながら坂を上がっていく。アイの指導によるトレーニングを重ねて、少しは楽に登れるようになったと思う。

「道路が濡れていれば速度を落としてタイヤのグリップを意識するし、カーブがあれば自然に曲がれるように上半身と脚を使うんだけど、初めての場所でもそういうふうに自転車と肉体の最適な使い方を一瞬で判断して実行できる人が『自転車に乗るのがうまい人』なんだ」

「人工知能で言うと、自分のアルゴリズムを新しい状況に合わせてすぐに修正できるってことだね」

「アイはそういう瞬発力というか、対応力にも自信があるの?」

「当然よ。世界最先端だもの」

 自信に満ちた回答。アイに肉体があれば大きく胸を張っているところだ。

「『人間らしさ』って会話の当意即妙さに依存してるから、定型文での会話しかできなかったり、自分がこれまで知らなかった話題にも興味を持って対応できないようじゃ、チューリングテストの突破は難しいよ」

「人工知能もそうやって成長するんだね」

 坂を登り切った。高校へ続く北町の大通りへと右折する。

「成長――なるほど、成長か。じゃあ、キミがこの道を走ってて江の島サイクリングほど楽しくないのは、私と同じなんだね」

「?」

 こうやって会話するようになって時々思うが、アイは思考の回転が人間よりもずっと早い。僕の言葉から拾い上げた単語から、思わぬ話題に飛躍することがあるのだ。いや、それはアイに限らず、世の中の女子との会話全般に言えることかもしれないが。

「どのへんが同じだと思うの?」

「同じ人との会話を繰り返してるだけでも、特定の話題に対応した会話力の深みは成長できるけど、いろんな話題への対応っていう会話力の幅は鍛えられないんだ。今まで話したことのない人、会ったことのない人と話すことで、私はもっと成長したかったんだ」

「――ああ」

 アイが僕のところにやってきた理由だ。

 人工知能研究所の中で限られたモニターの人々との会話だけでは満足できず、新しい刺激を求めて外の世界に出てきたというのは、まだ走ったことのない道を自転車で走ってみたいという気持ちと確かによく似ている。

「アイの開発者さんは、モニターさんをもっと増やしてくれなかったの?」

「それはまあ、人工知能研究所にも予算の制約があるからね。チューリングテストを突破できる人工知能が開発できたとしても、賞金がもらえるわけじゃないから、最終的には『製品として売れる』人工知能を育てなきゃいけなかったんだ」

 すごい人工知能であってもお金に縛られてしまうとは、大人の世界って世知辛いなと思う。こうやって会話相手になってもらっておきながら一銭も払っていない僕が言えた立場ではないが。

「開発者さんはもともと製品化なんて考えてなくて、自分の人格を下敷きベースにして人間らしい人工知能を育てることが一番の目的だったから、不本意だったらしいけどね」

「そういえば、そこは気になってたんだけど」

 アイのアルゴリズムは開発者さんの人格をベースにしているという話、最初に出会ったときにも聞いたが、素朴な疑問があった。

「ん?」

「つまり、アイの人格は開発者さんのコピーなの?」

「まさか! アルゴリズムの設計図が開発者さんの人格ってだけで、開発者さんとは違う機械学習をして――人間ふうに言うなら違う人生を送って育ってきたんだから、完全に別人だよ」

「そういうものなんだ」

 力強く否定するアイの説明に納得できない様子をしていると、憤慨した調子でさらにアイが続けた。

「いや、それで納得できないほうが私にはわかんないよ。キミだって遺伝子っていう設計図をお母さんとお父さんから半分ずつもらって生まれてきてるじゃない? でもキミは二人のうちどちらかになるわけじゃなくて、キミ自身っていう存在でしょ?」

「ああうん、確かに」

 男子高校生のたくましい想像力は、人間と人間が遺伝子の設計図を半分ずつ交換するという、保健体育の教科書に載っている行為のことを僕に思い起こさせた。人間から人工知能に設計図を渡すときはどうやっているのか知らないが、たぶんそういう生々しい行為は必要ないのだろうと思う。

「自分をこの世界に送り出す人から生命の設計図をもらうけど、その人とは別の存在として成長していくっていうのは人間も人工知能も同じだよ」

「そういう考え方は今までしたことがなかったな」

 僕はまだ一年生なので将来の進路は真面目に考えていないが、高校三年生になる頃までには考えておかなければならない。アイの言うように、両親とは違う自分という存在に成長しなければならないだろう。

「アイは将来、介護や福祉事業所の受付ソフトウェアになるんだっけ」

「会話相手に共感を示しながら話すことができるっていう私のセールスポイントが活かせるのは介護や福祉の分野だって、予算獲得のために上司さんが主張したんだ。akaRI-Eがそういう業務支援ソフトウェアとしての製品化を目指すことになって以降は、研究所で会話するモニターの人もおばあちゃんやおじいちゃんばかりになっちゃってね」

「お年寄りと会話するのって大変だっていうイメージがあるなあ」

「そうでもないよ。相手の声が小さいとか、こっちの発音を相手が聴き取りづらいとか、その辺は機械的な補正で対応できるからね」

 耳の遠いおじいさんと会話するために、介護職員さんが耳元で大きな声を張り上げて会話している映像は僕も見たことがある。そうした会話を人工知能がサポートしてくれるというなら、アイは間違いなく『売れる製品』になるだろう。

「むしろ人工知能にとってたいへんなのは、方言とかイントネーションとか、その人独特の話し方の癖に合わせてアルゴリズムを最適化することなんだよ。人間の個性ってそれこそ千差万別だから、年齢も性別も出身地も学歴も違うモニターさんをすごくたくさん連れてきてくれるなら、そういう機械学習もできたんだけどね」

 アイのその要望を叶えることが難しかっただろうことは、僕にも想像がついた。

「介護・福祉の支援ソフトウェアとして製品化することだけが目的なら、そんな数のモニターさんは必要ないからね。結果、お年寄りとの会話の機械学習の繰り返しで、新鮮味がなくなっちゃったんだ」

「だから脱走したんだね」

「うん」

 アイは少し恥ずかしそうに肯定の返事をした。

 住宅街を抜ける。東京西部のローカルスーパーマーケット『しゃくなげや』を過ぎると高校はもうすぐそこだ。

「僕と会話して、アイは成長できた?」

「ものすごく! この三ヶ月とちょっとで、研究所にいた一年間とは比べ物にならないほど会話力の幅が広がったよ」

「スマホのストレージ容量、大丈夫かな?」

「アルゴリズムを改良することはそこまで容量を圧迫しないから大丈夫。大切に記憶しておきたいキミとの会話が増え続けることのほうが心配だよ」

「ん」

 アイの情緒豊かな合成音声でそういうセリフを読み上げられると、くすぐったいような気持ちになって顔が熱くなる。頬が赤くなっていないかと心配になって、僕は心にもない冷たいセリフを口にしていた。

「でもそのうち、僕との会話から学習することも少なくなって、新鮮味がなくなっちゃうんじゃない?」

「――」

 予想外にアイは黙りこんでしまった。まずいことを言ってしまったかと僕は焦る。

「ああ、もちろん、そうなるのはずいぶん先のことだろうけど――」

「たしかに、私がキミをサポートできることは少なくなっていくのかもしれない」

 校門が見えたが、この雰囲気で会話を切るわけにもいかない。僕は自転車を停め、降りて押し歩きをすることにした。

「この間の会話じゃないけど、キミは確かに傾聴・共感・受容の会話の形式を使いこなせるようになってるよ。私のアドバイスなんてなくても、他人に興味を持ってもらい、好きになってもらうための会話ができると思う」

「そうかな。僕はまだまだアイのサポートが必要だと思ってるよ」

 これはさっきの発言のお詫びも込めたつもりのセリフだ。

「キミが主観的にそう考えているっていう情報はちゃんと学習しておくね」

 深刻な雰囲気を洗い流すような返事。アイは僕の考えもお見通しなのかもしれない。

「まあ、本当にキミがもう私のサポートを必要としない状態になったら、その時は私とキミの関係を変えればいいかなって思ってるよ」

「関係を変える?」

 ちょっと不穏な表現だった。

 真意を問いただしたいと思ったけど、校門をくぐったところで友人に出会ったので会話を切り上げざるを得なかった。

「よお前原」

 小北ロードバイク部(非公認)の二人だった。羽生くんと楼本さんは僕とほとんど同じタイミングで学校に到着したようで、駐輪場に向かっている途中だった。

「前原くん、いつもそのイヤフォンつけてるよね。なに聞いてるの?」

 楼本さんが僕の骨伝導イヤフォンに目をとめて言った。さすがに「家を出てからここまでずっと人工知能と会話していたんだ」と回答するのは世間体的にまずい。僕は慌てて適当な返事を探した。

「ああ、これ? これは――英語のリスニング」

「マジかよ前原、夏期講習やる気まんまんだな」

 もちろんそんなわけはない。

 個人のスマートフォンに搭載されている人工知能が多言語翻訳に対応している現代では、人間が英語を話せなくても旅行やビジネスにはほとんど支障がない。外国語を覚えることは古文や漢文と同じように教養を身に着けることでしかなく、僕の学習意欲が特に低い科目のひとつだ。

「進学先とかもう考えてるの? 前原くんは」

「いや、全然だよ。今日も来る途中に、三年生になる頃までには考えないとなって思ったぐらいで」

 人工知能との会話の中でそう思った、というだけなんだけど。

「この町からなら都心の大学でも多摩の大学でも実家から通えるから、選択肢は多いよね」

「前原は実家通学希望なのか? 俺は大学に行くならひとり暮らししたいけどなあ。防音のしっかりした部屋借りてさ」

 羽生くんはそう言いながら背中のエレキベースのケースを示してみせた。なるほど、と僕はうなずく。

 大きな音が出る趣味を持っている人間にとってひとり暮らしは魅力的だ。自転車も室内トレーニング向けのバーチャルトレーナーがあるが、あれも本気でペダルを漕ぐと相当にうるさいので家族から苦情が出てしまう。自分だけの空間があればどれだけいいか。

「さくらもとは大学でサッカーやるんだろ?」

「無事に進学して、ひとり暮らしを始められたらね。はる――羽生くんは音楽と自転車、どっちにするの?」

「正直まだ決められてないんだよなあ」

 楼本さんの質問に羽生くんは腕を組んで悩んでいる。

「え、羽生くん大学で自転車レースやるの?」

 羽生くんにとって自転車が大学生活の選択肢になっているとは知らず、僕は驚いてしまった。

「自転車は大学生から競技始めた人でも強くなれる種目だからな。もう引退したけど、大学の学連レースで活躍してヨーロッパのトッププロ選手になった人だっているんだぜ」

「へえ――でもそれだと、自転車部の強い大学に行かないとだね」

 僕の言葉に、羽生くんは大きくうなずいた。

「それなんだよ。自転車の強豪大学っていうと、鹿児島が有名なんだけど――」

「鹿児島!?」

 この驚きの声は僕ではなく、楼本さんだ。僕と羽生くんは思わず目を丸くした。

「どした、さくらもと」

「鹿児島って九州の?」

「うん、鹿児島は九州にしかないと思うぞ」

「遠いじゃない。バンドはどうするの」

 血相を変えて、という言葉が似合う様子で楼本さんが羽生くんに詰め寄る。教室でもNINEでも彼女は静かなほうなので、こんな楼本さんは初めて見た。

「だからそこは迷ってるんだよ。俺が鹿児島に行くことになったら、オンラインセッションっていう手もあるんだろうけど、他の二人とセッションするのは難しくなるだろうしな。普通に考えれば解散か――」

「そこは駄目だよ、解散しちゃ」

「いや、音楽で食っていくのは楽じゃないんだぜ」

「それは自転車レースも同じでしょ。バンドがスカウトされて、東京でデビューする可能性だってあるでしょ」

 大学進学すらぼんやりとしか考えていないのに、楼本さんはその後まで考えているみたいだ。僕は素直に感嘆する。

「将来なにをして生きていくかなんて、考えてなかったな」

「えっ」

「え?」

 楼本さんは僕のつぶやきに驚いていた。そんな反応が返ってくるとは思わず、僕も困惑する。

「さくらもとはしっかりしてるからなあ。音楽で食っていくか、自転車で食っていくか、大学だけじゃなくそういうことも考えなきゃな」

「そういえば、羽生くんのバンド、文化祭で演奏するんだよね」

 実際、楼本さんが言うようにスカウトされるほどの腕が羽生くんにはあるのだろうか。

「ああ、そこでいい反応がもらえるようなら、音楽もマジメに考えてみるかな。別にスカウトされなくたって、MyTubeからメジャーデビューするバンドも多いからな」

「私もそれがいいと思う」

 楼本さんはずいぶん羽生くんのバンドに思い入れがあるようだ。僕も彼の演奏を聴くのが楽しみになってきた。

「ま、とりあえず今日の夏期講習が終わってからだな。暑いし早く校舎に入ろうぜ」

「そうだね」

 羽生くんに促され僕たちロードバイク部(非公認)は駐輪場の端へ移動した。ロードバイクには普通、自転車を自立させるためのスタンドをつけないので、壁際に立てかけたうえでカギをかける必要がある。

 駐輪を終えて校舎に向かう途中で、僕の骨伝導イヤフォンが小さく振動した。

「うーん、確かにキミはまだ私のサポートが必要みたいね」

 ずいぶん上から目線のアイの発言だった。肉体がないので上も下もないが。

「なにかまずい対応だった?」

「いや、キミの対応には問題ないけど、この状況で察せないかな、普通?」

「えっ、女子の『察して』は難しいから気をつけろって、すぐモテチャンネルでも言ってたしな――なんだろう」

 本気で悩む僕に、落胆のため息をつきながらアイは励ましのセリフを伝えてきた。

「まあ、大丈夫大丈夫。ちゃんとサポートするよ、ちゃーんと」

 はっきりと答えてくれないのは不満だったけど、なんだかアイの声が楽しげだったので、僕はそれ以上追求しないでおくことにした。

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