夏(1)

 外気温、摂氏三十四度。

 こんな真夏の日中に外出するのは正気の沙汰じゃないけど、友達との約束だったので仕方ない。アイも「友達との約束はゼッタイ守るべきだからね」と背中を押してくれた。

「前原! 江の島が見えたぜ!」

 僕の前を走る羽生くんが進行方向を指さす。路面電車の軌道を横切って腰越海岸に出る道路までたどり着くと、道の先に緑色の小島が浮かんでいた。

「時間かかったねー」

 この炎天下に四時間近く自転車で走ってきたので、上着が汗でぐっしょりとしている。僕も羽生くんも途中で川にでも飛び込んだのかと思われそうだ。

 春に羽生くんと約束した江の島へのサイクリングは、こんな苦行にするつもりではなかったのだが、なんだかんだで高校一年生の一学期は忙しかった。

 高校生活に慣れようとするうちに中間テストがやってきて、梅雨の季節は自転車に乗れず、期末テストがやってきて、そして夏休みがやってきたのだった。日本の夏はもはや亜熱帯の夏だけど「海に行くんだから涼しいだろ」という羽生くんの弁で、僕らはサイクリングに繰り出した。

「よーし江の島をバックに記念撮影な」

 海岸から江の島へとかかる弁天大橋まで来たところでロードバイクを降り、羽生くんはリングを使ってスマートフォンを自転車のハンドルに引っかけた。

「フリー、写真撮影タイマー十秒!」

『十秒からカウントダウンします』

 羽生くんのスマートフォンに搭載されている人工知能は「フリー」と言うらしい。freeじゃなくてfleaだからな、と説明されたことがある。彼の尊敬するアーティストの名前からとったんだとか。

『二、一、ゼロ』

 僕と羽生くんが並んで親指を空に突き上げるポーズをしたところでシャッター音が鳴る。さっそく写真映りを確認して満足そうにうなずくと、羽生くんはNINEグループにその写真を投稿した。

『グループ「小北ロードバイク部(非公認)」にNINEメッセージを着信しました』

 これは僕のスマートフォンの通知。周囲に他の人がいるときは、アイは従来の機械音声を使うようにしている。

『発信元:ハルト。江の島ライド!! 写真を送信しました』

 羽生春人はるとがフルネームの羽生くんは「ハルト」名義でNINEに登録している。今しがた撮影した僕と羽生くんのツーショット写真に、すぐに二件の既読がついた。

『発信元:さくらもと。本当に行ったのか。こんな暑さの中、プロ選手でもよう走らんぞ』

 このグループの最後のメンバー、楼本さんから謎の関西弁メッセージが届いた。それを確認して僕と羽生くんは顔を見合わせて笑う。

 これが四月から七月にかけての僕の進捗だ。

 学校でもNINEグループでのやりとりでも「モテの形式」をいつも意識しながら行動しているけれど、今のところ、女子からモテすぎて困るような日々は到来していない。とはいえ、楼本さんをはじめとしてクラスの女子とはずいぶん気軽に話せるようになったし、仲の良い男子の友人もできた。中学三年生の終わり際の悪夢がスタート地点だったと思えば、飛躍的な前進だと言っていいだろう。

「楼本さんも来ればよかったのにね」

「さくらもとはクールな女だからなあ」

 自転車を押し歩きして弁天大橋を渡っていく。

「まあ、でも男二人で来てよかったんじゃないか」

 橋の中ほどまで来たところで羽生くんは足を止め、砂浜の海水浴場の方向をあごで指し示した。言わんとすることはわかった。

「夏ってサイコーだよね」

「サイコーだよなあ」

 湘南の海岸には水着姿の若い女性があふれていた。健全な男子高校生には刺激が強すぎるほど少ない布面積しかない水着の人もいた。夏以外の季節でこういう光景を網膜に焼きつけることは難しいだろう。

「サイクリングも悪くないんだが、やっぱり湘南には夏にカノジョと来たいもんだな。来年には実現させてみせるぜ」

 鼻の下を伸ばしながら決意を燃やす羽生くんの発言は、僕にはちょっと意外に聞こえた。

「あれ? 羽生くんってカノジョいないんだっけ。バンドやってるのに」

「お前な、バンドやってるやつが全員モテると思うなよ。俺たちがやってる1990年代の古典ロックミュージックのコピーなんて、相当コアなロックファンしか興味ないんだからな」

 中学校からの友人三人でギターボーカル、ベースボーカル、ドラムという構成をしているのが彼のバンドだ。バンド仲間の友人たちと僕や羽生くんは別クラスなので、僕はまだ羽生くんがベースを演奏しているところを見たことがない。

「まあ、秋の文化祭では最近の有名な曲も演ってモテてみせるぜ」

「見に行くよ、楽しみだな」

「おお、ありがとな!」

 特段意識していなくても、相手に共感する返事が習慣として出てくるようになった。羽生くんは少し大げさなくらいに喜んでくれている。

「ってか、前原はどうなんだよ」

「僕?」

「モテるほうだろ?」

 完全に虚をつかれた。

 しばらく固まった後で、僕はゆっくりと口を開く。

「そんなこと言われたのは初めてだな――」

「俺からするとそっちのほうが意外だな。クラスの女子が噂してるの、聞いたことないか? まあ本人には言わないか」

 僕が噂になっている? 夏の暑さのせいもあるのか、体温が上がるのを感じた。

「どんなこと言われてるの、僕」

「前原くんはオトナだよね、ってさ」

「いやあ、コドモだけどなあ?」

 首をひねる僕に向かって、羽生くんは肩をすくめてみせた。

「自分じゃわからないのかもしらんが、たぶんそういうとこだと思うぞ」

「ますますよくわからない」

「高校一年生男子って言ったら、普通は『俺は大人! 俺の話を聞け! 俺に注目しろ!』って感じだろ。前原はそういうところがない」

(ああ――)

 それは「モテの形式」に従っているだけなんだ、という説明は省略しておいた。

「僕だって心の底では自分、自分、自分って思ってる人間だよ。自分語りばっかりして女子に嫌われたこともあるしね」

「そりゃ初耳だ」

 目を丸くする羽生くんを見て、そういえばこの失敗談を人に話すのは初めてだな、と気づいた。

「モテたいとは思ってるけど、モテるタイプじゃないよ、僕は」

「そんなことないだろ。心の底がどんなだろうと、今の前原は自分語りも控えめで気配り上手じゃんよ。そういう外面の態度が大事だと思うぜ」

(心の底がどんなだろうと――外面の態度が大事)

 羽生くんのその発言は妙に心に引っかかった。何かを思いつきそうな気がしたが、続く彼の言葉に僕の思考は寸断された。

「さくらもととか、絶対前原のこと好きだと思うんだよなあ」

「グフッ」

 変な笑い声が出てしまった。驚くと同時に、自然に頬がゆるんでしまう。

「カノジョいないなら告ってみろよ、たぶん行けるぜ」

 羽生くんはそのことに確信に近い自信を持っているようだ。

 ちょっと待て、これは信用していいのか。羽生くんの勘違いという可能性はないのか。いや小学校からの幼馴染から見た結果だ、大丈夫なんじゃないか。というか僕は楼本さんが好きなのか? モテるということはカノジョを作るということとイコールなんだっけ?

 恋愛経験の少ない僕の脳内CPUがフル回転してそれらの答えを検索したが、考えることが多すぎてうまくいかなかった。こういうときはアイにサポートを――

『今日の日の入り時刻は午後六時五十二分です。夕方の渋滞を考慮して、日没までに自宅に帰りつくには、あと一時間以内の出発をおすすめします』

 ――頼もうとした矢先に、機械音声でアイがそんなお知らせを読み上げた。心なしかいつもより音量が大きいような気がする。

「ああ、休日の134号線は自転車でも走りづらいぐらい渋滞するからなあ。前原の人工知能、高性能だな」

「そうなんだよ」

 世界最先端なんだよ、とは言えないので、とりあえず同意の返事でお茶を濁しておく。

「じゃあ何か食べて帰るとしようぜ、海鮮丼とかしらす丼とか」

「かき氷とかもいいね」

 江の島入り口の観光案内所を過ぎると、レストランや売店が軒を連ねていた。

 羽生くんの背中に続いてそれらの店に入った後も、なんとなく足元がふわふわしているような感覚があって落ち着かなかったことを覚えている。

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