春(4)
僕の住む街には「はけ」と呼ばれる高さ二十メートルの崖が東西に走っている。この崖が市内を南北に分断していて、崖の上は北町、崖の下は南町と呼ばれている。
前原家は南町にあり、高校は北町にあるので、高校に通学するには毎朝崖越えの急な坂を登る必要がある。自転車通学の僕にとって一番つらい朝の行事だ。
「心拍数140BPM、142BPM、146BPM。まだまだ余裕あるよね、もっと漕いでいこー!」
耳をふさがない形の骨伝導イヤフォンを通して、アイがエールを送ってきた。彼女は僕の腕時計に搭載されている光学式心拍計のデータを読み取って、有酸素運動のコーチをしてくれている、のだが。
「運動の、アドバイスを、求めたつもりは、なかったんだけど」
息切れしながらの僕のつぶやきも、アイはしっかり拾ってくれた。
「引き締まった体はモテの基本だよ! ファイトファイト!」
ゆったりペダルを漕いでいるだけではトレーニング効果が薄いから、心拍数が一定の数値に達するまで全力で漕ぐように、というのがアイの指示だった。
北町に上がる坂はいくつかあるが、その中で一番斜度の緩やかな道が、僕がいま
「ふーっ」
「166BPM。もうちょっと頑張れる数字だけど、汗だくになるのも嫌だろうし、この辺にしておこうか。じゃあ遅刻しないように」
荒い息をついている僕にかまわず、鬼コーチは登校を急かしてくる。
文句のひとつでも言おうかと思って顔をあげた瞬間、僕の横を大きな影が通りすぎていった。
「おっ、前原じゃん」
うちの高校の制服を着た男子だった。僕を追い越したところで自転車を停め、こちらに話しかけてきた。その顔には見覚えがある。
「羽生くんも自転車通学だったんだ」
入学式後の自己紹介で、バンドをやっていると言っていた羽生くんだった。ライムグリーンの金属フレームのロードバイクに乗って、それに合わせて緑のヘルメットをかぶった姿はとてもスマートに見える。
「前原もロード乗るんだな。カーボン?」
「うん、エントリーモデルだけどね。羽生くんはいい
「おっ、わかる? やっぱりロードに乗るなら
ロードバイクを趣味としていない人にはわかりにくい会話を羽生くんと交わす。教室では男子の友人と一緒にいることが多いが、NINEではほとんど発言しないうえに、プロフィール画面には何も設定していないタイプだったので、彼の趣味が自転車だということは今初めて知った。
コンポ、つまりコンポーネントはチェーンやギア、ブレーキといった自転車の駆動部分のパーツ類を総称したもので、ロードバイクやマウンテンバイクなどのスポーツ自転車のコンポーネント市場は日本の自転車部品メーカーがほぼ独占状態にある。羽生くんが名前を挙げたコンポは、そのメーカーの販売する製品のうち、上から三番目に高価なラインナップのものだった。
「これはチャンスだよ!」
唐突にイヤフォンからアイの合成音声が響いた。骨伝導式なので羽生くんには聞こえておらず、僕はささやき声で返事をした。
(チャンスって、何が?)
「友達を増やすチャンス! 共通の趣味を持ってるクラスメイトなんて千載一遇の好機じゃない。キミが女子にモテるためにも同性の友達は多い方がいいよ」
(え、なんで?)
「これ、わかってない男子多いよねー。『すぐモテチャンネル』の動画もそうなんだけど、女子に対してどう接するかの説明ばっかり。モテる人は同性の友達も多いんだよ」
(うーん、そうかなあ)
「論より証拠、彼に趣味の話を続けて振ろう! 傾聴・共感・受容を忘れずにね」
(男子に「モテの形式」に従った会話をしろと!?)
「――前原、なにやってんの?」
僕がイヤフォンを指で押さえながら視線を泳がせているので、さすがに羽生くんも不審に思ったようだ。ここで「前原コウは変なヤツだ」という噂がクラスに広まるのは困る。僕は慌てて話の穂を継いだ。
「あ、えーっと、羽生くんのロードバイク、『カーボン
「おーっ、詳しいじゃん」
にんまり、という笑顔が羽生くんの顔に浮かんだ。
楼本さんにも使った「モテの形式」、人間は自分が好きなものを身に着けている――だからそれを褒めることで「自分もそれが好きだ」と共感を示すこと。自分が乗っている自転車を褒められて嫌な自転車乗りなどいないのだ。
「カーボンフレームにも負けないぐらい軽くて速いんだってね」
「うん、めっちゃ軽いよ。いや、カーボンのロードは乗ったことないんだけどな」
「アメリカの自転車プロチームも使ってるよね。フォルムがシャープでかっこいいな」
「そうか? 前原のロードもかっこいいと思うぜ」
羽生くんは照れたながら自転車のハンドルを撫でている。教室でもNINEでもほとんど話したことがないせいで、バンドメンだという情報からなんとなく怖い人なんじゃないかという先入観を持っていたが、こういう表情を見ると僕と同い年の高校生なんだなと安心する。
「前原はロード、どれくらい乗ってるの?」
「今年で三年目で、通学以外に乗るのは週末だけで、一番長く乗ったのは鎌倉まで日帰りで往復した時かな」
「へえ、なかなか乗ってるじゃん!」
羽生くんの「どれくらい」という質問は、自転車乗り的に「乗り始めてからどれくらい経つのか」、「どれくらいの頻度で乗っているのか」、「どれくらいの距離を走るのか」という三種類の質問が想定できたので、そのすべてに答えてみた。羽生くんの返事もそのすべてに対する「なかなか乗ってるじゃん」なのだろう。
この会話も共感の一種だと言っていいはずだ。さらに質問を重ねることで受容の姿勢を見せよう。
「羽生くんは?」
「俺はセンチュリーライドに出たことがあるよ。トレーニングもしてる」
一日に約100マイル(約160km)自転車で走るイベントのことをセンチュリーライドと呼ぶ。半日以上かけて走ることになるので、羽生くんはかなりの健脚だと言えるだろう。バンドと同じくらい自転車にも打ち込んでいるようだ。
「160km! すごいね」
「いや、レースじゃないからな。ゆっくり走れば長距離は誰でも走れるって。前原も鎌倉まで往復したってことは100kmぐらい走ったんだろ? 今度、一緒に江の島まで行こうぜ」
「江の島か、いいね、行きたいね」
思ってもみない形で、一緒にサイクリングする約束までしてしまった。「モテの形式」に従った会話術が有効なのは女子だけではない、というのは確かなようだ。
(いい感じだね、その調子その調子)
会話を邪魔しない程度の小さな音量で、アイの応援が鼓膜に伝わってきた。自分が傾聴・共感・受容を実行できているのはいいことだと思うけど、はたしてこれがアイの言うように女子にモテることにつながるのだろうか。
「いやー、このクラスに他にもロードの話ができるやつがいるとは思わなかったな!」
「他にも?」
僕はその単語を聞きとがめた。
ロードバイクにはピンからキリまであって、プロ選手が使うような最高級モデルなら自動車が買える金額であることもしばしばだ。僕や羽生くんの乗っているモデルはそこまでの値段はしないものの、僕たちにとって高い買い物であることには変わりない。だからロードバイクを趣味にしている高校生は少ないと思っていたが、羽生くんの発言からすると、他にも同じ趣味のクラスメイトがいるらしい。
「さくらもとって知らない? あ、楼本ね、女子の」
予想だにしなかった名前が飛び出した。一瞬、思考が止まる。
「うん――知ってるよ。へー楼本さんロードバイク乗るんだー」
ついこの前NINEでメッセージをやり取りしました、ということは言うべきかどうか判断がつかず、僕の声はうわずってしまった。以前のアイの機械音声より棒読みだと思う。
「めっちゃ乗ってるよ、ガチ勢だよ。お、噂をすれば」
羽生くんは坂の下に向かって手を振ってみせた。その先を視線で追うと、学校指定のジャージ姿で坂を駆け上がってくる自転車女子がいた。
楼本さんだった。
手を振る羽生くんに気づいたらしく、細身のスチールフレームで組まれた黒いロードバイクを操って僕たちの近くまでやってくると、自転車に乗ったままピタリと静止してみせた。
「通学路の途中でなにやってんの、うちのクラスのロードバイク男子二人は」
「うちのクラスのロードバイク女子を待ってたんだよ」
呆れた様子の楼本さんに、羽生くんは自分の自転車のハンドルに寄りかかりながら笑って返している。
いろいろ驚きすぎて声が出ない。
まず、乗っている自転車がすごくシブい。スチールフレームの自転車は頑丈な代わりに重いのであまり人気がない。しかし楼本さんの黒いロードバイクは別だ。ハートマークのロゴが入っているので、人気イタリアンブランドの高級自転車だと分かった。僕と羽生くんのロードバイクの値段を足しても届かないぐらいの値段がするだろう。
それに、楼本さんのロードバイクの乗車姿勢はすごくサマになっている。相当乗り慣れている人じゃないと、
「たしかに、NINEで『ロードバイク』って言ってたもんなあ」
思わず感想を口に出してしまった。二人は僕に怪訝そうな顔を向ける。
「ん? どゆこと?」
「いや、ふつうの人からすると、ロードバイクもマウンテンバイクもケイリンも全部同じ『自転車』だからさ。ロードバイクで通学してるよねって言われて、この人も乗ってるのかなって思わなかったのはうかつだった」
「あー、わかる。うちのおばあちゃんがゲーム機のこと全部『ファミコン』って言うのと同じような感じね」
笑いながらそこまで言ったところで、ようやく楼本さんはペダルから足を外しサドルに腰を下ろした。
「なに、お前らメッセしてたん?」
「うん。ついこの前が初めてだけど」
羽生くんと楼本さんのやりとりには親しげな雰囲気があった。気になってしまい訊ねてみる。
「二人は前から知り合いなの?」
「羽生くんとは小学校から同じだったから」
「さくらもととは腐れ縁っつーかね」
小学校からの異性の幼馴染み! なんと甘美な響きだろうか。僕にはそんなうらやましい人間関係がなかったな、と思いつつ会話を続ける。
「楼本さん、羽生くんが言ってたけどガチ勢っぽいよね。かなり乗ってそう」
「――うん」
予想に反して、楼本さんは少しだけ悲しそうな目をしていた。
自分が好きなものや得意としていることを褒められて悪い気がする人はいないはずだ――と思っての話題選択だったけど、なにかまずいことを聞いてしまっただろうか。
「さくらもとは、小学校に上がる前から女子サッカーをやってたんだよ」
慌てる僕に、羽生くんが横からフォローを入れてくれた。
「女子サッカー?」
「めっちゃドリブルが上手かったんだけどな。ほら、俺たちが小学校に入学したころ、ちょうどパンデミックが起こったじゃん」
「ああ、なるほど――」
親の方針で部活動は禁止、という話を楼本さんはしていた。小学校の頃からだったのか。
「サッカーって
「もったいねえよなー」
「自転車も楽しいし、今ではロードバイクに乗るのが好きだってはっきり言えるけど、正直言ってサッカーには未練があるんだ」
楼本さんは遠くに視線を向けている。
身に着けているもの全部が自分の好きなものというわけじゃない。いろんな事情で身に着けなければならなかったものだってある。楼本さんにとっては自転車がそれだ。それなのに僕は、教科書丸写しの生兵法で共感してみせたフリだけしてしまったということだ。少し落ち込む。
(落ち込んでる場合じゃないよ、ここは――)
見かねたのか、アイがイヤフォンからアドバイスを飛ばしてくるが、それをさえぎるようにして僕は口を開く。
「それは、本当にもったいないよね」
「おっ、前原もそう思う?」
「僕らの世代はそういうこと多かったよなって。親も先生も心配だったんだろうけど、あれをするな、これをするなって、そんなことばっかり言われてた気がするよ」
羽生くんも楼本さんも驚いた目をこちらに向けている。
これは「モテの形式」に従った発言だろうか? 自分語りなんじゃないか? ええい、今はそんなことを考えている暇はない。胸の内にうずまいている感情をまずは吐き出したい。
「だからさ、ずっと我慢してきたなら、これからは好きなことをやってもいいんじゃないかな、サッカー。親の言うことも大事だろうけど、ずっと我慢してきたんだからさ。我慢ばっかりはよくないよ」
なんだか同じことを複数回言ってしまった気がして、僕は思わず赤くなった。
「そうだね」
ふっ、と楼本さんの表情がわずかに緩んだ。
「まあ、うちの高校、女子サッカー部ないんだけどね」
そのことは忘れていた。僕はさらに赤くなった。
その様子を見てか、羽生くんは大笑いしている。
「ははは! バスケ部もバレー部も女子部があるのにな! 自転車はひとりでできるからいいぞ、さくらもとー」
「はいはい、どのみち、実家暮らしの間は親の言うとおりにしないといけないしね。でも――」
ひらり、という感じでロードバイクにまたがると、楼本さんは微笑んでみせた。
「大学に行ってひとり暮らしを始めたら、またサッカーをやってみるのもいいかな。ありがとう、前原くん」
そのままペダルを踏み込んで加速すると、楼本さんを乗せたロードバイクは高校へ続く北町の大通りに颯爽と消えていった。そのキビキビとした動きがカッコよかったのと、最後の「ありがとう」という言葉が妙に耳の奥に残っていて、僕は楼本さんが走り去った方向を見つめ続けていた。
「おい前原、そろそろ行かないと遅刻するぞ」
「あ、うん。行こうか」
だいぶ時間が経ってしまった。羽生くんにうながされ、僕も自分の自転車に乗って走り出す。
「いやー、満点に近い対応じゃない? キミもやるじゃん」
後方に流れていく住宅街の景色を横目で見ていると、アイが話しかけてきた。
「アイはこうなることまで予測してたの?」
「まさか。キミの許可なしで外部と通信はしないって約束したでしょ。いくら私が世界最先端の人工知能でも、今の二人がキミと共通の趣味を持っていたなんて、個人情報をハックしない限り知ることはできないよ」
「そうなんだ」
羽生くんは僕の前を走っているので、普通の音量でアイと会話していても気づかれる気配はなかった。だから気になっていることを訊ねてみた。
「アイはあれが満点の対応だったって思うの?」
「そう思うよ。共感や受容って、別に相手の言うことをおうむ返しにすることだけじゃないし、そうだねって相槌を打つだけでもないからね。キミは心の底から『楼本さんがサッカーをやめなきゃいけなかったのは残念だ』って思ったから、あの発言をしたんでしょ。それこそが共感だよ」
「心の底から――か」
なんだか自分の心がわからなくなってきた。モテたいので共感していたのだろうか、それとも本当に心の底から共感したので「モテの形式」に従った発言になったのだろうか。鶏と卵のどっちが先なのか、みたいな問題だな。
「同性の友達が多い人は、誰に対しても裏表なく接する人だって思われやすいからモテることにつながる、っていうのは一般論だけど、今回は期待以上だったね」
「傾聴・共感・受容は誰に対しても大事だってこと、勉強になったよ」
「うん、キミがうらやましいな」
アイのその言葉は完全に予想外だったので、びっくりしてしまった。
「うらやましい? どこが?」
「私はやっぱり人工知能だからねえ。モニターさんと会話してて、心の底からあなたの発言に興味がありますよー、共感してますよーって伝えても、便利だって感謝されこそすれ、キミたちのように友達になるなんてことはないからね」
その発言は僕の心に引っかかる小さなトゲを持っていた。
アイは僕にとって、ただの便利なソフトウェアというだけの存在だろうか?
感情豊かに語り、有形無形のサポートを提供してくれているアイは、モノと同じなのだろうか?
人工知能はモノに過ぎない、と主張する人も世の中には多いだろう。
だけど、僕の心はNoと言っている。
「友達だと思うよ」
「え?」
「僕は、アイのことを友達だと思ってるよ」
僕のスマートフォンに住み着いたこの不思議な人工知能は、僕にとってはモノ以上の存在だ。それに名前をつけるなら、友達という言葉がふさわしいと思う。
自転車のホイールの回転音が響く。
アイは沈黙している。
「――ありがとう」
ややあって、骨伝導イヤフォンが小さく震えた。
「どういたしまして」
半分誇らしげに、半分照れながら、僕は春の空に向かって呟いた。
友達が増えて、春の高校生活は楽しくなりそうな予感がしている。
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