第三話 ほのかな喜び


 クリスチャンへのお礼は次女のダフネの手を借りることにしました。


「ダフネ、明日時間があったらクッキーか、何かお菓子を焼いてくれないかしら? もちろん私も手伝いますけれど……」


 彼女は侍従養成学院で調理師になる勉強をしているだけあって、料理の腕は確かです。


「明日の午後でしたら、学院の帰りに材料を買ってきますわ。それにしてもお姉さまも私にお菓子を作れと頼む時には絶対何か狙いがあるのですよね。お母さま、どなたか気になるお方に渡すのですか?」


「ダ、ダフネったら何を言い出すのよ、もう!」


 クロエまで慌てています。


「そのようなことではありませんよ。少し迷惑をお掛けした方に、お詫びに何か持って行きたいと思っただけです」


 ダフネは我が娘ながら中々鋭いのです。クロエも職場の先輩にダフネ特製クッキーをお裾分けしていたことがありました。その後、クロエとその先輩、テネーブルさまは少しずつ着実に交流を深めているようでした。


 次の日の午後、ダフネと一緒にお菓子を焼きながら考えていました。お菓子を持って行くことに決めたのはいいのですが、クリスチャンの好みは分かりません。それでも彼が甘いものが苦手でも、不動産屋の同僚やご家族に食べてもらえば良いのです。


 葡萄酒は彼の事務所に行く途中で買うことにしました。葡萄酒こそ私には全く分かりません。私はお酒があまり飲めないので、貴族らしい生活をしていた頃も飲むことはまずありませんでした。大酒飲みだった亡き夫のせいでお酒全般に嫌悪感を持っていると言っても過言ではありません。


「干しぶどうも入っていることですし、砂糖の量を減らして甘さ控え目のクッキーですわよ、お母さま」


 我が家のオーブンからはクッキーが焼ける良い匂いが漂っています。


「ダフネ、もう一つお願いがあるのです。このクッキーを届ける前に酒屋に寄って葡萄酒を一本買いたいのですけれど、一緒に選んでくれませんか?」


「お安い御用ですわ。私、主に料理に使うお酒しか知りませんが、下戸のお母さまよりは知識があると思うのです。お母さまの彼はどんなお酒がお好きなのですか?」


 クッキーを届ける相手が男性だと言った覚えはありませんが、ダフネにはお見通しのようでした。


「そんな紛らわしい言い方はおやめなさい。昨日お会いしたばかりの通りすがりの方なのですから。ですからお酒の好みも何も知らないのですよ」


「へぇーえ、そうでしたか。では無難なところで、良く飲まれている赤葡萄酒にしましょう」


 ダフネは何だか思わせぶりな笑顔です。出来上がったクッキーを包み、ダフネと徒歩で出掛けました。近所の酒屋でダフネが選んでくれた葡萄酒を買い、クリスチャンの不動産屋を訪ねました。ダフネはそこで帰宅せず、私についてきます。


「私も丁度その近くの市に行ってみたかったのです。帰りに夕食のための買い物をしましょうね」


 クリスチャンはその事務所に居ました。私はクッキーと葡萄酒を渡してすぐにおいとまするつもりでしたが、約束もなしに訪れた私を嫌な顔一つせず迎え入れてくれました。


「キャロリン、わざわざ来て下さったのですか。どうぞお入りください。私もたった今、外出先から帰ってきたばかりで丁度良かったです。お茶を飲んで温まろうとしたところなので、良かったら付き合って下さいますか? そちらのお嬢さんももちろんご一緒にどうぞ」


 昨日は私のことを苗字で呼んでいたのに、ダフネの前でそんなに彼に親し気にされていると思うと戸惑います。


「キャロリンの娘のダフネと申します」


「お仕事中お邪魔するつもりではなかったのです。怪我はもう大丈夫ですか?」


「怪我なんてほんのかすり傷ですよ。打ったところも、もうほとんど痛みはありません」


「ああ、良かったですわ」


「今お茶を淹れますから。そちらの長椅子にお座りになってお待ちください」


「あ、では私、お手伝い致します。お茶と一緒によかったら私たちが持って来たクッキーをお召し上がりになりませんか?」


「いいですね」


「ではお母さまはクッキーを出して下さいませ」


 クリスチャンと何故かダフネがこの場を仕切っています。そして二人はお茶を淹れるために事務所の奥へ行ってしまいました。しばらくして、クリスチャンがお茶を持って戻ってきました。その後ろにはニタニタとわざとらしい笑顔のダフネが続いています。


 ここまで歩いてきた冷えた体に温かいお茶がしみわたりました。心がほのぼのとしてくるのはお茶だけお陰ではありません。クリスチャンの穏やかな笑顔を見ているとドキドキすると同時に、何だかとても落ち着きます。来て良かったと言えました。


「ダフネさんに昨日の売り家の話をしたら、彼女も是非見てみたいとのことですよ、キャロリン。私がご家族の皆さんをご案内しましょう。都合がよろしいのはいつですか?」


 いつの間にか、あの売り家を再訪することになっています。


「ダフネ……大体私たちは家を買いもしないのに、ゴティエさんのご迷惑になりますよ。昨日も彼には私がさんざんご面倒をおかけしたというのに」


「それは違いますよ。今日は葡萄酒に手作りクッキーまで持ってきて下さって、私の方が恐れ入っているところです」


「お母さま、とりあえず今晩お姉さまに次のお休みの日を聞いてみましょうね。こちらの都合はまたご連絡致します、ゴティエさん」


「お待ちしておりますよ」


 あれよあれよという間にダフネが売り家訪問の話を進めているのです。私は少しだけ見るだけもいいか、という気になっていました。それに、またクリスチャンに会いたい気持ちも大きかったのです。


 事務所を去る時、彼が握手の手を差し出すのでその手を取ったところ、彼は顔を近づけて私の耳元にそっと囁きました。


「出来れば年内に貴女にまたお会いしたいです。それから私のことはクリスチャンと呼んで下さい、キャロリン」


「あ、はい……」


 いい年をして頬が赤くなるのが感じられました。




「ダフネ、貴女は彼に何を言ったのですか……二人でお茶の準備をしている時でしょう?」


「ただの世間話ですわよ。だってお母さま、ゴティエさんはただの通りすがりの人としか教えてくれなかったではないですか。そんな人のところにどうして葡萄酒と手作りのお菓子を持って行かないといけないのか、私には分かりませんでしたもの」


「確かにそうですけれど……」


「ゴティエさん、独身ですって。三十三歳、バツ一でもバツ二でもなく彼女も居ない純粋にフリーの身です。だからと言って極度のマザコンでも男色でもなく、恋愛対象は女性。仕事一筋で何となくずっと今まで独身だったそうですが、地味に彼女募集中で、タイプは大人の落ち着いた女性。王都南東にある何とか領の農家の気楽な三男坊で、あの事務所の二階に一人暮らしで……」


「ダフネ、何ですかその言葉遣いは!」


 私の次女は何かにつけて俗語ばかりを使うのです。彼女をたしなめながらも彼が独身だと聞いて喜んでいる自分が居ました。もう十何年も男性をここまで意識したことはありませんでした。今まではそんな気持ちの余裕も全くなかったのです。


「もちろん、お母さまが別居歴十年、未亡人歴六年で男っ気は全くないシンママだということも、ゴティエさんにお教えしておきました。というよりも彼の方から聞いてこられたのですけれどもね」


「ゴティエさんは私がどんな家を探しているのか、家族構成をお知りになりたかったのでしょう。母娘三人だけだったら小さい家で十分ですものね」


 私が独身か夫が居る身なのかによって購入したい家の条件も変わってくるでしょう。条件も何も、予算がないのですが、不動産業に従事する人間としての職業的興味に違いありません。


「それだけでしょうかぁ?」


「さ、お夕食の買い物をして帰りましょう」




***ひとこと***

キャロリンもダフネのお手製クッキーを切り札として使うとは! それでもクリスチャンはキャロリンの手作りだと誤解して浮かれているようでもないですね。彼女がわざわざお礼に来てくれたことが一番の喜びのようです。


ほのかな喜び スイートピー

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