第二話 恋の訪れ


 転びそうになったのは私なのに、クリスチャンまで巻き込んでしまいました。


「大丈夫ですかは私の台詞ですわ。貴方こそ私をかばって下さったお陰で雪まみれになってしまって……申し訳ございません。どこか打っていませんか? 腕ですか、それとも、脚ですか?」


「ちょっと手を打っただけですよ。それでも家の扉を開けてもらえるとありがたいです」


 クリスチャンは私に鍵を差し出しました。


「まあ、大変、買い物袋も落ちてしまって……」


 私は急いでそれを拾いました。葡萄酒の瓶が割れてしまっていました。他の食糧も傷んでいるかもしれません。


「折角のお買い物が……ゴティエさん、ちゃんと歩けますか?」


「ええ、大丈夫だと思います。打ったのは右腕から肩にかけてのようです。食糧はともかく、寒いですから家に入りましょう」


 私はとりあえず買い物袋をそこに置いたまま、そのお家の扉を開けました。そしてクリスチャンの体を支えながら一緒に中に入りました。彼の言った通り、人が住んでいる様子ではありませんでした。家の中に家具は何もなく、壁や階段を修理中で工具などが散在しているだけです。


「厨房に椅子がありますからそこへ行きましょう」


 クリスチャンは出掛ける前まで厨房のストーブに薪をくべていたのか、まだ温もりが残っています。私は彼が外套を脱ぐのを手伝いました。彼の腕は見たところ右肘にかすり傷があるだけだったので安心しました。クリスチャンに救急箱の場所を教えてもらい、傷を消毒してガーゼをあてました。


「お寒いでしょう。火をくべましょうか?」


「いえ、今日はもうこのまま帰りますので」


「私、外に置いてきた貴方の買い物袋を取ってきて、片付けますわ」


 クリスチャンに有無を言わせず、私は外に出て、地面に転がしっぱなしの買い物袋を拾いました。残念ながら葡萄酒は全て流れてしまい、パンは葡萄酒で濡れて食べられる状態ではありません。卵も半分以上割れてしまっていました。野菜は大丈夫のようです。


「残念ながらほとんど駄目になっていました。こちらが割れていなかった卵と他の野菜です。今洗ってお包みいたします」


「何から何までお世話になりました。大通りに出て辻馬車を拾いましょう。貴女もお送りしますよ」


「ゴティエさん、本当に歩いても大丈夫ですか? お立ちになれますか?」


「はい、貴女に優しく手当してもらったおかげで復活しました」


 クリスチャンの笑顔にドキッとしてしまいました。彼に動揺をさとられていないかどうか、自信がありませんでした。


「ま、まあ……そんな大したことはしておりませんわ……」


「貴女にこの家をご案内するのは後日で宜しいでしょうか、ジルベールさん」


「そう、ですね。また今度……」


 商売に繋がらない、客とも言えないような人間の相手をクリスチャンにさせるのは申し訳なかったのですが、私はもう反論するのを止めました。


 私たちは二人でその家から数区画先の大通りまで歩き、辻馬車に乗りました。その地区は閑静な高級住宅街でどの家も立派です。ドレスを届ける以外、私にはまるで縁のない場所でした。


 私は歩いて帰るのは構わないのですが、怪我をしたクリスチャンを先に降ろして私が辻馬車の代金を払う考えに行き当たりました。それに、彼ともう少し一緒に居たいという気持ちもありました。そんな感情に自分自身、戸惑いを覚えずにいられません。


 クリスチャンに住所を聞くと、彼の家の方が近いのでそこに先に寄るように御者に伝えました。彼は私を送ると言って聞かないのですが、そこは譲れません。


「貴方は私をかばって怪我をなさったのですから、先にお帰りになって休んで下さい」


「結構強情なお方ですね」


 クリスチャンはふっと笑います。ああ、彼のこの笑い方、やっぱり好きだわと思ってしまいました。


「ジルベールさんはどのような家をお探しなのですか?」


「いえ、探しているわけではないのです。先ほども申しましたように、そんな予算はとてもではないですが、私にはございませんもの。先日、偶然通ってあのお家に一目惚れしてしまっただけなのです。正に私の夢の一軒家ですから」


「そうだったのですか。あの家は一階に居間、客間と厨房、二階は寝室が三部屋、テラスもあります。家自体が小さめなのでその分庭が広く、両隣とも距離が開いていて、あの通り裏は森ですからとても静かですよ」


「三部屋もあるのですね……」


 クリスチャンは不動産屋らしく家の説明をしてくれます。家の値段は彼も言わないし、私も聞きませんでした。三部屋あれば家族それぞれが部屋を持つことができます。


 今の狭い借家では娘二人で一部屋を使っているのです。娘たちにも不自由な思いをさせているな、と私は日頃から心苦しい思いをしています。男爵領の屋敷ほどとまではいかなくても、出来れば子供たちは庭のある家で育てたかった私でした。


 クリスチャンの家には四半時もせずに着きました。


 彼は住宅街ではなく王都中南部の賑やかな商店街に住んでいました。


「不動産事務所の二階なのです。狭いですが職住近接で、便利な場所なのですよ」


 二階に灯りはついていませんでした。彼の奥さまやご家族はまだ帰宅しておられないようです。


「私が荷物をお持ちしましょうか?」


「いえ、もう大丈夫ですよ。色々お世話になりました、ジルベールさん」


「お世話になったのは私の方ですわ。明日もまだどこか痛むようでしたらお医者さまに診てもらって下さい」


「はい、分かりました」


 そしてクリスチャンは微笑みを見せて馬車から降りました。彼と別れる前にもう一度その笑みが見られて、心がほんのりと温まりました。




 私が普段よりも遅く、真っ暗になってから帰ってきたので娘たちが心配していました。


「お母さま、どうなさったのですか? 今日はかなり遅かったですわね。しかも辻馬車でお帰りだなんて、何かあったのですか?」


 私は辻馬車など、まず乗ることはないのです。


「ええクロエ、少しドレスを届けた後にちょっとね、無駄遣いはしたくなかったのですけれど遅くなってしまったから……御免なさいね」


「こんなご時世なのですから、今日のように暗くなったら辻馬車をお使いになっても罰は当たりませんわよ」


 私が余計な寄り道をしたお陰で娘たちに無駄な心配をかけてしまいました。


「お母さま、先にお着替えになりますか? 丁度スープが出来上がったところです。温まりますわよ」


「ありがとう、ダフネ。急いで着替えてきますわ」


 普段通りの我が家の食卓でした。野菜のスープとパンという質素な夕食を前に、私はあの売り家とクリスチャンのことを頭から追い払おうと努めます。


 それでも、私が駄目にしてしまったクリスチャンの葡萄酒のことは忘れるわけにはいきません。弁償しようにも、どの銘柄か暗くて見えませんでした。お酒は明日にでも酒屋で何か一本買うことにして、他には卵やパンのお詫びとお礼もする必要がありました。




***ひとこと***

クロエとダフネも登場です。時系列的には「オ・ラシーヌ」で誘拐事件のすぐ後のことです。


キャロリンはクリスチャンのことが大いに気になるようですね。


恋の訪れ アガパンサス / アスチルベ

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