第一話 一目惚れ

― 王国歴1117年末


― サンレオナール王都




「私もいつかはこんな静かな地区の一軒家に住みたいわ、だなんて王都に出てきた頃は考えていたわね……」


 それはあるお屋敷に縫い上げたドレスを届けた日のことでした。王都には厳しい冬が訪れていたその日はからりと晴れていて、かなりの冷え込みでした。帰り道に何気なく一軒の売り家が私の目に留まったのです。それは煉瓦造りの、周りの他の家よりは一回り小さい建物でした。


「この地区で他の家より小さめとは言え、寝室は二部屋、それとも三部屋はあるのかしら」


 玄関脇に丸く美しく剪定されたいちいが植わっていました。家が小さい分、裏庭は十分の広さがありそうです。裏庭の向こうはすぐ王都南端の森が広がっています。家の後ろに樅ノ木が一本見えました。その木は敷地内にあるのでしょう、葉が落ちてしまっている森の広葉樹よりもずっと立派な姿です。


「温かそうで如何にも我が家、という感じがいいわね……」


 


 その数日後、再びドレスを届けることがありました。届け先からの帰りに少し遠回りですが、何となく気になってその売り家を見に行ってみました。もう薄暗くなってきていましたが、窓には灯りもともっていませんでした。


 先日降った雪が屋根や庭にうっすらと積もっています。


「まあ……何度見ても、雪景色の中では更に素敵な家ね。私にはまず手の出ない買い物でしょうけれど……」


 私は王都中心部の小さな借家に年頃の娘二人と住んでいる未亡人です。我が家がある地区はカルティエ バ・ラシーヌと呼ばれる中でも一番ごみごみした王都中央に位置しています。


 数年前に亡くなった夫、ジルベール男爵は金遣いの荒い酒飲みでした。彼の代になってジルベール男爵家はあっという間に借金がかさみ、破産したのです。


 それにもかかわらず、彼は領地にしがみついていました。愛人も何人か居たようでした。私はそんな夫に愛想を尽かし、まだ幼かった娘二人を連れて王都に出てきました。


 私自身も男爵家の出身で一応は貴族でした。そんな私も今はお針子の仕事で細々と借金を返しているのです。王都に出てもう十年経ちますがまだ借金に追われています。


 私がそっとついたため息が白くなるほど冷え込んできていました。


「何か御用ですか?」


 私がきびすを返して帰宅しようとた時、誰かに声を掛けられました。


 昨晩積もった雪のお陰で通行人の足音はかなり響きます。けれど彼が近寄って来る音さえ耳に入らないほど私は考えにふけっていたのでした。


「きゃっ、い、いいえ。何でもございませんわ」


「驚かせたようですね。申し訳ありません。もしかして売り家の看板を見て来られたのでしょうか?」


 歳は私よりも少し若そうな男性でした。彼の抱えた買い物袋からパンが覗いています。ここの住人のようです。


「え? いいえ。そういうわけでは……ないのですけれど、とても素敵なお宅ですね。手入れが行き届いているのが外からでも分かりますわ」


 こんな私も以前は男爵夫人として領地の屋敷を仕切っていたのです。建物や庭を維持していくのにどれだけの労力に費用がかかるのか、分かります。


「よろしかったらこれから中をご案内いたしますよ」


「いえ、そんなとんでもございません。約束もしていないのにお宅の前で眺めていたからといって、急にお邪魔するとご家族の皆さまにもご迷惑でしょう。それにこれからご夕食を召しあがるのではないですか?」


 帽子に襟巻きで彼の顔は鼻と目しか見えませんが、私にはそこで彼がふっと笑ったのが分かりました。濃い色の瞳がきらりと光ったような気がしました。


「家族は居ませんよ。それに、ここの家主はもう住んでいません。私はこの家を担当している不動産屋の者です。今日は修理と改築の様子を見に来ているだけなのです」


「まあ、そうだったのですか。それでも、もうお仕事も終えられた時間なのでしょう。もし本当に物件を見るためでしたら後日改めてご連絡してお約束を取り付けます。失礼致します」


「貴女のおっしゃる通りでした。辺りが暗いと庭や外装が良く見えませんしね。私の名刺をお渡しておきます。後日是非ご連絡下さい」


 不動産業のこの男性の顧客は裕福な層が大半を占めることでしょう。私の古ぼけた質素な外套を見ただけで、この地区の住人のような中上流階級に属する人間ではないと分かったに違いありません。そんな様子はおくびにも出さず、彼はポケットの中を探っています。


「あの、名刺は結構です。恥ずかしながら、私にはこのような一軒家を購入出来るほどの予算もありませんから」


 この寒空の中、商売に繋がらない私のために彼を引き留めておくのも申し訳ありませんでした。


「正直な方ですね。別に買う気がなくても物件を訪ねるだけならただですし、私なら喜んでご案内致しますよ。クリスチャン・ゴティエと申します」


 クリスチャンはそこで鼻の下までしっかり巻いていた襟巻きを下ろしたので、彼の顔が全て見えました。彼が穏やかな笑顔を浮かべて名刺を差し出すので、私はそれを思わず受け取ってしまいました。


「キャロリン・ジルベールでございます。あの、ご親切にありがとうございます。けれど、購入予算も全く工面できないのに家を見せて頂いても……貴方のお時間の無駄になります。この素晴らしいお家に、良い買い手が見つかることを願っております。ありがとうございました、失礼致します」


 物件を訪問するだけならただとは言え、中まで見せてもらったらもっとこの家が好きになり、虚しくなるに決まっています。


 居たたまれなくなって私はクリスチャンに頭を下げ、さっさとその場を去ろうとしました。ところが間抜けなことに、積もった雪のせいで道路の段差に気付かず、そこで転んでしまいました。


「きゃっ」


 腕と膝から冷たい地面に突撃すると思っていたところ、私の体は腰で支えられていました。


「おっと、あっ! アイタタタ……」


 それでも結局は地面に倒れてしまったようです。一瞬のことで何が起こったか分かりませんでした。私は何と仰向けになったクリスチャンの体を下敷きにして彼の腕の中に居たのです。


「も、申し訳ございません!」


 私は急いで起き上がろうとしたのに、まだクリスチャンの腕が腰に回されていて身動き出来ませんでした。


「謝るのは私の方です。カッコよく貴女を助けようとしたのに、私まで転んでしまいました。情けないですね」


 つまずいた私を腕に抱きとめてくれたのですが、そのまま彼も足を滑らせて二人一緒に転んでしまったのでした。そしてクリスチャンはゆっくりと私の体を解放してくれ、先に立ち上がるとまだぼうっとしている私の手を優しくとって立ち上がらせてくれました。


「大丈夫ですか?」


 私の顔が年甲斐もなく真っ赤になっていたのが分かりました。もう辺りは薄暗くなっていたので、私が赤面していることがクリスチャンに気付かれていないようでほっとしました。




***ひとこと***

前作では名前が付けられていなかったクロエママ、キャロリンさんというのですね。苦労を重ねた彼女にも素敵な出会いが訪れたようです。


この作品、各話の題名は花言葉にしてみました。お米の銘柄ではありません。


一目惚れ ハルシャギク

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