皇帝の恋慕

書類に署名を

「まったく、日がな一日書類に名を記す事しか仕事がないとはな。しょせん皇帝といえどこのような誰でもできるような仕事しかしないと知られれば、余の威光も霞みそうなものだが」


 執務机に重ねられた書類を一枚一枚手に取り、大げさにため息をつく。

 目をつぶっていても自分の名前が完璧に書ける。そんな微妙と言わざるを得ない特技を会得したのは、このいくら処理しても毎日山のように届く書類のせいだ。

 この国の頂点に君臨してから早九年、さすがにもうこの作業にも慣れてきたが、単調な作業が続くばかりというのはいささか面白みに欠ける。すぐに飽きが来てしまうのだ。

 もちろん他に政務がないわけではない。しかし私の仕事といえば、その多くが書類に署名を済ませる事だ。属国や植民地に行けば嘆願書の類に署名し、新たな法が大臣達の間で持ち上がればその草案に署名し、軍が軍備の拡大を求めるのなら申請書に署名し、貴族が提出してくる赦免状やらなんやらに署名する。やはり、私の仕事の大部分は自分の名前を書く事なのだろう。


「……陛下、内容はご確認なさらないのですか?」


 至急私の署名が必要な書類があると執務室にやってきた宰相ケーリッヒは、そんな私の様子を見て不服そうに声をかける。

 だが私は、ケーリッヒが持ってきた書類に記されていた文面など確認するまでもなく知っていた。


「確認するほどの価値が、あの二人の命にあるとでも?」

 ケーリッヒに渡された書類を突き返し、小さく欠伸をする。睡眠時間を削ってまで書類仕事に終われていたから、少し疲れてしまった。


「トリーナ・エルテセトラおよびラーマ・エルテセトラの死刑執行はすでに決まった事だ。もしも確認するだけの価値が――処刑を取りやめる価値があるのなら、そもそも余のもとにこのような書類は届かぬだろう?」


 あの二人はただの罪人だ。他国の王族として扱う事など許さない。そう言外に匂わせると、ケーリッヒは恭しく一礼した。


「左様でございました。浅慮をお許しくださいませ」

「よい。……それよりも、例の姫の様子はどうだ?」


 愛しい少女の事を尋ねると、初老の宰相はほんの少しだけ渋い顔をした。しかしそれは一瞬の事で、ケーリッヒはすぐに表情を元に戻す。


「牢番の話では、近頃は出された食事を完食するほどの回復を見せているそうです。恐らく問題はないかと」

「そうか。それならば罪人の処刑が済み次第、彼女を後宮に迎え入れよう。問題ないな?」

「はっ、もちろんでございます」


 ついに彼女が私のものになる。胸の内に湧き上がる歓喜を抑え、私は心の中でだけその幸福を噛み締めていた。


* * *


 攻め落とした国の王女。それが私にとっての彼女であり、それ以上でもそれ以下でもなかった――――彼女と直接、言葉を交わすまでは。

 束の間の隣国だった王国、エルテセトラ。あの国の王女は、大陸一の美姫と名高い少女だった。

 狂い咲いた瑠璃蝶草、そう詩人に謳われるほどに、彼女のもつ青紫の瞳は印象的らしい。らしい、というのは、私はそれまで彼女の顔を知らなかったからだ。

 大国の王女ならまだしも、エルテセトラのような小国の姫君のために多くの者が口をそろえてほらを吹くというのは考えづらい。多少の誇張はあれど、十分に美しい娘なのだろうな、とその時は呑気に考えていた。

 我が国の属国となった国の高貴な女性、とくに王の血を引く娘は政治的な理由で、私の命によって属国を統べる事になった重臣の正室あるいは側室にあてがわれる事が多い。もちろん、私の後宮に送られる場合もあるのだが。

 彼女の母である王妃トリーナ・エルテセトラも、三人の子供の母親だとは思えないほど若々しく妖艶な美女だそうだ。しかし、諸事情によってエルテセトラの統治を任せる事になった傀儡王はトリーナの弟だ。いくらなんでも実の姉にそういった関心は抱けないだろう。そう思った私は、最初からトリーナを新たな王のもとに向かわせるという可能性を除外していた。

 それに加え、実母ほどの年齢の女性を抱く趣味は私にはない。そういった経緯もあってか臣下達の間では、後宮に入るのは第一王女のみで王妃は第一王子のラーマ・エルテセトラとともに処刑台の露となる、という見解が早々に浸透していたようだ。

 当然、私もそれについて異論はなかった。王女を後宮に迎えるかは直接会ってから考えるとはいえ、王妃と王太子は死んでもらわねばならない。捕える途中で死んだ第二王子は仕方ないとしても、第一王子を処刑するのはこれからエルテセトラを支配するにあたって我が国が優位に立つためには重要な意味を持つのだから。

 間接的とはいえ、寵姫となるかもしれない娘の母や兄を殺す事についての罪悪感などはなかった。敗戦国の王族がいつまでも生きていれば、それは新たな火種になりかねないからだ。

 彼らを担ぎ上げ、帝国内に反乱を起こすような不穏分子が現れてしまっては困る。そのためにも、捕えた王妃と第一王子を亡き者にしたうえで王の直系の血を引く王女を我が寵姫として迎えるのは必要な処置だった。

 とは言うものの、あの王女の処遇についての最終的な決定権は私にある。もしもあの王女が、皇帝である私や帝国の民に反抗的な態度を取るのなら、彼女を後宮に迎える話はなくなるだろう。その辺りの采配は、私が直接彼女と会って初めて振るわれるものだ。

 いくら私だって、同じ時間を共有していて不快になるような女を寵姫にしたくはない。政治的な問題が絡んでくるのなら話は別だが、彼女は重臣の近縁者ではなく属国の姫だ。無理に後宮に入れる必要はなかった。従来通り、属国の中枢に据えた臣下に輿入れさせればそれで済む話だ。

 ……もっとも今回は、傀儡王おじ自らがぜひ王女めいを側室にと嘆願書をよこしてきた事に驚いたが。まさか姪を側室に望むとは思っていなかったが、南のほうの国々ではそういった事例もないわけでもないそうだ。

 一親等はさすがに異様なものとして見られるが、三親等との婚姻はさして珍しい事ではないらしい。ラーマ・エルテセトラの妻も従妹だという。もしかすると傀儡王からすれば、二親等の実姉もそういった対象になるのだろうか。近縁者と結婚するなど、私にはまったく理解できないが。

 建前として傀儡王の要望は検討中という事で押し通したが、検討するまでもなく答えは決まっていた。いくら彼らの価値観では普通でも、彼らの新たな支配者はこの私だ。さすがに叔父のもとに王女を嫁がせる気はない。

 私の後宮に迎えないとしても、属国あるいは本国で優れた働きを見せる年若い忠臣に褒美として嫁がせたほうが、彼女も幸せだろう。いくら王といえど、しょせんは帝国の傀儡だ。奴の希望を一から十まで聞く義務など、宗主国の王である私にはなかった。

 そういった態度を取っていたら、気心の知れた臣下達から「早くエルテセトラの王女と拝謁するように」とせっつかれるようになった。陛下が側室になさらないのならぜひ自分の妻にと、冗談交じりで願い出る者もいたぐらいだ。それほどまでに、彼らの目にあの王女は魅力的に映ったのだろうか。

 そう考えていると、徐々に好奇心が芽生えてきた。年若い忠臣達を骨抜きにした少女にそろそろ会ってみようかと、私は重い腰をあげたのだ。

 しかし、正式な謁見の場を作るとなると時間がかかる。顔を見るためだけに七面倒な手続きをする気にもなれず、私は忍んで牢獄に足を運び――――そこで出逢った彼女と恋に落ちた。

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