牢獄での出逢い

 牢番に扮した私が向かったのは、エルテセトラの王女を収監している監獄塔だ。

 今、ここに皇帝わたしが来ているのを知っているのは典獄しかいない。何も知らない牢番は私の事を新人か何かだと思ったようだ。私の事を交代の牢番だと信じ込んだ彼は、私に気安く声をかけて昼食を取りに行ってしまった。

 ……今の私にとっては都合がいいのだが、少々警備がざるすぎはしないだろうか。もしも牢番の格好をしているのが私ではなく、罪人の逃亡を手引きしようと目論む輩だったら目も当てられない。あとでさりげなく、典獄にその辺りの警備体制について確認を取っておくべきかもしれない。


「――ッ!」


 そんな事を考えながら螺旋階段を上り、王女を捕えている最上階の独房まで辿り着いた私は、思わず感嘆に息を飲んだ。鉄格子越しに彼女の姿を捉えたからだ。

 何が大陸一の美姫だ。彼女にそんな言葉はふさわしくない――――世界一の美姫と言ったほうが正しいだろう。

 頬はこけてやつれているが、それでもなお彼女の美しさは霞んでいなかった。そしてそれは外面的な、上辺だけのものではない。どのような劣悪な状況に置かれていようともくすまない、内面的な美しさだ。

 帝国では見る事のない夜色の髪と滑らかな褐色の肌は異国の匂いを感じさせる。今は髪もつやを失っているが、整えたのならばきっと夜の女神と見紛うほど美しいのだろう。

 凛として佇む彼女からは、隠しきれない気高さが滲んでいた。そこに囚われている事への卑屈さはないし、悲劇に見舞われた自分に酔うような安っぽい雰囲気も感じられない。……牢の中でもこれほどの高貴さを纏っているのなら、着飾った時にはどれほどの輝きを放つのだろう?


「……?」


 鉄格子の前で立ち尽くす私に気づき、王女は胡乱げな眼差しを向ける。簡素な寝台と小さな机ぐらいしか物のない殺風景な独房も、彼女がいるだけで空気が華やぎ貴人の私室にさえ見えた。

 青紫の瞳に見つめられ、私はようやく我に返る。気まずい心中をごまかすかのように咳払いをし、鉄格子の一画に紛れるように据えつけられた小さな扉を開けて彼女に食事を渡した。昼の交代に来た牢番のふりをするためには、彼女に食事の配給をしなければならないのだ。

 王女は無言のまま頭を下げて盆を受け取る。しかし、いつまで待っても彼女は昼食に手をつけようとはしなかった。独房の食事など自分の口には合わないという意思表示のつもりなのだろうか。

 だが、彼女の気持ちもわからなくはない。王女として何不自由なく育った彼女に、牢獄での暮らしは酷だろう。まず、罪人のような扱いなど王族としての矜持が許さない。彼女が今の己の境遇を受け入れているとは思えなかった。だが、そのようなささやかな抵抗しか、今の彼女にできる事はないのだ。


「食べなければ身体に悪いぞ?」


 彼女の気持ちはわかる。だが、それを見過ごすわけにはいかない。こんな些細な事で帝国に反抗の意志があると言われるのは癪だし、なによりこんな食事でも何も食べないよりはましだ。差し出口だとは思いつつもそう口添えすると、彼女はうっすらと笑った。


「喉を通らないのです。どうか、わたくしの事はお構いなく、哀しいお方」

「……哀しい、だと? どういう意味だ?」

「言葉通りの意味ですわ。……わたくしは、あなたほど哀しい目をした方を見た事がございません。人には言えない……いえ、誰も理解してくれないような憂いをお抱えになっているのでしょうね」

「どうして――!」


 思わず絶句してしまった。彼女の言葉が的を射ていたからだ。

 確かに私は悩みを抱いている。それも、私が生きている限り絶対になくなる事のない悩みだ。

 『皇帝』という身分にまつわる孤独と重責は、私の心を苦しめる。だが、そんな事を他人に相談できるわけもなく、私は自分を騙しながら『皇帝』であり続けていた。


「哀しい、そして寂しいお方。誰もあなたの本当の姿を見ようとしない。だから誰一人としてあなたの抱える憂いに気づかない。……一人で悩み苦しむのはおつらいでしょう」

「たとえそうだとしても、君には関係ないだろう?」


 だというのに、王女はあっさりと私の胸の内を読み取った。誰にも気づかれなかった心の闇を、彼女だけが見抜いてしまった。

 しかし、それをあっさりと認めるわけにはいかない。たとえ本当の私を理解してくれる者に巡り合えたとしても、出逢ったばかりの娘に悩みを吐露する事など私に残されたわずかばかりの矜持が許さなかった。


「……そうですわね。差し出口でございました。今の言葉は忘れてくださいませ」


 それ以上の問答は不要だとでも言うように、王女は私から目をそらす。それと同時に下りた沈黙は長い。だが、不思議と居心地の悪さは感じられなかった。


「ねえ、牢番さん。わたくしはこれからどうなるのでしょう?」

「なに?」


 どれほどの無言の時間を彼女と共有しただろう。沈黙を破ったのは彼女のほうだった。彼女は窓の外を眺めながら、掠れた声音を紡いだ。


「……通例通りに行くなら、皇帝陛下の後宮に迎えられるだろうな。悪いようにはされないはずだ」

「そう。処刑はされないのね」


 王女は残念そうに顔を伏せる。まるで死ぬ事を望んでいるようなその様子に、わずかながらに興味と焦燥を覚えた。


「君は自ら死を望むのか?」

「めっそうもございませんわ。ですが、このまま身も心も帝国に捧げるぐらいなら……」


 声音は震えていた。そう、彼女にとって私は、私の国は、故国を蹂躙した侵略者なのだ。反抗の意志がどうのと言っているが、そもそもそうやすやすと私達に服従の意を示すほうがおかしいのだろう。

 だが、王女の態度はあまり褒められたものではない。一個人の心情がどうであれ、敗戦国の王族がいつまでも戦勝国に悪感情を抱いていたら、それは国ぐるみで我々の支配を拒んでいる事に他ならないだから。


「気持ちはわかる。だが、それはあまり人には言わないほうがいいな」

「っ! ……浅慮をお許しください。しょせんわたくしは、何もわからない愚かな小娘なのです」


 私の言わんとしている事に気づき、王女はさっと顔色を変える。決して頭の悪い娘というわけではないようだ。

 とはいえ、そもそも私がこうして彼女に会っている事自体が非公式なのだ。彼女が不適切な発言をしようと、多少の事なら水に流しても構わな――――おや? それでは、抵抗の意志がどうのと固い事を言うのも野暮というものではないか?


「大丈夫だ。どうせ私しか聞いていないし、私も他言する気はない」


 そうだ。彼女を後宮に招く前に、彼女の心の内を知っておく必要がある。

 今の私はただの牢番だ。大した身分を持たない者が相手だからこそ話せるような事もあるだろう。彼女の本音を聞き出すには絶好の機会だ。


「だから私の事は、壁か何かだと思ってくれ。私には話を聞く事ぐらいしかできないが……少しでも君の気を楽にできるなら、それほど喜ばしい事もない」

「でしたら、わたくしにもあなたの話を聞かせてくださいな。わたくしだけ悩みを吐露して楽になる気はございませんわ」


 そう言って王女は笑った。……ああ、どうやら彼女には敵わないようだ。

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