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×××
「美味しそう」
羊肉の香ばしい匂いが部屋を満たす。麻衣は鼻をくんくんとさせて、頬を緩めた。麻衣は出席番号で前の席に座っていた女子だ。その縁で仲良くなった。彼女は食堂にはいなかったから後日連絡していた。
ジンギスカンパーティは金曜日にさちほのアパートで開催された。金成は来なかった。あれだけ場を荒らしたにもかかわらず、急用が入って参加が難しくなったようだった。しかしそれも真実かどうか怪しい。本当は気まずくなったからじゃないだろうか。とにかく金成が来られなくなったことは、さちほにとって僥倖だった。
忠志がテレビをつける。途端に下品な笑い声が響く。クイズ番組が放送されていた。
「あ、あんまり音上げないでね」
さちほが注意すると、忠志は「おっけー」と軽い返事をした。光彦は忠志とテレビを見て、クイズの答えを予想し合っている。
「さちほ、箸どこにしまってる」
離れたところから怜美の声がした。見ると怜美はキッチンの引き出しを探っていた。そこは散らかったカトラリーが詰め込んである。さちほはキッチンに向かい、怜美に箸を渡す。
自分の家を使うと、こういうところが面倒だった。勝手にテレビをつけられたり、キッチンの引き出しを開けられる。気の知れた仲間とは思うが自重してほしかった。
支度を終えて席に着く。ようやくジンギスカンにありつけると思いきや、今度はチャイムが鳴った。
落ち着かないな――。さちほは箸を置く。夜の訪問者は喜ばれたものじゃない。
「テレビ、小さくして」と光彦に言い残して、さちほは玄関に向かった。
一瞬、例の宅配かと身構えた。が、覗き穴には見知った顔。ボサボサ頭の男がいた。隣室の男子学生だ。見るからに不機嫌そうに髪を掻いている。
「なんでしょうか」
「あのさ。うるさいんだけど、静かにしてくれる」
「漏れてました?」
「漏れてるどころじゃないよ。筒抜けだよ」
「すみません……気をつけますから」
隣ということもあり低姿勢に謝った。長い付き合いになるから、荒立てる必要もない。男は隣室に帰っていった。女に謝らせて良い気分といった表情だった。隣の戸が閉まる音がとても大きく聞こえた。
「今の誰だ?」
背後から光彦がキレ気味に言った。
「隣の人」
「生意気だな。ちょっと殴ってくるか」
「やめてよ。悪いのは私たちなんだし」
ケンカっ早い光彦を宥めて、さちほは席に戻った。
今日はなんだか疲れた。苦情と不審な贈り物を忘れるために早めに酔いたかった。油の滴る肉を口に運び、舌鼓を打った。
久しぶりのジンギスカン。さちほは缶チューハイを開ける。テーブルの上はすぐに空のお酒でいっぱいになった。
「で、食堂で話してたストーカーのことなんだけど、その品物はどこにあるの?」
怜美が赤くなった顔で尋ねた。この調子だとだいぶ酔っている。
「どこって……。どこでもよくない?」
さちほは投げやりに言った。お酒の力を借りて忘れかけていたのに、怜美は蒸し返した。
「ストーカーって、さちほ、何の話?」
麻衣が目を丸くして聞き返す。そうだった。麻衣には何も伝えていないのだった。でもこれ以上は誰にも知られたくなかった。
さちほは怜美の服の裾を引っ張る。しかし、怜美に思いは届かず、「知らない人からプレゼントが来たらしいよ。さちほは心当たりないらしいし、怖いよね」
「そうなんだ……。それってすごく不気味」
麻衣は、ひっと声を上げて自分の体を抱くような仕草をする。
「でしょ。で、品物はどうしたの。もちろん隠してあるんだよね」
「捨てた」
「え!? 捨てたの」わざとらしく両手を前に出して驚く。「さちほ、そういうのは取っておくんだよ。ストーカーの証拠になるんだから」
「でももう捨てちゃったから!」
思わず強い口調になった。光彦と忠志が何事かと振り返る。麻衣が箸を落とす。部屋が静かになって、ジンギスカンの焼ける音だけ聞こえてくる。
「なにそれ……私は心配してるんだよ」
「そうは見えない。楽しんでるみたい」
「ヒドっ。よくそんなこと言えるね」
「言えるよ。ストーカーの話だって話してほしくなかった」
「じゃあ麻衣には黙っておくつもりだったの」
「違うよ。私から話すつもりだった」
さちほは怜美を睨んだ。険悪なムードが漂った。でも原因は怜美だ。せっかく楽しいパーティなのだからストーカーの話をしてほしくなかった。
「ねぇ、二人とも……」
麻衣が仲裁するような声を出す。さちほはそれを無視した。怜美は以前から人のプライベートに介入する女子だった。大目に見てきたが今回は許さない。ストーカーは自分の問題だ。酒のつまみとして楽しい話題を提供しているつもりはない。
「音量上げないでって!」
怒りの矛先は光彦にも向いた。どうしてみんな自分勝手なんだろう。まともなのは忠志だけだ。忠志はさちほたちの迫力に圧倒されてすっかり黙ってしまっている。
「別にいいじゃねぇか。迷惑してるって言うのは隣の苛つく奴だけだろ」
「いいから下げて」
光彦は渋々リモコンを取って、テレビの音量を下げる。
「まったく。女ってのは感情的な生き物だ」
当てこすりを言われて、頭に血が上るのが分かった。
さちほは食器を床に叩きつけた。
「今、性別のことなんか関係ないでしょ!」
声を張り上げると、さすがに光彦も驚いたようだった。落ち着けよ、と言って肩に触れてくる。さちほは身をよじって手を振り払う。触られたくなかった。気が立っているときに無理に諭されるようなことをされるのは余計に腹立たしかった。
「ねえって!」
麻衣がまた呼びかける。
「何? 仲直りさせようとしたって無駄だよ」
「そうじゃない。私の話を聞いてよ。さっきから、外、誰か見てない?」
冷や水を浴びた気分で、さちほは麻衣の視線を追った。麻衣の言葉には切迫感が宿っていた。カーテンには隙間ができていた。さちほは一瞬にして口論のことを忘れた。さすがに無視できなかった。隙間に手を入れて、カーテンを思い切り開ける。誰もいない。外には自動販売機の明かりと真っ暗な道路が広がるだけだった。
さちほはため息をついて、麻衣を見る。「いなかったけど」
「嘘……。さっきは絶対いたはず。太めな男の人が……」
麻衣が窓を開けて、ベランダに出る。しかし、目を凝らしても不審者はどこにもいなかった。
「あーあ、焦げちまったよ」光彦は呆れたように言う。「食べらんねえな」
場は破壊されて最悪の雰囲気だった。誰も何も話すことができず、テレビからバラエティの笑い声だけが響く。ジンギスカンは黒焦げだった。二つに割れた食器も処理しなきゃならない。
呆然と立ち尽くすさちほをよそに、またチャイムが鳴った。続けざまに強いノックの音がする。あれだけの口論をしたら隣室に聞こえているのは当然だった。
もうたくさんだ。どいつもこいつも。
「帰って」
「え? 帰るって、まだ二時間しかいないのに」
「帰ってって言ってるでしょ!」
一人になりたかった。今は冷静になる時間が必要だった。さちほは追い立てるようにして全員を外に出した。
深夜になってさちほは床に就く。疲れているはずなのに、その日の夜はなかなか眠れなかった。
×××
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