3
次の回収は翌週だ。見つからないように隅にゴミ袋を置いておく。管理人は常駐していないから咎められることはないだろうが、問題になったら面倒だ。
「そのネックレス、捨てちゃうんですね」
さちほは肩を震わせた。振り返るとよれよれのTシャツの男がいた。大学で隣の席にいた男だった。
「あなた学校の……。どうしてここにいるの」
さちほは不審に思った。戸数は多くない。三ヶ月経って住人は大学の人間がほとんどだと把握していた。さちほの記憶では、こんな男は住んでいなかった。
「実は上に越してきたんです」
毛の濃い指先はさちほの部屋の真上を示す。そこはずっと空室だった。エレベーターもないアパートだ。階段から一番離れた角部屋だから埋まらなかったのだろうか。それにしても、よりによってそこに越して来るなんて。
偶然にしてはできすぎな気がした。朝会った男が同じアパートに――それも真上に、住むことは偶然なのだろうか。それとも自意識過剰なだけか。
「さちほ!」
光彦の声が上方から響く。階段を降りて、さちほのところへ来た。
「遅いから降りてきたんだ。ただのゴミ捨てにどうし――」
不自然なところで言葉が切れて、さちほは光彦の顔を見た。
「って拓也じゃねえか」
「神前くん……ここに住んでたんだ?」
男が野太い声で言った。
「知り合いなの」
「ああ。こいつは金成拓也。最近よくゲームしてる友達だよ」
金成と呼ばれた男が、どうも、と会釈する。
さちほは驚いた。光彦と知り合いとは思わなかった。
「最近って。いつから知り合ったの?」
「三ヶ月前くらいか……。お前と付き合い始めた頃だよ」
「私知らなかったけど」
「そりゃ……言ってないからな。ってかお前らこそ知り合いかよ」
さちほは金成と顔を見合わせる。勝手に知り合い認定されてさちほは戸惑った。こんな男、知り合いでも願い下げだ。
「講義で教科書を貸してもらったんだよ」
さちほが黙っているから、金成が話を引き継いだ。
「なるほどな。さちほも優しいじゃねえか」
「たまたま教科書使わなかったからよ」
「レポートやってるからな」
「出欠カードだけ私に渡した光彦に言われたくないわ」
光彦は豪快に笑った。ところでと切り出す。
「引っ越すなら教えてくれりゃよかったのに。拓也の頼みなら手伝った」
「いや、急に引っ越した方が驚くかなって思って。神前くんはサプライズ好きだろ」
「それはゲームの話だ。不意打ちは得意だけど、されるのはむかつく」
光彦は笑って、「偶然ってあるもんだな」と感心したように言った。
さちほは二人の打ち解けたやり取りを見ていた。意外な組み合わせだった。正直、体育会系の光彦と見るからに非体育会系の金成は相容れないと思っていた。さながら弱い弟を守る兄という構図なのだろうか。
「じゃあ、また学校で」
金成は奇妙に膨らんだ腹を揺らして自室に帰っていった。
×××
翌日のことだ。食堂は学生たちでごった返していた。さちほと光彦は食堂で昼食を取っていた。四人がけの席を講義終了とともにダッシュで確保していたのだ。そこに、いつメンである怜美と忠志が合流する。二人はさちほ達と同時期に付き合い始めていた。同じサークルに所属して意気投合したのだ。対照的な二人のやり取りを見ていると、さちほは微笑ましく感じた。
教授の悪口とか学生課の怠慢を話しているうちに、あの男――金成が視界に入った。
「どうしたの」
「え、私? なんでもないけど」
怜美の問いかけにさちほは作り笑顔を浮かべる。金成はこちらには気づいていないようだった。トレイを持ってうろうろして、座る場所を探していた。豚が飼育小屋を歩き回っている様子に似ていた。
「おーい、金成こっち空いてるぞ」
突然、光彦が大声を出した。
「ちょっと待ってよ。あの人、こっち呼ぶの」
「いいじゃねえか、椅子持ってきて詰めれば座れるんだし」
さちほは嘆息する。なんたってそんなことを。光彦は誰も求めていないのにお人好しなことをした。こっちに来ないように願っていたのに。光彦は兄貴キャラを出そうとする。
腹を揺らして来た金成のトレイにはカレーライスとそばが載っていた。
「神前くん、ごめん。でも……いいのかい?」
「ああ、いいって。一人で食うのは寂しいだろ。な、みんな」
そう聞かれたら光彦の問いを拒めない。一様に顔を見合わせ頷く。ただ、金成のために席を持ってきたのには驚いた。どうしてここまでするのだろう。もしかしてゲームが理由だろうか。すごく上手だとか。ゲームでの関係性はまだ聞けていなかった。
金成は座って簡単な自己紹介をした。趣味はゲーム、得意は物理。どうせこの場限りの相席だったから、誰も興味はなかったと思う。しかし社交辞令として乗っかったばかりに、忠志はすぐに後悔することになった。金成は物理の話を始めたのだ。忠志は怜美と違って気弱だ。自説を披露する金成をなかなか止められなかった。だからさちほが、その役目を担った。
「その話はまた今度にして」
会話は弾まず淡々と時間が過ぎていく。あからさまに空気が悪かった。金成がいるからみんな遠慮して話題を選んでいる。食事の進みも遅い。それもこれも光彦のせいだった。
金成は、くちゃくちゃとカレーを食べ進めて、舌で口周りを舐める。
「ジンギスカンパーティ、しないか」
唐突に光彦が言った。みんなが顔を上げる。
「いいね」明るい怜美が同調し、「忠志はどう?」
「俺も賛成。でもさ、光彦。場所はどこでやんの? 俺と怜美は寮だろ。ごめんけど、人は呼べない。そうすると場所は自ずと限られる」
「そうだな。さちほ、お前んちはどうだ」
「え、私のウチは無理だよ。光彦知ってるでしょ? 掃除してないし狭いし」
急に問われて面食らった。
「この間は俺んちだったろ? 大学から一番近いし、今回だけやんねえか?」光彦は拝むように手を合わせる。「頼むよ」
「分かったわよ……その代わり片付け手伝ってよね」
さちほは嫌々ながら了承した。断りたかったけれど、せっかく光彦と仲直りしたばかりなのだから譲歩しようとした。
「拓也も来るよな」
「僕も行っていいの」
「え……待って。金成くんも呼ぶつもり」
さちほは慌てて言った。そこまで許可した覚えはない。
「なんだ誘っちゃダメだったか」
「そういうわけじゃないけど――」
さちほは言いよどむ。金成のまぶたに沈みそうな目が見つめてくる。さすがに面と向かって拒否はできなかった。それを分かってて光彦は聞いているのか。ただでさえ狭いアパートにこれ以上人を誘ってほしくなかった。それにこの金成。光彦とはかなりの仲のようだが、やっぱり生理的に受け付けない。
「こいつが敏感になってるのは理由があるんだ。この間、家に変な贈り物が届いて……」
「ちょっと光彦やめてよ」
さちほは遮った。無神経な発言だった。静かになるのが窮屈で話題を提供しようと思ったのだろうが、大勢の人がいる場所で話していい話題ではなかった。でも強く拒絶したことがかえって興味を引いてしまった。
「贈り物って」
怜美が身を乗り出しながら尋ねた。
「……ネックレス。誰からかは分からない」
「それってストーカー? ……怖っ」
「でも戸締まりはしっかりしてるから。それに光彦だっているし」
さちほは弁解するように言った。牽制の意味もあった。誰に聞かれているか分からない。弱みを見せないようにするのが賢明だと思った。
「そっかあ。そうだよね。やっぱ光彦くんは頼りになるから」
「光彦がいるなら安心だな」
「戸締まりしてても侵入はできるかもしれないですね」
と、ポジティブな空気が醸成されていたところに、金成はいきなり割り込んできた。
「どういうこと」
「いや。量子になれば侵入可能ということです」
「意味が分からないわ。量子って、また物理の話? 私たちは人間よ」
「そうです。僕たちは人間です。でもその人間は量子で構成されています。そして量子は力で結びついています。もしもその力がなくなったら、僕たち人間はバラバラになります」
「馬鹿らしい。だから何? それがどう私の部屋に入ることに繋がるの」
「ストーカーだって量子や原子レベルでは侵入が容易ということです」
金成は静かに言った。人間が原子、もっと細かく言うと量子でできていることは物理の時間に学ぶことだ。当然さちほも知っていた。でもみんなドン引きしていることが分からないのだろうか。ストーカーの話を強引に物理の話に着地させるのはどうかしている。
「量子だか何だか知らないが、二人とも落ち着けって」
ヒートアップしたさちほを光彦が止めた。光彦は話についていけてなかったけれど、結果的には助かった。全員が金成の性格を理解したところで、さちほは密かに彼を誘わない展開を期待していた。
けれど思い通りにならず、最終的には金成も来ることになった。ジンギスカンパーティの開催を許可した以上、金成だけ拒むことはできなかったのだ。あげくのはてに、ラインの交換までせざるを得なかった。
さちほは口元へ昼食を運ぶ。食欲はすっかりなくなっていた。気づくと金成はすでに食べ終わっていた。人の気も知らないで。金成が気持ち悪くて昼食のほとんどは食べられなかった。
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