第3話 優雅な朝のルーティーン
そしてその「常人では考えられないミスやハプニングをしでかす」ということこそが、部長のサポートに二人の秘書が必要とされる理由なのである。
仕事は超一流。クライアントにはこの界隈では有名な国内外の実業家や資産家が数多くいて、及川部長の天真爛漫な人柄や、マーケットに対する嗅覚に心酔しているのだ。
だが部長は仕事以外は本当に、本当にポンコツだった。
一昔前の言葉で言えば、おっちょこちょいだし、めちゃくちゃ忘れっぽい。
仕事に関して働く勘にはいつも感心させられるけれど、「メインの仕事をするために付随するいっさいの業務」はとてもではないが任せられない。
みんなが部長を見て抱く気持ちを人員配置の形で具現化したのが、異例の秘書二人体制なのだった。
部長がいつも最善の仕事を出来るよう、あやみと伶は秘書として部長の手となり足となり、日々一生懸命サポートを行うのである。
「渡した資料、データ大丈夫だった?」
専用の執務室にある打ち合わせスペースで、この後の予定や絶対に忘れないで欲しいことなどを申し送りしようと三人が集まると、部長が無邪気にそんなことを言う。
「イエ、だいっ、じょうぶ……ではなかったんですけど、大丈夫です。なんとか会議までに整えます」
「そっか。いつもありがとうね。僕の知識はウィンドウズ98くらいで止まっているもんだから、若い人がサポートしてくれて助かるよ」
にこにこしながら、部長は伶が淹れたカフェオレを美味しそうに飲み干した。
あやみは一拍遅れて「いえ、恐縮です」と応える。
あやみと伶が幼稚園に通っていたころに主流だったOSのバージョンと、部長が無意識に資料を破壊したことにはほとんど因果関係はないと思われる。
だが、それを指摘するのは野暮というか、あまり意味のないことなのだ。
あやみの左隣に背筋を伸ばして座る伶は無言だった。心中ではあやみとまったく同じことを考えているに違いない。
要するに、部長の脳のリソースは仕事のためだけに使われるべきだということだ。
「そういえば土曜日、日本橋のイベントに行ってきたよー。面白かったなぁ」
牛乳と砂糖たっぷりのカフェオレで血糖値が上がったためか、部長はいつも以上にテンションが高かった。
仕事の話などそっちのけで、個人的な趣味の話をし始める。
打ち合わせしたいことは正直まだまだあるのだが、あやみと伶は黙って部長の話に耳を傾けた。
部長は毎朝、こうした雑談をすることを業務に集中するためのルーティーンとしているのだ。
「例のイベントですね。興味があるので、私も行ってみたいです」
あやみがが本心からそう言うと、部長はうんうんと頷いた。
「いやほんとにね、たくさん趣味があると人生が豊かになるよ」
「僕も告知サイトはチェックしていました。日本橋のイベントは特に大きかったみたいですね」
伶の言葉に部長が嬉しさをおさえきれず、といった様子で目を輝かせる。
「このチーム皆で沼にはまろうよ。きっと楽しいよ」
あやみと伶が自分の趣味に興味を示しているのが、部長としてはとても嬉しいようだった。
そのまま部長は熱く語り始め、あやみと伶がその興味深い内容(部長の話術とその分野に対する愛がそうさせるのか、実際に話はすごく面白い)に対して相槌を打ち。
そしてそのまま、20分ほどが過ぎた。
部長のコレクションに、同じ趣味を持つクライアントが舌を巻いたという話が二巡目を迎えた時、伶がちらりと視線を寄こした。
あやみは軽く頷いた。
部長の話は朝のルーティーンの域を既に越えている。
打ち合わせたかった他の件については、もう諦めた。
そろそろデスクに戻り、仕事に取りかからないと本当にまずいことになる。
まずは午後の会議の準備。部長は12月の営業方針とマーケットの近況を受けた施策についてプレゼンしなければならないのだ。
もちろん、会議だけが仕事であるはずもない。部長がこの後やらなければならないことは他にもあった。
クライアントの問い合わせに対する応答、投資状況の確認、昨今の国内および世界情勢を鑑みた新しい商品の提案、PDCAの資料の作成と共有、営業部から上がってくる稟議書や費用支出の書類の確認などなど、仕事はいくらでもある。
「部長、そろそろ」
伶がやんわりと言う。
「あ、もうそんな時間か。仕事に取りかからないとね」
部長は物足りなさそうな顔をしたものの、素直に話を切り上げた。
それがちょっぴりかわいそうで、あやみは口を開く。
「コーヒーのおかわりをお持ちしましょうか?」
「うーん、まだ良いかなぁ?」
「では、私たちは外に出ますので、何かあったらおっしゃってください」
「ありがとう」
あやみと伶は執務室の扉が完全にしまるのを待ってから、猛スピードでデスクに戻り、仕事に取りかかった。
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