第2話 ポンコツ部長の秘書、1号2号

 11月。早朝の丸の内は、吐く息が白くなるほどに冷え込んでいた。

 でも今日のあやみは、カシミヤのショートコートの上にアルパカの毛を織り込んだ、暖かい大判ストールを首にぐるぐるに巻いている。

「寒気、どんと来い!」とすら思っている。

 寒さは、心を弱くするのだ。寒い時期に良い仕事をするためには、通勤時の服装からこだわらなければならない。

【出来るビジネスパーソンほどパフォーマンスの維持のために、寒い日は暖かさに気を遣う】

 いい感じのビジネスハックらしい一文を思いつき、それをSNSでつぶやきたくてあやみは立ち止まった。

 スマホを取り出すためにバッグを探る。

 あやみのSNSアカウントは、「意識の高いビジネスパーソン界隈」の中でなかなか好評だった。

 たまにこうして思いついた「楽しくビジネスをするために大事なこと」を説得力のある文章にしてつぶやけば、調子のいい時は千を超える「いいね」をもらえる。

 それがハチャメチャに気持ち良くて、やめられないのだ。

 スマホのサイドキーを操作して画面を表示すると、メッセージアプリの通知が目に入った。

『トラブル発生。可及的速やかに出勤せよ。いまどこ』

 送信者は同僚の佐倉伶だ。

 一昔前のロボットみたいな機械的な文面の最後に添えられた「いまどこ」というひらがな四文字を見て、全速力で会社に向かう必要はなさそうだと判断した。

 それでも『トラブル』という穏やかではない単語に若干の焦りを感じる。

 あやみはいい感じのビジネスハックのことなどすっかり忘れて、オフィスへと足を速めた。

 ハイブランドのショップや外資系のラグジュアリーホテルが隣接する大型複合ビルの30階に、あやみが勤務する証券会社のオフィスがある。

 警備員の立っているセキュリティゲートにIDカードをかざして通り抜け、高速エレベーターに乗り込んだら、皇居周辺の深い緑を遠目に眺めつつ30階へ。

 朝が早いため人気のないロッカールームに立ち寄り、コートとストールを早業で収納して、急いでデスクに向かう前に、パウダールームへ。

 汚れひとつない大きな鏡と籐のチェアのブースが並ぶシックなパウダールームは、このオフィス内であやみが一番気に入っている場所だった。

 最奥のブースに向かい、鏡で念入りに自分の姿をチェックする。

 急いではいるが、最低限の身だしなみが整っていないとその日一日がダメになるというビジネスハックを以前SNSで見て、あやみはいたく共感したのだ。

 だから最低限、まずは前髪。それから、ファンデーションやリップがよれていないか。アイメイクが落ちて目元が汚くなっていないか。

 あれやこれや、合計30秒ほどかけて点検する。

 具体的には、「向かいの席から見られても恥ずかしくない状態かどうか」を確認して、ようやくあやみはフロアへ向かった。

 大きな窓から入ってくるやわらかい日差しを浴びながら、背筋を伸ばしてつかつかフロアを歩き、自分のデスクへと向かう。

 なんせフロアが広いので、やや汗をかいてしまった。

 あやみの仕事は秘書である。

 この証券会社には20人ほどの秘書がいて、仕事は一流だがその他の部分は一癖も二癖もある担当上司たちのサポート業務を、それぞれ全力で行っている。

 秘書のいる役職者には個室があてがわれていた。

 その個室の前のデスクが、秘書の席。

 通常は一人の役職者に一人の秘書がつくため、デスクは一つのはずなのだけれど。

「……おはようございます!」

 あやみのデスクの向かいにはもうひとつワーキングデスクがあり、同期の伶が座っていた。

 伶があやみの声に顔を上げ、ボソッと言い放つ。

「お前、遅い」

「いやこれでもけっこう急いで来たんですけど!?」

 いつもであればあやみは2分もかけてじっくり身だしなみを整えるのだ。その時間を約75%も削減して30秒に短縮し、汗をかいてヒィヒィ言いながら競歩みたいな早い歩き方を意識してここに来たというのに。

「で、トラブルってどんな?」

 あやみと伶は二人で同じ担当上司の秘書をしているのだ。

 これは、なかなかに異例なことと言えた。

 伶は返事をせずにPCのモニターをにらみつけ、画面と思しき一点を長い指で指ししめした。

 あやみからは見えない。

「……?なに?」

 あやみは伶の背後に回りこみ、画面を覗きこもうとした。

 そうして伶の背中に近づいたとき、突然伶がワーキングチェアごとあやみからガーッ!と遠ざかる。

 その動きの速さにあやみはびくりとした。

 もしかして、汗くさかっただろうか?

 若干のショックを感じつつも、ムッとした。なにもそこまで露骨に距離を取ることはないのでは、と思う。

 なんと無神経な男なのだろうか。

 腹が立ったが、それはそれとして全速力でここに駆けこまなかったのは事実なので少々の負い目もあり、あやみは大人しく伶のPCを覗き込んだ。

 会議の資料を作る時によく使う表計算のフォーマットをひと目見て、あやみは衝撃のあまり「ヒィッ」と悲鳴を発した。

「……これ、全部壊れてるの?」

「いま確認してるけど、全部ではない。全部じゃないから逆に厄介ともいえる」

 伶はワイヤレスのキーボードを左手で叩きつつ、右手でマウスを操作して、全12シートに渡るフォーマットの「損壊ぐあい」をあやみに確認させた。

 今日は始業から一時間もしないうちに、大事な会議があるのだ。

 その会議に必要不可欠なメインの資料が、「ぶっ壊れている」。

「な、なんでこんなことに……?」

「わからない。そしてそれこそが『及川マジック』と言えるな」

 犯人はわかっている。

 二人の担当上司である及川営業部長だ。

 あやみは若干のふらつきをおぼえつつ自分のデスクへ戻って、足元に置いたかごへ持ったままだったハンドバッグをていねいに収納し、とりあえず自分のPCの電源を入れた。

 それから立ち上がりちょっと一息つこうと窓際のコーヒーサーバーへ向かおうとすると、

「おい椿、逃げるな。二人で協力すればどうにかなるだろ!」

 窓の外を穏やかな目で見つめ始めたあやみを見てまずいと思ったのか、焦りをにじませた声で伶が言う。

 あやみはくるりと振り返った。

「協力って、どういう分配で?」

「俺2、椿10」

「ちょ、うそでしょ!?」

 驚いて、鼻水が出そうになった。

 つまり壊れたシートをどうにかする超絶めんどくさくて時間のかかる作業の多くを、あやみに押し付けようというのだ、この男は。

「椿の方が表計算得意だしその方が早いだろ。俺はリテール部門の別資料と、マーケットの状況を原稿に落とし込む作業をやらなきゃならない。会議が始まる前までに、だ」

 何もいじっていないくせにやたら整った眉をひそめて、伶が諭すように言った。

 別資料の取りまとめには専門的な知識とそれなりの実務経験が必要となる。

 そこを主張されるとあやみも弱かった。

 あやみは口に手を当て、数秒ほど黙考する。

 結果、どう考えてもいま優先されるべきなのは伶の方だった。

 しかしながら、あやみはあやみでもろもろの細かい業務があって、忙しい。

 部長が円滑に仕事を進めるためのアウトソーシングを一手に担っているのは、むしろあやみの方なのである。

「うう……でも、でも、2:10は無理」

「じゃあ4:8にするか?」

「えっホント!?じゃあそうしよ!」

 最初の提案よりも2倍の仕事を伶が引き受けてくれるとあって、あやみはすぐに首を縦に振った。やっぱり伶は優しい。

 さっそく社内チャットを開き、伶から共有された表計算ファイルを開く。

 めんどくさいことは早めに処理。これは出来るビジネスパーソン・椿あやみが提唱するビジネスハックの、奥義とも言えるひとつである。

 が、あやみはすぐに気がついた。

「え、今のってもしかしてドア・インザ・なんとかテクニック的なやつ?」

 もしかしていま自分は『最初に相手にとってわざと難しい提案をして、難色を示されたらもう少し条件を引き下げた提案をする。その方が相手は条件を飲みやすい』という心理テクニックを使われたのではないか?

「断じて違う。目の前の仕事に集中しろ。第三の目を開け」

 こちらには目も向けずにやや早口で伶が言い、やはりそうだとあやみは確信した。

 私だって忙しいのは一緒なのに、なんて卑怯な……!

 抗議をしようとあやみが口を開きかけたところで、場違いなのんびり声がフロアに響いた。 

「おはよ~。さっきさ、モデルの藤田美優ちゃんだっけ?雑誌の撮影してるの見ちゃった」

「「おはようございます」」

 部長の登場を受け、即座にあやみと伶は立ち上がった。

 上質な黒のコートの肩に、乾ききってパリパリになった落ち葉を貼りつかせて、及川部長はにこにこ上機嫌だった。

 自分が大事な資料をうっかり破壊したことなどつゆしらず、そのまま鼻歌でも歌いだしそうな勢いである。

「藤田美優ちゃん、10頭身くらいあったよ」

「10頭身…はさすがにないかもしれませんが、顔と頭が小さい方ですよね」

 伶が淡々と応じながら、さりげなく部長の肩についていたカラカラの落ち葉をぴっ、とつまんで取り除き、当然のようにあやみに差し出してきた。

 心の中でムッとしつつ、あやみは素直にそれを受け取り、足元のゴミ箱に捨てる。

 何かと常人には信じられないミスやハプニングをしでかす部長だけれど、あやみと伶は部長のことをとても尊敬しているのだ。

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