第四章 届く気持ち
第35話 デート前の準備【奏視点】
夏の早朝。
この時間が、私は好き……。
日中と違って暑くないし、寒くもない。
この程よい気温が心地よく、自分の好きな服を着て、解放的で……のびのびと出来るのが私好みだ。
窓を開けると、太陽に温めれれる前のやや肌寒い風が部屋の中を駆け抜け、それを肌で感じる度に1日がやってきた気分がする。
空に目を向けると、暁の爽やかな薄明が東の空に星々のまどろみを消し去って、幻想的な光景を演出していて……ふと、彼がどうしてるか気になってしまう。
「有賀っち、ちゃんと起きてるかなぁー」
夜まで仕事だから、必然的に朝が遅くなる。
私が入り浸っていれば食事を提供したりするけど、いない時は決まって絶対に食べないで行動するんだよね……。
人のことは人一倍気にするのに、自分のことには無頓着……いや、雑と言ってもいいかも。
「……まぁ、そういうところが放っておけないんだけど」
惚れた者の弱みというのだろうか?
そんな、ちょっとだらしない所も愛おしく感じてしまう。
好きの感情を拗らせ過ぎて、彼の行動ひとつひとつが胸に刺さって仕方ない。
ある意味、病気とも言える。
そう、恋の病的な……。
「……恥ずかしっ! 何を考えてんの、私。早く顔を洗おうっと」
私は洗面所に移動し、顔を洗う。
熱を帯びていた顔から熱が引いてゆくのを感じる。
でも鏡には、にやけた顔をしている自分が映っていた。
……うわぁ。
自分で見ても引くぐらい、顔が緩んじゃってるじゃん。
頰を両手で引っ張り伸ばす。
今度は頰を両手で潰しながら、ぐりぐりと手を動かした。
「やばっ……。こんな顔じゃ有賀っちの前に出れないよ……」
「あらあら、デート前からそれでは思いやられるわ〜」
私は声に驚き振り向くと、いつも通り綺麗な着物を着たお母さんが立っていた。
間延びしたようなおっとりとした口調。
見るからに優しそうでほのぼのしてそうな母親だ。
まぁ、あくまで“見るからに”ってだけで、実際は違うんだけどね。
ってか、お母さんに今日のことがバレてることが驚きなんだけど……?
私、話してないよね……?
お母さんを横目で見ると、私の反応を待っているのか、ニコニコとしているだけだ。
「お母さん、おはよー」
「はい、おはよう。今日も元気そうね〜。絶好のデート日和だわぁ」
「あー、はいはい。そういうのいいからねぇ」
私は適当に流し、化粧を始めた。
……そう。今日は、有賀っちとのデートの日。
だから、朝から顔がにやけて仕方がない。
っていうか、『にやけるな!』というのが無理な話だよっ!
彼に出会って、心を惹かれて、やっとの思いで告白したのが……今から1年以上前の話。
……見事にフラれちゃったけどぉ。
無理なのは分かっていた。
こっちを見てくれないも知っていた。
奥さんがいたし、大事にしているのは知っていたから……。
でも——気持ちを抑えることは、伝えないで終わることは……私には、出来なかった。
うん、今では苦い思い出だね。
彼の隣にいる席も資格も全て残ってなかったから、仕方ない。
もし、あの時仮に……。私の告白を受け入れていたら、彼を軽蔑していたかもしれない。
だって、一途で一生懸命な彼に惚れたのだから。
そんな有賀っちと今日は念願のデート。
テンションが上がらないわけがない。
本当だったら、小躍りでもしたい気分だし、にやけそうになる顔を抑えるだけで精一杯だ。
……お母さんにはそんなにやけ顔を見られたくなかったけどね。
「支度が済んだら、台所は使っていいわよ? 片付けておいたからね」
「え、私。使うなんて言ってないけど」
「そうなのかしら? じゃあ今からお弟子さん達を呼んで、みんなに稽古つけようかしらね。半日ほど、台所が空かなくなるけど……それでも、奏は構わないの?」
「……むぅ。お母さんの意地悪……」
私は不満を伝えように口を尖らせてそう言った。
まったく、知っててからかってくるんだからっ……。
でも、こんなやりとり……昔だったら考えられなかったなぁ。
そう思うと、ちょっと感慨深いかも。
「ふふふ。冗談よ。何か必要なものあるかしら? お母さん、時間あるから手伝うわよ〜?」
「大丈夫! 子供じゃないんだし、ひとりで出来るって」
「偉いわねぇ。お母さん感心しちゃうわ~。こんなに色々と出来るようになって。愛の力は偉大ね〜」
「もう茶化さないでよ。別にこれは、好きでやってることなんだからぁ」
有賀っちとのデート。
彼から話を聞く限り、奥さんとのデートは相当大変だったのだろう。
話を思い出すだけで、私の方がムカついてきてしまう。
だから、私は彼に『デートってこういうのでもいいんだよ』っていうのを教えてあげないといけない。
彼の中の常識を崩して、見せてあげないと。
私がそんなことを考えていると、お母さんが生温かい目で私を見ていた。
「……何よ」
「ふふふ~。奏も立派な乙女ねぇ。見ててキュンキュンとするわぁ。お母さん応援しちゃうわよ〜」
「キュンキュンって……。それに応援しなくても」
「心を掴むなら、まずは胃袋というのは鉄板よねぇ」
「別にそういうつもりじゃないからっ!」
「よしよし。わかっているわよ~」
もうっ、また子ども扱いして……。
わかっていて聞いてくるお母さんに、ついムキになって反応しちゃう。
お母さんは笑みを浮かべ、優しい眼差しで私の頭を撫でてきました。
「いい奏? 恋愛は自由。交際は相互理解。結婚は寄り添える気持ちよ。それを理解している真っ直ぐなあなたの気持ちは、氷を溶かすことができるの……だから、めげないでね?」
「大丈夫だって、お母さん。そんなネガティブな気持ちはもう過去においてきたよー」
「あらあら〜、頼もしいわねぇ」
少しだけ真剣な目をしたお母さんは、私の言葉を聞くといつものおっとりとした雰囲気に戻っていった。
そして、また私の頭を撫でてきます。
「楽しんできてね、奏」
「うんっ!」
私はにこやかな笑みを返して、準備の続きを始めた。
お母さんとこうやって会話出来るようになったのも、有賀っちのお陰だ。
お母さんが協力的なのも、そういう背景がある。
さぁ、今日のデートは何をして——
「朝帰りはいいけど〜。ちゃんと抜かりないようにねぇ」
そう言うと、お母さんは去って行った。
私の横に“厚さが書いてある箱”と“着けてる意味がないような下着”を置いて……。
「……色々と台無しだよ、お母さん」
私は、ため息混じりにツッコミを入れた。
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