閑話(元嫁終) 元嫁を絡めとる鎖と、もう戻れない道
「……はぁ。あんなサイコパス野郎だなんて、知らなかったわよ」
肩で息をしながら、私は壁にもたれ掛かる。
そして天を仰ぎ、愚痴をこぼしていた。
いつも私は即決即断。自分の勘と感性に頼っていた。
自分でもびっくりするぐらい冴えわたるし、頼ることで失敗したことなんてなかった。
だから、私はそれに従い今回は“逃げた”。
彼も、まさかその日に逃げるなんて思わないだろう。
一緒に居る時は、可愛い子ぶるためにわざと優柔不断な様子を見せて来たわ。
こんな場面でそれが生きるなんて思ってもみなかったけど……。
でもそれを知っているからこそ、バレていない。
案の定、実にあっさりと逃げきれて、追って来ている様子もなかった。
「……問題はここからね」
どこに逃げるか。
これからどうするかを頭をフル回転させなきゃいけない。
たぁくんの実家に助けを求める?
――絶対に無理。
あんな性格になるまでどうにも出来なかった家が、新しくどうにかできるとは到底思えない。
仮に頼ることが出来たとしても、真っ先にバレる気がする……何とかする前に見つかることだろう。
――実家?
いや、これもあり得ない。
元旦那を気に入っていた私の両親は、離婚したことを伝えてから疎遠となっている。
「二度と顔を見せるな! お前とは親子の縁を切らせてもらう!!!」と、宣言されてしまった。
そんな所に、今更戻ることなんて出来ない。
同様に友人も軒並み離れてしまっている。
たぁくんの家に住むことが出来れば……お金があれば不自由しないし、友人とか別にいいかなって思っていたけど。
まさか、裏目に出るなんて……。
そうなると……。
私は思考を巡らせ模索していると、ふと耳に賑やかな声が届いた気がした。
「ははっ。奏は面白いこと言うなぁ~」
「ちょっと!? 笑わないでよね! 私にとっては真剣な悩みなんだからッ!!」
「はいはい。よしよーし」
「また子ども扱いしてぇぇ~!」
微笑ましい会話に聞き覚えがあった。
私は、反射的にそちらに顔を向ける。
そこには、幸せそうにあの時の女性と歩く元旦那の姿があった。
私の時には見せたことのないような眩しい笑顔に、心がざわつき、苛立ちと焦燥感が押し寄せてくる。
――なんであいつは私より幸せそうなのよっ!!!!
なんで!?!?
どうしてよ……私の方が幸せを掴むために行動したのに!!
苛立ちから、私は壁を殴る。
手にじーんと痛みが広がった。
痛みのお陰で、昂った感情を少しだけ冷やしてくれる。
今……怒っても意味がないわ。
それよりも、あいつに助けを求めよう。
接近禁止があるとはいえ、超が付くほどのお人好しだ。
少なからず力になってくれることだろう。
利用できる限りは利用して……。
ちっ。あの時の腹が立つ女もいるけど…………うん、背に腹は代えられないわね。
私は、元旦那の後ろから近づことする。
あと少しで手が届くぐらいの所で、
「ねぇあや。小旅行なら僕も連れて行って欲しかったなぁ」
——耳元で、そう囁かれた。
その声に反応した心臓がばくばくと鳴らし、背中や首筋には嫌な汗が流れる。
声のした方に視線を向けると、満面の笑みを浮かべた――たぁくんが立っていた。
「まったく~。僕を置いてゆくなんて意地悪じゃない? 寛大な僕じゃなければ、叱責してむち打ちするところだよ〜。あ、それともそういうのが好みだった??」
「え……なんで、ここに?」
「なんでって、僕と似た人間の考えがわからないわけないじゃん! 自分のことを第一に考えて……他の人なんてどうでもいいって幸せを願う。そんな、自己中でメルヘンな人のことなんて」
私の顔がひきつり、口角がぴくぴくと動く。
そんな私を慰めるように「まぁまぁどんまいどんまい」と頭をポンと叩いてきた。
それから、口が弧の形になり不気味に笑う。
「安心してよ。ちゃんと責任は取るし、幸せにしてあげるからさ」
「幸せ?」
「うんっ! だって、僕と一緒にいることが幸せでしょ?? あんなに愛してるって言ってくれたんだからさっ! だから、僕と子供……それ以外は何もいらないよね?」
「そんな……」
私は助けを求めるように、遠ざかってゆく背中に視線を送る。
声を出そうにも、恐怖から何も声が出なかった。
私の見ている方を見て、彼が小さく笑う。
「ふふ、でも奏ちゃんに会った時は驚いたなぁ。僕も流石に焦ってしまったけどね。変なこと言われなくよかったよー。僕の幸せ家族計画が台無しになって欲しくなかったし」
「幸せ家族……。奏って、誰よ……それ」
「ああ、奏ちゃんと言うのは知り合い……いや、顔見知り程度かな? お金持ちの繋がりっていうのもあるけどねー。いやぁ~昔に彼女に話しかけた時は、『胡散臭いね、あんた』だってさ。あはははっ!! 初対面の言動にしては、見事だったよぉ〜。実に的を射ているからね」
愉快そうにお腹を抱えて彼は笑う。
魅力的な笑顔なのに、背筋が凍るような寒気がした。
……あれ。
今、気になる発言しなかった?
「ねぇ、今、お金持ちって言った……?」
「ふふっ。やっぱりそこに食いついたね」
「嘘……よ」
「嘘じゃないよ。あやの元旦那が一緒に歩いていたのは、大層な金持ちさ。結婚すれば逆玉ってことじゃないかなぁ~。めでたいめでたい」
嬉しそうに手をパチパチと手を叩く。
そんな彼とは対照的に、私は壁にもたれ掛かるようにして大きなため息をついた。
自分との対比。
私が思い浮かべていた理想を元旦那の方が先に手に入れているという事実。
それに私は愕然とする他なかった。
「だから——もう、君に頼れる人なんて僕以外いないよ?」
「そんなことは……」
「だって、僕と君は“愛の鎖”というので固く結ばれているんだから」
私は俯くと、彼は頼んでもいないのにペラペラと喋り始めた。
「まず、あやは僕と未成年の時に出会って手を出したことになる……まぁこの先は言わなくてもわかるよね。つまりは、罪を背負ったわけだ。ああ、当然だけど当時の映像は残してあるよ。次に離婚。しかも不倫した上でだよ。当然、そんなことをすれば知り合いからは見放されるよね~。奏ちゃんにも退路を断たれたから、もう繋がりもない。あーあ、残念。そして——最後は妊娠」
私は大きくなり始めたお腹をおさえる。
気持ちを落ち着かせようと何度も深呼吸をした。
けど、息は上がるばかりで、吐くのも苦しくなってくる。
——嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!!!
こんなの嘘よ!?
嘘だと言って!!!
やり直したい!
今からでもやり直させてよぉぉぉお!!!
「あーや。もう、戻れないよ?」
私の心中なんてお見通しと言いたげな子供を言う。
膝から崩れ落ちた私を、彼は覗き込むようにして見てきた。
「僕はね。“真実の愛は罪悪感を共有することで生まれる”って思っているんだよ」
諭すような口で語りかけてくる。
「罪を犯したのはあや。キッカケを作ってしまったのは罪深い僕。実にお似合いな夫婦関係だろ。深い深い業という繋がり、逃れられない雁字搦め。これが真実の愛だよ」
「完成されるまで苦労したなぁ」と、目を細めて彼は言う。
私は、どうにもならない現実を突きつけられ、腕をだらんと力なく下ろした。
「さぁ田舎にでも行こうか。今度は邪魔されたくないし……人が誰もいないところとか離島なんていいかもね。僕たち家族の水入らずな生活を築いていこうよ。二人で頑張って一つの集落を作るなんてことも面白いかもしれない」
私は彼に手を握られ、一緒に歩く。
もう、私には抵抗する気力は残っていなかった。
全ては――この男に踊らされていたのだ。
視界の端に元旦那の背中がだんだんと小さくなっているのが映る。
そんな彼に私は不意に手を伸ばした。
……でも、それはもう届くことはない。
あの頃には、もう戻れない道に来てしまったのだから。
空気を掴んだ手を私は引っ込める。
それと同時に——目からは涙が零れ落ちたのだった。
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