第31話 離婚は単純なものではない

 


「……今の兄さんは自由です。前にあった足枷はなくなったのに、何を躊躇しているのでしょう? 私には兄さんがどうしたいのか……それが、わからないのです」



 響ちゃんが俺をじっと見つめる。


 吸い込まれそうな大きな瞳に見られていると、さっき投げかけられた言葉が何度も頭の中でリピートされ始める。

 それと同時に、彼女が塾を卒業する時に俺へ告げてきた告白の言葉が鮮明に蘇ってきた。



『私、先生とずっと一緒にいたいです』



 あの時は、『俺には嫁がいるから。気持ちは嬉しいけど、応えられないよ』と断った。


 生徒としてしか見れないから恋愛対象にはなり得ない。

 そうキッパリと告げたのだ。


 奏は笑って『やっぱり、そうだよね! 人生って難しいなぁ』と、目に涙を浮かべ作り笑いをしていた。

 その時の顔が、俺の脳に記憶として焼き付いている。


 いや、消せないほど刻み込まれていると言ってもいいだろう。



 でも、今は——そんな障害がない。


 結婚していた時みたいな誓約も、愛した相手もいない、法律の壁も未成年ではなくなった彼女には存在しない……。


 だから響ちゃんは聞いてきたのだ。


 入り浸る姉を見て、俺に問いかけずにはいられなかったのだろう。



「俺がどうしたい……か」



 この問いは、今の俺にとって避けることはできない……耳が痛い話であった。


 咄嗟の回答が何も口から出ず、俺は言い淀んでしまう。

 そんな俺の様子に響ちゃんは、申し訳なさそうに眉をひそめた。



「……急にこんなこと言ってすいません」


「いや……それは別に。謝ることではないよ。俺だって、わかってるんだから」


「……そうでしたか」


「ああ……」



 今の状況は、傷心した俺には温かく、そして居心地のいいものだ。

 俺だけのことを考えれば、気持ちが楽で……安らいで、いつまでも浸りたくなってしまう。


 でも、それは彼女に対して申し訳ないことでもあるのだ。

 一度断られた彼女の心情を考えれば……。



「……姉さんには、無理なら無理で早く現実を知って、新たに進んで欲しいんです」


「新たに……前か……」



 それは俺も同じ。

 そう思ったけど、続く言葉が出なかった。


 俺は黙って響ちゃんの言葉に耳を傾ける。



「……姉さんまた、沈んで前みたいになって欲しくない……姉さんは兄さんに心酔しきってます。ここだけの話、兄さんが結婚していることを知った時、知ってても告白した時……泣いていたのは知ってましたから……」


「…………」


「……何年も夢を見せるのは酷な話です。まぁ、姉さんにはライバルが多いことは分かってますけど」



 ため息まじりにそう言い、今度は攻めるように俺を見てくる。

 俺の言動から心の動揺、一挙手一投足を見逃さないような——そんな強い意志を彼女が聞いてきた。



「……どうして姉さんの気持ちに応えないんですか? せめて、理由を教えてください。遊びなら遊びで、私は事実を受け止め……今後を考えるだけなので」



 俺は深呼吸をし、なるべく表情を作り平静を装った。

 あの時の苦しさを思い出すと、どうしても目に浮かびそうになってくる。



「離婚ってさ。自分の半身がもがれたようなモノなんだよ」


「………?」



 響ちゃんは首を傾げ、難しい顔をした。

 彼女を無視して、俺は話を続ける。



「『全てをこの人のために』そう思って決めて、永遠の愛を誓う。それが結婚だと、俺は思っている」



「元嫁は違うかもしれないけどね」と、一言だけ添える。

 今度は、彼女とは目を合わせないようにして夜空を眺めた。



「そんな人に裏切られ、失って、全てのことが幻想だったと知って……。俺が『今まで信じてきてたものはなんだったんだ』そう思ったんだよね」



 どうしても、脳裏に過ってしまう。

 彼女の裏切りの顔が……。

 信じようと心に暗示をかけようとしても、そうさせてはくれない。


 それほどに、疑心暗鬼の芽は無数に顔を出して、根を複雑に張り巡らせてしまっている。



 ——信じたいと思いたい自分。

 ——騙されるなと考える自分。



 その2つが、どんなことがあってもせめぎ合いをやめないのだ。



 そして、問題はそこだけではない。



「響ちゃんにひとつ聞いてもいい?」


「……勿論です」


「別れた人間……いや、離婚した人間が直ぐに他の人と付き合うってどう思う?」


「……それは人の自由かと。私は気にしません」


「響ちゃんはそう言うよね。自分の芯があり、曲がらない強さがあるから……でも、いくら意思が強くても上手くいかないことはあるんだよ」



 俺は今度はきちんと向き合い、響ちゃんの目を見つめた。



「俺自身、いつまでも甘えてはいけない。満足してはいけない——それはわかってる。でも、ここで首を縦に振って受け入れたら……。『浮気されてフラれた。優しくされたら、すぐに靡く人間』と思われるじゃないか……」



 周囲の人間は意外にも冷たい。

 勿論、同情の声はある。


 だけど、全てが味方なわけではない。

 俺と関わりがない人物は、“離婚”という事実だけで経緯を知りもせずに批評と推察をすることだろう。


 だから、もし仮に俺が彼女を作ったら……。



『もう、心変わりしたのか?』

『妻を愛していたんじゃないのか?』

『早くない? 有り得なくない?』



 そう、言われることになるかもしれない。

 そのぐらい浮気というのは、世間的に風当たりが強く、粗探しの格好のネタにされてしまうのだ。



「……姉さんは気にしないと思いますけど? 周りが何を言っても雑音だと割り切れば宜しいかと」


「そうかもね……。でも、俺は気にしてしまうんだ。そう簡単に気持ちを整理できれば、楽なんだろうけど……」



 俺だけ言われるならいい。

 我慢強い方だから問題はない。


 でも、俺のために色々してくれた人にまで火の粉が降りかかり、迷惑をかけるのは……今の俺では耐えれる自信がなかった。


 特に奏が在らぬ疑いをかけられたりとか……。

 救ってくれた人間が不当に叩かれて、冷静でいられるわけない。

 そういうことが起こる可能性がわかっているのに、奏の優しさに甘えてしまっている自分が情けなくなる。


 本当はひとりになって、冷静に見つめ直した方がいいって……わかってるんだけどな。


 俺の様子を見て、響ちゃんが苦笑する。

 それから、ぺこりと頭を下げた。



「……兄さんの様子で理解しました。そういう事情もあるのに、すいません。でも、ひとつご提案が……」


「提案?」


「……はい。せめて、姉さんに今の内容を話してあげてくれませんか? だって——」


「あ〜っ! こんなところにいた!!」



 響ちゃんが言い切る前に、元気な声が耳に届く。

 2人とも驚き、そちらを向くと頰を膨らませて怒った様子の奏がそこに立っていた。


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